おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

妖星ゴラス

2023-05-16 07:19:22 | 映画
「妖星ゴラス」 1962年 日本


監督 本多猪四郎
出演 池部良 上原謙 志村喬 坂下文夫 白川由美 水野久美
   佐々木孝丸 小沢栄太郎 河津清三郎 西村晃 佐多契子 田崎潤

ストーリー
アメリカやソ連に続いて日本でも宇宙開発が推進されJX-1隼号が打ち上げられ、艇長の園田博士(田崎潤)をはじめ乗組員は土星を目指して長い旅に出た。
ところが丁度その頃、パロマ天文台が「冥王星より約36分の方向に黒色彗星が見つかった」という重大な発表をおこない、ゴラスと命名されたその星の質量が地球の約6000倍だとわかる。
その進路に当たる太陽系の各惑星は壊滅的な影響を受ける恐れがあり、事態を重大視した宇宙管制委員会は、宇宙を航行中の船に連絡を取り、観測に協力するよう呼びかけた。
園田は自分たちがゴラスに最も近い位置にいることを知り、積極的に観測に参加してデータを収集したが、隼号はその引力に引き寄せられてしまい、その燃え盛る炎によって消滅し、データだけが地球に届けられた。
そのデータを解析した結果、ゴラスはやがて地球にぶつかる進路を取っていることが判明。
日本政府からその事実を知らされた各国の首脳陣は大慌てになり、普段は対立している国々も地球の危機には協力せざるを得なくなる。
こうしてゴラス対策本部が設けられ、世界の科学者たちが意見を交換しあった。
そして日本宇宙物理学会の田沢博士(池部良)が、巨大なロケット噴射ノズルを南極に建設し、その推進力によって地球自体の軌道を変えるという大胆極まる解決策を提案した。
最初は夢のような案だと考えられていたが、各国の隠していた技術によってそれが可能だということが分かり、さっそく建設が始まる。
計算の結果、地球は40万キロメートル移動させられることが決まり、完成したロケットは100日間に渡って巨大な炎を吐き出し続ける。
温度が上昇したため、南極の溶けた氷の下から巨大な怪獣が出現することもあったが運行は順調に進んだ。 


寸評
映画のジャンルにSF作品があるが、日本の場合においては特撮映画と称したほうがピッタリとくる。
まず思い浮かぶのが「ゴジラ」や「ガメラ」に代表される怪獣ものである。
特に東宝はモスラだのキングギドラだの、ありとあらゆる大怪獣を生み出した。
しかし怪獣映画は怪獣が変われど、結局は怪獣同士のバトルが見せ場となるパターンで描かれ、ストーリーとしてふくらみを持たせづらかった側面があったように思う。
一方で空想科学映画と称される作品群があり、多くは「地球防衛軍」や「宇宙大戦争」などの宇宙ものである。
こちらの方はパターン化された描き方の作品もあるが、自由な発想のもとに撮られた作品も多く存在する。
その中でもこの「妖星ゴラス」はピカイチの出来で、特撮映画を多く撮った本多猪四郎監督もこの作品が一番気に入っていたようである。
怪獣映画にも共通することだが、日本の特撮映画の特徴の一つと言えるのがミニチュアを使った都市の再現などの広大なパノラマ撮影だと思う。
この作品ではかつてない程の大規模なミニチュアが用いられ、南極の建設現場ではミニカーが作業しているのに笑ってしまうが、特撮チームの努力がうかがえ笑いはどこへやらで感動してしまう。
ゴラスの引力で東京が水没してしまっているミニチュアセットもCG処理になれた今では懐かしさを感じる。
宇宙ロケット、宇宙ステーションなどはおもちゃのようなものだが、映像からはノスタルジーを感じさせられる。

この映画が製作された前年に旧ソ連がガガーリンを乗せた初の有人による人工衛星を打ち上げ、ガガーリンが言った「地球は青かった」に僕たちは感激した。
しかし宇宙開発は軍事につながっており、ソ連のミサイル技術が自分たちの技術よりも進んでいることに驚いたアメリカは宇宙開発を急ぎ、東西冷戦は宇宙開発へと突入していったのだが、この映画は東西冷戦時代へのアンチテーゼでもあった。
科学の勝利を高らかにうたい上げるストーリーは正に世界平和に対する賛歌である。
東宝お得意の怪獣は、終盤に南極の基地建設を妨害するアザラシのような巨大怪獣として登場するが、全編の中では添え物と言った感じで登場への賛否は分かれるところであろう。
これはミュージカルなのかと言いたくなるような歌とダンスのシーンがあるのはまるでインド映画の様で、あれは観客へのサービスだったのだろうか。
鳳号の乗員でゴメス探索に向かった金井(久保明)が記憶喪失になってしまうのだが、そのエピソードはストーリーの中で生かされていなかったように思う。
記憶喪失から回復した時に、何か重大な情報をもたらすのかと思ったのだが、ただ目覚めただけだったのには肩透かしを食ったような気分になった。
金井と野村滝子(水野久美)の恋も、金井が滝子のモト彼の写真を捨てたシーンがあっただけに、僕は不完全燃焼であった。

壮大な南極セットを初めとするミニチュア特撮と共に、日本では珍しい破天荒なストーリーとSFマインドを併せ持った特撮映画として、子供だましだとしても映画史にとどめておくべき作品であろう。

酔いどれ博士

2023-05-15 07:45:56 | 映画
「酔いどれ博士」 1966年 日本


監督 三隅研次
出演 勝新太郎 江波杏子 林千鶴 小林哲子 東野英治郎
   ミヤコ蝶々 小林幸子 浜村純 酒井修

ストーリー
スラム街のドヤで一人の頑丈な体躯の得体の知れない男が、花札と酒に浸っていた。
そのギョロ松こと大松伝次郎(勝新太郎)は血気盛んなため、ある傷害事件を起し、外科医の免許を剥奪された上、大病院を追われ、やむなく潜入してきたのであった。
ある日決闘で撃たれたチンピラ、トラ松(平泉征)の弾丸摘出手術をした。
それを機に、スラムの自治委員長(殿山泰司)ら三役の懇願により、花子(小林哲子)とお松(ミヤコ蝶々)を看護婦にして、ニセ医者を開業することになった。
ある夜バーでホステスお春(江波杏子)にからまれて閉口しての帰り、彼は麻薬王(浜村純)の弾丸の摘出手術をやらされ、危く消されそうになった彼は元帥なる警官(東野英治郎)に麻薬王の居場所を教え逮捕させた。
彼は釣りの最中元帥に、無免許臭いと疑われるが、対岸の胸を病む貧しい少女(小林幸子)の話を聞くと、逆に「あんたが、いや国家があの人たちに何かしてやったかね」と、怒りを叩きつけた。
そして彼は少女のために果物や卵をソッと置いてきた。
彼はまたトラ松が恋人の時子(林千鶴)と結婚するため、組と縁を切る為に決闘に及んだことを知り、彼をそそのかした連中に鉄挙で制裁を加えたり、時子が健気に養う父親(田武謙三)の怠け病に気合を入れたりもした。
かくしてスラムにも、ギョロ松らの働きで明るさが見え始めた。
ところが、トラ松が再び瀕死の傷を負ってかつぎ込まれ、さすがのギョロ松も手がくだせない。
彼は手術代の20万円を稼ぐため、トラ松の決闘の相手の三次(千波丈太郎)と花札を打ったが負け、窮した彼は腕づくで金をまき上げ、そして彼はトラ松を大病院に運び院長(花布辰男)に託した・・・。 


寸評
その昔、大阪城公園はホームレスのメッカの様なところでテントや掘っ立て小屋が乱立していた。
元は立派な職人だったり技術者だった人もおり、特別なコミニティーが存在していて大工さんが建てたのかと思われるような立派な小屋も出来上がっていた。
冒頭でスラム街の人たちが協力して診療所を建てるシーンがあるのだが、僕は当時のホームレス達が建てた小屋を思い出していた。
「酔いどれ」と聞くと、すかさず黒澤明の傑作である「酔いどれ天使」が頭に浮かんでしまう。
「酔いどれ天使」の題名の天使とは、普通に考えれば医者の志村喬なのだと思うが、最後は死んでしまうヤクザの三船敏郎であっても不思議ではないところがある。
本作における「酔いどれ医者」は勝新太郎の大松伝次郎意外には存在しない。
女優はバーの女給の江波杏子、看護婦の小林哲子、チンピラの恋人林千鶴、さらに屑屋を辞めて診療所をキリもみするのがミヤコ蝶々と多彩なのに比較して、男優陣のほうは勝新に対抗するような男優が存在せず、辛うじて警官の東野英治郎に存在感がある程度で淋しい。
それが原因のようにも思うのだが、大きなドラマがなく盛り上がりに欠ける内容となっている。

勝新はドスで手術をするなど破天荒な医者なのだが、スラム街の人たちからヒーロー扱いされ診療所を開く。
彼が診療所を開いたのではなく、スラム街の人たちに診療所を開かされてしまったのだ。
くず拾いをやっている人たちもいて、必要な道具はどこからか拾ってきて診療所の設備を整えてしまうのが愉快。
しかし薬だけは拾ってくるわけにはいかないだろうから、一体彼はどのようにして治療薬を手に入れていたのだろうと思ってしまうのだが、善意の医者として勝新は天使のような存在になっていく。
ドブ川で魚釣りをしていて、「こんな川でも魚が住んでいるんだ・・・」とスラム街の住人を擁護している。
それは小林幸子を救えない警官や国家に対する批判に共通する思いでもある。
そこだけ見ると社会映画らしい側面もあるのだが、全体はハチャメチャな活劇である。
トラ松が生死にかかわる瀕死の重傷を負い、勝新が見事な手術の腕前を見せるのかと思ったら、恩師の先生にトラ松を託して自分はヤクザとの喧嘩に出かけて行ってしまう。
もっとも勝新の手術の腕前は冒頭で示されていたから、再びそれを描く必要がなかったのだろう。
さてその喧嘩騒ぎだが、これが勝新の一方的な勝利で、大勢のチンピラたちを次から次へとやっつけてしまうのだが、相手が空中高く飛び上がったりでリアリティはまったくなく、むしろ滑稽なシーンとなっている。

貧しい少女を演じた小林幸子は1964年にデビュー曲の「うそつき鴎」をヒットさせていたが、歌手として大成するのは15年後ぐらいのことで、このころは大映作品で勝新や市川雷蔵と共演を果たしていた。
共演した勝新太郎には師匠である作曲家の古賀正男や歌手仲間達と同様に当時の愛称でもあった”チビ”と呼ばれて大変可愛がられていたようである。
本作では子役とも言ってもよい少女役だが、アップで映されるシーンを見るとこの頃からまったく小林幸子である。
ラストシーンは余韻を持たせるいい雰囲気で締めているので、あの雰囲気を全体で見せてほしかったなという気持ちが残った。
殿山泰司や藤岡琢也などのベテラン俳優も出ているが、元帥と呼ばれる東野英治郎はなかなかよかった。

酔いがさめたら、うちに帰ろう。

2023-05-14 06:49:48 | 映画
以前に掲載したのは以下の作品でした。
2020/6/19から「醉いどれ天使」「八日目の蝉」「用心棒」「善き人のためのソナタ」「夜霧の恋人たち」「欲望という名の電車」「世にも怪奇な物語」「喜びも悲しみも幾歳月」「四十七人の刺客」
2021/12/24から「よこがお」「横道世之介」「四谷怪談」「夜の河」「48時間」

「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」 2010年 日本


監督 東陽一
出演 浅野忠信 永作博美 藤岡洋介 森くれあ 市川実日子
高田聖子 柊瑠美 利重剛 西原理恵子 甲本雅裕渡辺真起子 堀部圭亮
西尾まり 大久保鷹 滝藤賢一 志賀廣太郎 古舘寛治 北見敏之
螢雪次朗 光石研 香山美子

ストーリー
「来週は素面で家族と会うのです」と言いながらウォッカを飲み、血を吐いて気絶した戦場カメラマンの塚原安行。
母・弘子は慌てつつも、慣れた様子で救急車を呼び、救急隊員に掛かり付けの病院を伝えている。
その場に駆け込んできた売れっ子漫画家の園田由紀は安行と結婚し、宏とかおるという子供にも恵まれたが、安行のアルコール依存症が原因で離婚、今は別々に暮らしている。
安行は病院に運ばれ、そのまま3ヶ月の入院、それは10回目の吐血だった……。
由紀は知り合いの医師を訪れ、アルコール依存症について尋ねると、医師は身を乗り出し「ほかの病気と決定的に違ういちばんの特徴は、世の中の誰も同情してくれないことです。場合によっては医師さえも」と答え、その言葉は由紀の胸に深く突き刺さった。
退院後、抗酒剤を服用している安行は、穏やかな日々を過ごしていた。
そんなある日、一人でふらっと入った寿司屋で出された奈良漬けを口にした安行は、数分後コンビニの酒棚に直行し、気が付くと、酔っ払って転倒、頭から血を流し、そのまま意識がかすんでいった。
後日、タクシーに乗り、ある場所に到着した安行と弘子。
驚いている安行をその場に残し「ここは精神病院。あなたは入院するんです」と言って弘子は足早に中へと入っていく。
嫌々ながら入院したアルコール病棟だったが、ここでの風変わりだが憎めない入院患者たちとの生活や、個性的な医者との会話は安行に不思議な安堵感を与えてくれた。
体力も心も回復に向っているかに見えた安行であったが、その体はもう一つ大きな病気を抱えていた…。


寸評
「ぼくんち」「毎日かあさん」などの人気漫画家の西原理恵子の元夫で、2007年に死去した戦場カメラマン・鴨志田穣の自伝的小説の映画化などとは関係なく、この映画の中における別れた妻である園田由紀を演じた永作博美が抜群に良い。
彼女あってのこの映画だという気がして、キャスティングの妙によってこの作品が支えられている側面を僕は評価する。

冒頭は、10度目の吐血をした安行が救急車で病院に運ばれるシーンなのだが、そこに駆けつける元妻の登場の仕方(少し怠惰気に歩く様)と、彼女の「大丈夫。まだ死なないよ」とひと言発する言い回しと表情で僕は一気にこの映画に引き込まれてしまった。
好きだなあ…、この手の映画…。

主人公の幻覚などは描くものの、かつて安行が元妻に対して繰り広げた修羅場の回想も1度だけ登場するのみで、「ほかの病気と決定的に違う一番の特徴…それは、ほかの病気と違い、世の中の誰もほんとうには同情してくれないことです。場合によっては医者さえも」と言われたアルコール依存症の恐怖を直接的に表現することはない。
あくまでも主人公と子供たちを含めた元妻との微妙な距離感をユーモアを交えながらも抑制的に描いていく。
ユーモアは全編にわたって描かれており、特に安行の食事へのこだわりが笑えるし、ユニークな患者や精神科の女医さんや看護師もそれを増幅させる。

一方で母親と元妻の支えによって回復したかに見えた安行が衝撃の宣告を受けるシーンの抑えた演出や、その後に二人が足をからめ合うシーンでの心の交流を見せるなど、けっしてオーバーな押し付けをしないしっとりとした雰囲気を醸し出している。
その分、安行が患者たちの前で自身の身の上を話すシーンや、明るかった元妻が見せる涙のシーンなどでより一層胸を熱くさせられる。
ラストシーンは海辺でのシーンで、家族を見つめる安行の姿も描かれるのだが、あれはやはり病院などではない安行が一番望んでいた心の居場所を見つけたことを表していると思うのだ。
安行は酔からさめて、うちに帰ろうとしたのだろう。
「うち」は建屋としての家ではなく、家族が待っているところ「家庭」だ。
皮肉なことに、その「家庭」は彼がいなくなることで平和になる。
妻は夫の暴力から逃れ、子供たちは父の罵声を聞かずに済むのだ。
しかし、家族はそんな平和は喜べない。
その矛盾が切なく迫ってくる。
モデルである鴨志田穣氏が入籍せずに西原理恵子さんと復縁し1年後に亡くなった事実を知って、改めて振り返るとことさらそのシーンが目に浮かびジーンときた。
特に可愛いというわけではないが「おとしゃん」と父を呼ぶ、かおる役の森くれあちゃんが愛らしかった。

潤の街

2023-05-13 09:44:05 | 映画
「潤の街」 1989年 日本


監督 金佑宣
出演 姜美帆 田中実 初井言栄 李麗仙 佐藤允 井川比佐志
   光石研 田中伸子 西岡慶子 紅萬子 松本幸三

ストーリー
大阪の下町に暮らす潤子(姜美帆)は在日韓国・朝鮮人三世で、16歳の高校生。
父の光秀(井川比佐志)は小さな町工場を営み、母の利代(李麗仙)はお好み焼屋を開いて生計を立てていた。
祖母の貞順(初井言栄)が大好きな潤子は時々話相手をしたり、また通学のかたわら店を手伝ったりしていた。
ある晩潤子は近くの工事現場でアルバイトをしていた雄司(田中実)と知り合い、好意をもった。
ラグビーの試合の応援に行ったりしているうちに雄司も潤子の明るくさわやかなところに惹かれていった。
潤子は自分が在日韓国・朝鮮人であることを話し、理解した雄司の気持ちはそれで変わることはなかった。
ある日潤子は外国人登録のため区役所で指紋を押捺したが、在日外国人にとっては辛い体験だった。
デートの帰り潤子を家まで送った雄司は、酒に酔った光秀から日本人であることを責められ、それは利代も巻き込んだ言い合いになった。
雄司は帰り、一人夜の公園で落ち込む潤子を貞順はそっと慰めるのだった。
雄司は横浜の自動車修理工場を営む叔父のところで修行するよう勧められ、ある日、潤子に結婚を申し込んだが、お互いの気持ちがかみ合わず断られてしまった。
そんな時、雄司の親友の誠(光石研)が恋愛のもつれから事件を起こして逮捕され、初めて彼も在日韓国・朝鮮人であることがわかった。
雄司は潤子から5年も付き合っていて何も知らなかったのかと言われた。
潤子の回りには実父のチョンテ(佐藤允)がうろつき始め、雄司は妹・育子(田中伸子)が、潤子と同級生だったので国籍の違う彼女がいることが家族に知られ咎められた。
雄司が横浜へ発つ前夜、潤子が公園で双子の兄弟に襲われて怪我をした。
少年達から電話を受けた雄司は、公園で二人を力いっぱい殴りつけたのだった。
翌朝、雄司は新大阪駅で、白いチョゴリ姿の潤子に見送られながら再会を夢みて新幹線へ乗り込むのだった。


寸評
大阪の生野区は在日の朝鮮人が多く住んでいて5人に一人は朝鮮人と言う土地柄である。
鶴橋駅界隈にはキムチなど韓国食材を売る店が多くあるし、在日朝鮮人を相手の服飾店も並んでいる。
僕が通った大学の近くには朝鮮学校があり、チマチョゴリの制服で通う女生徒とよく出くわした。
商店に働く人々や通学する女生徒たちは見慣れた光景で、もちろん僕には差別意識などはなかったはずなのだが、しかし日本人のどこかには在日朝鮮人を差別している意識が潜在的にあるような気がする。
「潤の街」はそんな在日朝鮮人と日本人の関係を普通の景色の中に描き出している。
過去の歴史から日本人を憎む描写もあるが、彼らを擁護して告発しているような描き方ではないのがいい。
極端な描写ではなく日常の描写としている描き方は、差別意識の根深さを示しているとも言える。

物語は日本人の雄司と在日朝鮮人の潤子との恋を描く青春映画でもあるのだが、僕が嫌悪感を抱いたのは雄司の妹である育子の存在である。
もちろん映画的に造られた存在ではあるのだが、育子は兄が付き合う相手が在日であることを極端に嫌う。
普通の青春映画なら親などから反対される交際を影で応援する存在として描かれるのであろうが、ここでは仲間をけしかけて潤子を襲わせるほど憎んでいる。
何故それほど嫌悪するのか、実は育子にも分かっていないのである。
映画で描かれた以降も雄司と潤子は交際を続けていくことだろう。
もしかすると彼らは結婚するかもしれない。
その時、雄司と育子の兄妹はどうなってしまうのだろう。
家族はバラバラになってしまうのだろうか。
欧米人との間にはない、アジア系人種に対する普段は見えない大きな溝を感じてしまう。

ラグビーがきっかけで雄司と潤子は交際を始めるが、在日に対して雄司は屈託がない。
母親や叔父はそんな雄司を心配する。
この世代は特にそのような感情をいだくのだろう。
僕の務めていた会社でも在日の男性社員と女子社員の交際が判明し、女子社員の両親が娘の出社を認めなかった為に突然来なくなり、業務的にも退職手続きにも大いに困ったことがあった。
映画と違って、結局彼らは別れることになったなってしまったのだが、人事も担当していた僕は差別意識の根深さをまざまざと見せつけられたのであった。

潤子には貞順という祖母がいてお互いにいたわり合っている姿は儒教社会を思わせる。
貞順は苦しい時には踊るのだと潤子に踊りを教える。
潤子が襲われた後で踊る場面は迫ってくるものがある。
雄司が二人組と殴り合う姿とシンクロするシーンで映像は映画らしい場面を生み出している。
雄司がどのような決断をしたのかは知らされないが、彼らの未来に希望を感じさせる別れであった。
何よりも胸を張って堂々と歩く潤子の姿により一層の希望を感じ取った。
「潤の街」(ゆんのまち)は在日を扱った秀作の一つである。

夕陽のギャングたち

2023-05-12 07:09:35 | 映画
「夕陽のギャングたち」 1971年 イタリア


監督 セルジオ・レオーネ
出演 ロッド・スタイガー ジェームズ・コバーン
   ロモロ・ヴァリ マリア・モンティ リク・バッタリア
   デヴィッド・ウォーベック アントワーヌ・セント・ジョン
   
ストーリー
革命の動乱が続く1913年のメキシコ。
陽気で人の好い山賊の首領ファン・ミランダは、サン・フェリペに通じる街道で駅馬車を襲った後、オートバイで通り合わせたアイルランド人ジョン・マロリーを捕えた。
彼は、アイルランド共和国の脱走兵でやたらダイナマイトを振り廻すところから、イギリス政府のおたずね者になっていた。
メサ・ベルデの銀行を襲撃しようとしているファンは、彼と組んでメサ・ベルデ行の列車に乗り込んだ。
途中、ファンは警察に見つかり逮捕されそうになったところを、謎の人物、外科医のビレガ博士(ロモロ・ヴァリ)によって助けられた。
メサ・ベルデに着いてみると、銀行は軍隊によって警護されていたが、計画を敢行し襲ってみると、中には政治犯が監禁されていた。
ファンは革命軍の英雄として祭り上げられたものの、冷酷なルイス大佐率いる政府軍によって追われる身となってしまった。
やがてルイス大佐の手によって政治犯のビレガ博士が捕えられ、激しい拷問の結果、何千という革命の指導者たちが死ぬことになった。
一方、山の隠れ家に戻ったファンが目撃したものは、老いた父ニーノ、そして可愛い六人の息子がグチエレスによって虐殺されている姿だった。
怒りに燃え復讐を決心したファンは、待ち伏せていたルイス大佐に捕えられたが、ジョンに救出された。
アメリカへ行こうと決めた二人は列車に飛び乗ったが、その列車が革命軍に攻撃された時、ファンは逃亡中の総督ドン・ハメイを殺し、またまた革命軍の英雄に祭り上げられてしまった。


寸評
一応マカロニ・ウェスタンとなっているが、メキシコ革命を背景にすると西部劇の雰囲気はない。
主人公はロッド・スタイガーとジェームズ・コバーンなのだが、二人が出会うまで30分くらいかかる。
冒頭はファン一家が豪華な駅馬車を襲うシーンから始まるのだが、襲撃が完了するまでも長い。
馬車には上流階級らしい連中が乗っていて、彼らはメキシコ人やら農民を散々馬鹿にする。
見ていてもムカムカしてくるくらいの悪口雑言である。
それが上流階級と山賊一家のそれぞれの立場が一瞬にして逆転してしまうのだが、そこでファンを首領とするこの一団の運命が暗示される。
山賊たちは乗客を殺しはしないが身ぐるみを剥いでしまう。
ファンは冒頭の影でも見られるような絶倫男で、乗り合わせた嫌味な女を犯して「気絶しそう」と言わせる。
そしてジョンのジェームズ・コバーンがバイクに乗って登場するのだが、ここまでが長い。
全体を通じて一つのシーンがやたらと長い時間をかけて撮られているので、上映時間は2時間半以上に及ぶ。
この内容でそれだけの尺を持っているので間延び感があり乗り切れないものがある。

革命の物語のようでそうではなく、イデオロギーも学もなく、ただ家族こそが自分の国家だと考える男の物語なのだが、彼の家族への思いが別れる時に子供たちにかける言葉だけなのが弱い。
したがって家族を殺されたファンの悲しみと怒りが余り伝わってこない。
それなのにこのシーンがやたらと長い。
全体がそうなので意図したものだと思うがテンポを失くしている。
原題は「頭を伏せろ」という意味で、ジョンがダイナマイトを使うときに言うセリフとなっている。
うがった見方をすれば、正義であるはずの革命に目を伏せろと言っているようでもある。
ファンは言う。
「文字を読めるやつが革命を叫び、文字を読めないやつが闘って死んでいく」。
また自分の命惜しさに仲間を密告してしまう革命戦士もいる。
革命の為に実働部隊である下層階級が味わう悲哀とも言えるが、それを声高に叫んでいる風ではない。
最下層の一員だったファンは将軍になったのだろうか。

劇中、ジョンのアイルランド時代の過去がフラッシュバックによって時々描かれる。
台詞は一切なく、エンニオ・モリコーネの音楽だけが流れるのだが、楽しかったと思われるアイルランド時代の悲劇が最後になって描かれる。
ジョンが裏切り者の指導者に向けて言った「人を裁くのは一度だけでいい」という言葉が生きてくる。
ジョンはアイルランドの革命に身を投じてイギリスから手配されながら、今またメキシコ革命に身を投じている背景が読み取れるのだが、しかしそれも徹底的に描くことはしていない。
だからマカロニ・ウェスタンなのかもしれない。
映画が始まる前に、「革命とは贅沢な食事でも言葉の遊びでもない、刺繍の模様でもない、優雅さと丁寧さをもってなされるものでもない、革命とは暴力行為なのだ」という毛沢東の言葉が表示される。
僕は毛沢東は権力欲に執着したとんでもない男だったと思っている。

夕陽に向って走れ

2023-05-11 08:52:43 | 映画
「夕陽に向って走れ」 1969年 アメリカ


監督 エイブラハム・ポロンスキー
出演 ロバート・レッドフォード キャサリン・ロス
   ロバート・ブレイク スーザン・クラーク
   バリー・サリヴァン ジョン・ヴァーノン
   チャールズ・エイドマン チャールズ・マックグロー
   シェリー・ノヴァク ロバート・リプトン ロイド・ガフ

ストーリー
年に一度の祭りに、インディアン保護区に戻ってきたウイリー・ボーイ(ロバート・ブレーク)は、最愛のローラ(キャサリン・ロス)との結婚承諾を、彼女の父親に求めたが、銃で追いはらわれてしまった。
固い決意を秘めていたウイリーは、ローラをつれて駆け落ちしようとした。
そのため、彼はあやまって、止めに入った彼女の父親を射殺してしまい、その時から、ウイリーとローラの逃避行がはじまった。
この事件を知った、保護区監督官で女医のエリザベス(スーザン・クラーク)は、保安官補のクーパー(ロバート・レッドフォード)に、ウイリーの逮捕を依頼した。
遊説中の大統領護衛の任につくためウイルソン保安菅(チャールズ・マッグロー)のところへ出頭する予定だったクーパーは、予定を変更してキャルバート(バリー・サリヴァン)やチャーリー(ロバート・リプトン)らと追跡隊を組織し、ウイリーを追うことにした。
インディアンのウイリーの巧妙な逃亡法にまどわされ、クーパーは追跡を断念して遊説中の大統領警護のために、途中で隊を離れ町ヘ向かう必要があった。
その頃、ローラとともに岩山の砦にたてこもっていたウイリーは、追跡隊に追いつかれてしまっていた。
激しい銃撃戦となり、ウイリーは追跡隊の命を狙わず馬を撃って逃れようとするが、ウイリーの撃った弾が偶然にもキャルバートに命中し重傷を負わせてしまった。
この騒動は、たちまち尾ひれが付いて広まり、大統領を取材中の記者たちは、「政府転覆を狙う先住民の集団」と騒ぎ立てた。
それを知ったクーパーは、再び追跡隊に加わり、ウイリーの後を追った。
ウイリーが潜む山に戻ったクーパーは、途中でローラの死体を見つけた。
自殺かウイリーの仕業かは不明だが、ローラは一発の銃弾で絶命していた。


寸評
ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスが主演している本作の前に、この二人にポール・ニューマンが加わった「明日に向かって撃て」という作品がヒットしていた。
それにあやかったのであろうが、「TELL THEM WILLIE BOY IS HERE」という原題を「夕陽に向って走れ」という邦題にして公開されたので、公開時において少なからず「明日に向かって撃て」の印象を残していた僕は内容に戸惑いを覚えたことを記憶している。
もっともこれがエイブラハム・ポロンスキー作品であることを思えば、僕の認識不足であったことは言うまでもない。
弁護すれば確かにウイリー・ボーイとローラは走り続けているので、この陳腐な邦題もありだったのかも知れない。
描かれている内容はアメリカの恥部とも言える差別と迫害の歴史の一端である。
今では過去の差別を反省して先住民族と称しているが、ここでは旧来のインディアンが使用されている。
過去のインディアン狩りを懐かしむキャルバートの静かな語り口は、一層の嫌悪感を湧きたたせる。
赤狩りによって21年間ハリウッドを追放されていた  エイブラハム・ポロンスキーの怒りがウイリー・ボーイに投影された作品で、この作品における真の主役はウイリー・ボーイのロバート・ブレイクだったと思う。

ウイリー・ボーイが白人牧場主の娘ローラが働いている保護区に戻ってくるところから物語は始まる。
僕がこの作品に抱く違和感は、どう見てもウイリー・ボーイとローラがインディアンの恋人にしか見えないことだ。
意図されたものなのかローラのキャサリン・ロスが色黒で白人の娘らしく見えないのだ。
ウイリー・ボーイは正当防衛とも思え、事故とも言える状況でローラの父親を殺してしまう。
殺人であることに違いはなくウイリー・ボーイは追われることになるが、ウイリー・ボーイにしてみれば自分は愛する人と一緒にいたかっただけなのに、インディアンというだけで差別視されて追われることになり、どうすることもできずにただ逃げる中で、彼に待っているのは絶望という感情だけだったのだろう。
足でまといになるのを避ける為だったのだろうがローラは死亡する。
死に至る場面は描かれていないから、ローラの死は自殺によるものか、ウイリー・ボーイによる射殺だったのかは不明のままなのだが、僕はウイリー・ボーイがローラを死に追いやったのだと思う。
ウイリー・ボーイはインディアンとして、自分の妻を他人に渡したくなかったのだろうし、ローラもインディアンの妻として死を受け入れたのだと思う。
ローラがウイリー・ボーイの父親の拳銃で撃たれていること、そしてその拳銃が死体のそばに置かれていたことで、僕はそこにインディアンの誇りを見た。

ロバート・レッドフォードが抑えた演技で複雑な気持ちを上手く表現していたが、キャラクター的に一番興味を引いたのがスーザン・クラークの女医エリザベスだ。
彼女は地位も名誉もあるが満たされず、結局欲しいのは「愛している」という一言なのだが、クーパーからはその言葉がもらえない。
それなのに彼の前に体を投げ出してしまう自分のふがいなさに涙する。
保護監督官として聖人ぶっている彼女の本性をみせて、好かれる役柄ではないが好演だったと思う。
インディアンと保安官の対決をクライマックスにしているアクションものでもあるが、勇壮な西部劇を期待した者は裏切られた思いがする作品だ。

優駿 ORACION

2023-05-10 07:29:25 | 映画
「ゆ」は2020/6/4の「誘拐」から「誘拐報道」「勇気ある追跡」「友罪」「ユージュアル・サスペクツ」「夕凪の街 桜の国」「夕陽のガンマン」「雪に願うこと」「夢」「夢売るふたり」「EUREKA ユリイカ」「許されざる者」「許されざる者」「ゆれる」「湯を沸かすほどの熱い愛」と2021/12/22に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、12/23に「夢二」を掲載していますので、今回は少ないです。

「優駿 ORACION」 1988年 日本


監督 杉田成道
出演 斉藤由貴 緒形直人 吉岡秀隆 加賀まりこ 吉行和子 林美智子
   平幹二朗 石坂浩二 石橋凌 下絛正巳 田中邦衛 三木のり平
   緒形拳 仲代達矢

ストーリー
北海道・静内の牧場主・渡海千造と息子・博正の夢は、名馬をつくりダービーを制覇することだった。
そして伝説の名馬ゴドルフィンの血をひく仔馬オラシオンが無事産まれた。
和具工業社長の平八郎は二つの悩みを抱えていた。
一つは会社の危機で、もう一つは娘の久美子も知らない腹違いの弟・誠の存在だった。
しかも腎不全で、父親の腎臓移植が必要なほど重病だった。
和具はオラシオンを3千万円で買い、夢を託すことにした。
一方、久美子はオラシオンの馬主となり、弟と知らされた誠の見舞いに通った。
やがてオラシオンは博正の手を離れ、大牧場へと移され本格的な調教を受けることとなる。
和具平八郎、久美子、誠、渡海父子、それぞれの夢がオラシオンに託されていた。
そしてオラシオンは見事デビュー戦で優勝。
誠はこの晴れ姿を見られずに死に和具は会社を買収され、渡海も胃ガンでダービー直前に息を引きとった。
ケガの後遺症が心配だったオラシオンだが、ダービーで優勝、和具は久美子、博正と共に、牧場を始めることにした。


寸評
今では全く競馬中継を見なくなったし馬券を購入することもなくなってしまったが、その昔は競馬場に足を運び場外馬券場にもよく通ったものだ。
僕は心情買いと呼ばれる買い方をしていて、購入する馬券は大体が関西馬だった。
その頃は関西馬が総じて弱く、したがって僕はあまり勝てなかった。
競馬ファンですらそのように入れ込んでしまうのだから、生産者や馬主の思い入れはなおさらだと思う。
この作品ではそんな関係者の思い入れが上手く描けていたと思う。
現在のサラブレッドを辿っていくと、全てがダーレーアラビアン、バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアンという3頭の種牡馬に行きつくと言われている。
オラシオンはゴドルフィンアラビアンの血を引いていることが語られ、競馬の長い歴史のロマンも感じさせる。

オラシオンが東京優駿(日本ダービー)を制覇するまでの物語が描かれるが、オラシオンを中心に置きながら人間世界の話がリンクして進展していく構成になっている。
先ず描かれるのが親子の別れで、オラシオンは母親の元を離れて大きな牧場に引き取られていく。
牧場内で別々の厩舎に入れられ、別れの辛さを2頭の馬が表現する。
一方、和具の愛人の子供が生命維持のための腎臓移植を待ちわびているが、和具は今自分の体を他人にくれてやる暇はないと移植を拒否する。
オラシオンは3戦無傷で期待されるが、4戦目で怪我をしてしまい2000メートルで争われる皐月賞には出走できなくなってしまう。
皐月賞に出走できないエピソードは描かれていないが、ここで血統的に2000メートルの皐月賞に賭けていたことを描いておけば、無理と思われる2400メートルのダービー出場を決断する盛り上がりが出たのではと思う。
ここからはオラシオンの再起と誠の回復、及び和具工業の存続がリンクしていくのだが描き方は少し弱い。
したがって全ての人々がオラシオンのダービー制覇に向かって行かざるを得ない状況が淡白である。
和具工業、渡海千造、誠の処理の仕方は実にあっさりとしたものになってしまっている。

話は端折っている所もあるが北海道の牧場シーンは美しい。
特に雪原の中の牧場や厩舎の様子は趣があるし、そのなかでの調教や放牧は美しい光景で、自然の持つ力の偉大さを知らされる。
競走馬を育てる人々と馬とのかかわりは、それなりに描けていると思うが、反面付随する事柄は大雑把だ。
ヒロイン斉藤由貴が溌溂としていて大きな瞳が印象的で好感が持てるのだが、コンパで酔いつぶれた女の子があんなに元気に階段を駆け上がれるものか?
あんなに長い間の交流がありながら、誠は久美子の氏素性を全く知らないで疑問を持たなかったのか?
和具の愛人であった誠の母親と久美子は何故病室で一度も顔を合わせることがなかったのか?
映画は中ではリアリティが欲しい。
オラシオンがダービー制覇をして1着でゴールするシーンは迫力に欠けるが、それでも競馬ファンが一応の納得をきたせるドラマにはなっていたと思う。
映画の世界では動物もまた人間を凌駕する力を持っていることを示した。

野郎どもと女たち

2023-05-09 14:11:23 | 映画
「野郎どもと女たち」 1995年 アメリカ


監督 ジョセフ・L・マンキウィッツ
出演 マーロン・ブランド フランク・シナトラ ジーン・シモンズ
   ヴィヴィアン・ブレイン スタビー・ケイ ヴェダ・アン・ボルグ

ストーリー
タイムス・スクエア近くの街頭で、サラ・ブラウン(ジーン・シモンズ)という救世軍の女軍曹が、魂を救うにはわが許に来たれと熱弁を振っていた。
その頃、お調子屋のジョンスン(スタッビー・ケイ)と南街のベニイ(ジョニー・シルヴァ)の2人は、お馬のハリー(シェルドン・レオナード)に出逢った。
ハリーは、ネイザン・デトロイド(フランク・シナトラ)の賽ころ博奕の賭場を探していると言ったが、ネイザンは場所を変えて警察の目を逃れていた。
ジョンスンとベニイの2人は理髪屋でネイザンを探しているブラニガン警部(ロバート・キース)に出逢ったが、警部は今にネイザンの賭場を押えてやると言った。
ネイザンは近頃シケていた。
お蔭で、14年も婚約している恋人アデレイド(ヴィヴィアン・ブレイン)にプレゼントすらできない。
彼は、町に大博奕打ちのスカイ・マスタスン(マーロン・ブランド)が来ていると知り、彼に1000ドルの賭をしないかと云うが仲々乗らない。
この時、街を救世軍の楽隊が通り、ネイザンは先頭のサラを指して、彼女をハバナへ連れて行けるかどうか1000ドルの賭をしようと言い、スカイは承知した。
スカイはサラをキューバに連れ出していたが彼女の純真さと愛を知り、手をつけずにその夜遅く2人でニューヨークに帰ると、警察と博奕屋どものゴタゴタが起こったりした・・・。
やがて、ミンディ料理店では、ニューヨーク中の野郎共と女たちの列席の上、2組の結婚式が挙げられた。


寸評
ミュージカル映画としてはノスタルジーを感じさせる作りだが、1955年の製作にもかかわらず、曲や振り付けがちょっとアヴァンギャルドで衣装や背景のカラーリングが時代を超えたものとなっていて格好良く見える。
ミュージカル映画として僕の作品歴の中では評価は高くないのだが、何といってもフランク・シナトラとマーロン・ブランドが共演しているだけで僕にとっては特別な作品となっている。
あの「ゴッド・ファーザー」のマーロン・ブランドが、若かりし頃とは言え、生歌と踊りを披露しているのだ。
この映画ではミュージカル・ナンバーよりもダンスの方が印象的だ。
オープニングと同時に披露されるコミカルな動きが楽しめる。
ここで披露されたダンスのテイストは以後も一貫して受け継がれていく。

一番楽しくて秀逸な場面は、ジーン・シモンズ扮する救世軍のサラ・ブラウン軍曹とラスヴェガス帰りのギャンブラー、マーロン・ブランドのスカイ・マスターソンがデートするハバナのクラブで披露する歌と踊りのシーンだ。
酔っぱらって踊るジーン・シモンズがキュートで、マーロン・ブランドならずとも思わず抱きしめたくなる。
二人はクラブのフロアに並べられたテーブルの一つで雰囲気良く語り合っている。
クラブのステージが始まり、滑稽なスタイルのダンスが披露されていき、女性ダンサーの一人がマーロン・ブランドに色目を使ったことから、ダンサーとジーン・シモンズのいさかいを皮切りに大乱闘が勃発する。
ユニークなダンスが楽しめるし、ジーン・シモンズも数人を相手にパンチを繰り出す痛快なシーンとなっている。
騒ぎが治まった後の、マーロン・ブランドとジーンシモンズのラブ・シーンもロマンチックで映画の世界に浸れる。

マーロン・ブランドは僕の好きな俳優の一人だったが、出来上がっていたイメージからすれば意外や意外の生歌とダンスを披露してくれていて、それだけで古い作品にもかかわらず新鮮な気持ちになれた。
フランク・シナトラはもっと目立っても良かったと思うが、ミュージカル映画にもかかわらず影が薄い。
むしろ彼と婚約期間が14年に及び、早く結婚をしたいと彼に惚れこんでいるアデレイドのヴィヴィアン・ブレインの方が役柄的にも目立っている。
それでもこれは女が男に惚れる物語であり、男冥利に尽きる映画だ。
ラストシーンはまるで舞台のフィナーレを見るような雰囲気である。
大きなケーキが意味ありげに二つ運ばれてきて、ああこれはマーロン・ブランドとフランク・シナトラたち二組の結婚式なっだなと分かる。
沿道に大勢の人々が待ち受けている中で建物のドアが開き、整列したダンサーたちがピンクのステージ衣装で整然と登場してくる。
二人を追っていた刑事の介添えでアデレイドが登場し、続いて救世軍の長老に伴われてサラが登場してくる。
待ち受けるシナトラとブランド。
大勢の人々の祝福を受け車に乗り込んだ4人が旅立っていくのをカメラが俯瞰的に捉える。
見終るとなんだか懐かしい映画だったなあとの感情が湧いた。
懐かしいなあと思わせたのは、この映画が表現していた色調だったのかなあ・・・。
それとも描き方などの演出によるものだったのだろうか。
今では撮られることのないミュージカル映画のスタイルである。

闇の列車、光の旅

2023-05-08 06:07:23 | 映画
「闇の列車、光の旅」 2009年 メキシコ / アメリカ


監督 ケイリー・ジョージ・フクナガ                         
出演 エドガル・フローレス  パウリナ・ガイタン
   クリスティアン・フェレール  テノッチ・ウエルタ・メヒア
   ディアナ・ガルシア  ルイス・フェルナンド・ペーニャ
   エクトル・ヒメネス  ヘラルド・タラセナ       

ストーリー
ホンジュラスに暮らす少女サイラ。
父親は彼女が幼いときにアメリカへと渡った不法移民。
ある日、その父親が強制送還され戻ってきた。
そして、今度はサイラも連れて再びアメリカを目指す。
だがそれは、グアテマラとメキシコを経由する長く危険な旅だった。
なんとかメキシコ・チアパス州まで辿り着いたサイラたちは、アメリカ行きの列車の屋根に乗り込む。
そこには、同じようにアメリカを目指す移民たちがひしめきあっていた。
そんな無防備な移民たちを待ち構えていたのがリルマゴ率いるメキシコのギャング団でスマイリーやカスペルは移民たちのなけなしの金品を強奪。
さらにリルマゴは泣き叫ぶサイラに銃をつきつけて暴行しようとするが、以前同じような経緯で恋人を亡くしたカスペルは、手にした鉈をリルマゴに向けて振り下ろし、リルマゴを殺してしまう。
裏切り者として組織から追われる身となってしまったカスペル。
そんな彼にサイラは命を救われた恩を感じ、淡い恋心を抱くようになる。
ある朝、カスペルがこっそり列車を降りたとき、サイラは父に黙って彼の後を追った。
サイラを連れてかつての仕事仲間の家に向かったカスペルは、車両運搬の積荷に紛れて国境の町へ向かう手はずを整えてもらう。
だが目的地への途中、列車で一緒だった男から、サイラの父が国境巡視隊に見つかり列車から転落死したことを知らされる。
やがて二人が、川を越えてアメリカへ渡る日がやって来た。
「何が何でもお父さんの家族を見つけろ」というカスペルの励ましを受け、川に足を踏み入れるサイラ。
カスペルが川岸で見守る中、渡し人の先導で泳ぎだしたサイラは、無事対岸へ辿り着いたかに見えたのだが……。


寸評
ホンジュラス、グアテマラ、メキシコを縦断する列車の沿線に広がる貧しそうな街並みがこの映画の雰囲気を盛り上げる。
大都会が出現するのはアメリカに入ってからであり、それまでは低所得と思われる人々だけが登場する。
沿線の人々は、列車の屋根に乗る不法移民を目指す人々に果物を投げてやる者もおれば、石を投げつける者もいる。
時々国境巡視隊に追われて逃げまどいながらも新天地を目指している。
それを襲うのが鉄の団結を誇るギャング団で、青年カスペルや少年スマイリーもそれに属している。
カスペルはマルタと恋愛関係にあるが、ギャング団の中でしか生きられない彼はその立場に戸惑っているようでもある。
カスペルと行動を共にするスマイリーもなんとなくそんな彼を慕っているようなのだが、その関係が丁寧に、それでいてオーバーでなくごく自然に描かれているのでラストがことさら切なく感じられた。
話は悲しみに満ち溢れている。
マルタはふとしたことでリルマゴに殺されてしまう。
そのマルタを殺されたこともあってカスペルはギャング団のボスであるリルマゴを殺してしまう。
彼もまた逃げるしかなくなってしまい、同じようにアメリカを目指すことになる。
ギャング団のネットワークは強力で密告されたりしてカスペルは追い詰められていくが、ギャング映画ではないので派手な銃撃戦を繰り返しながらの逃亡ではない。
あくまでも追手と警備隊の目を逃れてひたすらアメリカを目指す。
その間にサイラの父親も亡くなってしまう。
川を渡ればアメリカだというところで悲劇がおこるが、ほとんど唯一といってもよい救いはサイラが執拗なまでに覚えさせられた電話番号に電話して通じたことだ。
しかもそのシーンは極めて短い、まるで瞬間映像を見るような短さだったことがむしろ余韻を大いに高めた演出となっていた。
貧困がもたらす悲劇といったものを遺憾なく描いた秀作である。
監督のケイリー・ジョージ・フクナガは名前からして日系で、これがデビュー作らしいが今後も頑張ってほしい。

八つ墓村

2023-05-07 07:35:55 | 映画
「八つ墓村」 1977年 日本


監督 野村芳太郎
出演 渥美清 萩原健一 小川真由美 花沢徳衛 山崎努 山本陽子
   市原悦子 山口仁奈子 中野良子 加藤嘉 井川比佐志
   下絛アトム 夏木勲 田中邦衛 稲葉義男 橋本功 大滝秀治
   夏純子 藤岡琢也 下絛正巳 山谷初男 浜村純 吉岡秀隆

ストーリー
寺田辰弥は、ある日の新聞尋ね人欄の記述により、大阪の法律事務所を訪ねることになった。
そこで初めて会った母方の祖父であるという井川丑松は、その場で突然倒れ苦しみながら死んでしまう。
辰弥は、父方の親戚筋の未亡人である森美也子の案内で生れ故郷の八つ墓村に向かうことになった。
赤子であった辰弥を連れて村を出た母の鶴子は辰弥が幼いころに病死しており、辰弥は自分の出自について今まで何も知らずにいたのだった。
美也子に聞かされた多治見家と八つ墓村にまつわる由来は、戦国時代にまで遡った。
1566年、毛利に敗れた尼子義孝という武将が、同胞と共に8人で今の八つ墓村の地に落ち延び、村外れに住みついたが、毛利からの褒賞に目の眩んだ村人たちの欺し討ちに合って惨殺される。
落ち武者たちは「この恨みは末代まで祟ってやる」と呪詛を吐きながら死んでいった。
このときの首謀者である村総代の庄左衛門は褒賞として莫大な山林の権利を与えられ、多治見家の財の基礎を築いたのだが、庄左衛門はあるとき突如として発狂、村人7人を斬殺した後、自分の首を斬り飛ばすという壮絶な死に方をする。
村人は、このことにより落武者の祟りを恐れ、義孝ら8人の屍骸を改めて丁重に葬り祠をたてたことから、村は八つ墓村と呼ばれるようになったというものだった。
さらに、辰弥の父だという多治見要蔵も、28年前に村人32人を日本刀と猟銃で虐殺し失踪するという恐ろしい事件を起していた。
八つ墓村では、辰弥の帰郷と呼応するように、また連続殺人が起こりはじめ、私立探偵の金田一耕助が事件調査のため村に姿を現わす。


寸評
この作品が撮られたころは横溝正史ブームが起きていて、松竹が東宝作品に対抗する形で名作「砂の器」のスタッフを集めて放ったのがこの「八つ墓村」である。

背景として流れているのは怨念の世界である。
発端は戦国時代劇かと思わせる冒頭の尼子一族の逃亡劇だ。
長年敵対していた毛利氏と尼子氏だが、毛利軍は月山富田城を包囲し1566年に尼子氏が降伏したので、映画冒頭の落ち武者はこの時の逃亡者だと思われるが、尼子義孝は架空の人物だろう。
その後の物語としては、尼子氏の再興を願う山中鹿之助の活躍が有名だが、ここの残党は1566年の富田城開城における落ち武者と言うことになる。
兎に角、その時の落ち武者8名が村人の謀略で惨殺されたことの怨念が延々と続いていることが背景となっていて、起きる事件はその落ち武者の祟りだと村人たちが騒ぎ出すこととなる。
予告編では山崎努の多治見要蔵による32人の殺害事件が大々的に流れていた。
頭に懐中電灯2本をくくり付けて、恐ろしい形相で走り回る山崎努の姿が強い印象を残した。
山崎努はその多治見要蔵と、その息子である多治見久弥の二役をやっていて、久弥は辰弥に「財産を親戚の連中に取られるな」と言い残して死んでしまう。
この言葉が重要なキーワードであることは推理小説ファンなら容易に察しがつく。

話はその事件から28年後に起きた連続殺人事件を描いている。
残念ながらミステリーの謎解きとしては、犯人の候補者が限られていることで興味が湧かない。
主要登場人物を見渡してみると、早い時点である程度想像がついてしまうのである。
殺人の動機も予測がついて、校長が殺されたことで辰弥の出生の秘密によるものかと思わせたりもするが、大きなミステリーとはなりえていない。
戦国時代の落ち武者の怨念がたたりとなって現在の人々に襲い掛かるというのだが、その因果関係にも盛り上がりに欠けるものがある。
どうも展開がスローすぎて謎解きの面白さが前面に出ていないのだ。

それでもセットではない自然の洞窟での撮影は、怪奇さや不気味さを出すことに成功している。
渥美清の金田一耕助は事件の解説役にしか見えないが、事件の因果関係は面白いと思う。
32人殺しの事件で一家全員を殺され家系が途絶えたのが、落ち武者殺害首謀者3名の子孫であることや、また多治見家の先祖もその一人であったことなどだ。
さらに犯人の先祖も尼子氏につながるということが分かり、何百年も後に1本の線でつながると言う着想である。
この着想は原作者である横溝正史の功績なのだろうが、しかしそれが十分に生かされたとは言い難い。
犯人が呪いとか祟りにかこつけて殺人を行っていくというのが少々分かりにくい。
400年に渡る怨念が、洞窟の崩落と多治見家の大火災で果たされると言うラストは見応えがある。
辰弥は金田一から実の父親は海外で活躍していると聞かされているので、ラストの飛行機は父を思う達也の気持ちを表したものだったのだろう。

野獣刑事

2023-05-06 07:51:42 | 映画
「野獣刑事」 1982年 日本


監督 工藤栄一
出演 緒形拳 いしだあゆみ 泉谷しげる 益岡徹 西山辰夫 成田三樹夫
   小林薫 藤田まこと 遠藤太津朗 阿藤海 芦屋雁之助 蟹江敬三

ストーリー
雨の夜、赤い傘をさした女子短大生の死体が発見された。
ナイフで何度も刺された死体は西尾由美子と判明した。
有能だがヤリ過ぎと評判の大滝刑事(緒形拳)もこの事件の捜査にかり出された。
大滝はかつて逮捕した男、阪上(泉谷しげる)の情婦、恵子(いしだあゆみ)と同棲に近い暮しをしている。
恵子には一人息子の稔(川上恭尚)がいるが、大滝には慣つこうともしない。
大滝は独自の捜査で被害者由美子の隠された生活をつきとめた。
彼女は昼はノーパン喫茶、夜はコールガールをしていたのだ。
その頃、恵子の夫、阪上が出所し、彼女の所に転り込んできた。
大滝には頭の上がらない阪上が加わった奇妙な三角関係の生活が始まった。
数日後、大滝は死体の見つかった近くの茂みで、血の跡のついたいくつもの紙片を見つけた。
紙を並べると一枚の女の絵になった。
そして、阪上がその絵と同じものを売っている男(益岡徹)を見つけ、大滝に通報する。
大滝はその男を別件で逮捕し、殴る蹴るの尋問をするが証拠不十分でシロとなり捜査本部からはずされた。
同じ頃、阪上は再びシャブに手を出すようになり、妄想状態で暴れることもしばしばで、ついに保護されてしまう。
一人になった大滝は、恵子に囮になってもらうことを頼んだ。
降りしきる雨の夜、恵子は赤い傘をさして歩いたところ、一台の車が近づき赤い傘を残して去っていった。
大滝は必死の追跡のはてに犯人を捕えたが、代償はかけがえのない恵子の命だった。
一ヵ月後。解放された阪上は、車を奪うと、稔を助手席に乗せ、暴走し、無差別殺人を始めた。


寸評
大阪を舞台にはみ出し刑事の緒形拳が暴れまくり、大阪出身のいしだあゆみが関西弁を駆使してスクリーン上で躍動する。
躍動するとは表現上の事で、情夫を逮捕した刑事と半同棲をしながらも、出所してきた元情夫を気遣ってしまう微妙な女を好演しているのだが、いしだあゆみの関西弁あっての映画になっている。
大阪が舞台なので当然なのだが、関西弁あるいは大阪弁といってもいい会話が全体の雰囲気を包んでいる。
恵子が大滝からおとり捜査の標的になってくれるよう懇願された時の「うち、そんなんいやや…こわいやん…殺されるかもしれんやん…」と一度は拒絶するシーンでは効果を発揮していて、かたくなに拒絶するのではなく、やんわりと拒絶する雰囲気を出し、結局引き受けてしまう弱さをうまく表現していた。
主演の緒形拳がイントネーションをマスターしていたし、署長の藤田まことは当然として、その部下である遠藤太津朗がゴマスリ刑事ぶりを上手く表現していたと思う。
大滝はノンキャリアの叩き上げ刑事で、そのはみ出しぶりを嫌悪されている。
テレビでは使えない言葉もバンバン使う、その風貌ともども下品な男であるのだが、捜査には自分流のものを持っていて犯行現場で証拠物件を拾い集めるが、鑑識があの物件を見逃してると言うのはちょっとご都合主義だ。

シュールな映像も目を引く。
冒頭の青い光に浮かぶ人影の映像にハッとさせられ、赤い傘がライトに照らされ鮮明に浮かび上がる。
逆光の強烈なライトなど、随所に闇と対峙する光を印象的に取り入れている。
この光と色の使い方は上手いと思うし、この作品を特徴付けている。
兎に角、暗闇に浮かぶ赤い傘が印象的だ。

自分が逮捕した男の情婦と関係を持ってしまうはみ出し刑事と言うのは案外と描かれているパターンだけれど、元情夫の泉谷しげるの狂人ぶりがこの設定をさらに効果的なものに高めている。
彼は出所してきて再び覚せい剤に手を出してしまうのだが、その作用で狂人化するシーンが大迫力で描かれる。
兎に角、手が付けられないほど暴れまくり、いしだあゆみが必死で逃げまくる。
一般市民の中を叫びながら逃げまくるいしだあゆみの演技が阪上の凶暴性をいかんなく伝えていた。
彼女の必死の叫びは裏路地における格闘場面でも発揮され、とても演技とは思えない真実味があった。
泉谷しげるがいしだあゆみ相手にものすごい大暴れをしていたことで、稔を連れた逃亡劇から堺での人質籠城にいたる狂人ぶりがスムーズに展開している。
いきなりの大滝に対する復讐劇だったらやはり違和感を生じていただろう。

前述の阪上の覚せい剤再使用による大暴れが起きてから一気にラストに向かって走り出すが、その展開は息をのませない緊迫感がある。
恵子とのおとり捜査、車のライトで遮られたスキの殺人、阪上の逃走劇、そして人質をとっての籠城と対決。
工藤栄一の演出は見事なテンポを見せる。
しかし、稔に悪事を働かせ続けることはどうだったのかなあ、演出とは言えやはり良くないように思う。
稔の優しさが万引きで表現されるのはどうしたものか、ラストのショットが生きてこない。
タイトルからすれば緒形拳の映画なのだが、僕にはいしだあゆみの映画に思えた。

夜叉

2023-05-05 07:44:40 | 映画
「夜叉」 1985年 日本


監督 降旗康男
出演 高倉健 いしだあゆみ 乙羽信子 田中裕子 ビートたけし
   田中邦衛 あき竹城 奈良岡朋子 小林稔侍 大滝秀治
   檀ふみ 寺田農 下絛正巳 真梨邑ケイ

ストーリー
日本海に面した小さな漁港で漁師として働く修治(高倉健)は15年前に大阪ミナミでのヤクザ暮らしから足を洗い、妻の冬子(いしだあゆみ)、三人の子供、冬子の母うめ(乙羽信子)と一緒に静かな生活を送っていた。
修治の過去の名残りは背中一面の夜叉の刺青で、冬子とうめ以外は誰も知らない。
冬、ミナミから螢子(田中裕子)という子連れの女が流れてきて螢という呑み屋を開いた。
螢子の妖しい美しさに惹かれて漁師たちが集まってきた。
数カ月後、ヤクザで螢子のヒモの矢島(ビートたけし)という男がやってきた。
矢島は漁師たちを賭け麻雀で誘い込み、覚醒剤を売りつけた。
修治と仲のよい啓太(田中邦衛)もこれに引っかかった。
修治の脳裡には覚醒剤がもとで死んだ妹、夏子(檀ふみ)の辛い思い出がよぎった。
それは、シャブの運び屋がかつて修治の弟分だったトシオ(小林稔侍)だったことと無関係ではない。
修治は螢子にシャブを隠した方がいいと忠告、いわれた通りにした螢子を、矢島は包丁を持って追いかけ、止めに入った修治のシャツを矢島の包丁が斬り裂いた。
隠し続けた背中一面の刺青がむき出しにされ、修治の過去はたちまち街中に知れ渡った。
一方、螢子は矢島の子を流産してしまう。
ミナミに帰りたい、そんな螢子の気持は修治に通じるものでもあった。
二人はミナミという共通の過去に想いをよせて、抱き合った。
その頃、矢島がシャブの代金を払えなくなりミナミに連れ去られた。
螢子は、矢島を助けてほしいと修治に頼んだ。
修治は若かりし頃のミナミでの修羅の数々を思い出し、うちから燃えあがるものを押さえることができなかった・・・。


寸評
赤い色が印象的で雪の白さの中できらめく。
螢子が防波堤の先端にたたずむ冒頭では、小さな赤い燈台と螢子の羽織る赤いショールが目に焼き付く。
その後も赤いセーターなども登場し、矢島の着ているセーターにも赤いストライプが入っている。
圧巻なのは螢子のさす赤い和傘が空中に飛んでいくシーンだ。
赤は燃え上がる情念の象徴だったのだろうか?
気持ちが高ぶっていくシーンの象徴として日本海の荒れ狂う波が度々挿入される。
日本海は冬景色が良く似合い、街並みの風景も含めて、厳しい風雪の中で存在している漁村の雰囲気が画面全体に広がって映画を盛り上げていたが、このカメラワークは称賛に値する。

漁師たちの様子は螢子の登場で一変する。
今まで何人もの女性が飲み屋を開いたが成功せずにこの地を去っている。
しかし螢子のミナミで鍛えた客扱いと美人であることが幸いして男たちは螢子の「蛍」という飲み屋に集い始める。
螢子の田中裕子は愛嬌があるし、美人だし水商売の玄人を感じさせるいい女だ。
対する修治の妻のいしだあゆみは対極にあり、修治の過去を包み込み支える漁師の妻である。
やがて二人は修治を挟んで対決することになるが、静かな女の戦いである。
貯金を使い果たした件で啓太の奥さんと螢子が繰り広げる喧嘩とは対照的なものである。
螢子は「冬子さん嫌い…」とつぶやくことで二人の感情を表していたが、決して二人が言い争うことはない。
修治に寄り添う冬子だが、修治が螢子の頼みを聞いて体を張ることに対して初めて声を荒げて反発する。
修治はその言い分をただ聞いているだけでじっと耐えている。
男には分かっていながらも、どうしようもない事ってあるものなあ~。
そんな時、男は耐えるしかないのだが、この耐える男こそが高倉健である。
かつての親分の未亡人である奈良岡朋子と向き合う場面で、言えぬ事情を秘めながら向き合う視線もいい。

高倉健がどこか偶像化された男であるのに対して、圧倒的な存在感を示しているのが矢島を演じたビートたけしで、矢島の凶暴性と狂人性を見事なまでに表現していた。
螢子のヒモとしての振る舞いであり、漁師たちを覚せい剤に引きずり込むためにわざと負けてやる賭け麻雀での様子であり、荒れ狂って螢子を追い回す矢島の姿である。
忠告した修治に凄み、雰囲気の悪くなった場をひょうきんさで取り持つヤクザの顔だ。
全ての出演者の中で一番ヤクザらしかったのがビートたけしだった。

修治に起きた過去の出来事をはさみながら現在を描いていくが、螢子と修治がミナミを接着剤にして惹かれていく過程をもう少し濃密に描ければ、修治がミナミへ出向いていかざるを得ない気持ちを出せたと思う。
「やはりアンタはミナミの男やったんやね」という言葉がもっと重みをもったと思う。
螢子は修治の子供を宿し笑って去っていき、冬子には修治との生活が戻ってくる。
内容の割にはハッピーエンドとなっているが、高倉健の前半の白いスーツ姿とラストのサングラス顔は、僕にはなんだか違和感が生じた。

焼肉ドラゴン

2023-05-04 07:03:22 | 映画
「や」行になります。
「や」の前2回は以下の通りでした。
2020/5/27「やくざの墓場 くちなしの花」「屋根の上のバイオリン弾き」「山猫」「山の郵便配達」「闇の子供たち」「やわらかい生活」「やわらかい手」「ヤング・ゼネレーション」
2021/12/19「約束」「約束の旅路」「山の音」


「焼肉ドラゴン」 2018年 日本


監督 鄭義信
出演 真木よう子 井上真央 大泉洋  桜庭ななみ キム・サンホ
   イ・ジョンウン 大谷亮平 ハン・ドンギュ イム・ヒチョル
   大江晋平 宇野祥平 根岸季衣
 
ストーリー
高度経済成長期の真っ只中、大阪で万国博覧会が開催される直前。
関西の地方都市の一角で、小さな焼肉店「焼肉ドラゴン」を営む龍吉(キム・サンホ)と妻・英順(イ・ジョンウン)は、静花(真木よう子)、梨花(井上真央)、美花(桜庭ななみ)の三姉妹、一人息子の時生(大江晋平)と共に暮らしている。
第二次世界大戦で左腕を失った龍吉は、故郷の済州島を追われて来日した英順と再婚し、ここで小さな焼肉店“焼肉ドラゴン”を開業し、4人の子どもたちを育てるために身を粉にして働いてきたのだった。
店内は、李哲男(大泉洋)と梨花の結婚を巡って騒ぎたてるなど、常連客たちでいつも大賑わいだ。
辛い過去は決して消えないが、毎日懸命に働き、家族はいつも明るく、些細なことで泣いたり笑ったりの日々。
「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとえぇ日になる……」それが龍吉のいつもの口癖だ。
そんな中、中学生になった末っ子の時生は学校でイジメに遭い心を閉ざしてしまう。
一方、次女の梨花は哲男と結婚したが、夫の哲男が幼なじみでもある長女・静花への恋心を今も捨てきれずにいることに苛立ちを募らせていく。
強い絆で結ばれた「焼肉ドラゴン」にも、次第に時代の波が押し寄せてくる・・・。


寸評
在日コリアンたちのドラマだが、同時に時代や民族を超えて困難や悲しみに直面する多くの人々への激励のドラマでもある。
それは龍吉の言う「明日はきっとええ日になる。たとえ昨日がどんなでも」に集約されている。
大阪人の僕は、大阪が舞台ということだけで興味が湧いた。
在日コリアンは生野地区に多く住まわれているが、ドラマの舞台は飛行場が近いから豊中地区だろう。
豊中からうどん汁を運んでくるシーンもあるし、かつて中村地区に不法占拠集落があった事実も後押しする。
大阪を舞台にすると何となく違和感が残る関西弁が話されるが、本作ではすんなり耳に入って来て、親しみやすかったことも良かったと思う。

導入部で哲男と梨花の大喧嘩が描かれるが、ここでは井上真央が頑張っていてこの映画の雰囲気を一気に感じさせてくれた。
井上真央は地味な女優だが、その影の薄さで妙な雰囲気を出すことが出来るいい女優さんだ。
梨花だけが韓国語を話せないのは、日本で育ったことで韓国語を必要としていなかったのだろう。
英順が韓国人学校に時生を転校させようとするのに対して、龍吉は頑として応じない。
日本で生きていくしかないという彼の強い決意の表れなのだが、梨花が日本語しか話せないことはそれを補完していたように思う。

在日コリアンが経験してきた歴史をドラマの背景として織り込みながらも、それをユーモアを交えて描いているので堅苦しい社会派映画とはならず、切実な話が続いた後に小ネタで笑いをとったりするので喜劇映画かとさえ思ってしまう。
哲男が静花に心の内をぶちまけるシーンは、なまじの恋愛映画よりも感動的だし、美花の不倫相手に対して、龍吉が自らの過去を語るシーンも胸を打ち、シリアスドラマとしての感動も描かれているのは好感が持てる。

僕は彼等の苦労を知らない。
戦争に翻ろうされた人々もいるだろう。
光州事件から逃れて日本にやって来た人々もいるだろう。
龍吉は戦争の犠牲者、英順は済州島の4.3事件の生き残りだ。
僕は戦争も、虐殺も経験していない。
それは幸せなことだと思う。
三姉妹たちはそれぞれ別の国へ旅立つ。
一人は北朝鮮へ、一人は韓国へ、一人は日本に残る。
朝鮮半島と日本の関係は、描かれた差別と共に未だに微妙だ。
離れていても家族としてつながっていると龍吉は叫ぶが、どうしても三姉妹の行く末を想像してしまう。
両親を演じた2人の韓国俳優、三姉妹を演じた真木よう子、井上真央、桜庭ななみなどの役者たちが支えた作品でもあった。

モンテ・ウォルシュ

2023-05-03 06:29:22 | 映画
「モンテ・ウォルシュ」 1970年 アメリカ


監督 ウィリアム・A・フレイカー
出演 リー・マーヴィン ジャンヌ・モロー ジャック・パランス
   ミッチ・ライアン ジム・デイヴィス マット・クラーク
   
ストーリー
西部開拓時代も終わりに近い春、2人のガンマン、モンテ・ウォルシュとチェットが埃っぽい牧畜の町ハーモニーに現れた。
2人はY牧場主ブレナンを訪ねたが、牧場は東部の大企業の手に渡り、ブレナンは持ち主でなかった。
しかし、2人は雇われた。
モンテは昔の恋人で町のミュージックホールの花形マルチーヌと縒りを戻し、チェットは金物屋の後家メリーと恋を囁き出す。
しかし、時代の流れは厳しく、この稼業もさきが見え、若者ショーティは首になる。
チェットも足を洗ってメリーと結婚すると言い出したが、結婚パーティーはさえなかった。
マルチーヌはモンテの願いも空しく遠くの町へ移っていった。
彼女は酔いどれの半病人となっていて、心配したモンテは結婚話をきり出すが、マルチーヌはここでいつまでも待っていると言った。
帰り道、サーカスの中に牧場から売られた荒れ馬を見つけて乗りこなし、団長がその手綱さばきに惚れて入団を誘うが、コスチュームを着て乗馬芸をみせる自分を想像し、ウンザリしてモンテは断った。
無頼になったショーティ一味が牧場から牛を盗んだ。
モンテはルーファスを射殺し、ショーティは昔のよしみで許してやる。
ところが彼はパウダーと組み、チェットの金物屋を襲う。
チェットはパウダーをブチ殺すが射ち殺される。
モンテはすぐ追ったが、同時にマルチーヌが重態だと聞き、町へ向かった。
が、時遅く彼女は結婚資金をためた小さなカンを残して死んでいた。
凄まじいガンファイト。
モンテの愛する女も昔の仲間もすべて去った。そして西部の荒野さえも--。


寸評
時代の流れで斜陽産業が出てくる。
家電量販店の出現で町の電気屋さんは減少し、スーパーが進出してくると商店街は寂れていく。
ネット通販が普及すれば実店舗は存在価値がなくなってくる。
炭鉱がなくなり大勢いた炭鉱夫たちは別の仕事を求めて各地に散っていった。
自動化が進めばコスト削減も出来て便利になるが、その分人はいらなくなる。
倒産する企業も出てきて、そこで働いていた人たちは職を失い転職を余儀なくされる。
時代は違うがここで描かれていることはそのような世知辛い内容で、上映時には西部劇も終わりだなと思わせた。

モンテ・ウォルシュとチェットは牧童、所謂カウボーイである。
かつては大勢いたカウボーイも少なくなってしまった時代の話である。
働き口を求めて頼った牧場は東部の大資本が入り業態変更を迫られている。
元の牧場主は牛や馬を売り払う在庫整理を行っている。
人員整理も進んでいて、次の職が見つけやすい若い者から解雇され、残った年配者は先が見えない。
現在の傾きかけた会社で起きていることと何も変わらない。
そんな話を見せつけられても作品になかなか乗り切れるものではない。
大したドラマも起きないので特に前半は退屈ですらある。
料理係の体臭がきつく、皆で無理やり料理係を水桶に入れて体を洗ったので体臭は消えたが、料理係はその腹いせに朝食に下剤を入れる。
牧童たちは全員変調をきたしトイレに駆けこむといった可笑しい場面は用意されているが、所詮は牧童たちの生活を点描しているに過ぎない。

モンテ・ウォルシュは牧童としてでしか生きられない。
彼を支えているのは牧童として、男としての意地とプライドである。
彼はプライドをかけて暴れ馬を乗りこなす。
しかし、あれだけ町を壊して何も言われないのはどうしたことか。
モンテ・ウォルシュにはマルチーヌという移民の好いた女性がいて、お互いに今の仕事から抜けられず結婚できないのだが、何とかお金をためて一緒になりたいと思っていたところでマルチーヌが死んでしまう。
切ない出来事だと思うが、突然マルチーヌの死がもたらされて盛り上がりに欠ける。
ジャンヌ・モローというフランス女優をキャスティングしているのだが、ジャンヌ・モローである必要性が薄かった。
僕は外国女優の中ではジャンヌ・モローが一番好きな女優だったので、彼女の存在に淋しさを感じた。
チェットはモンテ・ウォルシュと違い結婚して金物屋に転身する。
そこからやっと映画としての盛り上がりを見せるようになるのだが、そのタイミングは余りにも遅すぎる。
ショーティはついていない男だと思うが、やはり友人を裏切った罪は大きい。
モンテ・ウォルシュとの対決は上手く描けている。
マルチーヌという女性を亡くし、チェットという相棒を亡くしたモンテ・ウォルシュは一人旅立っていくのだが、散々描かれてきた西部劇の世界はこのようにして消えていったのだろう。

モンゴル

2023-05-02 07:28:08 | 映画
「モンゴル」 2007年 ドイツ / カザフスタン / ロシア / モンゴル


監督 セルゲイ・ボドロフ
出演 浅野忠信 スン・ホンレイ アマデュ・ママダコフ
   クーラン・チュラン

ストーリー
12世紀のモンゴル。一部族の頭領イェスゲイの息子テムジンが誕生する。
テムジンは9歳のとき、敵対するメルキト部族から花嫁を選び友好関係を結ぶため父イェスゲイと旅に出る。
しかし途中立ち寄った村で、テムジンは少女ボルテを許婚として選ぶ。
帰路、イェスゲイは敵対するタタール部族に毒殺される。
父を失ったテムジンは、頭領の座を狙うタルグタイの裏切りにより、家財を奪われ命を狙われる。
テムジンは凍てつく池に落ちるが、たくましい少年ジャムカに救われ、2人は兄弟の契りを交わす。
タルグタイの手を逃れ成長したテムジンは、許婚ボルテを迎えに行くがメルキト部族騎馬軍団の奇襲に遭い、弓矢に貫かれたテムジンを守るため、ボルテは自らメルキト部族に身を投じる。
翌年テムジンは、多くの戦士を抱えるジャムカと共にメルキト部族に攻め入る。
ボルテはメルキト部族の子供を宿していたが、テムジンは我が子として慈しむ。
テムジンの寛大な精神はジャムカの戦士たちを惹きつけ、テムジンに付いていく者が出始めた。
ジャムカはテムジンを討つ覚悟を決め、タルグタイも彼に合流する。
テムジンは家族を逃がし、数で劣勢な戦いに挑むが捕らえられてしまう。
テムジンは部下たちと共に奴隷として売られ、中国西北部タングート族の地で投獄される。
数年後、ボルテの身を挺した尽力によってテムジンは生還。
ジャムカの大軍との決戦を控えた彼のもとには、最強の戦士たちが集まるのであった。


寸評
チンギス・ハーンは歴史上における英雄の一人であることは間違いないと思うが、この映画ではまだテムジンと名乗っていた時代を描いている。
テムジン少年が父を殺され、妻を奪われ、親友との戦いに敗れ、奴隷として売り飛ばされるという情けない時代を描いており、単なる英雄潭にはなっていなくて、監禁されながらも、どうやって脱出して英雄チンギス・ハーンに成り上がったのかを描いている。

歴史上の英雄を描いた作品においては、僕たちはその人の活躍をほとんどの場合少なからず知っている。
映画の中においては史実に付け加えるように、おそらくこのようなことをしたであろうとか、このようなことを言ったのではないかとの想像の下に、時には架空の人物を登場させたりして主人公を際立たせていくことが多い。
チンギス・ハーンにちょっとでも詳しい人なら、幼名をテムジンと言い、イェスゲイの子供でボルテを妻にしたことを知っている。
ボルテは略奪されるがテムジンが救い出し、友人のジャムカと雌雄を決したことも知っているかもしれない。
そのようなことを押さえながら、テムジンが投獄されたり、テムジンとボルテをつなぐ僧侶が登場したり、テムジンに好意的な敵側の人物がいたりと自由な解釈を加えて、詳しくわかっていない時代の話を展開している。
それがモンゴルの美しい自然の中で描かれ、山や岩肌、川や湖、杉林や雪原など、美し過ぎると言っても過言でない映像が提供される。

僕は見ていて英雄チンギス・ハーン誕生前の物語というよりも、モンゴル人とはこのような人種なのだと訴えているモンゴル賛歌の映画のような気がした。
モンゴル人は女・子供は殺さない。
敵に襲われて勝ち目がない時には、家族を捨てて逃げても非難されることはない。
妻と言えども負ければ相手の言いなりとなり、他部族の子供を産んだとしてもまた元通りになれる。
ハーンを裏切ることをしないが、自分のハーンは自分で選ぶことが出来るなどである。
テムジンはある時にはモンゴルの掟に忠実であるが、時には他のモンゴル人とは違った行動をとる。
兵に対しては平等だし、ボルテ一人をどこまでも愛しているし、家族を見捨てるようなことはしないのだ。
そのような人物だったから、彼のもとに多くのモンゴル部族が結集しモンゴル帝国と言う強大な帝国を築き上げることができたのだろう。
もっとも彼一人の魅力だけであれだけの広範囲にわたる帝国が成立したわけではなく、遊牧民族の為に騎馬兵の機動力は優れており、当時の最新鋭の武器をもっていた事が大きかったらしい。

テムジンを日本人俳優の浅野忠信が演じていたので最後まで見ることができたが、これが知らない俳優だったら途中で投げ出していたかもしれない。
映画としてはドラマ的な盛り上がりに欠ける演出だし、描かれている場面と次の場面が飛び過ぎているところがあり、その演出方法が決まっているとは言い難いのが難点だったように思うし、いささか観念的なところもあって、それが上手くはまり込んでいるようには感じなかった。
しかし、澤井信一郎監督、反町隆史主演で撮った「蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜」よりは断然いい。