蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

花、吹雪く

2013年03月30日 | 季節の便り・花篇


 満開の桜に雨が降り注ぎ、花冷えが来た。その花冷えが幸いしたのか、散り急ぐかという心配をよそに絢爛を保った。いつになく早い開花と、いつになく長い花どきに、お花見の賑わいが絶えない。そんな中に、「そろそろ、冬物は片付けていいでしょう」とラジオが報じる。

 14週(98日)目の朝だった。漲るように咲き誇っていた桜が、ふっと吐息を吐くように花びらを散らせ始めた。朝のリハビリに向かう途中、遊ぶ子供の姿を見たことがない小さな児童公園の1本の桜に引き寄せられた。ようやく朝日が届き始めた地面に、一面の花びらが敷き詰められていた。
 受付を済ませて待ち、マイクで呼ばれて3階に上がると、「おはようございます!」という挨拶と笑顔で迎えられ、10分間の肩のホットパットからリハビリが始まり、理学療法士の緻密なマッサージが30分、その後滑車で腕挙げ7分、ゴムバンドを引いて3分、「お大事に、どうぞ!」と声を掛けられて階段を下りるまで、この日差し溢れるリハビリ室は明るい笑顔が絶えることがない。心のリハビリまでさせてもらう毎日だった。

 昼、14週目の術後診断の為にF大学病院でMRIを撮った。執刀医の教授は海外出張中の為、画像診断は月明けた4月1日である。初診の時の6時間待ちが嘘のように、何故か予約時間の13時には、既に撮影を終えていた。
 帰路、日本経済大学の構内を抜ける桜並木で車を停めた。落花が風に舞い、渦巻くような花吹雪となる。車の窓をいっぱいに開けると、風に舞い込む花びらが膝や腕にとまる。花どきの終焉に向かって、俄かに季節の足取りが速く感じられる時節だった。

 午後、嬉野温泉に走った。4か月ぶりの温泉である。(このところ、何をするにも○ヶ月振り!)という言葉が付きまとう。)温めると肩や腕のリハビリ痛が消える。療養と快気祝いと、入院側・留守番側それぞれの慰労を兼ねた1泊の温泉ドライブだった。もう一度桜のトンネルをくぐって、筑紫野ICから高速道に乗った。1時間余りの長崎道の沿線は、いずこも桜の真っ盛り。これほどに待たれ、愛され、惜しまれる花は、やはり桜をおいてはない。春という季節がなせる業でもあろうが、春の日差しを呼び寄せて豪華絢爛と咲き、やがて潔く散っていく姿は、日本人の魂の原点でもあるのだろう。その潔さを失った人種が、あまりにも世間に跋扈し過ぎる時代ではあるが……。

 インターを降りた嬉野の街も、満開の桜に飾り立てられていた。内陸の此処はまだ吹雪くこともなく、今が真っ盛りである。嬉野温泉「ホテル桜」の玄関先に走り込む。…ここまで桜尽くしになると、もう言うことはない。
 「美人の湯」を謳う温泉は肌に滑らかに纏わりつき、男の我が身でも肌触りが楽しくなる。露天風呂の吐口に肩を入れ、打たせ湯でほぐした。ほどほどの熱さが、心地よく肩関節から腕に浸み込んでいく。リハビリ痛が嘘のように消えて、うっとりと眠りを誘う。のぼせそうになると湯船の縁の岩に腰かけて風に弄らせ、また吐口に沈みこむ。珍しく長湯して、指先がふやけてしわしわになるまで浸っていた。

 玄海荒磯懐石の部屋食を摂り、佐賀の辛口冷酒「天山」でほろ酔いながら、名物・温泉湯豆腐や鮑の踊り焼きに舌鼓を打つ。月齢17の月が、遮るものもない快晴の夜空をゆっくりと渡っていった。
 夜更けてもう一度、翌朝目覚めてもう一度…いつものように3度の温泉を楽しんで、花曇りの長崎道を走り戻ってきた。もう何十年もこの季節に帰国したことがないアメリカの娘に、この桜を見せたいなと、ふと思う。
 今年の桜は、もう見尽くした。
                (2013年3月:写真:花、吹雪く)

咲き急ぐ

2013年03月20日 | つれづれに

 ほどほどに、躊躇いながら冬が逝き、遠慮がちに春が戸を叩く……時に暖かく、また寒くなり、三寒四温を繰り返しながら、気が付いたら「あ、もう春!」……そんな境目のない季節の移ろいを待っていた。
 今年の春は、あまりにも急ぎ過ぎる。8度も10度も、乱高下の中に早々と春が座り込んでしまっていた。急き立てられるように咲いた花が、あっという間に盛りを過ぎて萎れていく。梅が終わり、蝋梅が輝きを失い、乙女椿が一気に咲き揃ったかと思うと、もう茶色に色を失って零れ落ちていく。猩猩袴(ショウジョウバカマ)も短命で終わった。晩秋から花房を育て始めたキブシが、ようやく満開になったばかりなのに、春三番が吹いて、早くも鈴のような花を散らし始めている。全国に先駆けて開花を迎えた桜が太宰府でも咲き始め、三分咲きが一晩で五分咲きとなり、春分の日の雨が気になるほどに絢爛の花時を迎えようとしていた。
 庭の隅の紅花馬酔木(ベニバナアセビ)も、もう盛りを過ぎた。ムスカリが立ち、叡山菫(エイザンスミレ)が鉢から零れるように咲いた。雨樋の陰に、慌て者の紫華鬘(ムラサキケマン)と花韮(ハナニラ)を見付けた。

 彼岸の中日「春分の日」の雨の予報を聞き、前日に福岡に走って一気に墓参りを済ませた。三つの寺で、二つの墓石と四つの納骨堂に手を合わせた。家内が「三社詣でならぬ、三寺参り」と戯れる。みんな気持ちは同じなのだろう、二寺が既に駐車待ちの混雑だった。
 家内の母方の菩提寺・西教寺、父方の萬行寺、我が家の大長寺……家内が言う。いろいろと事が多かったこの一年だった。そして、いろいろ事が予想されるこれからの一年、せめて先祖の供養をして、密かな見守りを願う気持ちがあると。
 まだ痛む左肩を庇いながら水を汲み、萬行寺の墓石を洗う。雑草を抜き、銀杏の朽ち葉を払い、亀の子たわしで墓石の苔を擦り、花立の水を清めて買い求めた花を挿した。一段と黄砂が激しい春日に、青空は霞んで見えない。視界7キロとテレビが報じていた。季節の味わいを語感に漂わせる「春霞」という言葉も、黄砂に加えPM2.5という耳慣れない言葉に毒されて、今年は風情がない。
 大長寺。父と母が眠る納骨堂は広島の兄が守っている。母方の一族は、七年間行方を絶った最後の叔父が失踪宣告後の死亡認定を受けて葬儀を行い、七回忌を終えたところで永代供養して寺に委ねた。最後まで面倒見たことで、寺の厚意によりその納骨堂を無償で私の名義に変えてくれた。やがて此処に私達は眠るが、まだその日は遠い。(と思いたい。)
 本殿でお線香を立て、手を合わせてこの日の三寺参りを終えた。住職にお布施を渡して出た門の傍らに、早くもシャガが咲いていた。記憶の中では初夏の花という意識がある。この日、福岡は26度を超えた。まさしく初夏の陽気だった。
 
 
 昼時だった。大長寺のすぐ近くで見付けた店「うみの華」に飛び込みで入ってランチを食べた。店の前の小さな広場で、見事な桜が霞に和らげられた日差しを浴びて輝いていた。
 店の勧めるままに「海鮮あふれ丼」を注文する。文字通り、丼から大きな刺身が溢れて垂れ下がっている。魚のあらで出しを取った味噌汁の大きな碗が添えられ、これで980円!更にFacebookにチェックインすると、茶碗蒸しがサービスされ、その中に鯛の切り身が入っていたら50円引きという、何とも楽しいメニューである。家内がブログでのアップを約束したら、先取りで茶碗蒸しをサービスしてくれた。(残念ながら、鯛の切り身は入っていなかった。世の中、そんなに甘くはない。)
 天神の裏通りは若者の街。そして競争が厳しいから、こんなアイデアあふれるサービスが生み出されている。すっかり満腹して都市高速を突っ走り、30分で太宰府の田舎町に帰り着いた。
 ―――リハビリが待っていた。
                   (2013年3月:写真:「海鮮あふれ丼」)
 

殴りこむ春

2013年03月10日 | つれづれに

 春霞……ほのぼのと風情ある言葉が、恐怖感さえ抱かせる醜いものに変貌してしまった。昨年まで耳にすることもなかった「PM2.5」の警報が、今日も外出をためらわせる。花粉症とは異質の不快感が、目や鼻にくる。マスク姿が日毎に増える。報道で見る元凶となった国の都市の醜悪さ。蒸気機関車時代のトンネルの中のような目を覆う大気汚染が、連日西風に乗って容赦なく早春の山の姿を覆っていく。日本列島にエンジンを付けて、ハワイ沖まで遁走出来たらどんなにいいだろう!信じられなくなった隣国ばかりに囲まれ、為すすべもない為政者の弱々しい遠吠えだけが無様に響くのが腹立たしい。
 しかし、もう怖いものもない年齢である。大気汚染もものともせずに、ひたひたと木立の中を歩き続けた。

 町内自治会の反省会を終えて皆と別れ、久し振りに天神山の散策に出た。
天満宮に脇から入り、神殿に向かって果たせなかった初詣の合掌を済ませて、やや盛りを過ぎた梅林に抜ける。県道へのトンネルの手前、「お石茶屋」の横から仄暗い木立をくぐって胸をつく急な石段を登り、明るい山道に出た。梅林の梅見客の雑踏が嘘のように、此処は風の音だけが囁き抜ける静寂の小道である。
 反省会の後で出たグラス一杯のビールが胸を喘がせる。道の傍らに小さな石仏が並び、暖かな午後の日差しを長閑に浴びている。天開稲荷の境内を通って、いつもの天神山の尾根を巡る散策路に出た。

殴り込むような春の訪れだった。北国では猛吹雪が荒れ狂い、ここ太宰府でも数日前まで寒さに震えていたのに、24度というこの暖かさは何だろう。明日は又8度も気温が下がるという。三寒四温とはいうものの、まだ本当の春には遠いのだろう。腕まくりして汗を拭き拭き、ドングリを踏みながらいつもと逆回りで風の中を歩き続けた。

 シジュウカラが時折囀りを落とす。右下に遊園地を見ながら幾つかの起伏を越え、切り払われた竹林の脇を下ると車道に出る。梅見客の来ないこの辺りに、実は見事に枝垂れる梅が幾本もあることを多くの人は知らない。真っ盛りの枝垂れ梅を欲しい侭に愛でながら、立ち止まって足元を見る。ここが毎年1月の小春日に、「青空のかけら」を探す場所なのだ。 
 微かな早春の気配を人が知る前に、真っ先に此処の陽だまりにオオイヌノフグリが咲く。今年は入院していたから、この花を見たのはリハビリ入院先から外出して歩いた都府楼政庁跡辺りだった。そして、日本の早春を演出するこの花が、実は日本古来の花ではなく、明治時代にヨーロッパから侵入した外来種であることを入院中にいただいた本で知った。啓蟄からまだ日浅い今日、枝垂れ梅の足元を可憐に彩るのはホトケノザだった。
 並行する九州国立博物館への車道に渡り、また暫く歩き、職員やボランティアが出入りする裏口の横から博物館に降りて小休止した。天満宮へのエスカレーターに抜けるトンネルの脇から、雨水調整池のそばに建つ四阿に降りた。馬酔木が早くも満開となり、池のほとりの湿原に、一面の土筆が林立していた。いきなりの春の陽気が成長を加速し過ぎたのだろうか、いつになく細いツクシが足の踏み場もないほどに風に揺れ、林立するツクシに遠慮するのか、サギゴケとスミレが潜み隠れるように咲いている。

 すっかり開いてしまったネコヤナギや種子を散らせた後のウバユリの屹立を見ながら、100段あまりの階段を登り詰めて再び車道に出た。1週間を残すだけになった特別展に向かう車の列が動かない。待ちきれないように歩道を走ってくる人がいる。それを横目に見ながら、博物館裏山に続く散策路を登った。竹林を風がなびかせ、時折カ~ンと竹が打ち合う音が響く。山道を辿りついた奥、切り払われた笹の広場に行き着いて腰を下ろし、額の汗を風になぶらせながら木漏れ日を浴びた。時折、野兎が遊ぶ広場である。
 PM2.5などという煩わしい塵は、この木立の底には届かないと信じて、雑木林の中でふと雄叫びをあげて野性に還りたくなる……人間であることを忘れてしまいたい瞬間である。
                 (2013年3月:写真:林立する土筆)
   

春の使者

2013年03月06日 | つれづれに

 「そういえば、手術台で左肩を上にして斜めに固定されたよなァ…」突然今頃になって、欠落していた記憶が蘇る。

 2月13日(水)にF大学病院の術後検診が終わって、退院への期待が膨らみ始めてから10日目だった。見た目には健康体で、暇があると歩きに出てばかりいると、松葉杖や歩行器、三角巾やバストバンドの人たちばかりの病棟に住むのが、些か後ろめたくなり始めていた。そんな遠慮をよそに、本当に大事にケアしてもらった。火曜日と金曜日の午後、院長回診がある。その度に実は密かに期待した。しかし……。
 15日(金)「そろそろ退院を考えましょうか。はい、手を挙げて。う~ん、もう少しですね。あと1週間か10日がんばりましょう」
19日(火)「はい、腕挙げて。うん、いいですね。明日退院でもいいけど…折角だから土曜日までいて、集中リハビリしましょう」

 23日、晴れて退院した。真っ先に携帯電話の買い替えに走った。文字盤が剥がれ始めたこともあるが、どうやら新手の振り込め詐欺(らしきもの?)にアドレスを盗まれたらしく、「900万円当たっています。現金振り込みますから、折り返し口座番号をメールしてください」といったメールが日に何通も届くのが煩わしく、メルアドを変更する序でに、退院記念として家内共々買い替えることにした。こんなお粗末なメールでも、引っ掛かる人がいるのだろうか。
 当分、毎日リハビリに通うことになった。担当の理学療法士が丁寧にマッサージしてくれる。筋肉の一本一本を辿りながら固まった部位をほぐし、30分の予定が時として1時間近くまで及ぶ日もあって恐縮する。私は力を抜いて横たわっているだけだが、理学療法士は汗を流しながらの全力作業である。最後に滑車で7分間左腕を引き上げ、ゴムバンドを3分間引く。

 そんなある日、リハビリ室の助手の女性が真剣な表情で寄ってきて耳元で問いかけた。「うちの梅の木に、目が白くないメジロが来るんですけど…」
 「それって、ウグイスでしょ!」
 暖かい日が次第に多くなり、春が近付いていた。入院中に植木屋に捥いでもらった八朔を二つに切り、棒に刺して植木鉢に立てた。メジロが来てせっせと啄み、隣の槇の枝でヒヨドリが順番を待っている。図体の大きいヒヨドリが、メジロを追い払わないでじっと待っているのが妙におかしい。

 3月5日夕刻、九州国立博物館のボランティア活動に復帰した。折から終盤を迎えた特別展「ボストン美術館」の雑踏が残る館内で、懐かしい仲間たちと3か月半振りに温湿度計の記録紙を交換しながら、ようやく退院の実感が湧いてきた。作業も滞りなくこなせて、先ずはひと安心。入院中にメールで内諾を得ていたボランティア最終年6年目の登録も済ませ、夕風の中を満たされて家路についた。
 夕刻、復帰を報告した五人会の「お母さん」からメールが届いた。「偶然というより、やはり必然!さすが、かつての昆虫少年、啓蟄の日に復帰!いろんなものが飛来して、外出もままならない悩ましい春ですが、ボチボチ過激にお願いします」因みに、五人会の仲間内では、私は「過激なお父さん」と呼ばれている。
 「啓蟄」……虫たちが眠りから覚めて動き始めるこの日は、まさしく彼らにあやかる、私には相応しい現場復帰だった
 我が家には、白い目のメジロしか来ない。
                  (2013年3月:写真:八朔を啄むメジロ)
   

初めての入院・手術(その4)

2013年03月04日 | つれづれに

 一閃、翡翠色の光が対岸に飛んだ。数年ぶりに見たカワセミの飛翔だった。
 御笠川沿いの遊歩道、太宰府市中央公民館の裏を緩く曲がりながら流れ下る川沿いは、あと一か月もすると豪華絢爛の桜並木の散策路となる。お天気のいい日は、外出届を出してリハビリ・ウォーキングに出た。吹く風の冷たさも、日差しを浴びて歩くうちに身体の内側からポカポカと暖かくなる。 
 川底の白砂に小さな魚影が群れ、マガモの番いや、カルガモの家族が波紋を引く。大型のアオサギがギャギャッ!と鳴きながら舞い降り、セグロセキレイが岸辺で尾を振り立てる。ゴイサギが蹲り、ダイサギが抜き足で浅瀬を歩く。珍しい一瞬を見た。まだ頭の後ろに飾り羽を残したコサギが、岸辺の草叢の近くの水を右足でシャカシャカとかき混ぜる。慌てて隠れ家から飛び出した小魚を嘴で一閃、目にも止まらない早業で捕えた。初めて見た野鳥の智慧に感心しながら、まだ固い桜の蕾の下を歩き続けた。

 朱雀大路を右折して、遠の都・太宰府政庁跡の広大な広場に入る。四王寺山を借景に、母と子の姿や、散策するお年寄りがちらほら。入り口の脇に立つ1本のシナマンサクが錦糸卵のような花びらをいっぱいに広げて、真っ青な空をバックに早春の日差しに輝いていた。
 紅梅が美しく咲き、白梅が少し遅れて開き始めた史跡の右脇を抜け、人家の間の田舎道を緩やかに登りあがると、そこは「市民の森」。梅や桜、馬酔木などを中心とした「春の森」を登り詰めて小さな峠を右に下ると、楓を主役にした「秋の森」が斜面に広がる。
 梅がちらほら咲くほかは、まだ一面冬枯れの木立だった。イノシシが掘り返した跡がいたる所に広がっている。葉を落としたメタセコイアの小枝が青空を刺し、馬酔木の蕾も日当たりのいい数輪が膨らみかけているだけで、まだまだ固い。途中のベンチで風を聴きながらミカンを食べた。
 「秋の森」へ抜ける分岐点近くで、バードウォッチャーがカメラを構えていた。そっと近づいて問いかけると、指差しながら「ルリビタキ」と教えてくれた。木立の外れ、陽だまりの枯れ枝の先に、美しい小鳥が遊んでいた。普段は藪の中にいてなかなか姿を見せてくれないのに、人影を恐れることもなく暫く檜舞台の踊り子のように枝先で遊んで、ツイと瑠璃色の光を引いて藪の中に消えていった。

 「秋の森」から畑の脇を抜け、観世音寺に下る。毎年「ゆく年、來る年」で、決まったように除夜の鐘を響かせる古刹の辺りは、様々な歴史を語る史跡地である。周囲の畑は、殆どイノシシ除けの鉄柵で囲まれつつあった。 野生の生き物たちによる被害が広がっているから仕方ないのだが、景観を損ねる無粋さは否めない。そもそもは人間が生き物たちの生活圏を奪っていったのが発端である。今徐々に、人間の手から生活圏を生き物たちが奪い返し始めている。密かにそれを応援している自分がいる。

 始めのうちは三角巾で左腕を吊り、やがて解放されて腕を振りながら歩くのが嬉しくて、8000歩1時間余りの散策を繰り返しながら、リハビリの日々が進んだ。病室の壁に5センチ刻みで貼ってくれた目盛を、指で歩きながら腕を上げていく「指梯子」というリハビリも、やっとの思いで届かせていた150センチから、やがて175センチまで届くようになった。マッサージを受け、忘れてしまった複数の筋肉の相乗運動を少しずつ身体に覚え直していく。滑車で引き上げる左腕も、耳までしか届かなかったものが、肘近くまで頭の上に出るようになった。

 2月13日、術後検診にF大学病院に行く。レントゲンの画像を見て、執刀医のOKが出た。「ビスも正しい位置に収まっています。左手の外旋の力も強くなり、腱板は問題なく修復出来ています。念の為に3月28日にMRIを撮って確認しましょう」
 診断書を受け取って再びK整形外科の病室に戻りながら、退院への期待が俄かに膨らんできた。
 翌日のバレンタインデーに、院長夫人からチョコレートが届いた。少し照れながら婦長から受け取り、照れ隠しのように左腕の振り子運動でその日のリハビリの仕上げとした。
                  (2013年3月:写真:満開のシナマンサク)

初めての入院・手術(その3)

2013年03月03日 | つれづれに

 三が日も過ぎた15日目の朝、慌ただしく同室の仲間たちに別れてリハビリ先のK整形外科に転院した。幸い、我が家から徒歩10分の近場にある評判のいい病院だった。義弟が院長夫妻と親しく、今も仕事の縁があって快く受け入れてくれた。二人部屋の窓側のベッドは全面ガラス張りで明るく、毎日日の光を暖かく浴びるサンルームのように快適さである。同室の膝のリハビリを続ける大学生も、真面目で静かな、そしてすでに就職も決まって卒業前の試験に遅くまで勉強し、松葉杖で補いながら時たま通学もする好青年だった。昨日までの、長屋の花見のように賑やかな部屋との落差は感動的でさえあった。

 此処で、看護の素晴らしい理念を知った。婦長の信念だという。
「食事はお匙を使わず、お箸で摂ってください。吸い飲みは使わないでください。手助けしますから、起きあがって自分で湯呑を使って飲んでください。尿瓶やおむつは決して使いません。夜中でも構いませんから、必ず看護婦を呼んで自分の足でトイレに行ってください。」
 手助けし過ぎない、放置しない。あくまでも「自力」を尊重する。排泄という、ある意味で人間の尊厳にかかわる行為を大事にする。だから、寝たきりにはさせない。……それが出来ない病院が増えてきている。前の病院でも、日夜看護婦や助手の人たちの献身がいかに大変かということを身をもって体感してきた。だから、この理念の凄さはよくわかる。
 6週間、肩の自力リハビリは禁止されているが、肘から先は動かせる。入浴が隔日、三角巾をしたまま、初めのうちは右手と背中だけを看護助手に洗ってもらっていた。やがて、固定した左手を使って、背中や右手を洗うコツを見つけて、自力入浴が可能になった。左肘を脇に固定したままで着替えをすることも可能になった。バスタオルを使い、右手だけで全身を拭くことも覚えた。「出来るだけ、看護婦や看護助手の手を煩わせないようにしよう」……自分に課したささやかな決め事だった。

 転院10日目に、高校同窓会の世話を一手に引き受けてくれていた友人の訃報が届いた。電話してきたのは、前にも書いた同窓の整形外科医、そして偶然此処の院長も彼の教え子だった。術後25日過ぎたし、足は関係ないから葬儀に出てこないか、と。そして、着替えの仕方を丁寧に教えてくれた。許可を得て自宅に帰り、家内にエスコートしてもらってJRで葬儀に駆けつけた。
 卒業30周年の総会を湯布院への修学旅行で始めて以来、実行委員長として彼と同期会を重ねてきた。この秋に卒業55周年を迎える。その企画の骨子を、手術1ヶ月前に打ち合わせていた矢先の急逝だった。新年会の飲み会の帰り、自宅まであと300mのタクシーの車内で意識を失い、二日後に息を引き取ったという。同窓会の柱を失った喪失感に涙をこらえながら出棺を見送り、力を落として病院に戻った。

 6週間目を迎える前日、就寝時のバストバンドが取れ、いよいよ自力リハビリが始まった。46日目に、三角巾からも解放された。自分の左腕の重さに驚き、細く弱々しくなった腕に愕然となった。毎日30分ずつ午前と午後2回のリハビリが、さらに続いた。読書とテレビとラジオと、やがて許された外出許可を使って近郊を歩き回り、時たま自宅に帰り……そんな単調な日々の慰めは、窓辺に家内が置いてくれた「おひさまフラワー」だった。
 明るくなって太陽の光を浴びると電池が作動し、ひまわりの花と葉ががゆらゆらと動き始める。日が暮れると、おとなしく眠りにつく。のどかで健気な姿が、看護婦やお掃除の人たちの人気を呼び、毎日その動きに癒されながら声を掛け合う。家内が通販で3個取り寄せ、ほかの病室にも置かせてもらうことになった。

 9時から7時まで、10時間の消灯は、夜を限りなく長く感じさせる。「これが入院ということなんだな」と実感しつつ、命に障りないことを改めて噛みしめる日々だった。
 2月10日旧正月、終日自宅外出の許可をもらって、果たせなかったお雑煮で遅ればせのお正月を祝った。いつしか、夜明けが早くなっていた。そして、病室の窓辺の一輪挿しに水仙が香って、ゆっくりと春が近づいていた。
           (2013年3月:写真:おひさまフラワー)


初めての入院・手術(その2)

2013年03月03日 | つれづれに

 夜毎救急車が何台も走り込む病院である。しかも師走押し迫った年の瀬の病棟には、様々な人間模様がある。初めから贅沢は言わない心づもりだった。完全看護で、真夜中でも何の不安もない見守りがある。夜勤の看護婦の忙しさは想像していたから、極力ナースコールはしないと決めていた。66日間、唯一コールしたのが手術終わった日の夜だった。尿管カテーテルを抜いた直後の排尿の痛みに貧血を起こしかけ、さらに絶食後のトンカツの夕飯に腹痛を起こし、脂汗を流しながらホットパッドを頼んだ。苦しみながらも「此処は病院」と思うと、どこか安心しきっている自分がいた。

 入院患者の食事への心配りも憎いものがあり、クリマスにはチキンにケーキが添えられる。元日の夕飯には、紙製ながら重箱のおせち料理が届き、予め「お餅食べられますか?」という問い合わせがあった。その反面、整形外科には私も含め片手しか使えない患者が何人もいるのに、2週間の間に殻つきの海老の料理が3度、丸ごとのゆで玉子が2度も出て大苦戦!しかし、食い意地が工夫を生み、何とか片手と口で殻を剥けるようになるから面白い。一番の難儀は、衛生の為に料理の鉢に被せて出されるラップを剥がすことだった。

 来年5月には、外来診察室、入院病棟、手術室を含めたこの本館は新館に移り、此処は駐車場ビルに生まれ変わる。その整理段階の入った為なのか、整形外科と小児科が同じフロアに混在する病棟だった。夜更けまで痛々しい赤ちゃんの泣き声が廊下に染み入り、同室の3人の大鼾が轟く。隣のベッドの少し認知症の出たお年寄りが、ひっきりなしにナースコールを鳴らし、看護婦が遅れると大声で呼ぶ。目の前にナースセンターがあり、ひと晩中ブザーの音が枕に響く……三日後に一人転院したのを機に、ベッド位置を替えてもらったが、すぐにそれ以上にただならぬ状況になった。
 新たに夜間徘徊中に転んで大腿骨を骨折し、正月明けの手術を待つ認知症のお年寄りが入院、二日目に嚥下困難で肺炎を起こした。痰の吸引が1時間おきに続けられ、その度に苦しげな吸引音と、大声で励ます看護婦の声が眠りを奪った。1週間目にさすがに耐えられなくなり、同室の仲間たち4人と訴えて漸く病室を一斉に移してもらうことになった。それから二日間、5人は時も忘れて昼も夜も昏々と眠り続けた。入院以来、初めての熟睡だった。
 折から巷にはノロウイルスとインフルエンザが猛威を奮い、入院するなり婦長が来て見舞い来客の自粛を依頼された。入院が決まった時点で、家内以外は身内さえ見舞いを一切辞退してきていたから異論はない。しかし、日本人の見舞い好きは困ったもので、年寄りが年寄りを見舞いに幾人も病室を訪れる。その挙句、正月明けの転院前夜に、同室の6人が全員風邪を引く羽目になった。幸いインフルエンザではなかったものの、風邪を抱えての苦しい転院となった。
 
 その反面、件の肺炎を起こしたお年寄りは看護婦に任せきりで、家族が見舞いや世話に寄ることは殆どなく、たまに嫁が訪れても、おざなりな声を掛けるだけで5分そこそこで帰って行った。年の暮に単身赴任から帰って来る筈の息子も、とうとう訪れることはなかった。
 足慣らしに歩き回る病棟の窓から冬枯れの景色を眺めながら、高齢化が進む中で迎えるこれからの歳月に思いを馳せること頻りだった。
 独り留守居の家内が、部屋が寒いという。一人の夜が怖いという。ベッドで遠くに除夜の鐘を聴きながら、ひっそりと年が暮れた。
          (2013年3月:写真:留守宅の雪景色)

初めての入院・手術(その1)

2013年03月02日 | つれづれに

 「……さ~ん、分かりますか?」遠くから聞こえる声に闇の世界から覚醒し、真っ先に尋ねたのは「いま、何時ですか?」
 11時半だった。手術室に運ばれたのが8時半。テレビや映画の世界の美しく清潔な手術室と違って、何だか雑然とした台所みたいな印象だった。想像したより狭い手術台、前日はいった6人部屋の病室で聞いた噂通り、何故か美しく可愛い女性ばかりの麻酔医と看護婦。(私たちの世代には、どうしても「看護師」という呼び方が馴染まない。白衣の天使は、やっぱり「看護婦」と呼んでしまう。)2枚のごわごわの布を脇で張り合わせただけの術衣の下は何もつけてないから、何となく落ち着かない。…と思ったのも一瞬で、点滴に麻酔薬が落ち始めたら、数秒で闇に落ちた。

 また意識が消え、次に気付いたら廊下を運ばれていた。「レントゲン撮りますからネ」…そしてまた闇。その後はっきりと目覚めたのは12時15分、既に病室だった。三角巾で吊られた上からバストバンドで胸に固定された左腕がズシンと重い。痛みは殆どなかった。全身麻酔に加え、肩から腕の付け根辺りの神経叢近くに差し入れられた針から麻酔が落とされている。前日の説明に「伝達麻酔」とあった。
 2012年12月19日、F大学病院の整形外科に入院、翌20日の朝一番で手術。「左長頭腱亜脱臼、左肩甲下筋断裂の修復手術」…命には障りないから、初めての入院手術にも緊張や不安はなく、どちらかと言えば好奇心の方が勝っていた。(だから、家族も深刻な心配はしてない。)加えて、肩の権威と評判高い執刀医の教授が、たまたま私の高校の同窓生の整形外科医の教え子だったこともあり、彼の「よろしく」と声を掛けてくれたひと言で、一段と信頼感・安心感が増して、何の不安もなく手術に臨んだ。
 同室の同じような手術を受けた先住患者たちは、数日痛みに呻吟したというのに、翌日には鎮痛消炎抗菌の点滴も終わり、鎮痛剤の服用も必要ないほど術後の痛みは殆どなかった。そして、何よりもの不快感と苦痛は、差し込まれた尿管カテーテルだった。術日の夕飯(2食絶食の後、いきなりのトンカツ!)を済ませて、ようやくカテーテルを抜かれるときの怖気立つほどの不快な痛みと屈辱感、翌日まで続いた排尿時の痛みの凄まじさが、今回の手術初体験で一番の印象だった。

 数日後、担当医から映像を見ながら手術の説明があった。
 「亜脱臼していた上腕2頭筋の1本は、修復不能の為切り落としました。力瘤が少し下に落ち、左腕の腕力が10%ほど弱くなりますが、日常生活には影響ありません。肩の関節内の切れた腱板は、4ミリの関節内視鏡を入れてチタンのビス4本を骨に埋め込み、それぞれ4本の糸で縫い寄せて縛り付けています。2週間は絶対に左腕を自力では動かさないでください。また切れたら、今度は関節を切開しますから悲惨ですよ。」
 左肩に開けられた5つの小さな穴は、手術翌々日には5枚の小さな絆創膏だけになり、1週間後には抜糸された。「五つ星(ファイブスター)」などとふざけながら、6人部屋でクリスマスを迎え、9時消灯後の個人テレビで大晦日の紅白歌合戦を観て、2013年の元旦を迎えた。
 明けて1月4日にリハビリ専門の病院に転院するまで、この病棟で様々な人間模様を見て、想定外の経験を重ねることになる。
 そして、長い長~いリハビリ入院が待っていた。66日間の入院から還り、ようやくPCに向かって蟋蟀庵のくぐり戸をくぐった。
           (2013年3月:写真:クリスマス・ディナー)