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磐田農高のバラ園とラクウショウ

(磐田農業高校バラ園)

ネットで磐田農業高校のバラ園が今見頃と知って、お昼前に女房と出掛けた。磐田にはお昼頃に着いた。駐車場がないと聞いていたので、市庁舎脇の駐車場に車を停めて磐田農業高校まで歩いた。途中にちょっと覗いた国分寺跡では明日「国分寺まつり」があり、テントを張ったりその準備が進行していた。

校舎南側のバラ園には20~30人ほどの花見客がいた。バラは花が過剰すぎて被写体にするにはどうも苦手である。盛りを過ぎたらどんどんもぎ取ってしまえばよいのだろうが、花の散り方も優雅とはいえない。近付くと鈍感な鼻にも薫りが届いた。




(プリンセスアイコとプリンセスミチコ)

赤、白、黄色、うす紫、ピンク、オレンジ色などありとあらゆる色彩があふれている。バラは蕾から半分開いたほどが良い。開き切った花は過剰さが目立ってエレガントではない。品種には色々と名前がついている。ピンク色のプリンセスアイコと、赤に近い橙色のプリンセスミチコを見つけた。

案内板によると、磐田農高のバラ園は平成8年、学校の創立100周年の記念事業の一つとして造成された。生徒の手によって植栽され、丹精込めて育てられた。品種は原種からオールド種、中輪、大輪にいたる150種、1500株が春夏秋それぞれに季節の彩りを見せるという。


(磐田農高のラクウショウ)

うどん屋で昼食をとってから、磐田農高のラクウショウを見に行った。昔、冬場に葉を落とした木を見ているから二度目である。車を進めるとそのままグラウンドの臨時駐車場に導かれた。事情が判らないまま駐車した。人の後を付いていく。生徒たちが次々に挨拶してくれて、大変に気持が良い。先を行く人たちは講堂に入っていった。父兄の集会のようなものがあるらしい。我々はそこには用がないので、北側の玄関のそばのラクウショウを見に行った。すべてが今年出た新芽の木は美しい。「緑にもえる」という表現があるが、まさにその言葉通りである。

案内板によると、「ラクウショウ(落羽松)」別名ヌマスギ(沼杉)原産地アメリカ南東部の湿地帯、1903年(明治36年)、着任した第五代細田校長が小石川植物園から譲り受けて植えた木で、1975年(昭和50年)、現在の本館建築時に、伐採の危機があったが、この木をそのままにして校舎の位置を決めて残したという。農業高校らしいいい話である。今では磐田農高のシンボル樹木である。校内名木10選の①とある。校内に名木として数える木が10本もある学校など、聞いたことがない。それだけで歴史と環境がたっぷりある学校だと思った。きびきびと挨拶する生徒たちを見てさもあらんと思った。
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植物の光合成と呼吸

(庭のテッセン)

昔から持っていた疑問について書こうと思う。

温暖化が言われ、二酸化炭素の増加が問題になっている。昔、植物の炭酸同化作用(光合成)のことを学び、昼間植物は二酸化炭素から光合成で炭素を取り込み、酸素を排出していると知った。その一方、植物も生物だから呼吸をしていて、酸素を吸って二酸化炭素を出していると学んだ。その時に思ったのは、同じ植物の体内で一方で酸素を出し、一方で酸素を取り込んでいる。植物はずいぶん無駄なことをしていると思った。植物の体内でやり取りすれば無駄が無いのに、と思った。そんな疑問は自分の専門外となって、疑問のまま記憶の底に放置されていた。時々ふっと蘇ることもあったが、考えるよすがもなかった。

先日、食と健康の講座で、講師から、話の筋とは違うけれども面白い本だからと、一冊の本を読むことを勧められた。

    「ダーウィンの夢」渡辺正隆著 光文社新書

この本の著者は、講師の後輩で研究畑から離れて、サイエンスライターになった人だという。帰りにさっそく書店に寄って購入してきた。実はまだ半分ほどしか読んでいない。読み終わったら感想でも書こうと思っていた。その一節を読んでいて、なるほどそういう事なら解ると、40年来の疑問に答えを見出した。

植物の細胞内では葉緑体が光合成を担当し、ミトコンドリアが呼吸器官となっている。はじめに葉緑体が原始的な光合成細菌であるシアノバクテリアのある種のものに良く似ているという指摘があり、かつては自由に生きて光合成をしていたシアノバクテリアが植物の細胞に取り込まれて葉緑体になったとする説が出された。いったんは否定されたが、ミトコンドリアも好気性細菌が取り込まれたものとする説が加わり、植物にシアノバクテリアと好気性細菌が取り込まれて共生し、それぞれに光合成と呼吸を行っているとする説がかなり有力になっているという。

そういう共生の結果だとすれば、同じ植物の細胞内で方や酸素が生み出し、方や酸素を消費している。それが別々に起きていても何も不思議は無い訳である。

もちろん、共生といっても葉緑体もミトコンドリアも植物のDNAのコントロールを受けていて、そういう意味では今は植物の一器官になっている。どういうメカニズムでDNAのコントロール下に入ったのか、そこはまた別の問題になる。

40年前に疑問に思ったことを記憶の底にしまわないで、40年間追求し続けていたら、ひとかどの遺伝学者になっていたかもしれない。学者と凡人の違いは最初はわずかな違いに過ぎないのだけれども、40年継続するととんでもない大きな開きになってしまう。要は継続できるかどうかの違いである。
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ヒトツバタコ満開の城北公園




(城北公園のヒトツバタゴ)

靜岡市城北公園の「なんじゃもんじゃの木」が満開になっている。雪の降らない靜岡で、木に雪が積もったように見えると、テレビニュースで報道されたのはまだ二日ほど前であった。関東では何だか判らない木のことを「なんじゃもんじゃの木」と呼ぶ。幾つかの木がそう呼ばれているが、靜岡の城北公園の「なんじゃもんじゃ」はモクセイ科のヒトツバタゴである。春に突然に木いっぱいに真っ白な花を咲かせるから、驚いて「なんじゃもんじゃ」と言われる。日曜日、伊藤若冲展を見た後、昼食に磯おろしそばを食べてから城北公園へ回った。

駐車スペースが無くて、浅間神社の参拝者用駐車場に停め、一応浅間神社にも参拝した後に城北公園に行くことにした。浅間神社の楼門から入る。楼門は今までしげしげと見たことは無かったが、見上げてみるとその大きさといい、彫刻の素晴らしさといい、さすがに家康のお膝元の神社であると思った。文化13年(1815)竣工した総漆塗の建物である。門の彫物の金色に塗られた「水呑の龍」は左甚五郎作と伝わっている。門の脇にいたボランティアのおじさんが説明してくれた。門を潜るときには下ばかり見ないで、是非楼門を見上げて観賞してもらいたいと言う。

城北公園へは5分ほど歩いた。花時計の回りをぐるりとヒトツバタゴの白い花が取り囲んでいる。2007年5月12日に見に来ているが、その時はもう花がほとんど終っていた。今年は5月9日で3日早いだけで満開のヒトツバタゴを観賞できた。それだけ今年は季節の移ろいが遅れているのであろう。花の下では散策する人がけっこうたくさん出ていた。お花見のように茣蓙を引いて、車座になっているグループも何組かいた。それにしても見事に木全体が綿を被ったように白い花で覆われている。花時計の周りを一回りして戻った。


(若宮八幡の大クス)

浅間神社に戻る途中、人家に囲まれた若宮八幡社の境内で「若宮八幡の大クス」を見た。かつて「巨木巡礼」で一度見に来たことがある。江戸時代から有名な巨木で、案内板によると、弘化2(1845)年の「駿河名木番付」で東の小結に番付されており、当時から有名な巨木であった。「巨木巡礼」のときは周りが荒れていた記憶があるが、今はきれいに整備されていた。前から見ると立派な巨木であるが、後ろへ回ると半分が落雷で焼けて悲惨な状態になっている。それでも樹勢は良好で、「どっこい生きているぜ」との巨木の声が聞こえて来そうである。目通り周囲10.2メートル、樹高22メートル、枝張り東西26メートル、南北33メートル、靜岡市天然記念物に指定されている。
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イペの花とサンチュ

(イペの花)

お泊りのかなくん母子に、今朝、まーくん母子が加わって、女房の発案で、近所のMさんのビニールハウスに、ブラジル国花「イペ」の花を見に行った。女房が咲いていると聞いたのは何日か前であった。ビニールハウスの前で車で出かけるご主人に断って、ビニールハウスに入ると、Mさんの奥さんが一人でサンチュの葉を掻いて収穫していた。

ブラジルの国花「イペ」は、日本の桜のように、春を告げる花として親しまれ、国花に指定された。コロンビアからブラジルにかけて分布して、ノウゼンカズラ科の、樹高が10メートルになる高木で、ラッパに似た黄色い花を八方に向けて数個付ける。ブラジルの国旗やサッカーのナショナルチームのユニホームなどに、イペの花の黄色と葉っぱの緑がシンボルカラーとして使われている。

Mさんのイペは鉢に植えられ、高さ2.5メートルほどの幼木で、咲いているのが最後の花のようであった。何とか写真に納めることが出来た。

このビニールハウスには、先に食べればレモンも甘くなるという不思議な木の実、ミラクルフルーツの木や、種から育てて畑で成長したワサビ田に植えつける前のワサビなど、変わった作物があった。

奥さんが掻いていたサンチュは、かつてはチシャと呼ばれた野菜で、四方へ葉を出しながら上に伸びていくので、下から葉を掻いて次々に収穫できる野菜であった。親父の日曜菜園でもよく作っていたが、当時はもっぱらタンパク源の補給のために、自宅で飼っていたニワトリの餌として、細かく刻み、米ぬかと混ぜて与えていた。自分たちが余り食べたような記憶がなかった。

日本では昔から作られていたようで、東海道の旅の途中で、島田宿の塚本如舟宅に泊まった芭蕉が詠んだチシャの句が残っている。一晩泊めてもらって、朝出された汁椀にチシャが入っているのを見付け、詠んだ句である。

    ちさはまだ 青ばながらに なすび汁

馳走をしてくれた如舟への挨拶句である。その句碑が島田博物館の庭に建っている。

韓国ではこのチシャをサンチュと呼び、焼肉を包んで食べる習慣があった。近年、韓国から伝わった焼肉の食習慣が広まると共に、チシャもサンチュと名前を変えて見直され、食卓に登るようになった。もちろん品種改良されて、昔のチシャと比べて、サンチュは葉の柔らかさなどずいぶん食べやすくなっている。Mさんのビニールハウスのサンチュも包装、出荷されて、マーケットに並ぶのであろう。

葉を掻いて出荷していたサンチュも、背が高くなって花芽を持つようになると収穫を終える。サンチュも畝ごとに時期をずらして作られていて、最も背の高いものは、午後にはこいでしまうという。そのサンチュの頭の部分を折り取って、新聞紙に包んで一抱えも戴いて帰った。  
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龍尾神社のしだれ梅




(龍尾神社のしだれ梅)

ネタ切れだと書いたので、女房が気にしたのだろう。午後、掛川の龍尾神社のしだれ梅が身頃だと新聞に出ているから見に行こうと誘う。願ってもないことで、出かけた。女房は一緒に行くのは初めてではないように言うが、自分は初めてである。女房は友達と何度か行っている。その割に場所が判らずにうろうろした。ようやく手書きの看板を見つけて、それをたどって行った。かなり広い駐車場が一杯で、10数台の駐車待ちの後ろに並んだ。

観梅料金が500円、入口でもぎりの係員に1日何人くらいの入場者があるのか訊いている人がいた。多いときも少ないときもあるという答えにならない返事をしていた。知らないのか、言いたくないのか、その両方かもしれない。

園内に入ると、赤、白、ピンクのしだれ梅が谷間を埋めて壮観である。入口の係員は山の上の方がきれいでメインになっているとアドバイスをくれた。女房は日が当っておれば色が映えてもっときれいなのだがと残念がる。今日は雲が厚い。こんな日の方が写真は楽にきれいに撮れるとプラス志向に話した。

しだれ現象は樹木の劣勢遺伝で、色々な樹木に見られる。自然界では立ち上がって行かない樹木は他の樹木に負けてしまい、大きく育つことはまれである。人為的に支えをして、ある程度幹が太くなって自らを支えられるようになるまで育てることで、枝のしだれる美しい樹木が育つ。しだれ樹木の持つ危うさはそんなところに理由があるのだろう。

しだれ梅の間を縫うように遊歩道が右手の小高い山に登って行く。山の上もしだれ梅に覆われて見事であった。樹齢は判らないが、古いものでも20~30年といったところであろうか。まだまだ若い木である。一本一本が良く手入れされて、一年を通して専門家が手を入れていることを感じさせた。

掛川大祭に出る稚児の花幌は「しだれ桜」なのだろうと思っていた。しかし、大きさからすると「しだれ梅」そっくりである。




(龍尾神社のしだれ梅)

お花を言葉で表現するのは何とも難しい。ある客はまるで花火を見るようだと表現した。自分は、滝の白糸の水芸を見るようだと思った。しだれ桜の巨樹に「滝桜」と命名されている木がある。それを踏まえてであるが、何とも表現が古い。言葉の足らないところは写真を見てもらうしかない。とにかく山から谷まで埋め尽くされたしだれ梅に堪能して出て来た。

後で、龍尾神社にお参りしたが、やはり龍尾神社に来るのは初めてだと確信した。龍尾神社は掛川城の守護神として、代々城主に尊崇されてきた神社である。
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デコポンが青物野菜に変る

(規格外の格安デコポン)

女房が農家の友人から規格外の格安のデコポンを分けてもらった。甘くて大好評であった。規格品はマーケットで見るとけっこういい値が付いている。日曜日に、いつもお野菜などを頂く名古屋の娘婿の実家、島田のOさん宅へ届けた。

ご夫婦ともに在宅で、家の前の菜園に出て、野菜作りの話題に花が咲いた。それほど広くない菜園にチンゲン菜、小松菜、正月菜、京菜(水菜)、ブロッコリー、ホウレン草、大根、キャベツ、白菜などが少しずつ植えられている。ジャガイモを植えつける畝がすでに準備できている。暖かくなり次第植えつけるのであろう。Oさんは農家ではないが、大変熱心で、菜園には草1本生えていない。

Oさんの野菜作りは徹底していて、種をメーカーから直接取り寄せて、すべて種から育てている。種を蒔くとびっしり芽が出てくるから抜き菜をして食べながら、苗を別のところに植えていく。大きいものは食べて、小さい苗を植えていくと、順番に大きくなって、長い期間食べられる。農薬を全く使わず、虫が付けば一匹ずつ摘み取って排除する。化学肥料は使わずに、すべて堆肥を作って使用している。藁や籾殻を知り合いの農家から手に入れて、ふんだんに畑に入れている。畑土はいつも柔らかく、出来上がった野菜は虫食いもあるが、全般に甘くて美味しい。マーケットの野菜と比べれば歴然である。

前はお花をたくさん作っていて、我が家にもたくさん頂いて、今でもその子孫が花を咲かせる。孫が出来てから(自分の孫でもあるかなくん)、少しでも安全、安心、新鮮で美味しい野菜を食べさせたいと、野菜作りに熱心になった。度々、名古屋へ宅配便で送っていると聞く。その余分に出来たものが我が家にも届くわけである。


(Oさんの野菜畑-正月菜)

ご夫婦して家に持たせるために収穫をし始めた。奥さんが抜こうとすると、根を残さないように移植ごてを使って収穫するように注意している。根を残すと後が良くないらしい。ブロッコリーは一本の苗から大きな花芽部分が一つ取れて、それで終わりかと思ったら、そのまま置くと背が高くなり、次々に小さな花芽を付ける。商品価値はないが、茎の部分も含めて本当はその花芽の方が美味しいのだという。

頂いたものがレジ袋に4つほど、チンゲン菜、小松菜、正月菜、京菜、ブロッコリーの小さい芽、大根、白菜と当分野菜には困らないほど頂いて帰った。わずかなデコポンが物々交換でそんなにたくさんの野菜に化けた結果になった。

今日の夕方、裏の畑を覗くと、頂いた野菜の一部が耕しかけてある畑に植わっていた。女房はたくさん頂いて保存するために畑に植えたのだという。
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ツゲの生垣とフキノトウ



(庭のツゲの生垣)

今日は3月の下旬から4月の上旬の気温だ報道されるように、暖かい日であった。外へ出ると南風が吹いていた。

会社で、お昼休みに散歩に出ていたO氏が戻ってきて、ご近所の生垣が枯れてしまい、植え替えていると話した。
「アカメガシのお宅でだろう。アカメガシは10年もするとほとんどが葉っぱに黒い斑点が出来て葉を落とし枯れてしまう。」と自分。
田んぼの中の一軒家で屋敷の周囲をアカメガシの生垣で囲っていたが、この3、4年枯れ始めたのを目にしていた。

我が家の庭にも30年ほど前、生垣にアカメガシを植えた。伊勢の長兄の自宅のアカメガシから穂を取って、挿し木した苗をもらい、植えたものであった。どんどん大きくなり、春の新芽と秋の紅葉の2度真っ赤に色付いて、楽しませてくれた。10年ほど立つと、葉っぱに黒い斑点が出来て葉を落とすものが出て来た。葉っぱを見せて農薬を買ってきて散布してみたが効果は無かった。それから二年ほどで、すべて涸れてしまった。病気に弱い木だったようで、長兄の家のアカメガシも枯れ、どこのアカメガシもほとんど枯れてしまうと聞いた。最近は病気に丈夫な品種も出たようだが、我が家では懲りて、しばらく庭は生垣無しで過ごした。

ある年、女房がご近所からツゲの穂をもらってきて、挿し木し育てた苗をアカメガシの後に植えた。最初は数本の小さな苗だったが、年々増やして今では胸の高さほどの生垣が出来上がっている。

そんな会話にY氏が加わり、自宅の生垣が太く大きくなりすぎて、植え替えたいと思うのだが、どんな木がよいのだろうと聞く。太くならない木が良いという。家はツゲに植え替えたが、太くも大きくもならないし、整形もしやすい。病気にも強いからよいのではないかと話した。帰ったら写真に撮ってくるよという答えが上記の写真である。

細かい葉がびっしり生えてどんな風にも整形できる。1年の成長はわずかなもので、大きく育てたくないと思うなら最適だと思う。品種も色々有るから好みで選べばよい。

    *    *    *    *    *    *    *


(裏の畑のフキノトウ)

庭にも畑にも今はお花が1年で最も少ない季節である。夕方、一回りしてみたが、なかなか話題性のある花は見つからない。

畑の西の隅にフキノトウが出ていると女房が話していたのを思い出し、探してみると三つほど見つけた。ある年の晩春に山に蕗を取りに行ったとき、根っこから取ってしまったものを数本、女房がそこへ植えておいた。食べるほどたくさん出ていないので、写真を撮ってそのままに置いた。
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クルミを割ってみる

(真っ黒なクルミ-右が種だけ)

故郷出産すると言って、年末から帰郷していた上の娘が、年を越してから、直前まで勤めていた名古屋の総合病院で出産することに変更になり、七草の明けたころ、名古屋に帰って行った。その代わり、これから半月少々、女房と夫君の母堂が毎週のように名古屋に通うことになった。我が家は急に静かになった。年初には度々来ていたまーくんも間遠になった。それで、今朝、暇に任せてクルミを割ってみようと思った。

クルミで思い出すのは、子供のころ、小学校の先生の家に遊びに行って、庭にあったクルミの木から、まだ青いゴルフボール大の実を取って遊んだことである。あの頃、本で見るクルミとその青い実が同じものだという認識はなく、クルミの青い実は遊び道具でしかなかった。

襖の下張りを頂いたS氏から、同じ頃に、庭で拾ったクルミをたくさん頂いた。落ちたクルミが干からびて真っ黒になったものを、拾ったままだけれども良ければと頂いた。去年だったか、一昨年だったかも頂いて、くるみ割りの道具をわざわざ買って割ろうとしたが、硬くて割れなかった。結局金槌で割ったが、何度も指を叩いて痛い思いをしたのを憶えている。

その時にクルミには洋クルミと和クルミ(オニクルミ)があることを知った。洋クルミは比較的やわらかくて、くるみ割りで容易に割れて、中の実も大きい。それに比べると和クルミは一回り小さく、殻が頑丈で中の実も小さい。頂いたクルミは和クルミで真っ黒であった。この黒い部分を磨くように洗うと茶色の地が出てくるらしい。

和クルミはネットで見ると大変値段の張るものであった。中身を取り出したもので、250グラム2,800円とあった。俄然やる気になった。


(クルミを割る仕掛け)

庭から適当な平たい丸石を持ってきて良く洗い、クッションの上に新聞紙を敷いてその丸石を置いた。金槌を持ち出してきて、クルミを一つずつ左手の親指と人差し指でつまんで丸石の上に置き、その金槌で叩いて割る。間違っても指を叩かないように気をつけねば痛い目を見る。

割っても身が簡単に出てくるわけではない。爪楊枝を使って穿り出すようにしないと取り出せない。無残にも砕けて実が出てくる。これじゃあ商品価値はない。売られているものはどうやって取り出したものだろう。ダイニングの床に座ってやっていると30個も処理すると腰が痛くなって続けられなくなった。後ろで女房が「買ったほうが安いよ」と冷やかす。ギンナンでかぶれて皮膚科に行ったとき、女房が医者に言われたセリフなのだ。


(砕けたクルミの実がこれだけ取れた)

30個ほどで取れたのが写真の通りである。すべてを処理すればどんぶり一杯位にはなりそうだが、どう料理するかが問題である。前のときはフライパンで炒って食べたように記憶するが。
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黒丸大根と緑の大根

(黒丸大根と緑の大根)

今日から会社は仕事始めである。新年早々朝一番に、予約が決められた歯医者から戻ってくると、表で近所の農家のMさんと女房が話していた。新年の挨拶をして、話に加わった。Mさんの一輪車には収穫したばかりの黒い蕪のような大根と短いずん胴の緑の大根が載っていた。今、頂いたからと女房が言う。ブログに載せると話すとそれではと大きなものを余分に頂いたようだ。女房は昨日取った蜂の巣のビニール袋を持っていた。

Mさんは色々な変り種の野菜を作っていて、しばしばそのお相伴にあずかる。緑の大根は中国の大根で原種に近いという。種が来たとき、管理が悪いのだろう、種をまくと色々な大根が出てきた。赤いのやら白いのやら。緑の大根だけ人工授粉を繰り返して、純粋な緑の大根に作ってきた。市販されている普通の大根の種は交配して作られた品種だから、2、3年種を作って繰り返すと、違ったものになってしまう。しかし、この緑の大根は原種に近いから、5、6年作っても変わらない。緑の大根は水分が少ないので、大根おろしにすると美味しくいただけるという。

確かに、前に頂いたときに大根おろしにして食べたら美味しかった。少し緑がかったおろしを、水を絞る必要もなく、そのまま焼き魚にのせて食べた。辛味があって、大根おろしらしい味だった。今の大根は辛味が無くて妙に甘い水っぽい大根ばかりである。

黒い大根は「黒丸大根」というらしいが、黒い部分は表皮だけで中は白い。少し苦味があるが、西洋では普通に作られていて、煮込み料理によく使われるらしい。先日、NHKのお昼の番組で日本で作っている人が紹介されていた。

この二種類の大根をスーパーの地元産品コーナーに出してみたが、緑の大根は完売したが、黒丸大根は一つも売れずにそのまま戻ってきたと話す。食べ方を知らないんだろうなぁ。

スズメバチの巣は冬は居なくなるから空だ。捨てなくても縁起物だから欲しいという人がきっとあるという。そんな話に時間が過ぎて、会社へ少し出る積りでいたが、明日に延期した。年頭の挨拶をするだけであるが、どうせ主な人たちは年始に外出しているであろう。

午後、自分の仲人親のKさん宅に女房と年頭の挨拶に伺った。ご夫妻で出て来られて、去年孫が生まれたというような近況を話した。この1、2年でご夫妻とも急に年取られたと思う。話を聞いていると、行動範囲が急速に狭くなっているようだ。やはり人間歩くことがままならなくなると、急に歳を取るように思う。
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秋のお花畑、三題

(ヒマワリ「ムーランルージュ」)

かさぶた日録も1000回を間近に話題が尽きて、一日書込みを休んでしまった。昨日、セントラルリーグのプレイオフで巨人が勝ち、日本シリーズへの出場権を獲得する最終試合を見た後、さて、何を書き込もうかと2時間ほど悩んだ結果である。

候補はあったが、いずれもテーマとするには不足であった。NHKのてくてく旅で金曜日に四元さんが四国八十八ヶ所遍路旅の結願を迎えたが、ご苦労様と思っただけで書く気にはならない。番組としての遍路旅で、自分が考えているお遍路とは少し隔たりがある。

明けて今朝、やや厚い曇りで、途中ぱらつくのも覚悟して、女房と久しぶりに出掛けた。新聞などの情報で、気になるところが何ヶ所かあった。最初に目指したのは掛川市土方で満開だという赤い蕎麦の花である。牧之原に上って向おうとして、かえって遠回りになった。


(花がすべてこちらを向くコスモス)

旧小笠町を横切っている途中で、一面にコスモスの植わった田んぼがあった。イネの取入れが終った後に種を蒔いたものであろうか。そろそろ終わりがけのはずのコスモスが今真っ盛りであった。白、ピンク、赤の三色が種の段階で混ぜられたのであろう、きれいに混ざっていた。その花々が皆んなこちらを向いているから壮観である。東側の道路から見ていたが、コスモスも太陽の方向に花を向ける性質があるのだろうか。反対側に回ってみると花の裏側で見栄えのしないコスモス畑に見えた。


(淡いピンクの蕎麦の花)

蕎麦の花は普通白だと思っていた。わざわざピンクの花の咲く蕎麦を信濃から取り寄せて蒔いたという。場所が分からず、道端の花の世話をしていた女性に、女房が場所を聞きに行った。随分時間が掛かって戻ってきて、女房は案内してくれるという。そばの家まで連れて行かれたが、判らなくて隣近所に聞いてくれてようやく判ったらしい。わざわざ島田から来てくれたのだから、どうしても見て帰ってもらいたいと言われたようだ。

赤い花の咲いた蕎麦畑は高天神城跡の入口にあった。これも取り入れが済んでから田んぼに種を蒔いたものだろうか。背が低いままで花を咲かせている。一面の淡いピンクで、これもまた一景であった。


(「ひまわり祭り」のヒマワリ畑)

次に袋井市友永の「ひまわり祭り」を見に行った。東名袋井インターを通り過ぎてまっすぐに北へ向かって進むと田んぼの中にヒマワリ畑が広がっていた。テントを張り、ちょっとしたイベント会場になっていた。「源氏の里」という農業グループが主催しているイベントのようだ。背の低い観賞用のヒマワリには「ロシア」と書かれていた。品種名なのだろうか。背の高い花の大きな品種には「食用ヒマワリ」とあった。中国ではヒマワリの種を好んで食べるが、日本でも食用にするのだろうか。変り種としては「ムーランルージュ」と書かれた黒いヒマワリがあった。ムーランルージュは「赤い風車」で色は違うが、雰囲気は何となく分かる気がした。

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後日、コスモス、蕎麦の花、ヒマワリともに、取り入れ後に蒔いたものではなく、休耕している田んぼに作ったものだと聞いた。
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