三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

平生往生

2015年04月20日 | 仏教

これもずっと以前に書いたものにちょっと手を加えました。

飲みの席で、ある人が「平生往生じゃダメだ」と言っていて、どういう意味で使ってたかというと、「普段いい加減にしていたら、いざという時に困る」、もしくは「普段からきちんとしていたら何かの時に助かる」というふうな話なので、「平生往生とはそういうことじゃないですよ」と言ったら、「じゃあ、どういう意味なのか」と聞かれ、私は酔ってたもので(いいわけ)、うまく説明できませんでした。

「平生業成」の「業成(ごうじょう)」と「往生(おうじょう)」とは発音が似ているから、「平生業成」を間違えて「平生往生」と言うようになったのかと思っていたら違ってました。
どうも、親鸞は「平生業成」という言葉は使っていないようです。
「平生」すらも。
「平生業成」は存覚『浄土真要抄』に初めて使われたらしく、『浄土真要抄』には「平生往生」という言葉も出てきます。
いや恥ずかしい。

辞書を調べると「平生往生」という言葉は出てこないようです。

ビジネスマガジン(現在廃刊)というメルマガには「信頼というものは“チリも積もれば山となる”という諺のように、平生の努力の積み重ねが築き上げるのです。つまり、平生の真面目な生き様が、極楽往生につながるという仏教の教え通りです」とあります。
こういう意味で使う人がほとんどなのでしょう。

ヤフーで「平生往生」を検索すると、驚いたことに多くは広島、山口、島根、大分のHP(なぜか岐阜も少々)だということで、真宗門徒の多い地域で「平生往生」が間違った意味で使われています。


平成6年6月1日の衆議院商工委員会で、通商産業大臣畑英次郎君が国会答弁で「日本のお互いの生活の中で、平生往生という言葉がございますが」と言っていますが、畑大臣は大分選出。

国会議員の多くは理解できなかったのではないかと思います。
中原好治広島県会議員は「選挙は平生往生」という格言を紹介しているし、西川学名古屋市会議員の好きな言葉は「平生往生」だし、岩屋毅国会議員(大分3区選出)も選挙は「平生往生だ」と自分に言い聞かせるそうです。
政治家は間違った意味での「平生往生」という言葉がお好きなようです。

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 植木雅俊『仏教、本当の教え』 | トップ | 校正の鬼 »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (はるな)
2015-04-20 12:50:49
所詮、言葉の遊び
ひとりごと (てるてるぼうず)
2015-04-21 22:08:24
真宗の門徒が使う聖典
初めに三帰依文がありますね
人身受け難し、今すでに受く・・・

ここにも載せられていますが、マシュマロ先生こと真城義麿先生のお話で「ヒトと生まれて人になる」

三帰依文の最初の一言目を説明するとこのお話になるのでしょう
昨年、神戸真宗連盟の法恩まつりで真城義麿先生のお話を聞く機会にに恵まれました、こういったお話でありました

死んで輪廻転生するかどうかは知りませんが、ヒトと生まれても畜生道・餓鬼道・阿修羅道に生きているものがいます
生きながら輪廻転生しているのでしょう

こうなると、三帰依文の最初の一言目にも辿りついていないということです

それはそうでしょう
人に生まれても仏法聞き難しです
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し・・・ですから

しかしながら、人に生まれて人となった門徒で仏法に出遭った者は、仏の覚りはありませんが門徒には門徒の悟りがあります
勿論、一生娑婆の泥の中をはいずりまわる人生ですが、釈尊からその教えを伝えてくださった僧やサンガのお陰で涅槃の道の道標が示されてあるわけですから
泥の中の涅槃の道を歩んでいるわけです

で、最後の領解文で御恩報謝の念仏で終わるわけです

そういうことではないですか
この身今生において度せずんば、更にいずれの生においてかこの身を度せん・・・でしょ

仏法は言語道断であり自業自得ですから(どりらも娑婆では違う意味のようですが)
わかる人はわかるし、わからない人はわからない
自分が目覚めるもので、他者をどうにかするものではないですから

縁なき衆生は度し難し、でもあるわけです

縁ですね
ヒトとニン (円)
2015-04-22 14:40:53
講演録だったと思いますが、「人(にん)に出遇い 法に出遇った人(ひと)」という林暁宇さんの本があります。
「ヒトに生まれて人になる」.という講題はこれからきてるかもしれません。
教え(法)に遇うことで、ヒトは人(ニン)になる。
しかし、教えに遇った人と出遇わなくては、教えには遇えない。

ここで問題。
ヒトとニンとはどう違うのか。
それと、教えに遇った人は誰か。
麻原彰晃こそ教えに遇った人だと信者は思ったことでしょう。
これこそが正しい道だと喜んでいたら、どん詰まりになってしまうかもしれません。

コメントを投稿

仏教」カテゴリの最新記事