三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

五年生 私の還らぬ灼熱(あつ)い夏 6

2010年09月20日 | 戦争
 私の家は西白島町で、爆心地からわずか1キロ余りの至近距離にある。あらかじめ予想はしていたがその通りだった。跡形もなくきれいに全焼し、製麺機のシャフトが高熱で無残にねじ曲がり、投げ出されている。焼け残った機械の残骸で、やっと我が家の焼け跡を確認することが出来た。
 だが、そこには焼け爛れた瓦や溶けたガラス片が散乱し、炭化した庭木を残すだけで、二日前までそこに一家団欒があったとは思えない惨状との直面だった。この惨状は決して夢ではなく、現実に私はそこに立ちつくしている。

 避難していた近所の人にも会い、家族の消息を聞き回ったが、「まあ、あんた、よう生きとったのう」と言われるだけだった。他人の消息まで気配りは出来ないのだろう。唯一つだけ、人伝てで弟の猛(5才)によく似た子供が、勧業銀行ビルの焼け跡に収容されていたとのことで、急いでそちらに向かった。

 途中、福屋や中国新聞社にも、兵隊さん他、大勢の救護の人が戸板やトタン板を持って出入りしている。入る時には怪我人を乗せ、出て行く戸板は遺体を運び出している。これらの遺体は身元も解らず、川原に積み上げられ、油をかけて焼かれるのだ。無名無縁のまま葬り去られる。夜になれば川原や土手のあちこちで、遺体を焼く恨みの焔が火の粉を吹き上げ、火柱となって赤く青く舞い上がり、夜空を焦がしていた。

 勧業銀行にも広い一階に百人を超える人が収容されていて、左右に分けられている。片方はすでに息を引き取った人で、救援の人が遺体を調べ、身元が解れば記録に残して戸外に運びだす。
 肉親を探し求めて来た人は、ビンに水を入れて一人ひとりの顔を覗き込み、声をかけて尋ね回っているが、収容された人は重症者ばかりで身動きもできず、声をかけても確かな返事は返ってこない。ただ「助けて下さい」「水、水を飲ませて下さい」と、か細い声で呻き、哀願するのがやっとだった。医者はおらず、薬などあるはずがない。水を配り、飲ませるだけで手当てはされないままだった。ここでも傷の痛みと喉の渇きに苦しみ、不安と恐怖に曝され、死を待つ以外の途は残されていない。

 私も負傷者の間を縫うように、小さな子供一人ひとりに声をかけ、顔を覗き、寝返りまでさせて、「猛ではないか」「八木猛ではないか」と聞き回ったが、力なく首を横に振る子や、多くの子供は顔や手足も真っ黒で、火傷で皮膚が破れ、顔は腫れ上って、顔形で確認することはとてもできない。耳元に口を寄せ大きな声で名前を呼ぶが、みな返事ができる体力は尽きている。
 私はたまらず声を上げた。「猛、猛はおらんか。八木猛はおらんか」と返事が返るのを祈る気持ちで何度も何度も、「お兄ちゃん」との返事を待って何度も何度も繰り返し呼び続けていた。

 行方不明の肉親の中で、唯一人消息がつかめた弟だったので何としても捜し出してやりたかった。一人ぼっちになった自分が泣きたいほど淋しく、一刻も早く肉親の誰かに逢いたい、絶対に一人にはなりたくなかった。遺体で運び出された場所にも行ったが、そこにも何の手がかりもなかった。

 今でも心残りなのは、そこに居ながら、私の声が聞こえても体を動かすことも声さえ出せなかったのではないかとの思いだ。あの時、もう少し念をいれて探してやれぱと残念でならない。

 後で中国新聞社や福屋も探し歩いたが、虚しい努力に失意を重ねるだけだった。一日中、暑さと息苦しい捜索も報われる事はなく、長寿園の土手で遺体を焼く鬼火を見ながら、大勢の野宿の人達と一夜を明かした。失意と悲しみと疲れを引きずって、祖母へつらい経過を報(しら)せることになる。
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