蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

高原の初夏

2017年05月24日 | 季節の便り・花篇

 軽やかなキツツキのドラミングが次第に近づいてくる。瑞々しい新緑の林の奥、枯れ草にシートを敷いて、火照った身体を緑の風に弄らせていた。時折雲が切れて、柔らかな日差しが枯葉の上に木漏れ日を落とす。シジュウカラやホトトギスの囀りが一層の静寂を演出して、久住・飯田高原・長者原自然研究路道半ばの至福の昼下がりだった。コンビニお握りと漬物だけのささやかな昼餉が、三ツ星レストランの豪華なランチよりも遥かに美味しく感じられる。

 1年振りの高原一人走りだった。カミさんが、好きな歌舞伎を観に数年振りに一人で上京した。七世尾上梅幸二十三回忌、十七世市村羽左衛門十七回忌「團菊祭五月大歌舞伎」、まだ躊躇うのを一歩前向きに押し出すために「マイレージが一人分残ってるから、思い切って行っておいで」と送り出した。1泊2日、幸い夜の部で親しい歌舞伎仲間と合流する。気配りが行き届く仲間だから、きっとエスコートしてくれて、夜遅くまで歌舞伎談義が弾むことだろう。
 空港に送り、手荷物検査場にはいるところまで確かめて帰り、やり残していた仏間の障子4面を張り替えた。肩と腰の心地よい凝りに爆睡。

 翌朝、9時にザックと愛用のLEKIのトレッキング・ポール、カメラと交換レンズ、何故かバスタオルを積んで走り出た。筑紫野ICから九州道、鳥栖JCTから大分道に乗り玖珠ICに走る。一般道に降りて馴染みのコンビニに寄り、梅握りと日高昆布握り、浅漬けの漬物、お茶を買う。もう恒例になった立ち寄りだが、レジ二人がちゃんと日本語を話す金髪の西洋人だったのは驚きだった。大学もないこんな田舎町なのに……。
 四季彩ロードを一気に駆け上がり、ふと気になって泉水山の裾の小さな路肩の窪地に車を停めた。4月半ばには、一面黄色の絨毯を敷き詰めたようになるキスミレの群生地である。この時期、さすがにもう無理だろうと思いながら斜面を登ると、あちらこちら野焼きの跡も薄れつつある中に、思いもかけずキスミレが咲き残っていた!諦めていたのに、自然からの贈り物……「待っていてくれたんだネ!」
 膝が黒くなるのも厭わずに、蹲ってシャッターを落とした。ワラビも立っていたが、これは採り始めると際限がない。敢えて背を向けて車に戻った。泉水山の裾を抜けて右折すると、眼前に三俣山、硫黄山、星生山の稜線が、のし掛かるようにせり上がってくる。この辺りで空いっぱいに雲が広がって、初夏の日差しが消えた。この山は、この時期やはり紺碧の青空がよく似合う。

 長者原ビジターセンター脇の駐車場に車を置き、タデ原湿原の木道に立った。一周2.5キロの自然研究路の入り口、硫黄臭のする小川に掛かる橋の袂には、まだ山藤がたわわに花穂を残していた。木道に原色の一団がいる。こんな所にまで、新品のトレッキングポールを持ちカラーサングラスを掛けたアジア人、その姦しさに辟易しながら、逃げるように木道を進んだ。
 ハルリンドウの群落がある、ニホンサクラソウの可憐な花がある、キンポウゲが群れ咲く。樹林にはいる手前の草陰に、チゴユリが隠れるようにうな垂れていた。ミツバツチグリの黄色も可憐だった。また這いつくばってカメラを向ける。
 樹林の遊歩道にはいると人影もなくなり、人声も聞こえなくなった。少し木立の深みに身を隠して、握り飯のお昼を食べることにした。BGMは小鳥の囀りとキツツキのドラミング。「タラララララララ!」というアップテンポなリズムに、食欲も弾む。食べ終わり、シートに横たわって新緑の森林浴をほしいままにしながら、至福の陶酔に浸っていた。

 木立の中の木道を辿り終って車に戻り、牧の戸峠を越え、瀬の本から黒川温泉に下り、いつものようにファームロードWAITAを駆け降りる。熊本地震以来で心配していたが、立ち寄り露天風呂「豊礼の湯」は変わりなくそこにあった。1年前、やはり一人走りで男池(おいけ)の山野草を訪ね歩いた後に此処に寄って、その2日後に熊本を激震が襲ったのだった。
 1200円で50分間掛け流の贅沢を独り占めし、目の前の湧蓋山のなだらかな稜線を見ながら湯に沈んだ。ここ数日酷使した腰や腕や脚に、ねっとりとまつわりつく白濁の湯に、ふう~ッと満ち足りた吐息をつきながら癒されていた。

 走行距離257キロ。その夜帰ってきたカミさんの飛行機がANA267便。あと10キロ走ってくれば符牒が合ったのに、惜しかった!免許証返納の先延ばしに自信を持った、お気楽なシニアドライバーの拘りである。
          (2017年5月:写真:タデ原湿原の山野草と自然研究路の木漏れ日)

静かな夜

2017年05月21日 | つれづれに

 30度を超える日が二日続いている。群馬県館林では、今年初めて35度を超える猛暑日になったとニュースが伝えていた。今年も、異常な暑さに翻弄される夏になるのだろうか。五月、風薫る紺碧の青空が眩しいこの季節ではあるが、朝と昼の温度差の激しさに戸惑う歳になった。目覚めて肌寒さに長袖のシャツを着て、午後の暑さに袖を捲りあげて汗を流し、日が落ちると25度もあるのに脚がヒンヤリとして窓を閉める……「昔は、こんなことなかったよね!」とカミさんとかこちつつ、夕飯を済ませた。

 障子の黄ばみと小さな破れが目立つようになり、突然障子を張り替えたくなった。これまでは大晦日恒例の行事だったのだが、考えれば何もお正月に合わせる必要もない。確かに気分一新して迎える新年は気持ちいいものだが、忙しない師走に寒さに耐えながら障子を水洗いし、一気に張り替えるのは決して楽なものではない。いっそ梅雨入り前に張り替えてみようと朝から糊を焚き、先日買い求めていた障子紙を取り出した。
 30年前の新築の際に、客間を長年の夢だった雪見障子にした。しかも、一枚張りやアイロン障子紙で楽をするのが嫌で、今も一段ずつの手張りに拘っているから、この雪見障子は一段と手間がかかる。桟を取り外し、ばねを押さえて雪見障子を外す。濡れ雑巾で湿してから古い紙を剥がし、拭き上げて逆さまに立てる。糊を刷毛で塗り、上から障子紙を左から右に転がしながら一段ずつ貼っていく。紙の幅が合うものがないから、三分の一ほどは無駄になるが、カッターの刃を換えながらその部分を切り落とし、次の段に移る。張り終って生乾きの時に霧吹きで湿らせ、張りを出す。

 書けばこれだけのことだが、客間の4面8枚と、玄関の腰高窓の2枚、合わせて10枚を張り終ったら夕暮れが近付いていた。乾いたところで再び雪見障子を組み立て、元の位置に立てる。間違えないように、天の横桟の隅っこに、それぞれ左外、左中、右中、右外と鉛筆で書いてある。張り替えてみて、あらためてどれほど黄ばんでいたかを思い知らされた。立て終った真っ白な障子に、透かし彫りの竹の影が美しい。
 「わぁ、綺麗になったね!」と褒めてくれるのはカミさんだけ、あとは独りよがりの自画自賛。

 訪れるお客様も高齢化して膝が悪くなったり、若い人は椅子の生活に慣れて正座が苦手になっているから、客間を使うことは稀になった。最近になって座椅子を三脚置いて、たまに座るお客様にも喜んでいただいているが、気のおけないお客様はリビングのソファでもてなすから、益々客間の需要は少なくなった。
 将来、足元が覚束なくなり2階の寝室が億劫になったら、此処が老夫婦の寝室になるのかもしれない……切ないが切実な現実である。

 仏間の4枚は次の日に残して、熱いシャワーを浴び夕餉についた。決して力仕事ではないが、けっこう気を遣う作業であり、緊張の汗を流した。ひと缶のビールで、ほろほろと酔った。
 「この前張り替えたのは、いつだっただろう?」
 気になってブログを遡ったら、2011年12月15日にアップしていた。
 「え~っ、5年半も経ってる!」

 昨夜から梟の鳴き声が頻りである。遠く天神の杜辺りだろうか、フクロウが「ホッホ、ホホッホホッホ、ホッホ♪」、アオバズクが「ホッホ、ホッホ、ホッホ♪」と今夜も鳴き交わしている。
 「森の物知り博士」、「森の哲学者」「森の忍者」などと云われ人に親しまれているフクロウだが、夜行性のその姿を目にすることは稀である。鳴き声も「ゴッホウ ゴロッケ ゴゥホウ」などと書かれることが多い。フクロウは特に冬の夜に哀しく聴くことは多かったが、アオバズクを聴いたのは昨夜が初めてだった。
 何はなくても自然がある……太宰府も捨てたものじゃないと、無理な姿勢で少し凝った肩と腰を労わりながら、夜風に吹かれて梟たちの鳴き交わす声を聴いていた。

 静かな夜である。
              (2017年5月:写真:アオバズク  ネットから借用)

ありがとう、マエストロ・オザワ!

2017年05月18日 | 季節の便り・旅篇

 一瞬、頭が真っ白になった。大分iichikoグランシアター「第19回別府アルゲリッチ音楽祭2017」の舞台で、75歳のアルゲリッチに手を引かれ支えられながら、曲がった背中とややおぼつかない足取りで、81歳の小澤征爾が登壇した瞬間のことだった。

 私の手許に、一冊の文庫本がある。裏表紙のキャッチコピー……「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土地、そこに住んでいる人間をじかに知りたい」という著者が、スクーターでヨーロッパの旅に出たのは24歳の時だった……。ブザンソンの国際指揮者コンクール入賞から、カラヤン、バーンスタインに認められてニューヨークフィル副指揮者に就任するまでを、ユーモアたっぷりに語った「世界のオザワ」の自伝的エッセイ……。
 この「ぼくの音楽武者修行」を読んで以来40年余り、ようやく叶えた夢だった。1959年にギターとスクーターを積んで貨物船で渡仏、ブザンソン国際指揮者コンクールと、カラヤン指揮者コンクールでそれぞれ第1位を獲って以来、1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任、1964年トロント交響楽団の指揮者就任、1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮、1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督就任、同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任、1973年、38歳のときに、アメリカ五大オーケストラの一つであるボストン交響楽団の音楽監督就任、2002年、日本人指揮者として初めてウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートを指揮、2002年ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任……
 「世界のマエストロ・オザワ」の華々しい活躍に、「一度でいいから、ベルリン・フィルを振る小澤を、現地で見たい」とさえ憧れ続けてきた。しかし、国内の演奏会にも何故か縁がなく、いつしか小澤は遠い遠い憧れに留まってしまっていた。

 リタイアして間もなく、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のチケットをようやく手に入れて航空券まで手配したが、やむを得ない理由でキャンセルせざるを得ない事態になった。
 やがて小澤を暗雲が襲う。2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術、2006年帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎、2010年食道癌で食道全摘出手術、2015年腰椎棘突起および横突起骨折……もう、直接彼を見ることはないだろう、憧れは憧れで終わるだろうと諦めていた。

 先月、新聞紙面に「GS(最上席25000円)で小澤征爾指揮、マルタ・アルゲリッチのピアノで、ベートーベンのピアノ協奏曲第1番を聴くツアー」の募集を見付けた。限定25名の特別企画で一人7万円……カミさんのもろ手を挙げての賛同を得て即決申し込んだ。

 前から4列目のGS席だったが、残念ながらピアノの陰になって、指揮棒を振る小澤の全身は見えなかった。ピアノの下に、僅かに腰から下が垣間見えるだけで、譜面台に時折腕の影が映り、譜面を繰る指が掠める。ピアノが主体の時は腰をおろし、オーケストラが謳う時には立ち上がり、大きく腰が動く。それでも、憧れの小澤がそこにいた。瞼の奥では、元気なころの小澤の姿をピアノの向こうに見ていた。
 2008年1月23日、ベルリン・フィルハーモニー大ホールでベルリン・フィルを振る小澤のDVDが我が家にある。曲はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。指揮棒を持たない小澤が、時に厳しく、時に柔和に、そして時に悲哀をにじませるまなざしで、曲をダイナミックに、繊細に紡ぎあげていく。その姿を脳裏に彷彿させながら、うっとりと聴き入っていた。

 曲が終わる。万雷の拍手の中で、小澤が繰り返しコールに応えて舞台に戻ってくる。5度6度、7度8度、……「ありがとう、マエストロ。本当にお疲れ様でした。もういいから、帰って休んでください」と心では叫びながら、立ちあがったまま拍手の手を止めることが出来なかった。固まった背中と腰で、懸命に少し膝を折りながら挨拶を繰り返す姿は、痛々しく切なく、瞼が熱くなった。この歳で、そしてこの身体で指揮台に還ってくる……その凄絶なまでの音楽への執念に打たれ、圧倒されるほどの感動に身体が震えた。。
 最後にアンコールに応え、モーツアルトのディヴェルティメントを振って、「世界のマエストロ・オザワ」は鳴り止まぬ拍手の渦の中を、前かがみになり肘を曲げた両腕を振りながら、ようやく舞台を去って行った。やり尽くし、すべてを達観したような穏やかな後姿だった。

 翌朝、まだ冷めやらぬ想いを胸に由布院に走った。バスを降りて亀の井別荘「湯の岳庵」での食事を前に、「茶房・天井桟敷」に寄った。アジア人観光客の原色と姦しい声が行き交い、安っぽい場末感漂う由布院を歩く気は毛頭ない。
 木の階段を上がり、入り口を入ってすぐ左に、作り付けのテーブルに、窓に向かって二つの椅子が置いてある。右側に衝立のように壁が立ち、店内のざわめきを断って、目の前の古い格子窓越しに、緑の木立だけを見入ることが出来る席に座る。このお気に入りの席で、言葉はもう要らない。新緑の楓を真っ赤なプロペラ(種子)が鮮やかに彩り、真っ青な初夏の空を、由布岳の山裾が斜めに切り取る。
 やり残したことのひとつが、思いがけず叶えられた熱い旅の最後は、イエーメン・モカの芳醇な珈琲の香りに包まれて過ぎて行った。
                  (2017年5月:写真:茶房・天井桟敷の窓から)

初夏の邂逅

2017年05月07日 | 季節の便り・虫篇

 夏が立って二日目、長かったゴールデン・ウイークの最終日。折りから今年初めての黄砂が列島を覆い、PM2.5も30μg/㎡を超える午後だった。気温27.5度、やや濁った皐月の空から強い日差しが降り注いでいたが、吹く風は清々しく爽やかだった。

 カミさんの携帯に、馴染みのY農園の奥様から「グリンピースの収穫にいらっしゃいませんか?」という誘いのメールが届いた。午前中、地域の公民館清掃に出掛け、一年振りの組会議で談笑、かつては半数を占めていた男性が僅か二人だけになっていた。高齢化や病気で、男性の参加者が減っていく。女性の生命力の強さを実感させる現象だった。
 一抹の寂しさを感じながら帰る途中、公民館脇ののり面に美しく紫の穂を立てる野性のタツナミソウを見付けた。こののり面は、行政が半年ごとに全てを根元から刈り採ってしまう。咲き誇っているノアザミも、このタツナミソウもあと僅かな命である。だから、せめて我が家の庭で、その瑞々しい花姿を留めたかった。4株掘り採って持ち帰り、鉢に植えた。蟋蟀庵の庭先の白のタツナミソウは花時を終えたが、花の丈と力強さが違う。野性の美しさに、今日も「やはり野に置け」を思い知らされた気がした。
 やがて種子を着け、きっと来年の初夏には株を増やしてくれることだろう。

 束の間の午後のうたた寝の後、少し傾きかけた日差しの中をYさんの畑に向かった。約束の時間に少し早く、畑はまだ無人の静寂。Yさんの到着を待つ間に、道を隔てた草むらの中に分け入った。キンポウゲが絨毯のように黄色い花を艶々と広げ、敷き詰めた雑草の間をノアザミが棘とげの花を立てている。
 その草叢のあちこちに、見慣れないトンボの群れがいた。無意識に見かけたことはあるかもしれないが、はっきりと意識して確認したことがないトンボだった。短い尾を反らせ、ずんぐりとした姿に加え、同じ形でありながら、麦色の身体と真っ黒な身体と2種類が、周りの草の葉の間を絡み合うように飛び回り、草の葉に翅を休めている。
 生憎、望遠レンズ付きのカメラを持ってきていない。自慢のガラ携(強がりでなく、これでさえ使いこなせないほどの機能を持っているのに、スマホなど後期高齢者には無用の長物。カメラ機能も、20ン万の一眼レフよりも綺麗な絵が撮れることがあって、口惜しい思いをするほど優れもののガラ携)のカメラを、ズームいっぱいに拡大して、抜き足差し足で近寄り、幾度も逃げられながらやっとの思いで撮った。
 色違いは多分雌雄だろうという予想はついたが、名前を知らない。帰って図鑑で調べることにして畑に戻った。

 300坪の畑は、Yさんご夫妻の連休中の丹精で綺麗に整えられ、夏から秋への野菜の苗が育っていた。晩白柚も溢れるほどの蕾を着け、秋が待たれる。自転車で駆け付けたYさんと談笑するカミさんとの間に混じって、グリンピースのふっくらした膨らみを指で確かめながら、ほしいままに採らせてもらった。「もうこれで十分です」と言いながら、また一つ採ってしまう。キリがない所は、ワラビ狩りと同じである。
 ひと休みして、出してもらった折りたたみ椅子とテーブルで菓子をつまみ、持参した淹れたての熱いコーヒー(私のお気に入りの、やや酸味があるモカ・バニーマタル)を喫みながら、3人で爽やかな初夏の風に吹かれていた。つい先日まで盛り上がっていたカリフラワーのような楠の新芽も、すっかり新緑の中に紛れ込もうとしていた。

 帰り着いて開いた図鑑で、ハラビロトンボ(腹広蜻蛉)という名前を確かめた。東北以南に広く生息する32~37mmほどの小型のトンボであり、孵ってしばらくは同じ麦色なのに、成長と共に雄は全身真っ黒に変容する。額の上の部分が金藍色の金属光沢を帯びて、なかなかのご愛嬌である。
 野原の側に小さな流れがあった。そこで育ち羽化して、この季節、縄張り争いをしながら交尾し、子孫を繋いでいるのだろう。雌が腹の先で水面を叩きながら産卵する間、雄はその上でホバリングして雌を護るという。人間顔負けの愛妻家なのである。

 もう65年以上昆虫と親しみながら、まだこんな思いがけない出会いと発見があるから嬉しい。早速炊き上げた豆ご飯で、季節感豊かな夕飯を摂った。
 ゴールド・エイジの、「黄金の日々」の始まりである。
                    (2017年5月:写真:ハラビロトンボの雌と雄)

 ≪タイトルまたは画像をクリックしていただけば、写真が大きく拡大されます≫

(旧作) 十二神将 奈良紀行(3)

2017年05月05日 | 季節の便り・旅篇

 花の寺・長谷に向かう長い参道に降り注ぐ日差しは、肌に痛みを伴うほどに強く、一日で室生からの探訪を欲張った身にしたたかにこたえた。
 初夏の陽気を、気紛れにひと月早めて見せた紺碧……それも、フルムーンの初旅に対する大和路からの贅沢な贈り物としよう。
 鄙びた静かな山寺のしじまに浸ったあとだけに、いささか観光に俗化された参道の賑わいと人波が煩わしく、心に描いていた長谷寺のイメージが微妙にずれていく。そんな我儘も、昨日からの幾度もの感動の疲れがそろそろ出始めていたせいかもしれない。初瀬山の仁王門への20分あまりの道のりは、やたらに長く感じられた。

 真言宗豊山派総本山。

 仁王門を潜ってやがて始まる登廊は、さすがに期待を裏切らず、鮮烈な印象を旅心に注ぎ込んだ
 百八間399段、途中鍵の手に折れて続く回廊式の浅く優しい石段が、西に傾いた日差しを斜めに受けて、歯切れ良い陰影の世界を演出してみせる。そして、その光と影のモザイクを重ねるトンネルの天井に、遠近感を一段と強調するかのように、長谷型燈篭が整然と連なっていた。
 名高い牡丹の花時にはまだ遠く、境内の草毟りに精を出す老人と行きずりの言葉を交わしながら、妻とゆっくり回廊を巡った。濃淡層を重ねる緑の中に、此処も今を盛りと咲き誇る絢爛の桜だった。

 夜が爽やかに時を進める。
 素泊まりの宿の湯に、往復二千段近い山寺の散策の疲れを癒したあと、今夜も外で気儘な食事を摂って、食後の散歩は昨夜確かめた興福寺五重塔のライトアップを再び訪ねることにした。
 ほろ酔いの頬の火照りに夜風が心地よい。気怠い脚の重さを持て余しながら、境内を歩いた。時折樹の下の闇から、うっそりと鹿が歩み出て驚かされる。
 ライトに浮かび上がる五重塔は、眩しいほどの昼間の日差しの下とは趣を変えて壮麗で美しく、取り囲む樹木の緑も一段と輝きを増して目に映じた。
 塔を巡るうちにいつしか星も消え、風が湿りを帯び始めていた。

 今日12日は、東京で働く奈良狂いの長女の25歳の誕生日だった。合流してここでお祝いする予定が仕事で流れてしまったが、あるいはフルムーンの水入らずを気遣った、娘なりの思い遣りだったのかもしれない。
 次女は、フィリピン留学の後、今は一人カナダで学んでいる。「オーロラを見た!」と感動の葉書を送ってきたのは、つい先ごろのこと。
 親離れして生きるそれぞれの人生。再び二人きりになった夫婦が、それぞれ娘への想いを抱きながらの、ほのぼのとした春の夜のそぞろ歩きだった。

 夜半、夢うつつの中で雨の足音を聴いた。桜の花びらを容赦なくたたく雨を、、瞼の裏にはっきりと見た。 
 奈良の春が逝こうとしていた

         ―――――――・―――――――
 一夜明けて……。

 春日大社表参道を歩き、二の鳥居から右に折れると、奈良公園の木立の中を「ささやきのこみち」が続く。小雨煙る小径は馬酔木のトンネル。遠くの木立からキツツキのドラミングが朝の空気を軽快に震わせ、キジバトがくぐもった呟きを添える。
 奈良の旅、三日目の心づもりは、新薬師寺の十二神将と秋篠寺の伎芸天。夜半から雨に代わった佇まいは、きっと奈良のもうひとつの顔を見せてくれるに違いない……そんな期待で「ホテル花小路」を浮かれ出た二人だった。
 二日目の日照りに火照った肌を包むように、雨に湿った朝風が戯れて過ぎる。林を抜けたところに、志賀直哉の旧宅がある。俄かに雨脚が強くなったのは、その辺りからだった。

 「山の辺の道」の入り口、そして柳生街道(滝坂道)の辺り、崩れかかった土塀に歴史を刻む道筋を少し行くと、そこがもう新薬師寺だった。
 聖武天皇の眼病平癒を祈る、光明皇后の思いが凝縮する天平の古刹。重文・東門を右に見て、南門に向かう。
 折悪しく、国宝の本殿は改修工事中だった。鉄のパイプと波板の屋根が無粋にお堂を覆い、それを叩く激しい雨脚が静寂を無残に破っていた。その上、暗闇に佇むはずの十二神将が、なんと裸の蛍光ランプの白々しい光を浴びせかけられてしまっている。
 「懐中電灯を借りて、それで仏様をひとつひとつ照らしながら拝観するんだよ」と娘が言っていた。だから、一層ありがたさが増すのだ、と。
 刻まれた仏は、自然の光と影が織りなす微妙な陰影の調和を厳密に計算してある。だから、人工的な光を当てるには、きわめて慎重な配慮がなされなければならないと思う。改修工事の為と許したいのだが、それにしてもあまりにも配慮を欠く光の狼藉だった。
 堂内に貼られたポスターによると、ここでレーザー・ショーをやったこともあるらしい。屹立する十二神将の、苦りきった表情が目に浮かぶ思いだった。

 かつて、東大寺と共に南都十大寺のひとつに数えられ、四町八方に七堂伽藍を誇ったこの寺も、建立33年後の落雷炎上により、本堂のみを残して灰燼に帰し、鐘楼、地蔵堂に二つの門は、後に鎌倉時代に再建されたものだという。
 本堂は床に瓦を敷き詰め、中央の円形の土の須弥壇に本尊・薬師如来が坐し、それを取り囲むように十二神将が立つ。日本最古最大の神将像は豪壮にして華麗、顔面・全身の筋肉が猛々しいまでの躍動美を誇っていた。
 それぞれが夜叉大将として7000の眷属を率い、合わせて84000の軍団が、薬師如来の守護に当たる。やはり吟味された光か蝋燭の炎の揺らぎで、この躍動美を見たかったと思う。

 古来、日本の文化は陰影の揺らぎの中で育まれた。その極致を能に見る。薪や蝋燭の炎の揺らぎを受けて、ひとつの能面が千変万化する。光と影の微妙なコントラストが喜怒哀楽の全てを映し出し、硬質の木彫りの面に柔らかな命を吹き込む。それは決して、昼間の眩しい明るさだけの世界では生まれない文化だった。
 仏は、暗いお堂の中で外からの光を土の床に受け、その淡い反映を掬って慈悲のまなざしを人々に注ぐ。きらめく神々しさよりも、仄かな明りに目を凝らしてこそふさわしいと思う。

 十二神将は干支の仏でもあり、十二支それぞれの神将には、それぞれの本地仏が重ねられている。子・宮毘羅(弥勒菩薩)に始まり、丑・伐折羅(勢至菩薩)、寅・迷企羅(阿弥陀如来)、卯・安底羅(観音菩薩)、辰・頞儞羅(如意輪観音)、巳・珊底羅(虚空蔵菩薩)、午・因達羅(地蔵菩薩)、未・波夷羅(文殊菩薩)、申・摩虎羅(大威徳明王)、酉・真達羅(普賢菩薩)、戌・招杜羅(大日如来)と続き、亥・毘羯羅(釈迦如来)にいたる。
 東洋のギリシャ、日本の莫高窟……新薬師寺にはさまざまな呼称が冠せられるが、春の雨に包まれて沈む風情には、そのような呼称はむしろ要らない。 
 秋、萩の花がこぼれる頃には改修も終わり、また歴史の重みをずっしりと載せて、古寺の静寂が蘇ることだろう。
 伐折羅大将の炯々の眼光を背中に浴びながら、再来を期して本堂を後にした。

 旅の終わり、秋篠寺に向かう。夜来、ひとしきり降り続いた雨が、ようやくその足取りを緩めようとしていた。
                   (1991年4月:写真:伐折羅大将)

(旧作) 花吹雪 奈良紀行(2)

2017年05月05日 | 季節の便り・旅篇

 眩しい日差しを弾き返しつつ、奈良盆地から山あいにはいった近鉄電車は、やがてトンネルを抜け峠を下って「室生寺大野口」に走り込んだ。ホームに散り敷いた桜の花びらが一陣の風に舞い上がり、梢から散るそれを巻き込んで豪華な竜巻となる。
 山深い里の佇まいは、初夏を思わせる陽気の中に旅心をしっかり包み込んで、私たちを迎えてくれた。室生寺へは更に7キロとある。勧められるままにタクシーに乗り、川沿いの道を上がることにした。

 まだ、昨日の阿修羅の余韻が心を揺らし続けている。あの後辿った道筋もそれぞれの記憶を残してくれた筈なのに、阿修羅への想いにくらべれば、それなりのものでしかなかった。
      ――――――――――・――――――――――

 興福寺・国宝館の脇を抜け、国立博物館の前を東に歩き、北に折れて東大寺・南大門をくぐる。国宝の仁王像は、一体が修復の為に無粋な工事用のテントで覆われていたが、西の一体だけでも、運慶・快慶の乾坤の鑿の響きを聴くには十分だった。
 正面に金色の鴟尾を大屋根に載せた大仏殿が天を威圧し、枝垂れた桜が今を盛りの妍を競う。巨大な廬舎那仏は、仄暗い堂の中で28年前に仰いだままに、56葉の蓮華座の上に、天平の開眼以来1239年の歴史を見守り続けていた。

 東の回廊の裏を北に進むと観光客の喧騒も途絶え、やがて二月堂への裏参道に出る。所々朽ちかけた土塀沿いに、幾つか小さく折れながら、切れては続く浅い石段と緩やかな坂を上る。右手の小さな畑を隔てて、荒れた土塀の上に室町時代の大浴場・大湯屋の甍が連なり、もう夕方近い参道は、歴史を辿るにふさわしい静けさに包まれていた。もうひとつの奈良、というより、本当に味わいたかった鄙びた奈良の佇まいが、この裏参道には残されていた。
 上り詰めて目を上げると、そこに二月堂があった。
 崖にせり出した舞台造りの回廊に立つと、眼下に奈良の街並みが広がる。右に大仏殿の甍、そして木立の向こうに興福寺の五重塔が立つ。汗ばんだ肌に夕風を入れながら、心地よいため息が漏れた。

 三月堂(法華堂)。

 かつて高校時代、卒業アルバムの編集に携わったとき、出入りの写真館から一枚のモノクロの仏像の写真をいただいた。初めて仏像に心を魅かれた、いわば私にとっての開眼となった一枚の写真、それがこの三月堂の本尊脇侍・月光菩薩像だった。以来34年を経て、いま実物の前に立った。深い感慨があった。
 本尊・不空羂索観音菩薩の左右に帝釈天、梵天。脇侍として日光・月光菩薩。その左右に地蔵菩薩と不動明王。最前列に阿吽の金剛力士。奥に福徳円満の女神・吉祥天、弁財天。本尊の陰に執金剛神。そして内陣の四隅を持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が守る。15体の諸仏を脇に置いて、三面八臂の菩薩は天平以来の衆生済度の慈愛のまなざしを惜しみなく注ぎ続けていた。

 日暮れが近い。 
 「今日は、ここまでにしよう」
 三月堂の茶店でひと休みした後、小径を下る。木立の中には、もうひっそりと黄昏が忍び寄っていた。散り敷いた桜の花びらを豪華なしとねに、ひと群れの鹿が、あるいは座りあるいは佇み、時折寂しげな鳴き声を届けてくる。鏡池のほとりを抜ける頃には、あれほどの人影は嘘のように消えて、ただ静けさだけが夕べの風の中にあった。
 大和路の旅の初日は、ようやく終わろうとしていた。
     ――――――――――――・―――――――――――

 宇陀川の流れの向こう、大野寺の弥勒磨崖仏を車窓からの一瞬の目に止め、室生川の蛇行に沿って道が続く。15分も走ると室生寺。険しい山肌の木立に埋もれる女人高野は、シャクナゲの季節には早く、散り急ぐ満開の桜だけが惜しみなく花びらを舞わせていた。
 天平の昔、済度を求める幾多の女人にとって、ここは都からどれほど遠い奥山だったことだろう。病気平癒の祈願のみならず、様々な心の葛藤を抱いて山道に杖を引いたに違いない。いにしえの女人たちへの想いに、ふと朱塗りの太鼓橋や仁王門の華やかさに一抹の違和感が芽生える。しかし、それらも石段をゆっくり上がるうちに消えて行った。
 時折、梢からシジュウカラの澄んだ囀りが降ってくる。遠くでツツドリも鳴いて、のどけさは深まるばかりだった。

 金堂にまたひとつ、息を飲む仏の慈愛を見た。前面に十二神将が、小振りながら運慶作と伝えられるにふさわしい見事な躍動をみせ、一木造りの本尊・釈迦如来像が立つ。右から薬師如来、地蔵菩薩、本尊を挟んで文殊菩薩。そして、左端に立つ十一面観音のすがたに接したとき、息を呑む感動があった。
 板壁を背にした華麗優美な仏は、ふくよかな等身大の容姿と限りなく優しい顔容で立ち、その半眼に見詰められているうちに、いつしか心鎮まり、様々な煩悩の全てが溶けていくような不思議な安らぎに包まれていった。
 忘我恍惚にも似た安らかな表情で、妻が沈黙の掌を合わせる。女人済度の室生寺、その実感は本尊よりもこの仏にあった。

 五輪塔を左に見て石段を上がると、深い杉木立を背に美しく可憐な五重塔が見えてくる。僅か9間あまりの小さな塔なのに、檜皮葺の軒を深く反らせ、くすんだ朱塗りの柱と白壁の調和が、見事に完成された天平の建築美を新緑の中に浮き立たせていた。マニアが数人、前景に桜を入れてカメラの収めようと騒ぎ立てるのが少し煩わしい。
 絵に中に溶け込んで憩う妻を残し、およそ400段の石段を奥の院に挑戦する。途中数段下る以外は、ひたすら原生林に囲まれた急峻な胸突きに、息を喘がせながらの登りが続いた。笑う膝を宥めながら、湿った朽ち葉の匂いの中を登り詰めたところに、方3間の御影堂が、厚板段葺の頂きに石造りの露盤を載せてひっそりと佇む。その裏に、諸仏出現したといわれる奇怪な巌と七重塔が木漏れ日を浴び、木立の間から見上げる空は見事に晴れ上がって、もう初夏の紺碧に染め上げられていた。

 花びらの舞う太鼓橋を踏み渡り、たもとの橋本屋で「しめじ丼」を食べる。往復800段の石段に苛められたふくらはぎの痛みも室生寺の里の思い出に加えて、バスを待ちながら長谷寺へのコースを確かめる。
 白い蝶が室生川のせせらぎを越えて、対岸の花吹雪の中に紛れて消えた。
                 (1991年4月:写真:東大寺三月堂・月光菩薩)

(旧作) 阿修羅 奈良紀行(1)

2017年05月04日 | 季節の便り・旅篇


 ひたむきに虚無の空間を凝視して、阿修羅はそこにいた。……一瞬、全てが意識から消えた。瞼に熱く溢れるものを感じつつ、ものも言えずにただ立ち尽くすばかりだった。

 大和路は絢爛の春。満開を少し過ぎた桜が風の戯れに散り急ぎ、昼下がりの初夏を思わせる眩しい日差しに目をそばめながら、近鉄奈良駅から興福寺へのゆるやかな坂道を上がる。朝、太宰府を発ったというのに、もう夢に見た奈良にいる……そんな当たり前のことまでが何故か不思議に思えて、心浮き立つ旅の始まりだった。
 阿修羅に会う……それが今度の旅の目的のほとんど全てを占めていた。はやる心を殊更に焦らすように歩みを遅らせ、道端の小さな店で「柿の葉寿司」を買った。
 「何処かのベンチで、お弁当を食べよう」
 「そうね、ちょうどお昼だし、お天気もいいから」
 お互いにわかっているのに、わざとらしく二人とも阿修羅に触れようとしない。

 右に折れる。そこが興福寺の始まりだった。右手に北円堂、左手に仮金堂と中金堂が木立越しに見えてくる。小石を敷き詰めた土の道をゆっくり歩きながら、目はお堂の古い佇まいに魅せられているのに、気持ちは何処かに飛んでいる。南円堂を右に見て、そのまま石段を下り猿沢の池に出た。参道の賑わいが、一気に池に向かって溢れ出てきた。

 小さな池だった。鯉や亀を遊ばせながら、時折吹き過ぎる風が縮緬のさざ波を走らせ、対岸の木立の上に立つ五重塔の逆さ絵を微塵に砕く。それを真正面に見てベンチに座り、花吹雪を浴びながら、長閑な大和路の春を載せて「柿の葉寿司」を美味しく食べた。
 「来てよかったね」
 「本当に奈良にいるのね」
 他愛のない夫婦の会話なのに、何故か心が浮き立ってくる。それほど憧れの奈良だった。全てが憧れの奈良だった。

 「さあ、阿修羅に会いに行こう」
 足元に寄ってくる鳩を驚かさないようにそっと立って、再び石段を上がり、南円堂に参って五重塔に向かう。桜吹雪の下を、修学旅行の一団が鹿と戯れている。その向こうに壮麗に高く、国宝の塔は聳えていた。560余年の歳月を木肌に染み込ませ、ひたすらに見上げる眼を圧し、心に響いた。しかし、今は措こう。限られた4日間だが、興福寺だけは繰り返し訪れるつもりだし、今は心がはやる。

 小石をシャリシャリと踏みしめる一歩一歩が、阿修羅への距離を縮めていく。此処までくればもう、という思いがあった。もう少し自分を焦らしてやろう。
 東金堂を拝観する。数年前、奈良にのめり込んでいる娘の資料の中から「興福寺友の会」の申込書をくすね、会員になった。以来会費だけを払い込み続けて数年、ようやく会員の特権を行使できる日が訪れた。拝観フリーパス、密かな優越感を感じつつ堂内にはいる。
 室町時代の重要文化財・薬師如来坐像を中心に、同じく重文の日光・月光菩薩立像、文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、そして鎌倉時代の寄木造の国宝・十二神将立像が仄暗いお堂のしじまに安置されている。須弥壇の四方を四天王が守る。外光を床に受け、その淡い反映を下から掬って、如来の眼に慈愛が宿る。
 奈良の数々の仏像との出会いが、こうして始まった。

 国宝館。

 その一つ一つの収蔵物全てが、たいへんな歴史的価値と存在感を持つ貴重なものなのに、気持ちの全てが阿修羅一つに収斂してしまった今は、それらを噛みしめることは殆ど不可能だった。あそこに、あの光の下にそれがある……そう意識した時から全てが色褪せた。
 四重蓮華座に立つ千手観音菩薩の慈悲、金剛力士立像の阿吽の威嚇、天燈鬼・龍燈鬼がいる、十大弟子が立つ、少年の顔をした沙羯羅が頭上に蛇頭を立てる、五部浄の半身像が象の冠を戴く……さながら儀式のように一つ一つの前で立ち止まり、わざと阿修羅に背を向けながら少しずつ近付いていく。張り詰めた空気の中での、息詰まる接近だった。

 もう20年余の昔になるだろうか、阿修羅の写真に、ひたむきに何かに耐える表情を見た。モノクロの闇を背景にした三面六臂・脱活乾漆の像の上半身の写真は、以来常に私の身辺を離れなくなった。まだ、「天平の美少年」などと軽薄な人気が沸騰する以前のことだった。20余年の歳月の中で、阿修羅への思い入れは次第に増幅され、いつしか自分だけのものに育っていった。

 解説に曰く……インド古来の鬼霊・悪魔・音楽神・鳥獣神など異教の八神を集め、仏法守護や諸仏供養の役目を与え、これを八部衆とした。沙羯羅、迦楼羅、乾闥婆、五部浄、緊那羅、畢婆迦羅、鳩槃荼、そして阿修羅である。
 梵語のAsuraの音写。「命(asu)を与える(ra)者」あるいは「非(a)天(sura)」と、解釈によって全く性格の異なる神になる。西域では大地に恵みを与える太陽神、しかしインドでは逆に暑さを招き大地を干上がらせる太陽神となり、常にインドラ(仏教では帝釈天)と戦う悪の戦闘神とされる。鬼神はやがて釈迦の教えに触れ、八部衆の一人・三面六臂の守護神になったという。

 息を止め、背を反転させて、とうとう阿修羅の前に立った。瞬間、溢れる涙で姿が滲んだ。ひたむきに虚無の空間を凝視して、まぎれもなく阿修羅はそこにいた。

 筋肉の全てを煩悩と共に削ぎ落としたかのような、少年のようにか細い身体。その上に三面が載り、1300年の歳月が六臂を傷ませている。正面をヒタと見詰める表情は朱を帯びて、その陰影の揺らぎの中から、凄まじいまでの情念を放射していた。
 「美しい」という言葉は、あまりにも浅い。断ち切れぬ煩悩に呻吟しつつ、戦っているのは自分自身。眉を寄せた厳しいまなざしは虚空に止められ、ひたすら自分自身の心を凝視し続けている。その眼に宿るものは、むしろ哀しみではなかったろうか。

 これが、私の阿修羅だった。仏は、人それぞれの見方が許されると思う。自分なりの心に写しつつ、とめどなく放射される情念の中で立ち尽くした。高まり続ける想いに翻弄されながら、いつしか我を忘れ時を忘れた。

 興奮というより、むしろ重く沈潜した想いを胸に、去り難さを引き摺りながら国宝館を出た。外には眩しいほどの春の日差しが、少し斜めに降り注いでいた。
 満ち足りた余韻をひとつ吐息に乗せて、大きく伸びをする。念願を果たした安堵と共に、間違いなく今まで以上に阿修羅にのめり込んでしまう……そんな予感があった。

 奈良の旅は、まだ始まったばかりだった。
               (1991年4月:写真:阿修羅 ネットから借用)

大地からの贈り物

2017年05月03日 | つれづれに

 3日続けて8、000歩以上を歩き、その後に激しく身体を使う陶酔が待っていた。
息を弾ませ、足腰と腕を使い、汗にまみれ、それでいて心地よい無心の境地だった。

 ゴールデンウイーク恒例の行事のひとつ、庭の手入れと家の大掃除……我が家の、冬型から夏型への「脱皮」である。因みに沖縄でダイビングの計画がある年は、更に綺麗になった庭にビーチ・ベッドを持ち出し、海パン一つになってひたすら紫外線を浴び、裏表甲羅干しして真っ黒に日焼けする。こうして「下焼き」しておけば、スキューバ・ダイビングにしろシュノーケリングにしろ、苛烈な沖縄の太陽を浴びて、背中と太ももやふくらはぎが真っ赤に日焼けして、夜も眠れないほどの痛みに苦しむことはない。

 このところ日照りが続いて固くなった地面を、強引にスクレーパーで雑草を根っこから掻き取っていく。縁先の庭から始めて家の周囲を一周しながら全ての雑草を掻き落とす作業は、この歳には結構厳しいものがある。コロ付きの庭仕事用椅子を転がしながら、陣取り合戦のように掻き取っていると、時に重心が逸れて椅子から転げ落ちそうになる。それが一段と腰と脚に負担を掛ける。普段使わない筋肉が悲鳴を上げる。流れる汗が全身を濡らして下着までズクズクになり、目が潤むほどの暑さにタオルを2本も替えた。
 こんな時、不思議に頭の中は何も考えずに真っ白な無心……だから現役の頃から、この作業はストレスを解消する癒しのひと時だった。

 植込みの下に潜り込み、下草や羊歯を抜き取っていると、ツツジの葉陰から黄色いエビネランが花穂を現した。父の形見に隣りの家から移し植えたエビネランが、4株に増えて毎年花を咲かせ続けている。縁側から見えるように、ツツジの下枝を少し刈り込んだ。
 もう一つのツツジの下では、遅れ馳せのシャクナゲが蕾を着けていた。隣りに2階建てのアパートが建って以来、日中は庭の半分が日陰になってしまった。せめて西日だけでも当たるように、此処も下枝を刈る。こんな思いがけない発見があるから、庭仕事も楽しい。
 掻き採った草を松葉箒で日差しの下にかき集め、しばらく乾燥させて夕方ゴミ袋に収めると、わが家の庭は蘇る。
  
 ひと息いれて喉を潤した後、山野草の鉢を移動させる。冬は陽だまりに並べ、5月になると半日陰に移す。自然界から人工的な環境に移すと、こんな配慮しないと山野草はいつの間にか消えていく。
 昨年の夏の酷暑、冬の乾きと寒気の中で、バイカイカリソウ、ツクシカラマツ、ミスミソウ、エイザンスミレ、サギソウの鉢を駄目にした。地植えしたハルトラノオ、チゴユリ、ミヤコワスレも、土が合わないのか土の養生を欠いているためか、いつの間にか駆逐されて姿を消した。スズランは何故か鉢植えでも地植えでも、株は増えているのに10年以上花を着けない。
 山野草は「やはり野に置け」である。

 山椒の古木の脇で紫蘭の隙間の雑草を抜いていると、塀際に3本の小さな山椒の実生が立っていた。何とも可憐な姿に、鉢に移して愛でることにした。何故か山椒は何年か経つと枯れてしまうことが多い。その為の備えでもある。
 せっせと庭仕事に汗を流したことへの、大地からのささやかな贈り物だった。

 午後、暖房カーペットを片付け、1階から2階まで全ての部屋に掃除機を掛け、雑巾で拭き上げて、わが家の夏型への「脱皮」を終えた。8時から4時まで働いて足腰は軋んでいるが、シャワーを浴びながら心はほこほこと満ち足りていた。
 これから11月まで、わが家の入浴はシャワーになり、湯船に浸るのはたまに行く温泉のみとなる。アメリカの次女の家を度々訪れるうちに、すっかり習慣になってしまったアメリカン・スタイルである。

 腰を痺れさせる心地よい気怠さが、夏への扉を開いた。
                    (2017年5月:写真:山椒の実生)