三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(2)

2019年12月01日 | 

松沢裕作『生きづらい明治社会』によると、都会での貧民の生活はこんな感じです。

長屋に住んでいても、布団を持たない世帯も珍しくない。
木賃宿の滞在者には家族連れもいて、10畳から15畳の大部屋に3~5家族が滞在していた。
毎日、布団を借りるより布団を買ったほうが安上がりだし、木賃宿より長屋を借りるほうがまし。
しかし、まとまったお金がないので、それができない。
少額のお金が入っては、毎日出ていくのが彼らの生活だった。
土木や建設の現場で働く日雇い労働者は、雨の日は仕事がないので、手持ちのお金があっても、その時に使いはたしてしまう。

明治23年(1890年)に施行された大日本国憲法には、憲法25条(「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)に相当する条文はない。
生活が困難になってしまった人が国家から保護を受ける権利は、アジア・太平洋戦争以前の日本では保障されていなかった。

現代でも、アパートを借りることができず、ネットカフェで寝泊まりする人がいます。
アパートを借りるには保証人が必要だし、敷金・礼金もいる。
毎月の家賃を払うためには安定した仕事がないといけない。
食事にしても、外食よりも自炊のほうが安くつくが、一日中働いているから、買い物をして食事を作るという余裕がないので、外食に依存する度合いが高まる。
貧しければ貧しいほど、貯蓄の余裕がなくなり、あらゆるものを少額の現金でその都度購入しなければならなくなる。

生活保護へのバッシングがあります。
生活保護を受ける資格がある世帯の約80%は生活保護を利用していない。
不正に利用された生活保護の額は、生活保護として使われた金額の1%以下。

本当は、日本の生活保護制度の問題は、生活保護からこぼれてしまっている人の多さにあるのに、ごく一部の「ずるをして生活保護をもらっている人」のことばかりが注目されてしまっているのです。


松沢裕作さんは、「通俗道徳」という考えが我々に深く根づいていると書いています。
よく働き、倹約して、貯蓄さえすれば、人間はかならず一定の成功を収めることができる、人が貧困に陥るのはその人の努力が足りないからだ、という考え方のことを日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼ぶ。

勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることがない。親孝行をすれば家族は円満である・・・。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる。いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。

通俗道徳をみんなが信じることによって、すべてが当人の努力の問題にされてしまう。
ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となる。
自己責任ということです。

その結果、努力したのに貧困に陥ってしまう人たちに対して、人びとは冷たい視線を向けるようになります。そればかりではありません。道徳的に正しいおこないをしていればかならず成功する、とみんなが信じているならば、反対に、失敗した人は努力をしなかった人である、ということになります。経済的な敗者は、道徳的な敗者にもなってしまい、「ダメ人間」であるという烙印をおされます。さらには、自分自身で「ああ自分はやっぱりダメ人間だったんだなあ」と思い込むことにもなります。
これは支配者にとっては都合のよい思想です。人びとが、自分たちから、自分が直面している困難を他人のせい、支配者のせいにしないで、自分の責任としてかぶってくれる思想だからです。

こうして、貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって必死で働くことが唯一の選択肢となった。

助け合いも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者。
その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印を押す社会ができあがった。
通俗道徳は江戸時代からであり、通俗道徳の「わな」に人々がはまってしまったことを安丸良夫さんが指摘したそうです。

明治13年(1880年)、東京府会では施療券を存続させるか、廃止するかが議論になった。
当時は公的な健康保険制度がなく、貧困者は医療を受けることが難しかったため、病気にかかった貧困者が申請して施療券を受け取ると、指定された病院で無料の治療を受けられるという制度だった。

沼間守一府会議員は「施療券をもらって入院をもとめる貧困な患者をみると、自己管理ができていなくて、体を大切にしなかった結果のようなものもいる」と批判している。
病気は自己責任だという考えである。
翌年の東京府会で、貧困対策の費用は削減され、施療券制度は廃止された。

大倉喜八郎が70歳をすぎた明治44年(1911年)に『致富の鍵』という回顧談を出版している。
その中に、「人間は働きさえすれば食うだけのものはチャンと与えられるように出来ている」とある。
「富まざるは働かないからである。貧苦に苦しむは遊惰の民である」とも述べている。
一見するとまともな通俗道徳の教えは、「ダメ人間にならないためには、どんな手段をつかっても、他人を蹴落としても成功しなければならない」という過酷な競争社会を生み出してしまう。

日露戦争(明治37年~38年)の戦死者と戦傷者は11万8千人で、当時の世帯の1.3%。
本人や家族はほとんど何らの補償も受けられなかった。
日露戦争の講和条約への不満から日比谷焼き打ち事件が起き、主に警察署と交番が襲撃された。

その後、似たような事件が次々と起きた。
1906年の電車運賃値上げ反対運動、1908年の増税反対運動、1913年の桂太郎内閣打倒運動、1914年のシーメンス事件、そして1918年の米騒動。
明治末から大正初期の東京では、数年おきに暴動が起きている。
参加者の6~7割が15歳から25歳の若い男性だった。
この若い男性の職業は、職人、工場労働者、人力車夫、日雇い労働者の比率が高く、都市の下層民が中心だった。
生活が苦しく、いくら頑張っても豊かになる道を閉ざされている若い男性のやりきれなさが噴出した。

日本では大きな災害などがあっても、暴動や略奪が起きないと言われています。
しかし、かつての日本人は暴動という形で政府に抗議していました。
格差がさらに広がると、百年前のように抗議行動が頻発するかもしれません。

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