ある小さなスズメの記録

2011-04-11 09:30:13 | 日記
クレア・キップス著  文藝春秋社刊

ヨーム(オウムの一種)、メンフクロウに続いて、今度はスズメ(正確にはイエスズメ)である。嗚呼……。
近年になく、美しい本である。しかも、ケース入りである。ケースと本扉に添えられた酒井駒子氏の挿画が素晴らしい。そして、大久保明子氏の装丁も素晴らしい。とてもシック。そして、作家の梨木香歩氏の翻訳も、著者の執筆姿勢を十分に伝えていてとてもいい。本書はこれまでに三度刊行されているそうで、今回は梨木氏の新訳だそうである。
サブタイトルに「人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」とあるのは、著者の執筆姿勢を尊重して、梨木氏が敢えて希望して付けたそうである。
物語は、1940年7月1日、自宅の玄関先で数時間前に生まれたばかりの、丸裸のイエスズメの雛を著者のキップス夫人が拾ったところから始まる。第二次世界大戦の最中のロンドン郊外でのことである。……ここから先は、書かない。
気分がよく、時間もたっぷりある日の午後にでも読んで欲しい。できれば、紅茶でも用意して……。翻訳といい、挿画、装丁といい、手にとって読むにはそれくらいの演出はする価値がある。

日本一の秘書 -サービスの達人たちー

2011-04-09 15:32:41 | 日記
野地秩嘉(つねよし)  新潮新書刊

本書に登場する秘書はひとり(CoCo壱番屋の社長秘書)だけである。あとはドアマン、似顔絵刑事、クリーニング屋、焼き鳥屋、富山の売薬屋さん、秋田県で活躍しているキャラクターといった人々である。メインタイトルで買うと期待外れかもしれない。これらの人たちは一芸に秀でた人、それも商売人(キャラクターと刑事を別にして)である。知っている人は知っているが、世間的には無名と言ってよい人たちだ。
著者は「サービス業」という括りで執筆しているが(前作に『サービスの達人たち』『サービスの達人たち』の著作がある)、広義ではそうかもしれないが、少々違和感を憶える。著者はインタービューし、本にするのもサービス業の一種だと言っているが、そうだろうか。
只、ここに紹介されている人々は素晴らしい。これらの人たちの共通点を挙げれば、まず明確な意識、つまり商売(生活)と言う視点を持っていることである。生きる為、食べる為に必死で働いて、ということである。そして、その為の努力を惜しまなかった人々だということ。
「生き甲斐」だとか「仕事をする嬉び」というものは、その結果であって、目的ではなかつた。
但し「親切にして貰った」「綺麗にしてもらった」「世の中の役に立った」「旨かった」といったことを含めて、それが「サービス」だと言うのならば、「サービス」という括りも納得できるのだが……。

考える仏教  -「仏壇」を遠く離れてー

2011-04-08 14:53:15 | 日記
季刊「考える人」2011年春号  新潮社刊

今年は法然上人八百年。親鸞聖人七百五十年。ふたりの宗祖の50年に一度の「大遠忌」にあたるそうだ。しかし、特集を組んだのはそればかりではないようだ。サブタイトルの「仏壇」がキーワードだ。ひとつは文字通りの仏壇、もうひとつは、文壇、画壇と言った意味の仏教界。
最近の仏事離れ、そして宗派離れ。そこで問題になっているのは、究極のところ、従来の檀家制度に胡坐をかいた僧侶側にある。明け透けに言えば、宗派ー寺ー僧侶ー葬儀という一連の商売システムだ。葬式仏教である。しかし、葬祭というのは「俗事」であって、各宗教の確信的教義とは関係ない。つまり、僧侶たる者の本業ではないという指摘が面白い。そもそも、死んでから戒名をつけるというのは、本来仏教では要らないことだろう。
最近の葬祭場は、「減価償却を30年に設定しているそうだ。つまり、団塊の世代が絶滅するまで」。という指摘は現実性がある(ということは葬式仏教に勤しんでいる寺と僧侶の減価償却も30年? とは書いていないけれど…)。
では、もうひとつの「仏壇」はどうなのだろうか。私が読んだ限りでは「仏教及びその修行者である僧侶は、衰退もしくは骨細になっている。つまり、求道家ではなくなっている」ということらしい。人間にとって宗教とは、仏教とはどういう位置づけにあるのか、そこのところを究明しようとしている僧侶はほんの一握りしかいない、と言っているように思えてならない。

筑摩書房 それからの四十年  1970ー2010

2011-04-05 15:21:39 | 日記
永江 朗著  筑摩選書

本書は、筑摩書房の倒産から再建を経て、現在に至る、ある意味の「社史」である。
筑摩といえば、私達の世代では綜合雑誌の『展望』ではないだろうか。勿論、スタンスによっては『世界』『思想』(いずれも岩波書店)と、読む対象は違っていたか、併読していた筈である。
筑摩の倒産(1978年)は、大学生や読書人にとっては大事件であったが、その内幕については知る由もなかったが、私はその影響を間接的に受けた。
倒産後に退社して他の出版社に移籍した人たちが多数いたのだが、そのうちの何人かが私の友人がいた出版社に入社してきた。友人の印象では「文学青年もしくはその面影を引きずっている」人たちだったそうだ。「俺はこんな所にいる人間じゃない」「そんな企画、お呼びじゃない」というプライドが高く、どうにも扱いにくい人たちだったという。お陰で、私は嫌気をさした彼のために、ほかの出版社を世話する羽目になったことがあった。
今回、本書を読んでみて筑摩書房が当時持っていた「出版文化というか、土壌」が分かったような気がする。確かに出版界は、著者も言っているようにトレンドが変化しつつあったから、倒産もやむを得ないかと思った。
出版社の倒産というのは、たいして珍しくはないから、その後の再建に至る苦労もよく分かる。よくぞ、再生したものだと思っている。

不可能、不確定、不完全 -「できない」を証明する数学の力ー

2011-04-03 15:43:46 | 日記
ジェイムス・D・スタイン著  早川書房刊

これだけ「不ーー」「不ーー」「不ーー」と並んだタイトルの本にチャレンジする勇気が誰にでもあるとは思わない。それを買ってしまった私は差し詰め「蛮勇の徒」に等しい。そして、それが「蛮勇」であったことを思い知らされた。
タイトルの3つの「不」は、ヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理、クルト・ゲーデルの不完全性定理、ケネス・アローの不可能性定理である。勿論、これらについてはおおまかには理解していた。まっ、だからこそウッカリ手にとってしまったのだが。
問題はその先である。「確定できない」「不完全だ」「不可能だ」ということならば、思い当たることは身近に多々ある。それはそれとして、一般人は「この程度でいいだろう(数学や物理学では<近似値>と言うらしい)」という「解」をもっている。
しかし、この3つが定理化された先に新しい発見、技術、理論が生まれるのだと言われると、素人は首を傾げてしまう。それでも、原理、定理と言うの? と言うわけで、完全にお手上げである。これから仮に何度読み返えしても、多分、いや確実に分からないと思う。
「知の迷宮」に陥らないのが、愚者が選択できる賢明な道であることを思い知った本。だって、これを理解したいと思ったならば、もう一度学生時代に戻らなければならないだろう。でも、そこには「蔦の絡まった」学び舎があるだけかもしれない。

読み終わってわかったことは、不確定、不完全、不可能であることが分かったとしても、そこで終わりではないということらしい。その先に、まだ知の地平線があるということなのだ。

フクロウからのプロポーズ ー彼とともに生きた奇跡の19年ー

2011-04-01 15:00:36 | 日記
ステイシー・オブライエン著  日経ナショナルジオグラフィク社刊

ヨウムの「アレックス」に次いで、今度はメンフクロウの「ウェズリー」である。どうして、この手の本を手にとってしまうのか、自分でも良く分からないのだが。
アレックスの場合、飼い主のペパーバークはあくまでも研究対象として接していた。そして、博士号をとった専門家でもあった。一方、著者はオキデンタル・カレッジで生物学を専攻後、カリフォルニア工科大学のフクロウ研究チームに属してはいたが、研究助手といった立場であった。ある日、翼を傷めたフクロウの子を預けられる所から、物語は始まる。
自然界に戻ることができないこのフクロウは、一生世話してあげるしかない。つまり、この時点で研究対象ではなく、「ウェズリー」は共に生活するペットという立場になった。ここがペパーバークと違う。
しかし、メンフクロウである。フクロウ目メンフクロウ科には17種いるが、ウェズリーは北米に生息する唯一のメンフクロウである。これまで詳細な飼育記録も、生態記録もない中で、彼女は手探りで育て上げ、19年間生活を共にした。しかも、彼女の亡くなったお祖母さんもメンフクロウを飼っていたことを、祖父から知らされる。
世の中には、こういうこともある。その19年間のことは、読んでみて欲しい。ペットを飼っている人には一々頷けることばかりだ。
そして、必ずペットと別れる時が来る。あなたがクジラやゾウガメをペットにしているのならば話は別だが…。ペパーバークの場合もそうだが、彼女の場合もペットロス・シンドロームに襲われる。そして、両者とも彼らのことを本にすることで立ち直る。亡くなったペットが、病める飼い主を甦えさせる。そこが、素晴らしい。