蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

晩秋を飾る

2016年11月14日 | つれづれに

 合い物を殆ど着ることなく、いきなり冬物に衣替え……気温の乱高下の中に、季節の歩みも甚だしく乱調だった。気温の変化に夏の疲れが加わって、老体がついて行かない。
 それよりも何よりも、コオロギの鳴き声があっという間に途絶えた。毎年秋の訪れと共に、わが家は溢れるようなコオロギの鳴き声に包まれる。初冬の頃、弱り始めたコオロギのきしるような鳴き声は、哀しく儚く、心を絞る季節のセレナーデだった。だから、この陋屋を「蟋蟀庵(こおろぎあん)」と名付け、このブログのタイトルも「蟋蟀庵便り」という。そして、私のハンドルネームは「蟋蟀庵ご隠居」と名乗る。今年、そのつましい庵からコオロギの声が呆気なく消えた。
 思い知る季節の異常だった。

 関東の週間天気予報を見て、「何を着て行ったらいいんだう?」とやきもきしながら、東京に飛んだ。横浜の長女の家に2泊し、上の孫娘が通う多摩美術大学の芸術祭を観る為だった。
 「生産デザイン学科テキスタイル専攻」という聞き慣れない言葉に、「直訳すれば繊維…つまり染めと織り」と、娘が解説してくれる。多摩美芸術祭で25回を重ねる「テキスタイルパフォーマンス」、3日間15回公演は、チケットを取りにくいほどの人気だという。先入観なしで観なさいと、一切の予備知識なしで案内された。

 想定外の凄い舞台に圧倒された。暗幕で包まれた細長いアングラの様な舞台に、いきなり顔も両腕も身体も全てミイラのように布を巻き付けて隠し、健康的なナマ脚だけを露出した踊り子たちが、左右からにじるように登場する。題して「潜」。
 意表を突く演出だから、公演パンフも閉演後の出口でしか渡されない。その中の解説を借りると「潜ーー無個性の人間から成る世界。自分が何者であるのか解らずにいる。そこに突然現れた異なる存在に影響され、自分の中に潜んでいた何かが芽生え始める。」

 主役は布や紙などの素材、学生たちが自ら染め、織り、紡ぎ、裂き、纏い、ストーリーを展開する。「潜」の解説には、「浸染による均一な染とむら染を用いることで、無個性な人形と、それぞれに個性を持つ人間の違いを表した。シリコーンを用い、人工的で無機質なマネキンの印象から、生命感や生々しさを得るまでの様子を表現する。技法――シリコーン加工、浸染素材――シリコーン、ナイロンサテン、綿、綿ポリエステル」

 写真転用を憚るからまどろっこしいが、その表現力は感動的でさえあった。「潜」「染」「羨」「栓」「占」「閃」「旋」……すべて「せん」という文字でテーマを揃え、それぞれに眼を瞠るような衣装をまとった数十人の踊り子たちのパフォーマンスは見事だった。孫娘は「占」のパフォーマンスで、襤褸の様な被り物に、幾つもの目玉を描いた不気味な顔で、狂気のように踊り舞った。「技法――浸染、夢幻染、素材――ウール糸、新聞紙、ナイロンタフタ、綿、ラメ布、和紙」

 学生たちが並べるたくさんの小さな出店を冷かしながら、多摩丘陵地帯の坂道を連ねた学舎で、若いエネルギーをもらった。銀杏が色づき、多摩美は秋に彩られようとしていた。
 二人の孫娘の確かな成長に感じ入ること多く、その感懐の底には、自らの加齢を思い知る淋しさもあった。

 晩秋と初冬が綯い交ぜとなり、気温も日毎に秋と冬を行ったり来たりする。ようやく、身体が季節に馴染んできた実感がある。
 友人が、たくさんのオキナワスズメウリの実を持ってきてくれた。緑と赤の手毬に惹かれて、毎年わが家でも植えているが、土壌のせいか、日当たりの違いか、わが家では貧弱な小玉が20個ほどハナミズキの枝から下がるだけである。
 ふと思い立って、玄関脇の目隠しの簾に秋を飾ってみた。頭上で爽やかに空気を鳴かせるウインドチャイムと呼応して、蟋蟀庵にしっとりとした秋の風情が拡がった。

 秋の名残りを探しに、木漏れ日の「野うさぎの広場」まで歩いてみよう。
            (2016年11月:写真:簾を飾るオキナワスズメウリ)

波濤、限りなく

2016年11月03日 | 季節の便り・旅篇

 片雲漂う秋晴れの下、晩秋の日本海は何処までも穏やかに、26,594トン、全長183m、12層を重ねた「ぱしふぃっく・びいなす号」は、620人の乗客と220人の乗組員を乗せ、18ノットでゆったりと東に向かって航海を続けていた。
 7階のオープンバーに座り、染まるような海の色に見入りながら日常を忘れ、フローズン・マルガリータを啜って寛いでいた……筈であった。

 春の「飛鳥Ⅱ」の50,142トンに比べれば半分ほどのクルーズ船であり、冬に向かう日本海クルーズに多少の懸念はあったが、天候安定したこの時期なら大丈夫だろうという直感を信じて申し込んだのだった。
 4度目……初めてのクルーズは、当時アメリカ・ジョージア州アトランタに住む次女が招待してくれた、フロリダ州マイアミ発3泊4日のカリブ海クルーズだった。バハマに寄り、無人島に上陸して群がる熱帯魚と戯れ、船首で映画「タイタニック」のポーズを楽しむ、心躍る初船旅だった。
 2度目は115.875トンの「ダイヤモンド・プリンセス号」で辿った10日間のアラスカ・クルーズだった。バンクーバー沖で乗組員も初めて経験する大嵐に遭遇、家内が初めての船酔いを経験した。2,600人余の乗客の内、日本人は35人、その時の仲間とは、今でも付き合いが続いている。
 3度目は、この春、横浜まで2泊3日の「飛鳥Ⅱ」に乗り、明治座で歌舞伎を楽しんで空路帰る片道航海だった。
 そして、おそらく最後のクルーズになるだろうという想いもあって、客室最上階10階のスイートルームを奮発した。三夜ともドレスコードはカジュアルという気楽な航海、家内が行きたがっていた能登半島を含む「秋の秘境 隠岐の島と能登・輪島 おもてなしクルーズ」、往復1,563キロの船旅だった。しかも、日本一を誇る和倉温泉・加賀屋の「おもてなし御膳」が二日目の夕食に出るという。
 新聞に広告が出たその日に、躊躇なく申し込んだ。9段階あるクラスの上から4番目の「デラックス・ルーム」を申し込んでいたところが、旅行会社の手違いで枠がなくなり、お詫びに一つ上のスイート・ルームを3万円引きで提供するという。予算より二人で6万円オーバーしたが、此処まで来たらもう引き返せないではないか。

 午後4時、博多港を出て玄海灘に乗り出した途端、大きな揺れが始まった。折りからの北風にピッチングとローリングを繰り返し、前途に不安が走った。波瀾の船出だった。
 
 ……と、此処まで書いて、気力が萎えた。青空を一度も仰ぐことなく、中央廊下を真っ直ぐ歩けないほどの大きな揺れは、最終日の朝まで続いた。
 隠岐の島・西島の浦郷湾に沖泊まりして、波浪の中を小さな観光船で船曳運河を越えて国賀海岸を周遊。摩天崖、通天橋、観音岩、明暗の岩屋も波浪の中。港に戻り、バスで赤尾展望台と摩天崖の観光も烈風と雨の中だった。
 翌日、一段と風速を増した北風に、船長から無情のアナウンスがあった。『輪島港の波浪高く、入港断念の上、手前の金沢港に寄港地を変更します』
 「日本一の加賀屋でいただくフルコース昼食」のオプショナル・ツアーも、早朝7時に出発して200キロを走るバスの旅となった。「白米千枚田」を飛ばされそうな強風の中で眺め、輪島の朝市通りでお土産を物色し、加賀屋で懐石料理ならぬ期待を裏切る宴会食の重いフルコースで疲れ果てて船に戻り、荒海の中を博多港に向けて一昼夜の航海に出た。
 最後の夜のフレンチ・フルコースも、家内は船酔いで食べられず、同情したシェフが雑炊を作ってくれて食べる羽目になった。

 それでも、船内の催しは精一杯楽しんだ。出港時のクルーズお定まりの救命具を装着した「避難訓練」の後、「ウエルカム・ドリンク」と「セイルアウェイ・セレモニー」で踊り、初日の夜の「ダリル・スミス ハートフル・ピアノ・コンサート」に聴き惚れ、スイート・ルーム以上のクラス専用のダイニング・ルーム「グラン・シャリオ」でフルコースを摂りながら「ベイサノス・トリオ」のラテンを楽しみ、最後の夜の「ハロウイーン・パーティー」では、家内は魔女のとんがり帽子、私は宇宙人のマスクで登場、大いに受けた。
 最後の日のビンゴゲームで家内が賞品をゲット、ようやく穏やかになった日本海から玄界灘への最終航路を、オープンバーで「フローズン・マルガリータ」と特製カクテル「パシフィック・ビイナス」で癒しながら、波乱の航海を終えた。

 帰り着いた博多港で、ようやく晴れた優しい海風に触れた。散々なクルーズだった。
 もし5度目の機会があったら、せめて「飛鳥Ⅱ」クラス以上で、(そして、今回のように日本人だけの)クルーズにしようね……旅を終えた二人の感懐だった。寄港地変更で、最終航海距離は1,448キロに短縮された。

 最終日、見事な夜明けを見た。せめてもの慰めだった。
                  (2016年10月:写真:日本海の夜明け)