「リチャード・ジュエル」 2019年 アメリカ
監督 クリント・イーストウッド
出演 サム・ロックウェル ポール・ウォルター・ハウザー
キャシー・ベイツ オリビア・ワイルド ジョン・ハム
ニナ・アリアンダ イアン・ゴメス ウェイン・デュヴァル
ディラン・カスマン マイク・ニュースキー
ストーリー
1996年7月27日、警備員のリチャード・ジュエルはアトランタ五輪の会場近くの公園で爆発物を発見した。
リチャードの通報のお陰で、多くの人たちが爆発前に避難できたが、それでも2人の死者と100人以上の負傷者を出す大惨事となった。
マスメディアは爆発物の第一発見者であるリチャードを英雄として持ち上げたが、数日後、地元紙が「FBIはリチャードが爆弾を仕掛けた可能性を疑っている」と報じた。
それをきっかけに、マスメディアはリチャードを極悪人として糾弾するようになった。
また、FBIはリチャードの自宅に2回も家宅捜索に入り、彼の知人たちにも執拗な聞き込みをするなど常軌を逸した捜査を行った。
マスコミによる報道が過熱するなか、彼の無実を信じる弁護士ワトソン・ブライアンは、ジュエルを陥れようとするFBIの執拗な捜査に異を唱える。
数ヶ月後、リチャードが無実であると判明したが、その時点で彼は相当な精神的ダメージを負っていた。
寸評
アメリカ版の冤罪事件で、クリント・イーストウッド監督はFBI(国家)、マスメディアという巨大権力を痛烈に糾弾している。
その手際は手慣れたものでイーストウッドは今回も円熟した演出を見せている。
切れ味鋭いカミソリのような演出ではなく、じわじわと迫ってくる重さを感じさせる演出だ。
アトランタオリンピックの映像の挟み方も上手いと感じさせる。
冒頭から描かれるのは偶直ともいえるリチャードの仕事ぶりだ。
図体から受ける印象はマヌケな感じがするが、なかなかどうして目配りがあって、弁護士ワトソンの好物をそっと机に忍ばせておくような機転がきく。
法の執行人を自負しているリチャードは警備員となっても規則を忠実に守る。
寮で酒を飲んではいけない規則を破る学生にも容赦はないのだが、そんな堅物のリチャードを学生は良く思わない。
彼を守るべき学長も自分の発言を忠実に守りすぎるリチャードをクビにする。
原理原則を忠実に押し付けてくる人は、当然間違ってはいないのだけれど、どこか堅苦しい人物として敬遠されてしまうのかもしれない。
彼は警備担当となっても職務に忠実で、甘く見る警官に意見を言いながら爆破事件の被害拡大を防ぐ。
一躍ヒーローとなるがそこからの展開がおぞましい。
同じ会場で警備していたFBI捜査官が自分のメンツから犯人逮捕を目指し、自分勝手な推測からストーリーを組み立てリチャードを犯人に仕立て上げる。
構図が全く同じ、厚生省の村木さんの事件を思い起こさせた。
国家権力によって犯人に仕立て上げられてしまう怖さがアメリカでも日本でも起きていると言うことだ。
それに輪をかけるのが、スクープが欲しいマスメディア、面白い記事ネタが欲しいマスメディアの存在だ。
FBIのショウ捜査官を嫌悪するが、それ以上に嫌悪感を抱くのが地元新聞社のキャシーだ。
僕が抱く傲慢なマスコミの負のイメージを嫌というほど出している。
二つの大きな権力に責められた小市民の立場はモロイ。
世間の好奇心の目はもっと恐ろしい。
僕がリチャードの立場になったら、果たして耐えられただろうかと思ってしまう。
リチャードは言う。
「もしも警備員が不審物を発見したら、リチャードの荷の前は嫌だと通報せずに逃げ出すだろう」と。
触らぬ神に祟りなしの風潮がまかり通っている世の中だ。
リチャードの無実は証明されたが、彼の名誉はどのようにして回復されたのだろう。
その後、警官になっているようだから名誉は回復されたと思うが、彼を犯人扱いしたマスコミは弾劾されたのだろうか。
僕はここでもオウム真理教による松本サリン事件の河野義行氏を想起した。
誰が発信者で、誰が拡散者なのかもわからぬまま、SNSを通じてデマによる個人への誹謗中傷がまかり通っている。
この映画はクリント・イーストウッドによる、そのような社会への警鐘なのだろう。