おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

少年と自転車

2024-09-30 09:28:54 | 映画
「少年と自転車」 2011年 ベルギー / フランス / イタリア


監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ              
出演 セシル・ドゥ・フランス トマス・ドレ ジェレミー・レニエ
   ファブリツィオ・ロンジョーネ エゴン・ディ・マテオ
   オリヴィエ・グルメ

ストーリー
シリルは、もうすぐ12歳になる少年。
父親は彼を児童養護施設に預けたまま行方知れずに。
彼の願いは、自分を児童養護施設へ預けた父親を見つけ出し、再び一緒に暮らすこと。
シリルは自分が捨てられたとは露とも思わず、父親を必死で捜し続ける。
そんな中、美容師のサマンサと出会う。
彼女は、なくなった大切な自転車を取り戻してくれた。
そしてシリルは、サマンサに週末だけの里親になってくれと頼み、2人で父親捜しを続ける。
やがて、ようやく父親を見つけ出し、再会を果たしたシリル。
ところが父親は喜ぶどころか、シリルをすげなく拒絶してしまう。
サマンサはシリルを心配し、それまで以上に彼の世話を焼くようになる。
恋人との間に軋轢が生まれるほどに、彼女はシリルを大切に思い始めていた。
どうしようもなく傷ついた心を抱えるシリルだが、ふたりの心は徐々に近付いていくかに見えた。
けれど、ふとしたことで知り合った青年との関係が、シリルを窮地に追い込む…。 


寸評
必要最低限のセリフで細かな説明もほとんどなく観客に対して多くの余白を残して逆に多くのことを物語る構成。
その流れに沿って美容師が少年に徹底した愛情を注ぐ理由は語られない。
あくまでも観客に判断をゆだねているのだが、このスタンスを受け入れることが出来るかどうかが、見た人にとってのこの映画の評価につながると感じた。
僕は感情過多になりがちな物語を淡々と描写しながら、登場人物のしぐさや表情からその内面を描がきだせていたと思うので良かったと思っている。
少年シリル役のトマス・ドレ、美容師役のセシル・ドゥ・フランスの自然な演技が全体を支えていた。
美容師のもとで立ち直るかに思えたシリルが、まもなくワルい仲間に目をつけられて悪の道に足を踏み入れてしまうが、そのあたりの彼の心情も想像の域になっているのだが、ふとしたきっかけで道を踏み外してしまうことが起こりうる少年期の不安定さを表現していたと思う。
当初、金の受取を拒んでいて、無理やり押し付けられた経緯からして、彼が父親への援助が真意だったとは思えないので、僕は上記の様な想像をするのだ。
一方で、大人達(特に男が)が見せる身勝手な行為が少年に同情を誘うのだが、ラストの大人が見せる身勝手さがラストシーンを逆に引き立てていた。
少年は素直ではないし、憎たらしい一面を随所で見せるので、一方的に感情移入出来る存在ではない。
それでもラストシーンで少年の新たな姿を見せて希望の火を灯してくれている。
きっとこの少年に明るい未来が待ち受けていると、美容師にとっても平和な日々が訪れるであろうことを僕に暗示してくれた。
やはり映画は希望を持って終わらなくてはならないと思う。

シークレット

2024-09-29 09:18:22 | 映画
「シークレット」 2009年 韓国 

                
監督 ユン・ジェグ           
出演 チャ・スンウォン ソン・ユナ リュ・スンニョン
   パク・ウォンサン パク・ヒョジュ キム・イングォ

ストーリー 
悪名高い組織のボスの弟であるチョ・ドンチョルが刃物で惨殺される事件が発生。
現場に到着した刑事キム・ソンヨルは、犯人の遺留品と思われる証拠品が妻の所持品と同一のものであることに衝撃を受ける。
同僚で休職から復帰したばかりのチェ刑事の目を盗み、とっさに現場の証拠を全て消してしまうソンヨル。
「事件当日に事務所を訪ねてきた女を見た」と証言する決定的な目撃者パク・キョンホも自ら取り調べ、「この事件は極秘捜査だから黙っていろ」と言い含めて追い返す。
イヤリングをなくし、衣服に血痕がついたまま帰宅したジヨン。
ソンヨルはその日の行動を問いただすが、彼女はあいまいな返答を繰り返し「あなたには夫として私に何かを尋ねる資格はない」と言い放つ。
ソンヨルの所属する重犯罪課では被害者ドンチョルの実の兄がチルソン組の悪辣なボス、チョ・グァンチョル=ジャッカルであることが判明し、刑事たちの間に緊張感が漂う。
ジャッカルは警察を嘲笑い、警察よりも先に犯人を見つけて復讐してやると息巻く。
チェ刑事と共に事件当日ドンチョルに会っていたソクチュンという男を取り調べるソンヨル。
ソクチュンがドンチョルから借金をしていたことが判明し、なんとか彼を犯人に仕立て上げようとする。
しかし、そんな彼の行動を見透かすかのように現れたジャッカルは、事件の手口を解説し「前科3犯で刃物に慣れているソクチュンがこんな殺し方をするはずはない」とソンヨルに告げる。
一方、かつてソンヨルの証言によって停職を余儀なくされたチェ刑事はこの事件に関するソンヨルの行動を怪しみ始めていた。
そんな中、ドンチョルの事務所の監視カメラの映像が見つかる。
ジヨンが映っていることを察したソンヨルはなんとか先にテープを確保しようとするが、間一髪のところで間に合わず、同僚刑事たちと共に確認することに。
しかし、なぜか犯行時間の映像が消えており、犯人の姿は謎のままだった。
ソンヨルが犯人である妻をかばっていると確信したジャッカルはそのことを証明するため目撃者であるパク・キョンホを連れてジヨンの演奏会へとやってくる。
危機を感じたソンヨルは彼女と共に必死で逃げるがついにジャッカルと遭遇。
しかし、キョンホは決定的な証言はせず、ソンヨルを安心させる。
やがて、監視カメラの映像を持つという謎の男から電話がかかり「自分の言う通りにしなければ、監視カメラに映った顔を公開する」とソンヨルを脅迫する。
男と接触するため指定の場所に向かったソンヨルが出会ったのは…。


寸評
二つの伏線があって物語に幅を持たせている。
一つはソンヨルが浮気をしていて、その帰り道でジョンとの間に出来た一人娘を交通事故で死なせてしまい、どうやらそのことがまだ夫婦間のわだかまりとなっているらしいこと。
一つは過去の事件でソンヨルがチェ刑事の正当防衛を認めない証言をした為にチェ刑事が長期間の休職に追いやられた関係にあること。
この二つが絡み合ってジョンの疑惑が最後まで明かされることなく引っ張られる。
モノローグで交通事故の一件は描かれるが、ソンヨルとチェの関係はもう少し描いておいて、その対立と友情を際立たせた方が作品に奥行きを持たせたような気がする。
夫婦の間に生じた冷たい溝だけではなそうだが、ジョンはなぜ本当のことを語ろうとしないのか?
常道からすればジョンは犯人ではない筈なのだが、それどもやはりジョンは犯人なのか?
犯人でないとすれば一体誰が犯人なのか?
ジョンは何のためにドンチョルのところへ行ったのか?
精巧なストーリーと予想を裏切る展開を見せるが、もう少し詰めて欲しかった不満も残る。
繰り返しになるが、一番はソンヨルとチェの関係だったような気がする。

「チョ・ドンチョルを殺していないと言ってくれ。その時間に何をしていたんだ?」と迫るソンヨルに「聞きたい? あなたの人生が変わるかも」と答えるジヨンのシーンは結末を予感させる重要な会話だった。
銃撃戦のあとのハッピーエンドを思わせるシーンによって忘れさせられていたが、そのシーンのゆとりで「ところであの電話の主はどうなった?」の疑問を思い出させてくれ、最後のラストを迎えることになる。
さらに、さらに驚愕の事実が暗示されてスゴイと唸ってしまった。
この辺りの展開は脚本の妙と言えて、韓国映画界に人材が輩出していることをうかがわせる。
この映画、まだまだ続いていてこの後の展開をあれこれ推測させる余韻がある。
ところで、このソンヨルという刑事、なんであんなに立派なマンションに住めているのかなあ・・・?

ダークナイト

2024-09-28 10:43:42 | 映画
「ジョーカー」の続編がやってきます。
登場した時の衝撃を思い出しました。

「ダークナイト」 2008年 アメリカ


監督 クリストファー・ノーラン
出演 クリスチャン・ベイル ヒース・レジャー アーロン・エッカート
ゲイリー・オールドマン マイケル・ケイン マギー・ギレンホール
モーガン・フリーマン エリック・ロバーツ ネスター・カーボネル
モニーク・カーネン ロン・ディーン キリアン・マーフィ チン・ハン
ストーリー
ピエロ姿の強盗犯数人がゴッサム・シティ銀行を襲い、最後の一人になるまで殺し合いを行いながら金庫から大量の金を盗み出した。
仲間さえも平気で殺したその男は、顔を白く塗った男・ジョーカーだった。
ゴッサム・シティでは、バットマンや、ゴッサム市警のジム・ゴードン警部補、新任の地方検事ハービー・デントたちが、ゴッサム・シティから組織犯罪をなくすため、互いに活動していた。
ウェイン産業では、中国系企業ラウファンド社のラウ社長と、合弁事業に関するミーティングを行っていたが、会長のウェインは何か気にくわない様子だった。
マフィアたちが集い、マローニ、ギャンボルらが、マネーロンダリングに関する会議を始め、そこにはラウ社長もテレビ会議で参加していた。
ラウは、表向きは香港に拠点を置く中国企業の社長だが、裏では犯罪組織のリーダーで、捜査が及ぶ前に犯罪組織の金を別の場所に移し、自分も香港に戻ることで捜査を逃れようとした。
そこへ突如ジョーカーが現れ、「計画を成功させるためにバットマンを殺してやる」と提案する。
「ただしマフィアの資金の半分をいただく」と宣言し、ギャンボルの怒りを買う。
ギャンボルに懸賞金をかけられたジョーカーであったが、ジョーカーはギャンボルを殺害、ギャンボルの組織を引き継ぎ、瞬く間に組織を自分のものにしていき、マフィアはジョーカーの提案を受け入れた。
ラウをゴッサム・シティへ戻すため香港へ向かったバットマンは、香港でラウを確保し、マフィアに不利な証言をさせるためにゴッサム・シティへ連れ帰り、ゴードン警部補に引き渡した。
その結果、警察はマフィア組織の人員549人を逮捕、裁判にかけることに成功したのだが・・・。


寸評
前作を引き継ぐ形でジョーカーが登場する。
ジョーカーはバットマンを凌駕する印象深いキャラクターである。
滑り出しからエンジン全開である。
ジョーカーたちは銀行を襲うが、銀行強盗をするにあたって役目を終えた仲間をジョーカーは次々殺していく。
その様子が異常な性格の持ち主としてのジョーカーと、バットマンとやり合うだけの力量の持ち主を感じさせる。
さらに偽者のバットマンが出現していることで、模倣犯ならぬ同調者も存在し始めていることを示している。
マフィアたちが集ってマネーロンダリングに関する会議を始め、そこにはブルースが会長を務めるウェイン産業が取引を検討している会社のラウ社長もテレビ会議で参加しているのだが、そこへジョーカーが現れる。
ジョーカーとマフィアたちのやり取りがあるが、マフィアたちはとてもジョーカーの相手ではないことが分かる。
つまり、ジョーカーはマフィアを子ども扱いするほどの奴なのだ。

新しい構図が組み込まれているのだが、それはレイチェルをめぐる新任の地方検事ハービー・デントとブルースとの三角関係である。
前作ではレイチェルはブルースに心を寄せていたはずだが、本作では同僚であるハービーに傾いている。
ハービーがレイチェル同様に正義感にあふれ、犯罪者を厳しく取り締まる検察官であることで、ブルースも一目置いていると言う複雑な関係であるが、その結末の付け方は見事と言うほかない。
影のヒーロであるバットマンより、表のヒーローであるハービーの方が正義の達成に相応しいとして、ブルースがバットマンの引退を考えているのも新しい視点となっている。
ところがある事件をきっかけにハービーが変節していく。
しかし、ちょっと恨む相手は違っていたんじゃないかなとは思う。

ジョーカーはローブ市警本部長、裁判長、ハービーの3人を殺害することを示唆する。
そして直後にローブ本部長は毒入りの酒で、裁判長は自動車の爆発で死亡し、ジョーカーの実行力が示される。
ジョーカーは、次に市長のガルシアを殺害することを示唆する。
ゴッサム・シティではパレードが開催されており、そこにガルシア市長の姿もある。
厳重な警備の中だったが、警官隊に紛れ込んでいたジョーカーがいて発砲する。
身を呈してガルシア殺害を食い止めたのはゴードン警部補で、銃弾を受けた彼はそこで命を落としてしまう。
重要な登場人物であるゴードン警部補がこんなにも簡単に消え去ってしまうのかと唖然とする。
しかしそれは伏線であったことが分かる展開は中々凝っている。
ハービーはジョーカーをおびき寄せるために警察に連行される。
ジョーカーがハービー殺害に現れて大バトルが繰り広げられ、ついにジョーカーは逮捕されるのだが、これが二転三転する展開の呼び水となる。
フェリーの爆破エピソードでは、囚人の中にも良心を持ち合わせている者がいることが描かれたり、悪役ジョーカーの勝利とも受け取れることなども描かれたりしているのはバランスをとっていたのだろうか。
ゴードンの息子ジミーは「なぜバットマンは追われるの?何も悪いことをしていないのに」と尋ねるが、それは観客である我々と共通した思いである。

バンテージ・ポイント

2024-09-27 08:12:57 | 映画
 「バンテージ・ポイント」 2008年 アメリカ  

                                   
監督 ピート・トラヴィス                            
出演 デニス・クエイド マシュー・フォックス
   フォレスト・ウィッテカー サイード・タグマウイ
   エドゥアルド・ノリエガ エドガー・ラミレス
   アイェレット・ゾラー シガーニー・ウィーヴァー

ストーリー
テロ撲滅の国際サミットが開催されるスペインのサラマンカ。
大観衆を集めた広場では、アシュトン米大統領によるスピーチが行なわれようとしていた。
だが、演説が始まろうとした矢先、一発の銃声が轟き、大統領が狙撃されてしまう。
続いて爆発も発生し、一瞬にして広場が混乱状態に陥る中、シークレット・サービスのトーマスとケントは狙撃犯の捜索に奔走する。
そして、市長を護衛していた地元刑事エンリケの証言や、観光客のハワードが収めていたビデオカメラの映像などから、複数の容疑者が浮上するのだが…。


寸評
面白い。最初から最後まで息をつかせない展開で、90分ほどの上映時間ということもあって緊張が最後まで保たれた。
始まってすぐに大統領が銃弾に倒れる。
物語はそこから始まり、幾度となくその場面に巻き戻される。
巻き戻すことができる装置はビデオシステムなので、そのたびにビデオを小道具として登場人物を変えながら真相に近づいていく。
その展開がユニークだし、この映画を成功に導いている。
それはある時は女性プロデューサーのレックス率いるテレビクルーのビデオだったり、観衆の一人であるハワードが撮影していた個人所有のSONYのビデオだったりする。
そして補助的設定として、シークレットサービスのトーマス・バーンズが、かつて大統領の身代わりとなって撃たれた過去があることや、ハワードの家庭が少しうまくいっていないことらしいことがあって、物語のスパイスとなっている。
ちょっと批判的な黒人レポーターの顛末なども盛り上げ効果をもたらしていた。

対象者を変えて何回も11時59分58秒くらいからスタートする毎に物語としては真相が明らかになっていっているのだが、それが観客であるわれわれに最後まで知らされないので、「いったいビデオに何が写っていたのだ?」との疑問に引き付けられっぱなしになる。
主人公のトーマスは事件後すぐにテレビクルーのビデオで真相を知ったらしいのだが、プロデューサーの「いったい何が写っていたの?」の叫びがこの映画を象徴するものになっていた。
したがって、ビデオに写っている内容は最後になって初めて我々に明らかにされる。
その辺りの計算がすばらしくて、その計算は最後まで狂うことはなかった。
警官であるらしいエンリケとその恋人かとも思える女性のベロニカや、あるいは三角関係の相手とも思わせるハビエルの存在も手慣れたものだったと思う。
好戦的な軍部を押しとどめる大統領が極めて正義の人と描かれていて、これは大統領賛歌映画かとも思ったし、ラストで非情なテロリスト達なのに子供を跳ね飛ばすことはしないで避けようとするのは、子供はやはり無垢な存在で守るべき者との本来持っている人間意識の表れだったような気もするし、なんだか人間を信じた映画だったような気もする。

海は見ていた

2024-09-26 08:53:10 | 映画
「海は見ていた」 2002年 日本  


監督 熊井 啓                 
出演 清水美砂 遠藤凪子 長瀬正敏
   吉岡秀隆 石橋蓮司 奥田瑛二

ストーリー
粋な江戸っ子が住む深川の少しはずれにあるお女郎宿”葦の屋”。 
そこで働く、まだ年若く器量よしのお新(遠藤凪子)は、女将さんや姐さん方から「客に惚れてはいけないよ」とことあるごとに教えられていた。
にもかかわらず、お新は哀れな男に心底同情し恋をしてしまう。
武家の出だという触れ込みの菊乃(清水美砂)は、隠居善兵衛(石橋蓮司)の身請け話と、ヒモの銀次(奥田瑛二)との腐れ縁を絶つことが出来ない悩みを抱えながら、お新の純な恋を暖かく見守る。
女たちのさまざまな想いが交錯する岡場所(幕府非公認の私娼地)のある夏の日のできごと。
突然、稲妻が光り、雷鳴の轟音と共に激しい雨が降りしきる。
やがて嵐に変わり、川は氾濫、高潮の兆しも見え始める。
逃げ惑う人々をよそに、”葦の屋”を守ろうと居残る菊乃とお新。
水位は増し、菊乃もお新も逃げ場を失い、”葦の屋”の屋根まで追いつめられる・・・・・。


寸評
閉塞感のある今日だが、この映画は紛れもなく希望に満ちた映画だ。
確かにお新を中心とした江戸に生きる、岡場所の女の切なくも激しい恋物語なのだけれども、見終わった後のすがすがしさは、この映画が愛と希望に満ちた作品だからに他ならない。
遠藤演ずるお新は房之助(吉岡秀隆)への恋に挫折しても、再び良介(長瀬正敏)に同情し恋していく。
そしてそれを見守る女郎達の関係がいい。
明るい、人がよい、生きている。
それぞれ事情があって岡場所に生きるハメになってるはずなのに、登場する男も女もその四季折々の生活のなかに息吹を感じる。
嵐によって何もかもがなくなり、水浸しとなって全てが消えうせたようなところから、何とか幸せをつかみ取れるかもしれないお新をみると救われる。
そしてそれを見送る菊乃の強い精神と屈託のない笑顔が明日への希望を感じさせる。
清水美砂はいい女だ。
「しこふんじゃった」ですっかり魅了されたけれど、あらためていい女だなぁと思う。
今村昌平の「うなぎ」でも本当にいい女を演じていた。
決して美人顔ではないと思うのだが、もらしたときの笑顔が何ともいえない。
可愛くて元気をもらえる。
前半で描かれるお新と房之助の恋物語は切ない。
本当にいい人たちばかりでも悲劇は起きる。
吉岡秀隆君は「フーテンの寅さんシリーズ」で赤ん坊の時から見ているが、寅さん一家で大きくなったせいか、何ともひとのいいクセのない男に育っている。
重要な役なんだけれども見終わった後で強烈な印象を残さない役回りを演じるとなかなかいい。

木村威夫の美術、奥原一男の撮影はいい。
深川の岡場所のセットもいいし、何気ないショットの美しいカットを見ると映画を感じてしまう。
房之助を追ったお新が橋の上で出会と、はるか向こうで船荷を積みおろしする二人の男が橋の下からかすかに見える。
そんなこまやかなショットが情緒をそそる。
水没した街のセットは一見の価値あり。
熊井監督との出会いはスタープロ乱立のきっかけとなった、石原プロによる「黒部の太陽」だった。(デビュー作の「帝銀事件・死刑囚」はずっと後で観る事になる)
次はぐっと重い「地の群れ」で、その次がしっとりとした「忍ぶ川」だった。(間の「日本列島」は観ていません)
2~3年おきに一本を撮っておられるが、ストライクゾーンが広く、その作品は硬軟バラエティに富む。

黒澤明の脚本ということで、最後にその脚本ノートから・・・。
先ず、粋にいきましょう。
時は江戸、場所は深川、生粋の江戸ッ子達の本場です。
女も男の髪形も小ぶりで、あまり油をつけない水髪、女の化粧も上方と違って薄化粧です。
女の衣装も、こうゆう場所にしては地味で、鼠、茶、紺系統の縞模様が多く、寝巻きは別にして、赤いものがちらりと見えるだけ、そのちらりと見えるのが粋な色気になっているのです。
足は冬でも素足が多い。
足袋をはいているのは、武家、大店の商人、年寄り、その他特殊な職業の者達だけ。
着附けも薄手で身幅もせまい。
近頃の時代劇の油でかためた大きなちょん髷、同じく大き過ぎてごてごてした女の髪形は野暮の骨頂。
男がつけ睫毛をしているに至っては、言語道断、おととい来やがれ!と云いたい。
さて、余談はさておき・・・。
この頃、こういう所へ遊びにくる男達、町人職人達は、手拭をいろんな形でかぶっていますが、そのかぶり方も研究課題の一つです。
そして、岡場所の女達の着こなし、歩き方やしぐさ、同様に、いろんな客達のそれについても、充分な研究が必要でしょう。
とにかく、これは江戸の話・・・江戸の空気と匂いをたっぷり出しましょう。

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女

2024-09-25 08:49:39 | 映画
「愛の勝利を ムッソリーニを愛した女」 2009年 イタリア / フランス

   
監督 マルコ・ベロッキオ                           
出演 ジョヴァンナ・メッゾジョルノ フィリッポ・ティーミ
   ミケーラ・チェスコン ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ
   ファウスト・ルッソ・アレシ コッラード・インヴェルニッツィ

ストーリー
1910年代前半のイタリア。
イーダは、社会党の党員として政治闘争に身を投じていたムッソリーニと出会い恋に落ちる。
やがてムッソリーニは過激な言動がもとで党を除名となり窮地に陥る。
そんなムッソリーニをイーダは私財をなげうって彼の理想の実現のために献身的に支えていく。
その後身も心もすべてを捧げたイーダは、やがて彼の子供を産み認知も受ける。
だが、この時初めて、ムッソリーニがすでに家庭を持つ身だったことを知る。
自分が彼の妻であり、息子がムッソリーニの長男であることを認めさせようとするイーダ。
だが、イタリア国内でムッソリーニの支持率が急上昇していく過程で、スキャンダルを恐れたムッソリーニはイーダとその息子の存在を闇へと葬り去ろうと動き出す。
やがてファシストへと転向してゆくムッソリーニ。
最愛の人から裏切られながらも人生を賭けて、信念を貫きとおすイーダの波乱に満ちた人生。
歴史の闇に葬られた、愛の物語がいま明らかになる。


寸評
独裁者の愛人としては、ヒットラーの愛人エヴァが有名だが、ムッソリーニのイーダの存在を知らなかった。
歴史から消された存在だったためだろうか、それとも単に僕の知識不足だったのか。
いずれにしても、ジョヴァンナ・メッゾジョルノ演じるイーダはすごい女性だ。
前半は愛し合う2人が官能的に描かれ、しかもイーダが情熱的に、また動物的に振舞う。
それでも、ムッソリーニの視線が必ずしも彼女に向けられていたわけではないことが見てとれて、これが後半への心理的な伏線になっていた。
イーダと息子が邪魔になったムッソリーニが彼らを監視するだけでは飽き足らずに、イーダを精神病院に閉じ込め、息子もなかば監禁状態に置くところあたりから俄然引き込まれていく。
「あの人は私があそこまでにした!」「いずれ私が正妻になる!」などとわめくイーダは少し嫌味な女だと感じたのだが、やがて自分の人生を否定されたくない思いからだと感じて来てくると、映画全体が奥深くなって来たように思う。
精神科医は、「いずれファシズムは衰退する。今は演技しなさい」とアドバイスするが、それでもイーダは愚直に、自分がムッソリーニの愛人であることを主張し続ける。
イーダのその遇直さが純真さに見えてきて、チャップリンの映画やニュースフィルムを登場させたりして、背景となった社会状況を描き出しているが、その中に登場する実物のムッソリーニに「コノヤロー!」と叫びたくなる。
やはり、ムッソリーニは否定されるべき人物なのだ。
それより何より、この映画はイーダを演じたジョヴァンナ・メッゾジョルノの迫力に満ちた演技につきる。
全編を通じて流れる音楽がその演技をさらに高揚させ効果抜群であった。

サンダカン八番娼館 望郷

2024-09-24 08:50:55 | 映画
「サンダカン八番娼館 望郷」 1974年 日本


監督 熊井啓
出演 栗原小巻 高橋洋子 田中絹代 水の江滝子
   水原英子 藤堂陽子 柳川由紀子 中川陽子
   小沢栄太郎 田中健 砂塚秀夫 信欣三 中谷一郎
   岩崎加根子 浜田光夫 山谷初男 菅井きん

ストーリー
女性史研究家・三谷圭子は、ボルネオの北端にあるサンダカン市の近代的な街に感慨を込めて佇んでいる。
ここは、その昔、からゆきさんが住んでいた娼館の跡であり、サキが現在もそこにいるような錯覚すら覚えるのだった・・・。
圭子とサキの出会いは三年程前になる。
からゆきさんの実態を調べていた圭子は、天草を訪ねた時に身なりの貧しい小柄な老婆サキと偶然めぐりあい、彼女はサキがからゆきさんであったとの確信を強め、また、サキの優しい人柄にひきつけられ、波瀾に富んだであろう過去を聞き出すためにサキとの共同生活を始めた。
やがて、サキはその重い口を徐々に開いて、その過去を語り出した・・・。
サキの父は彼女が四歳の時に世を去り、母は父の兄と再婚した。
サキが十二歳の時、サンダカンで娼館を経営する太郎造はサキに外国行きをすすめ、前金三百円を渡した。
サキはその金を兄・矢須吉に送金し、人手に渡った畑を買い戻して幸福な生活をするように願い、村の仲間、ハナ、ユキヨと共にサンダカンへと発った。
日本人の経営する娼館が九軒あり、一番館、二番館と名づけられており、太郎造の店は八番館であった。
八番館に着いて一年後、サキは客を取るように言い渡された。
借金はいつの間にか二千円にふくれあがり、十三歳のサキにその借金の重みがズッシリとのしかかり、地獄のような生活が始った。
だが、そんな生活の中にもサキは、ゴム園で働いている竹内秀夫との間に芽生えた愛を大切に育てていった。
そしてある日、太郎造が急死し、女将のモトはサキたち四人を余三郎に売り渡した。
新しく八番館の主人となったおキクが主人となってからは、八番館は今までと違って天国のようだった。


寸評
「田中絹代はスゴイ!」と思ったのが封切られた時の第一印象であった。
同時に、陰に隠れているけれど、高橋洋子も頑張ているなと感じたことを思い出す。
時を経て再見してもその思いは変わらない。
封切時に感じたもう一つの印象が、栗原小巻が浮いていてミスキャストではないかということだったと記憶する。
当時の栗原小巻は大人気で、コマキストと呼ばれる男性ファンがいて、年齢も同じサユリストの吉永小百合と人気を二分していた。
俳優座との提携作品なので、当時は所属の人気者を起用した為のミスキャストと感じていたのだが、再見して見るとキャスティングは意図されたものだったのかもしれないなと思うようになった。
田中絹代と高橋洋子を際立たすため、二人との対比を強調するため、だったのではないかと思ったのだ。
彼女たちと真逆な人生を送っている三谷圭子には、現実離れしているような清廉潔白な女性である必要があったのだろうと推測した。
主演女優は栗原小巻なのだろうが、それでもこの映画は田中絹代につきる。

サキはサンダカンに渡って過酷で悲惨な生活を強いられる。
しかし日本に帰ってきたサキはもっと哀しいことを経験することになる。
それは信頼していた兄に裏切られたことだ。
サキは娼婦として働いて貯めた金を日本にいる兄に送金していたようで、兄はその金で立派な家を建てている。
しかしサンダカンで娼婦をしていたサキに対する世間の目を気にして迎え入れることが出来ない。
兄嫁はこの家はサキのお金で建てたものだから、サキが全部自分のものだと言い出さないかと夫に詰め寄る。
サキの兄は自分の名前で登記してある、サキもこの家から出ていくだろうと答える。
娼婦にまで身を落としたのは一体誰の為だったのかと言いたくなる残酷な場面だ。
絶望したサキは満州に渡り結婚し子供も生まれている。
その間の事情や様子は全く描かれていないので、サキは少しでも幸せな時間があったのかどうかは分からない。満州からの引き上げ途上で夫は死に、息子と二人で引き上げて来たのだが、息子に結婚相手が出来るとサキの過去を懸念した息子から見捨てられることになり、息子は生活費を送ってきているがまったく交流はない。
その結果として、サキの棲んでいる家は荒れ放題で、今にも倒れそうなあばら家である。
サキの孤独感が圭子を受け入れたのだろう。
一人暮らしの老人が優しい言葉をかける詐欺師に騙されてしまうのも孤独感が大きな要因ではないか。

おキクが「お前たちは日本に帰ってはいけない」と言ったわけを、サキは痛感しただろう。
このおキクを演じているのが水の江滝子で、僕にはターキーさんとして親しみがあった方だ。
SKDで男装の麗人として国民的人気を博していた頃は知らないが、NHKの人気テレビ番組「ジェスチャー」で女性陣のキャプテンを務めて柳家金語楼と軽妙なやり取りをやっていたのが懐かしい。
その後日活の名プロヂューサーとなり、石原裕次郎など多くの俳優、監督を発掘・育成していたので、日活映画のクレジットではよく目にした名前だが、ここでは役者として中々の存在感を見せている。
おキクが建てた墓が日本に背を向けているのは日本社会に対する無言の抗議だったように思う。

ダ・ヴィンチ・コード

2024-09-23 07:50:53 | 映画
「ダ・ヴィンチ・コード」 2006年 アメリカ


監督 ロン・ハワード                                   
出演 トム・ハンクス オドレイ・トトゥ イアン・マッケラン
   アルフレッド・モリナ ジャン・レノ ポール・ベタニー
   ジャン=ピエール・マリエール

ストーリー
ある日、ルーヴル美術館で館長のジャック・ソニエールが殺害される事件が起こる。
遺体はダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を模した体勢で横たわり、周囲には不可解な暗号らしきものが記されていた。
フランス司法警察のファーシュ警部は、講演のためパリに滞在していたハーバード大学教授ロバート・ラングドンに協力を依頼、事件現場に呼び出す。
宗教象徴学の権威であるラングドンはさっそく暗号の解読を始めるが、この時警部はラングドン自身をこそ疑っていた。
暗号の中にラングドンの名前があったのだ。
そこへ、暗号解読官ソフィー・ヌヴーが現われる。
ソニエールの孫娘である彼女は、残された暗号は自分宛てで、ラングドンは無実だと気づいていた。
ソフィーはラングドンと共に残りの暗号解読に乗り出した。
そして同時に、事件解決には彼の力が不可欠なことを悟った彼女は、突然、ある驚きの行動に出るのだった…。


寸評
世界的に大ヒットしたと言われるダン・ブラウンの同名小説の映画化で、ロン・ハワード監督の下にヒット作品に出続ける俳優としてギネス認定されたばかりのトム・ハンクスが主演ということで大キャンペーンが張られた。
何だか大相撲の優勝決定戦が肩透かしで決まってしまったような物足りなさは何処からくるのだろう?
前記の宣伝に過度の期待感を持ち過ぎたせいだけではなさそうだ。
一つには謎解きとしての妙味に欠けていたことがある。
どうも「あっ、なるほど!」という感激がないのだ。
二つにはサスペンスとしてのハラハラドキドキにも物足りなさを感じてしまう事もある。
追いつめられる二人に絶体絶命のピンチを感じなくて、いとも簡単に切り抜けてしまうのだ。
どちらも説明に走りすぎて盛り上げに失敗した事に起因しているのではないかと感じた。
三つ目の原因は、どうもキリスト教の世界を基本的に理解していない自分自身にあったと思う。

噂、デマも含めて僕の中には、マグダラのマリアはキリストの愛人だったとか妻だったとかの話は、ダン・ブラウンの小説の前にも聞いた事があるし、果ては聖母マリアとマグダラのマリアは同一人物で、マリアは母にして妻という近親相姦の極致なのだとの一文も読んだ記憶がある。
それがキリスト教徒にとって、信仰とどうのように係わってくるのかがよく理解できていないのだ。
僕の中では、神功皇后が東征の帰国後に応神天皇を生むという話は、実は朝鮮半島で犯されて帰ってきて、異国の血の混ざった大和民族の歴史の書き換えなのだという話と同レベルなのだ。
だから、何処何処の国でキリスト教団体が上映に反対しているだとか、フィクション部分を理解できる必要性からR18指定にされたとかのニュースもよく解らない。
もしかすると、それも宣伝部の仕掛けなのかも知れないのだが・・・。

僕は日本人に生まれてよかったと思う。
日本人は神も仏もすべて受け入れるし、キリスト教だって受け入れている。
そこに本来の信仰があるのかどうかは判らないけれど、ユダヤ教とキリスト教の対立のような争いを経験しなくて済んでいる事は幸せだと思う。
宗教は古くは十字軍の遠征や、中東戦争の様に血で血を洗う紛争を引き起こしてしまう事を思うと良かったと思う。
もともと僕は宗教心が薄いので、イエスが水をワインに変えた奇跡よりも、石舟斎が斬ったと言われる真っ二つに割れた巨石の方に、それが存在している分、伝説としての面白みを感じてしまう。
キリストの子孫が居るというのも、義経が大陸に落ち延びてチンギス・ハーンになったのだという話と余り変わらない。
いづれにしても、信義の上で敵対者を殺してしまう風潮は日本には無いのが幸いだと思う。

サラの鍵

2024-09-22 07:23:15 | 映画
「サラの鍵」 2010年 フランス


監督 ジル・パケ=ブランネール                 
出演 クリスティン・スコット・トーマス メリュジーヌ・マヤンス
   ニエル・アレストリュプ エイダン・クイン
   フレデリック・ピエロ ミシェル・デュショーソワ
   ドミニク・フロ    ナターシャ・マスケヴィッチ

ストーリー
夫と娘とパリで暮らすアメリカ人女性記者ジュリアは、45歳で待望の妊娠をはたす。
が、報告した夫から返って来たのは、思いもよらぬ反対だった。
そんな人生の岐路に立った彼女は、ある取材で衝撃的な事実に出会う。
夫の祖父母から譲り受けて住んでいるアパートは、かつて1942年のパリのユダヤ人迫害事件でアウシュビッツに送られたユダヤ人家族が住んでいたというのだ。
さらに、その一家の長女で10歳の少女サラが収容所から逃亡したことを知る。
一斉検挙の朝、サラは弟を納戸に隠して鍵をかけた。
すぐに戻れると思っていたサラだったが、他の多数のユダヤ人たちと共にすし詰めの競輪場に隔離された末、収容所へと送られてしまう。
弟のことが心配でならないサラは、ついに収容所からの脱走を決意するが…。
果たして、サラは弟を助けることができたのか?
2人は今も生きているのか?
事件を紐解き、サラの足跡を辿る中、次々と明かされてゆく秘密。
そこに隠された事実がジュリアを揺さぶり、人生さえも変えていく。
すべてが明かされた時、サラの痛切な悲しみを全身で受け止めた彼女が見出した一筋の光とは…?


寸評
劇中で若い編集者がヴェルディブ事件を知らないのかと言われる場面が有るが、僕自身もパリ警察による大規模なユダヤ人狩りといわれるこの事件を知らなかったばかりか、1995年にフランスのシラク大統領がその事実を認め謝罪する演説を行ったことも知らなかった。
ドイツ占領下とはいえフランスもナチスのユダヤ人迫害に手を貸していた事実を知ったのだが、この映画はホロコーストをメインテーマとしているわけではない。
時代や環境といった大きな要因の中では小さな人間はそれに抗することは容易なことではないが、それでも人として存在していかねばならない苦悩と希望をこの映画は描いている。
サラは自責の念を負って生きているが、弟への対応を両親から責められたこともそれを増幅させていたと思う。
愛に満ちた家族で有った筈なのに、極限時において発せられる言葉に観客である僕はおののいた。

冒頭の子供たちがじゃれあうシーンで猫が登場するが、この猫の取り扱いが巧い。
大した小道具ではないが、猫の動きが平和な時間からこれから起こる事態を暗示する役目を表していた。
僕はこの様なさりげないシーンにセンスを感じる。
それに続くヴェルディブ(競輪場)の映像は、脱出する女性も含めて観客に迫ってきた。
その後展開される過去と現在を頻繁にカットバックで行き来する手法は、特に外国映画においては頭の回転が鈍ってきた僕は苦手としているのだが、この作品では画面のタッチの違いでも判断できるような演出がされていて、実にスムーズな切り替えで息をつかせない。
このために余計な神経を使うことなく作品に没頭することが出来て、2時間程があっという間に過ぎ去った。

あの時代にそこにいれば何をしたと聞かれ、何もしないで湾岸戦争と同じように出来事をテレビで見ていたと答える場面があるが、時代の流れの中に身を置いた時の無力感を言いえていた。
ナチスに加担せざるを得なかったフランスもドイツに占領された流れの中で無謀な行為に突き進んでしまったのだろう。
いい人が周りに結構いても、世の中の雰囲気や時代の流れにのみ込まれて悲劇が引き起こされる恐ろしさを感じた。
それでも、脱出を助ける兵士や、サラを育てる老夫婦、亡くなった義父が秘かに行っていた行為など、救われるエピソードがちりばめていて、人間の弱さと共に、失うことのない人間らしさもあって救われる気分にさせてくれた。
そしてラストでは未来への希望を与えてくれる。
この組み立てが見終わった後の感動と感激をもたらしていたと思う。
ラストシーンではいきなりサラの名前を告げずにワンクッション置いているところが良い。
予想される事柄だけに、この演出の工夫が最後の最後に感動を増幅させていたと思う。

サラ役のメリュジーヌ・マヤンスちゃんがこの作品の成功に一役買っているのは言うまでもないが、その演技は芦田愛菜ちゃん以上で、一役どころか、二役も三役も買っていた。

ザ・マスター

2024-09-21 09:22:02 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/3/21は「HELP!四人はアイドル」で、以下「ベルリンファイル」「ベン・ハー」「望郷」「冒険者たち」「暴力脱獄」「ボーン・アイデンティティー」「ぼくたちの家族」「北北西に進路を取れ」「ぼくらの七日間戦争」「ぼくんち」と続きました。

「ザ・マスター」 2012年 アメリカ  

                                   
監督 ポール・トーマス・アンダーソン                     
出演 ホアキン・フェニックス フィリップ・シーモア・ホフマン
   エイミー・アダムス ローラ・ダーン アンバー・チルダーズ
   ジェシー・プレモンス ラミ・マレック マディセン・ベイティ
   クリストファー・エヴァン・ウェルチ ケヴィン・J・オコナー                            
ストーリー
第二次大戦終結後、軍病院のメンタルテストで問題を指摘され除隊した元海兵隊員のフレディ。
だが戦時中に作り出した自前のカクテルにハマり、フレディはアルコール依存から抜け出せず、酒を片手にカリフォルニアを放浪しては滞留地で問題を起こす毎日だった。
そんなある日、いつものように酒に酔ったフレディは、港に停泊中の船にこっそり乗り込んでしまう。
やがて船員に見つかり、“マスター”と呼ばれる男、ランカスター・ドッドの前に引き出される。
その男は、フレディのことを咎めるどころか、密航を許し歓迎するという。
一方のフレディもドッドに自分を導いてくれる可能性を見出し、彼らの絆は急速に深まっていく。
マスターは“ザ・コーズ”という団体を率いて力をつけつつあった大物思想家だった。
独自の哲学とメソッドによって、悩める人々の心を解放していくという治療を施していたのだ。

フレディにもカウンセリングが繰り返され、自制のきかなかった感情が少しずつコントロールできるようになっていく。
マスターはフレディを後継者のように扱い、フレディもまたマスターを完全に信用していた。
そんな中、マスターの活動を批判する者も現れるが、彼の右腕となったフレディは、暴力によって口を封じていく。
マスターは暴力での解決を望まなかったものの、結果的にはフレディの働きによって教団は守られていた。
だが酒癖が悪く暴力的なフレディの存在が“ザ・コーズ”に悪影響を与えると考えるマスターの妻ペギーは、マスターにフレディの追放を示唆。
フレディにも断酒を迫るが、彼はそう簡単にはアルコール依存から抜けることができなかった。
やがてフレディのカウンセリングやセッションもうまくいかなくなり、彼はそのたびに感情を爆発させ、周囲との均衡が保てなくなっていく…。


寸評
全編を通じて大きな出来事はまったくない見どころのない映画である。
この映画の唯一の見どころは、教祖ランカスターを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンと、元兵士フレディを演じるホアキン・フェニックスの演技合戦。
それを面白いと思えるかどうかが、この映画を支持するかどうかの分かれ目の様な気がする。
演技合戦は面白かったけれど、それども僕は本作を面白いから見るようにと人には勧めることはないだろうな。

アル中ですぐにブチ切れるフレディは狂気に満ちていて、ランカスターを批判する人間をボコボコにしてしまう。
一方、ランカスターは、そんなフレディの感情をコントロールしようとする。
ランカスターは倫理的にふるまうことを説く半面、ワケのわからない話を延々と続けたり、乱交もどきのパーティを開いてみたりする狂人でもある。
カルト宗教を非難する映画ではないが、何やらその恐ろしさも垣間見える。
不完全な人間同士が抗えない力で求め合う姿を延々と描き続ける。
互いを必要としているのだが、マスターの妻ペギーはそれを許さない。
ランカスターは支配者でいながら、実際は妻が支配しているのではないかとも思わせる。
求める者と求められる者、支配する者と支配させる者、両者が微妙に交互する。
現実社会の縮図でもある。
延々と続くそれらの描写は、関係の複雑さを我々に切々と訴えているようだった。
観客はその繰り返しに耐えねばならない。
時々めげそうになるが、それをこらえさせたのは二人の怪演&熱演だった。
結局、フィリップの心の隙間を埋めるのは新興宗教などでなく、行きずりの女だったということだったのかなあ・・・?。

海角七号 君想う、国境の南

2024-09-20 09:04:46 | 映画
「海角七号 君想う、国境の南」 2008年 台湾

                                 
監督 ウェイ・ダーション                            
出演 ファン・イーチェン 田中千絵 中孝介
   リン・ゾンレン マー・ニエンシエン ミンション
   イン・ウェイミン マイズ シノ・リン レイチェル・リャン

ストーリー           
台北でミュージシャンとして成功する夢に破れ、台湾最南端の故郷、恒春に戻った青年、阿嘉。
南国の陽気に包まれ、無気力な日々を過ごしていたが、ある日、郵便配達の仕事を与えられる。
働き始めた阿嘉は、宛先不明の未配達の郵便物の中に、今はない日本統治時代の住所“海角7号”宛ての小包を見つける。
同封されていたのは、60年前に書かれた7通の手紙。
敗戦によって台湾から引き揚げる日本人教師が、愛しながらも別れなければならなかった台湾人女性を想って船上で綴ったラブレターだった。
だが、今は存在しない日本統治時代の住所を知るものは誰もいなかった。
そんなある日、阿嘉は日本人歌手、中孝介を招いて催される町興しライブの前座バンドに無理やり駆り出される。
オーディションで選ばれた他のメンバーは、少女から老人まで年齢も職業も様々。
即席の寄せ集めで練習もままならず、やる気のない阿嘉の曲作りも難航。
監督役の日本人スタッフ友子とも衝突を繰り返す。
その一方で、ライブの日は刻々と近づいてくる。
果たして、バンドは無事ステージを努められるのか?
そして、60年前の手紙は宛名の女性に届くのか?
南の空に虹がかかるとき、小さな奇跡が起こる……。


寸評
敗戦で台湾から引き揚げた日本人教師の台湾人女性に宛てた7通のラブレターが物語の進行に従って朗読される。
戦争の悲劇などを盛り込んだ感動物語と思いきやさにあらず、言ってしまえば男女の青春ラブストーリーである。
それに素人バンドの成長物語が加わり、なんとか町を盛り上げようとする町の人たちの騒動が組み込まれる。
ちょっと詰め込みすぎだが、それらがコミカルに描かれているので肩は凝らない。
手紙の届け先が判明するくだりをもっと丁寧にうまく描いていたらかなりの名作になっていたと思う。
中孝介の台詞が棒読みで感情移入が出来ていないのは仕方がないけれど・・・。

最後はいいなあ~。
公開当時存在していた民主党に在籍していた小沢一郎氏などは、自分の人脈もあって中国一辺倒だが、日本はもっと台湾を大切にしたほうがいいのではないかと思ったものだ。
過去の歴史、彼らとの係わり、それぞれの感情において心通うのは台湾のほうだと感じさせられる。
終戦の結末として「自分は故郷に帰るのか、故郷を捨てるのか?」といった独白や、敗戦国民として台湾人に対する責任が果たせるのかとの自問、捨てたのではなく泣く泣く手放したのだとの思いなど、今の自分にはどれもない感情だが、それでもすべての感情が素直に理解できた。

今は老人となってしまった台湾人である小島友子さんの顔を見せなかったのはいい。
後ろ姿の背中が戦後の長い年月を無言のうちに語っていて実にいいショットだった。
今に生きる友子を演じた田中千絵さんは台湾で活躍している女優さんらしいがなかなか良い女優さんだと思う。
欲を言えば、素人バンドがアンコールを得るまでに感動のバンドとなるが、「スウィング・ガール」のような盛り上がりが欲しかった。

裸足の季節

2024-09-19 08:03:13 | 映画
「裸足の季節」 2015年 フランス / トルコ / ドイツ


監督 デニズ・ガムゼ・エルギュヴェン                    
出演 ギュネシ・シェンソイ…ラーレ(五女)
   イライダ・アクドアン…ソナイ(長女)
   トゥーバ・スングルオウル…セルマ(次女)
   エリット・イシジャン…エジェ(三女)
   ドア・ドゥウシル…ヌル(四女)
   ニハール・G・コルダシュ(祖母)
   アイベルク・ペキジャン(エロル)

ストーリー                        
イスタンブールから1000km離れた黒海沿岸の小さな村。
10年前に両親を亡くした美しい5人姉妹、長女ソナイ、次女セルマ、三女エジェ、四女ヌル、そして末っ子の13歳のラーレ、祖母と叔父エロルのもとで暮らしている。
ラーレの大好きなディレッキ先生がイスタンブールの学校へと異動になった日、姉妹たちは下校の途中、海で無邪気に男子生徒の肩にまたがり、騎馬戦をして遊んだ。
帰宅すると、隣人から告げ口された祖母が怒りの形相で「男たちの首に下半身をこすりつけるなんて!」と、ソナイから順番に折檻していく。
古い慣習や封建的な思想が根強く残るこの地では、祖母や叔父にとって結婚前の女は純潔であることが最も大事なことだった。
この日以来、姉妹たちは外出を禁じられ、派手な洋服やアクセサリー、化粧品、携帯電話、パソコンも没収される。
文字通り“カゴの鳥”となった彼女たちは花嫁修業を命じられる。
地味な色の服を着させられ、料理を習い、掃除をし、毎日のように訪ねてくる村の女たちが花嫁として必要なことを伝授していく。
そして次々と見ず知らずの男たちとの見合いをさせられ、結婚話が進んでいく。
浴びるように自棄酒を飲み干し、涙を流すセルマに、「結婚したくないなら逃げて」とラーレは話しかける。
しかしセルマは、「どこへ逃げればいいの? イスタンブールは1000キロ先よ」と諦めたようにつぶやく。
この夜が、姉妹が揃う最後の日となった。
ラーレは祖母のへそくりから金を盗み、アリバイ工作のため自分の髪を切って人形に縫いつける。
そして姉たちの姿を目の当たりにして、ラーレはある決意を固めるが…。


寸評
ラーレが先生との別れを悲しんでいる場面から始まる。
次のシーンは一転して男友達も交えて海で遊ぶ姉妹たちの様子になる。
瑞々しいばかりの若者の姿で、無邪気な子供のような姿も描かれる。脱出劇は
そして次のシーンでは、姉妹たちが保守的な祖母や叔父の怒りを買い、学校にも通わせてもらえなくなり半ば軟禁状態に置かれることになる。
日本人の感覚からすれば、そんなことぐらいで閉じ込められちゃうのかと同情してしまう。
思春期の少女たちの青春ドラマだが、舞台がトルコの田舎の村ということで、古い因習や価値観に苦しめられながらも、そこから自由になろうとする姉妹の姿に応援したくなる。

五人姉妹がはちきれんばかりの若さと無邪気さを振りまくのがこの映画の魅力の一つだ。
部屋の中で無邪気に戯れるシーンや、内緒で観戦に出かけたサッカー試合のシーンなどに、老人の部類に入っている僕でも自然と微笑んでしまう。
そんなシーンが続いたことで、自由を奪われ次々に結婚させられる人権無視の展開がより一層迫ってくる。
本人の意志とは関係なく結婚が決められていく様子は、今の若者には信じられないことだろうが日本でも行われていたことで、結婚式で初めて相手の顔を見たという老人夫婦がついこの間までいた(今も存命している夫婦がいるかもしれない)。
したがって、儀式的なやり取りは別にして、そのこと自体は僕の想像の外と言うわけでない。。
それにしても結婚年齢がすごく若いと感じるし、処女であることを必要以上に重視するのだなということが分かった。ラストは
ごく普通の日常を描いているようなので、イスラム圏は想像以上の男社会だということも分かった。

社会派映画だが問題提起を前面に押し出すような演出はとっていないので残酷な場面も直接描くことを避けている。
ラーレの表情の変化に重きを置いているようだ。
脱出劇は意外や意外、結構スリルがありエンタメ性を感じさせた。
そしてイスタンブールの景色が、今までの村と一変する。
古い因習からの脱出が成功したように思わせるし、ラストシーンは清々しささえ感じてしまう。
国が変われば因習も随分違うものだなと思うし、日本人でよかったとも思った。
少女たち五人に拍手!

薄氷の殺人

2024-09-18 07:15:09 | 映画
「薄氷の殺人」 2014年 中国 / 香港

                 
監督 ディアオ・イーナン                            
出演 リャオ・ファン グイ・ルンメイ ワン・シュエビン
   ワン・ジンチュン ユー・アイレイ 
   
ストーリー
1999年、夏。中国の華北地方で、ひとりの男のバラバラにされた遺体が6都市15ヶ所の石炭工場で相次いで見つかった。
この猟奇的な殺人事件の捜査に当たるのは、妻との離婚問題に頭を痛めるジャン刑事(リャオ・ファン)。
やがてトラック運転手のリウ兄弟が容疑者に浮上するが、兄弟は逮捕時に抵抗し射殺され、真相はわからずじまいになってしまう。
ジャンは真相を解明できぬままやがて警察を辞すことに。
それから5年後の2004年、冬。かつての同僚から5年前と同様のバラバラ殺人が2件発生したことを聞きつけたジャン。
どちらの被害者も、5年前の被害者の若き未亡人ウー・ジージェン(グイ・ルンメイ)と関係を持っていたという。
警備員となっていたジャンも独自に調査を開始し、疑惑の女ウーに近づいていくジャンだったが…。


寸評
中国作品のせいだろうか、ちょっと変わったノワール映画だ。
何よりも映し出される映像というか景色というか舞台設定というべきなのかもしれないが、雪のトンネル、スケート場、観覧車などが登場する街の様子が雰囲気を出している。
特に夜の街は異国情緒たっぷりで、発展する前の街の様子が感じられて、僕にとってはあまり見ることのない映像で新鮮味があった。
あたりが真っ暗な中、街頭の明かりだけの天然のスケートリンクと、男がそこにつながる道路をスケート靴で滑りながら去っていく場面などは異次元の世界に思えた。
中国の田舎町ってこんな感じなのかなと、時代遅れな景色が日本人僕に関心を引き止め続ける。
始まりは1999年の夏で、話が2004年になると一転して凍てつくような冬景色となる。
この季節の変化による映像の切り替えは意図したものだろうし、それが無意識に我々の心をつかみ取る。
この寒々とした冬の映像は、ジャンとウーの心象を投影しているかのようだ。
現実と夢の中を行き来するような妖しい映像を初め、全体的にセリフに頼らず映像で様々なことを表現している。

事件を追ううちにジャンがウーにのめり込んでいくというのは、この手の映画でよくある展開だが、ちょっと違う雰囲気がある。
ジャンは1999年に妻と別れているのだが、その別れ方がその後のジャンを上手く表現していた。
女にだらしなく、すさんだ生活を送っているジャンを予見させる別れ方だった。
話が進んでいくと「え~、そういうことだったの」になるのだが、韓国映画あたりだともっと面白く撮っただろうなと思う。
両者が交錯し、ラストに向かっていく盛り上がりがもう少し欲しかった。
ジャンが姿を見せないエンディングは、二人のそれぞれの心情を表現して、派手な割には余韻の残る幕切れだったと思う。

宇宙戦争

2024-09-17 07:17:01 | 映画
「宇宙戦争」 2005年     アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ              
出演 トム・クルーズ ダコタ・ファニング ティム・ロビンス
   ミランダ・オットー ダニエル・フランゼーゼ 
           
ストーリー
雲ひとつない晴天に包まれた、アメリカ東部のある町に異変は突然起こった。
上空で発生した激しい稲光の一つは地上にまで達し、その下で巨大な何かが大地を震わせうごめき始めた。
そこに居合わせたレイ(トム・クルーズ)は、この常識では考えられない現象に直面し、恐怖に怯える人々と共に状況を見守る。
そして人類が体験したことのない異星人の襲撃が目前で始まった。
侵略者が操る”トライポッド”が地底よりその巨大な姿を現し、地球侵略を開始したのだ。
何とか家にたどり着いたレイは、テレビのニュースで世界16カ国が同時に襲われたことを知る。
レイは息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と娘レイチェル(ダコタ・ファニング)を連れ、安全と思われる土地へと逃げる準備をする。
侵略者を前に戦う術を持たない人間たちは、今、世界のいたるところで難民と化していく。
そして極限の恐怖は瞬く間に全世界に広がり、地球の支配者である人類を追い詰めていった。
愛するものが消えていくとき、人類に残されたのは愛と勇気だけだった・・・。


寸評
導入部の地下から彼らが操るトライポッドが出てくるところは圧巻。
地割れのシーンを始め建物や高速道路のの崩壊シーンなどが圧倒的な迫力で迫ってくる。
「プライベート・ライアン」でもそうだったけど、冒頭のこのシーンを見るだけでも一見の価値ありという映画だ。
ただ全体としては、スピルバーグもスタミナ切れを起こしたのかな?と言うのが第一印象。
テレビクルーの登場も唐突だし、レイの犯す殺人の必然性も希薄だと思う。
特に最後の処理は尻切れトンボでこの作品を軽いものにしている。
(もっとも、新型コロナのパンデミックを経験したことを思えば、これもありかも)
家族の信頼が取り戻せたのかも良くわからないし、侵略者の攻撃から逃れる事が出来るプロセスがこれまた余りにも唐突過ぎる。
「いくらファーストシーンとつなげていると言ってもなあ~」と呟きたくなる結末だ。
妹のレイチェルは兄のロビーを信頼しているし、ロビーも妹を勇気付けたりして守ってやる。
そのロビーが戦いにに参加するプロセスはアメリカ的だと感じてイラク戦争を連想しなくもない。
ただこの映画は父と子供の信頼回復の物語でもあり、むしろそちらがメインテーマかとすら思われる。
だから劇場を出る時なっても、この家族がこの後どうなったのかのイメージがもてなかったことが一番の不満だ。
しかし、2時間を退屈させずに画面に引き付ける映像技術は流石と言えるものがあって、映画は家族皆で楽しめる娯楽なのだと感じさせてくれる作品でもあった。
一番面白かったのは、「大阪では3つやっつけたそうだ。日本人に出来て我々に出来ない筈はない」との会話が出てくるところ。
大阪城を背景に自衛隊がやっつけている所をニュース挿入してほしかったな。
それじゃゴジラ映画になってしまうか・・・。
公開場所に応じて撮り分けしとけば愉快だろうな。

イレブン・ミニッツ

2024-09-16 07:41:58 | 映画
「イレブン・ミニッツ」 2015年 ポーランド / アイルランド


監督 イエジー・スコリモフスキ                 
出演 リチャード・ドーマー パウリナ・ハプコ
   ヴォイチェフ・メツファルドフスキ アンジェイ・ヒラ
   ダヴィッド・オグロドニック アガタ・ブゼク
   ピョートル・グロヴァツキ ヤン・ノヴィツキ
   アンナ・マリア・ブチェク ウカシュ・シコラ イフィ・ウデ

ストーリー
午後5時前。
顔に殴られた跡を残して、警察から自宅に戻ってきたヘルマン。
嫉妬深い彼は、妻で女優のアニャといさかいになるが、やがて睡眠薬を入れたシャンパンを喉に流し込み、寝てしまう。
その間に、優雅なホテルの一室で下心ミエミエの映画監督と一対一の面接に臨もうとホテルへ向かうアニャ。
街に午後5時を告げる鐘が鳴る。
慌てて飛び起きたヘルマンは、アニャを追ってホテルへ向かう。
そのホテルの前では、最近、刑務所から出たばかりの男が、ホットドッグの屋台を開いていた。
一方、人妻とドラッグをやりながら情事に耽っていたバイク便の配達員は、彼女の夫が帰宅したため、慌てて逃げ出す。
やがて、父親であるホットドッグ屋台の主人に電話で呼ばれ、ホテルへ向かう。
そのホテルの一室で、ポルノ映画を見ている一組の男女。
そして彼らの頭上には、着陸態勢に入ろうとする旅客機の姿があった…。
午後5時から5時11分までの11分間、様々な人々の運命が絡み合い、やがて迎える結末は……。


寸評
一見無関係と思われる多数の挿話が交差して、登場人物は微妙にすれ違ったり関係を持ちながら進行していく。
時には同じ場面が角度を変えて描かれたりもする。
しかしそれは、例えば内田けんじが「運命じゃない人」で試みた、無関係な人のかかわりが時間経過の中で描かれていくというサスペンス劇ではない。
リアルタイム・サスペンスとしての緊張感を保ちながらも、何かを紐解いていくといった展開ではない。
同時進行的に無関係は出来事がランダムに描かれていくだけだ。
轟音を響かせながら街中に突如現れる大型飛行機が何度か挿入される。
僕はその映像を見ると無意識のうちに貿易センタービルに突っ込んだ9.11テロを思い出している。
なにかそのようなことが起きるのかと思ってしまう。
しかし限定された抽象的空間や、一切説明されない物語りの背景と、特殊な時間設定で描き続けられると、これはそんな娯楽作ではなく、むしろ実験映画的だと感じてくる。
それを楽しめないタイプの人には退屈な映画なのかもしれない。

見終ると、テロを描いた映画ではないが、やはりこれは無差別テロへの警鐘だった事に思い当たる。
わずか11分前には何の関係もなかった人たちが、磁石に引き付けられるように集まってくる。
そしてそこで予期せぬ出来事に巻き込まれてしまうという恐怖だ。
人々の何気ない日常を切り取りながら、11分後にはそれが突如変貌してしまう運命を描いていた。
盛んに報じられているテロ事件だが、僕たちはそれが身近で、しかも自分に対して起きるという感覚を持ち合わせていない。
そんなことは自分に対しては起きるはずがないと、どこかタカをくくっている所がある。
オウムによる地下鉄サリン事件が起きても、当事者でない僕は電車に対して恐怖感を抱かない。
あの時の乗客もどこの誰だか知らない人たちが、たまたま同じ電車に乗り合わせていただけなのだ。
見ず知らずの人がテロに遭遇し、不幸にも命を落としてしまうという漠然とした恐怖だ。
21世紀はテロとの戦いと言われたりもするが、僕はこの映画に突如起こる悲劇と恐怖を感じた。
と同時に見ず知らずの人がとった行動が、間接的に他人の運命を変えていく群像劇はネット社会の恐怖でもある。
掘り下げると、現代社会が抱える問題点を鋭く突いていたような気もする。
(深読みしすぎか?)

世界ではいろんなことが起きている。
それらの出来事がモザイク模様のように散らばって現実世界を形作っている。
局地的に大きな出来事であっても、それらの出来事のなかに埋没していき、世界の中でどんどん小さな出来事へと矮小化していってしまう。
一面を覆った黒煙はモザイク模様の中でどんどん小さくなっていき、最後には小さな点の一つにすぎなくなってしまう。
「それでいいのか?!」
スコリモフスキ監督の叫びが聞こえてきそうなENDだった。