猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

スライディング・ドア

2005年06月25日 02時13分04秒 | ルーツ
あの時、もし、こうしていたら...。

誰でも考えたことのある可能性。
後悔からそう考えるのでは悲しいけれど、想像して楽しむだけ、なら悪くない。

私は赤ん坊の頃、養子として他所の家へ貰われていった。
正式には養子縁組していなかったが、その家の子として育てられることになっていた。
らしい。

私が生まれた時、母はまだ19歳で、父は生まれてくる赤ん坊が自分の子かどうか、何の根拠もなく疑っていた。
彼は当時18歳。
私が生まれた翌日に19歳になる若さだったから、父親の自覚も、家庭を持つ器量も持っておらず、無職、無収入だった。

母は出産予定日を過ぎても働いていて、かといって、出産費用までは賄えず、困り果てて福祉を頼ったという。
しかし、私が生まれてからも、父はは変わらず、女と遊び歩き、母に迷惑をかけ続けた。

西洋人のようなルックスと甘ったれな性格で、女性に大変もてた彼は、母に逃げられ、再婚したあとも、結局死ぬまで恋愛を繰り返していたが、それももしかすると、彼の寂しい生い立ちがそうさせていたのかもわからず、本人にもあまり悪びれた素振りはなかった。
とにかく、私が生まれてからも、女性と金銭トラブルを起こした彼のせいで「借金のカタ」として働かされていた母は、そんな生活と育児に疲れきって、知人からの養子の話と、「良い環境で大切にされた方がこの子のため」という甘言にのってしまった。

後から考えれば、何がしかの現金が、その知人と子供を欲しがっている夫婦の間に発生していたようだ、と母は言うが、真相はわからない。
母は結局私を手放し、私は子供のいない夫婦の娘として、育てられることになった。

しかし...母はしばらくして、猛烈にわが子を手放したことを後悔した。
ノイローゼのようになり、私を捜し求めた。

詳細は知らないが、ようやく母が私を見つけたときには、私は貰われて行った先で本当に大切にされていて、母はそのご夫婦に大変申し訳ない思いをしたという。
泣きながら、母の元に私を返す決意をしたその夫婦の思いを、今の私にはどうすることも出来ないが、もし今、彼らと会う事が出来るなら、母に代わって謝りたいと思う。

ただ、彼らにとっては、悲しいだけの赤ん坊の思い出など、もしかしたら、思い出したくないことかもしれないが。

もし、私がその夫婦に育てられていたらどうなっていただろう。
その後、私が散々見た、壮絶な世界を知らずにいたら...。

でも、そうしたら。
妹にも出会えず、弟にも出会えず、ゴンザとも、出会えなかった。

何より、私自身がもっと違った人間になっていた(もちっとマシになれたかな?)。

どんな思いを抱えようと、どんな真実を持とうとも、私は、私の人生を愛している。
そう言えるのは、もがきながら、ジタバタしながら生きてきたからこそ、なのに。

雪の降る、4歳のある日。
赤ん坊の妹にミルクを飲ませながら、母を待った思い出

小さな弟を自転車に乗せて走った道。

そんな宝物と出会えなかった「もうひとつの人生」

想像するだけなら罪はないが、想像しても意味がない。

やっぱりこれでよかった。
やっぱり、この人生は私に与えられたものだった。

最後まで、そう言える生き方を、これからもしていきたい。
どんな運命に見舞われたとしても。

父は、私が養子にならずに返ってきてから、人が変わったように働き者になった。
女グセの悪さだけは治らなかったが、子煩悩な父親だった。

母曰く。
お前(erima)が生まれるまで「俺の子じゃない」って言い張っていたのに、生まれた赤ん坊の顔を見たら、「うちの子が1番可愛い」って言い始めてさ。
バッカじゃないの!あの男。
だそうであるが...

ちなみに私は、亡くなった父に瓜二つである(笑)
俺の子じゃないって...通用しませんが?