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遠州高天神記 巻の弐 4 高天神より出張の者、甲州勢と合戦の事(四)

(徳川恒孝氏講演会)

駿河古文書会のOさんに誘われて、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝(つねなり)氏の講演会を聞きに、静岡に行った。世が世なら我々には顔を拝むことすらできない人である。さすがに徳川宗家の立場をしっかり踏まえた講演で、江戸時代の260年がいかに平和で、幕末に日本を訪れた外国人が賛美しているように、江戸時代の庶民が平和を享受し、笑顔が絶えなかったかを語った。自分も同感であるけれども、徳川宗家の当主に聞くと、ついついマイナス面もあったと反論したくなる。私が思うに、江戸時代は、現代のブータンのように、貧しいけれども、「国民総幸福量」において世界一だったのだろう。

今川義元を大変評価していて、桶狭間がなければ義元は天下を治めて、その筆頭家老として、家康は活躍していただろうという話や、今川時代の駿府は日本でも京に次ぐ大都市で、江戸時代に入って、家康が駿府で没した、1616年、世界の10大都市に、江戸と並んで駿府が入っていた話は、なるほどなあと思わされた。

「遠州高天神記」の解読を続ける。以下○印は明治二十五年写本の注である。

○今見聞く、右高天神三の丸を、今に所の者、与左衛門曲輪と云い伝えるなり。本丸南、十四間下なり。

○曽根孫太夫、高天神落城の後、大須賀家へ組付けに成る。同郡朝比奈村を知行して、その後、隠居して居たりしが、大坂御陣の時、隠居も召し出されて、新知五百石拝領して、御旗本へ出る。然らば、隠居の跡は御旗本に在る。本は今に紀州に有る。

○池田縫平と云う仁、高天神近所、毛森村を知行して、縫平屋鋪、今に囲い、土手ともにそのまま有り。


(掛川市中、萬勝寺)

○斉藤宗林は同郡中村公文と云う所に屋鋪有り。則ち知行す。大福人成る由、今、万正寺と云う寺の西に屋鋪の跡有り。この屋鋪の内に墓一つ有り。宗林の嫁の墓とも云い、また娘の墓とも云い、畑中に在り。今に不思議在る由にて、作場にも成らず、荒れて草木茂り有り。所の者云い伝え、かくの如しと云々。我見るなり。

○木村長兵衛、後横砂組付けに成り籠城なり。知行は三股村に屋鋪跡在り。今、所の者、殿屋鋪と云う。殿海戸と云々。岩滑村にも知行これ有り、両村を知行す。今、門先の松有り。
※ 海戸(かいと)- 掛川市海戸。すぐ南に掛川市三股もある。

○松下平八は高天神落城後、浜松へ出て御近習を勤めけるが、奉公を嫌いて御暇を願い、浪人して百姓に罷り成り、新野村と云う所に田地多く取持ちして、二千石有り。村の名主と成り居す。ある時、権現様より御召し出し候えども出ず。その後、御鷹野に御出の節、袋井縄手にて是非なく途中にて行き掛り、面を叢(くさむら)に隠し、道に伏せ居たり。急度御覧在りて、それに居るは松下平八にてはなきか。さても/\、汝じ奉公を嫌いその形に成りけるか。奉公を嫌いし奴のなりを皆見よと御笑いば給う。少しの間、御止り遊ばされ、御通り遊ばされける。平八、宿へ帰り迷惑仕りたりと、妻子に語る由、今に申し伝うなり。
※ 取持ち(とりもち)- 取りしきって事を行う。


(高天神城下、渡辺池)

○渡辺金太夫は下土方村に知行在り。金太夫屋鋪は今溜池と成り、渡辺の池と云々。高天神山の城下、辰巳の方、尾崎の間に有り。今川家ヨリこの所に住居す。落城以後、甲州へ行く。甲乱の節、信州高遠城に籠り討ち死にす。子孫、江戸に浪牢して居す。予、江戸にて出会い昔を尋ね語りし事在り。
※ 甲乱(こうらん)の節 - 天正10年(1582)の甲斐武田氏の滅亡を記した「甲乱記」という史書がある。甲乱の節とは、甲斐武田氏滅亡のときという意味。

○小笠原与左衛門、遠矢の箭塚、今に毛森村の田の真中に小塚在り。今に所の者、与左衛門矢塚と云い伝えるなり。
※ 箭塚(やづか)-「矢塚」と同じ。
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