おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

エド・ウッド

2022-03-04 09:40:44 | 映画
「エド・ウッド」 1994年 アメリカ


監督 ティム・バートン
出演 ジョニー・デップ
   マーティン・ランドー
   サラ・ジェシカ・パーカー
   パトリシア・アークエット
   ジェフリー・ジョーンズ
   G・D・スプラドリン

ストーリー
30歳のエド・ウッドは、“オーソン・ウェルズは26歳で「市民ケーン」をとった"を座右の銘に、貧しいながらも映画製作の夢に燃えていた。
ある日、性転換した男の話を映画化する、と小耳にはさんだ彼は早速プロデューサーに売り込む。
「これは僕のための作品です。僕は女装が趣味だから、人に言えない辛さが分かる」と力説するが、バカ扱いされて追い返された。
その帰り道でエドは往年の怪奇スター、ベラ・ルゴシと運命的な出会いを果たす。
ベラの出演をエサに監督になった彼は友人のオカマ、バニーや恋人ドロレスらの協力を得て、監督・脚本・主演した性転換の話「グレンとグレンダ」を完成させた。
これを履歴書代わりにいろいろ売り込むがうまく行くはずもなく、自分で資金を集めることに。
次回作「原子の花嫁」がクランク・インするが、お気に入りのアンゴラのセーターを持ち出し女装に執着するエドにあきれたドロレスは怒り爆発し、彼の元を去った。
そんな中、麻薬中毒のベラ・ルゴシの病状は悪化する一方で、エドは彼を入院させた。
その病院で彼は心優しい女性キャシーと出会うが、彼女は彼の女装癖も受け入れてくれるのだった。
一方、エドは心からベラ・ルゴシの容体を心配していたが、保険が切れていた彼の入院費用が払えず、彼に嘘をついて退院させねばならなかった。
「原子の花嫁」が「怪物の花嫁」と改題されプレミア試写が行われたがブーイングの嵐・・・。


寸評
世に名作と評される作品は数多くある。
中には難解な映画もあるが、たいていは大いに楽しめる作品である。
数多あるそれらの映画よりももっとたくさんあるのが、いわゆるB級映画と評される作品群だ。
B級映画の存在は洋の東西を問わず存在し、当然日本映画においてもそのような映画が数多く撮られている。
中にはタイトルを見ただけで、つまらなさが分かってしまう作品もある。
小説などと違って、どしてこんなにも駄作が作られてしまうのかと不思議に思うのだが、たぶん映画作りは麻薬のようなもので、疑似家族のような仲間たちと作り上げる魅力にハマってしまうと抜けられないのかもしれない。

そのような映画ばかりを撮ったとされるエド・ウッドの作品を、当然の様に僕は見たことがないし、第一エド・ウドと言う人物の存在すら知らないでいた。
この映画はそんなエド・ウッドの伝記映画である。
彼のデビュー作である1953年の「グレンとグレンダ」の製作現場も描かれていて、女装趣味があったというエド・ウッドをジョニー・デップが生き生きと演じている。
エド・ウッドは幼少時代から母親の影響で女装をする性癖を持ってしまったらしい。
1956年制作でエドが監督・原案・脚本を務めたSF・ホラー映画の「怪物の花嫁」の製作現場も描かれており、峠が越えて過去の役者となり生存さえ疑われていたベラ・ルゴシを主演で使う。
エドは往年の名優であるベラ・ルゴシと気脈を通じるようになり、彼を使い続ける。
ベラ・ルゴシは余命いくばくもないのだが、役者としての自分にプライドを持っている。
彼もまた映画を愛する一人なのだ。

エドは早撮りで1カットを1回しか撮らず、撮り直しは存在しない。
プロレスラーのトー・ジョンソンがドアにぶつかり、セットを揺らそうが「彼の普段がそうなんだ」と片付けてしまう。
また安い制作費で仕上げるのも特徴で、セットがいい加減だろうと気にしない。
あるのは映画を作りたくて仕方がない情熱と、映画に対する愛情だ。
資金繰りには常に困っていてスポンサーの要求なら、平気でスポンサーの身内を出演させるし、自分の意にそぐわないことも妥協してしまう。
エドはオーソン・ウェルズが26歳で「市民ケーン」を撮ったのに、自分はまだ何も撮っていないと言っていて、どうやらオーソン・ウェルズを尊敬しているようだ。
難癖をつけられ場末のバーにヤケ酒をあおりに行ったエドは、そこで何とオーソン・ウェルズと出くわす。
そこでオーソン・ウェルズから「私は市民ケーンでは信念を貫き通し、プロデューサー連中には一コマたりとも手を触れさせなかった。夢のためなら戦え。他人の夢を撮ってどうなる」と励まされる。
実際にエド・ウッドがオーソン・ウェルズと会ったのかどうかは知らないが、その信念のもとに彼が信じる作品を撮り続けたのだろう。
それが評価されようがされまいが、彼には関係のないことだったのかもしれない。
彼も芸術家だったのだ。
芸術家は孤独で孤高の人たちなのだと思う。