蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

新緑の樹林(久住花紀行:2)

2012年04月25日 | 季節の便り・花篇

 早春の野焼きのあとの黒い斜面に、絨毯のようにキスミレの群落が広がっていた。黄砂で霞む空から注ぐ日差しはやや物足りないが、絶妙のタイミングで観た真っ盛りのキスミレの群生だった。
 煤でジーンズが汚れるのも厭わず、足の踏み場に気を付けながら蹲り、マクロレンズをかませたカメラを向けた。息を止めてシャッターを押す瞬間を重ねると、苦しいほどに息が切れる。身体中に厭な汗が流れる。それでも、この瞬間は至福のひとときだった。
 玖珠ICで大分道を降り、暫く国道を東に走って右に折れ、四季彩ロードを抜けて湯坪温泉近くを過ぎ、てやがて長者原に駆け上がる直前、まだ山桜が咲き残る「少年の家」を過ぎた右斜面が、私達にとって最高のキスミレ観察の舞台なのだ。
 
 長者原から「やまなみハイウエー」を東に走って、乗馬牧場「エルランチョ・グランデ」から南に下る。まだ浅い芽生えの樹林を曲折する道を暫く下ると、右手に平治岳と黒岳を見上げる麓に、いつもの山野草の宝庫「男池(おいけ)」湧水がある。100円の管理料を払って、湧水の傍のベンチでお昼を摂った。大自然の中では、お握りが何よりのご馳走。手抜きして途中のコンビニで求めたお握りとおでんと漬物だけのお弁当なのに、熱っぽく食欲を失った喉に抵抗なく飲み込まれていく。
 バイケイソウが艶やかに葉を広げ、キツネノカミソリが藪のように繁る。湧水から流れ下る渓流の傍らに、次々と小さな花達が姿を現す。蹲らないと見落とす小さな花達、多くの散策者達は全く気にも止めず、目にも止めないで慌しく歩き去っていく。
 ヤマルリソウ、エイザンスミレ、シロバナネコノメソウ、チャルメルソウ、サバノオ、久し振りのワチガイソウ……いずれもミリ単位ではかる小さな花である。ハルトラノオが小さな花穂を立てていた。ヤマエンゴサクが可愛いラッパのような花を捧げ持つ。我が家にも群生するムラサキケマンが枯葉に彩を添える。今年は何故か、キバナネコノメソウの姿がない。その代わりに、小人のお嬢さんのボタンの様なヤマルリソウの群落が頻りに目に付く。毎年同じであって同じではないから、何度訪れても新鮮な感動があるのだ。

 いつになく喘ぐ胸を宥めながら、黒岳への登山道に入り、ゆっくりと「かくし水」の方に歩いてみた。キスミレがちらほら、マムシグサが不気味に立ち、苔むした岩に名前を知らないスミレがすまし顔で並んでいる。時期が遅く、ユキワリイチゲの姿はもうない。昨年見たシロバナエンレイソウもヒトリシズカも見ることはなかった。ユキザサもまだ蕾のフサを提げ、シジュウカラの声が響く樹林の下で、ヤブレガサが葉を広げて木漏れ日を浴びていた。もう少し行けばヤマシャクヤクの群落があると解っていたが、体調芳しくなく、断念して山道を戻った。(後刻、入り口の茶店で訊いたら、ヤマシャクヤクは開花が遅れて、連休の頃だという。)若芽を吹き始めたばかりの樹林、この初々しい眩しさの新緑に浸りたくて、毎年この時期ここを訪れる。我が家からおよそ3時間足らずの癒しの世界である。

 早めに久住高原コテージにチェックイン、お気に入りの大露天風呂で身体を休めた。いつも観る雄大な阿蘇五岳は黄砂に沈んで、この日は観ることも叶わなかった。和会席の夕飯を摂るレストランの外に、一匹の野生のアナグマが餌を探しにやって来た。部屋の周りの芝地に、数え切れないほどのハルリンドウが咲いていた。

 翌日、体調を気にして帰宅を急ぐことにした。黄砂が薄れ、空の青さが増した。瀬の本から「やまなみハイウエー」に戻り、途中の売店で、これもいつものようにトウモロコシを買って、大観峰に抜ける道に折れる。時折車を路傍に停めて蕨を刈る。ふたつ目に停めた傍ら、ドライバーの目に触れない窪地の底に小さな湿地があった。家内が声を上げた。一面、黄色とピンクの色彩の渦!サクラソウとキスミレとリュウキンカとミツバツチグリが、縺れ寄り添うように今を盛りと咲き誇っていた。慎ましく保護のロープを張ってあるが、気付かれたらあっという間に盗掘されて絶滅は必至だろう。それほど、最近のヤマガールならぬヤマオバサン達はマナーが悪い。これは顰蹙では済まされない。ここは誰にも教えないようにしようと決めて、小国に下った。

 蕎麦街道の「吾亦紅」で手打ち蕎麦のお昼を済ませて出た駐車場の隅に、ひと塊のキケマンが咲き誇っていた。キスミレの黄色で始まった山野草探訪の旅が、キケマンの黄色で閉じた。
 走り下った日田の町は、この日全国で最高の30・5度の夏日だった。
        (2012年4月:写真:新緑の春:カミサン撮影)

5ミリの造形美(久住花紀行:1)

2012年04月25日 | 季節の便り・花篇

 中学生の頃、同級生の兄に連れられて初めて山に登った。福岡と佐賀の県境に東西に連なる峰々の主峰背振山(1055メートル)、以来山歩きが一番の楽しみになり、九州の山々をひたすら登りまわることになる。
 高さだけなら富士山も経験した。高校2年の夏、「先生、ゴメン!」と了解を取り付け、1学期の終了式をサボって友人と富士登山に出掛けた。富士宮登山口から取り付いたが、当時はバスも2合目止まりだった。それをわざわざ1合目でバスを降り、深い霧を巻く無人の樹海に金剛杖を突いて登り始めた。不思議な隠花植物の真っ白なギンリョウソウに出会ったのもその樹海の中だった。翌早朝の山頂からのご来光よりも、ギンリョウソウの印象の方が今は強い。……翌日、富士登山の見えない裏側に臍を噛むとは予想だにしなかった。
 1合目ごとに茶店があり、甘酒など疲れた喉を誘惑する声が掛かる。ついつい誘われて飲む、食べる。8合目の小屋に泊まり、翌朝登頂して気付いたら、貧しい高校生のお小遣いは、帰りの汽車賃を残して底をついていた。不覚にも追い越すバスに負け惜しみの手を振りながら、米軍の演習基地の中を抜ける道を、とぼとぼと御殿場駅まで7時間かけて歩く羽目になった。中学校で毎年1日に60キロを歩き通す経験を3度積んでるから、歩くことに不安はなかったが、時折カービン銃を抱えた黒人兵が藪の中から現れたり、出会った土地の人に御殿場駅まで道のりを訊いたら「すぐですよ」と言われたのに、それから2時間以上歩く結果になったり、登山本番以外の思い出をたくさん残してくれた富士登山だった。

 高校卒業時点で生徒会の役職4つと卒業アルバム編集委員長の肩書きを抱えていて、当然のように大学受験追い込みの余裕はなかった。担当教師(始業のベルが鳴り終わらないうちに教壇に現れるから「消防自動車」とあだ名を持つ謹厳且つ修猷館高校随一厳しい数学教師)から、「君みたいな者がいないと生徒会が駄目になる。私の授業はいつでもサボっていいから」とお墨付きをもらい、卒業式で答辞を読み、学業優秀以外で貴重な館長賞のメダルを受けるという面映い経験を経て、堂々と(?)浪人生活にはいった。当然受験はしたが、いくら4.2倍の比較的低い競争率でも、フロックで合格するほど大学受験は甘くはない。
 浪人の一年は全てのアソビを断って、ひたすら受験勉強に励んだ。多分、一生で一番勉強した一年だった。そんな自分に唯一許していたのが、月に一度の単独山歩きだった。(近郊の800~1000メートルの山だから、山登りと言うには憚る。)決めた日には、例えどんな悪天候であろうとザックを担ぎキャラバン・シューズを履いた。土砂降りの雨の中、顔を伝い流れる奔流のような豪雨に溺れそうになりながらでも、登り、縦走し、峠を下った。
 唯一断念したのは、忘れもしない冬、福岡には珍しく激しい吹雪の一日になり、さすがに親の引止めに従った。そしてこの日、予定していた背振山~金山への縦走コースで大学生のパーティーが遭難し、死者を出した。人生に幾度かある生死を分ける転機のひとつだったのかもしれない。こうして4月、めでたく九州大学法学部の学生になった。

 その頃、風邪気味でも一日山を歩いて汗を流して帰って来ると、不思議に風邪が吹き飛んでいた。その頃を思い出したわけではないが、久々の高原の山野草探訪に、定宿の久住高原コッテージを予約して走り出す前日、ひどい身体の不調で座っているのもシンドイ有様となった。熱っぽく関節痛と気だるさに苛まれながら、前後雨予報の合間の貴重な二日間の晴れ間を押して強行することにした。
 この時期、高原は春たけなわ。5ミリほどの小さな姿で、驚くほどに繊細な造形美を見せる花達に会う……それだけに支えられて、助手席に家内を乗せて大分自動車道に走り込んだ。どんよりと日差しを遮って黄砂降る、いささか気掛かりな旅立ちだった。
           (2012年4月:写真:木漏れ日に立つスミレ)

宴(うたげ)の前に…

2012年04月17日 | 季節の便り・虫篇


 追っかけるのに息切れしそうな速い足取りで、季節が移ろっていく。ついこの前までガスストーブと電気カーペットの温もりを欠かせなかったというのに、桜吹雪を御笠川に散らして一気に葉桜に装いを変えた頃から、春が走り出した。4月半ばを過ぎた朝晩の風の冷たさに鋭さはなく、昼間降り注ぐ日差しはすで初夏の眩しさ。春霞が青空の透明感を失わせているものの、少し動けば身体が汗ばんでくる昨日今日である。

 日ごと庭の佇まいの変化がめまぐるしくなって来た。モンシロチョウやキチョウが庭を訪れるようになり、今朝は思いがけず一匹の鼬(イタチ)が我が物顔に庭を横切って行くのを見かけた。この団地で見たのは何十年ぶりだろう。年毎に遠ざかっていく大自然が、ときたまこんな形で振り向いてくれる。嬉しい出来事である。

 そろそろ虫たちの宴の食卓が気になる季節になった。プランターをスミレが埋め尽くすように繁り咲いた。庭のあちこちや他の鉢に弾け飛んだ種から芽生えたスミレの株は、いずれもうひとつのプランターに移し換える……これは言うまでもなく、毎年育てて大空に帰すツマグロヒョウモンの食卓である。昨秋植えたパセリが珍しく冬を越し、しっかりと葉を繁らせている……これはキアゲハの為に整えた食卓。早春、実を捥いだあとに「お礼肥え」をたっぷり施した八朔は、今年も沢山のアゲハチョウを育てることだろう。

 野から移し替え鉢植えにしたギシギシは、残念ながらもう何年も来客を迎えていない。先日、天神山を歩きに出掛ける途中、道端で今年初めてのベニシジミを見つけた。ちろちろと小さな炎が燃えるように舞うこのシジミチョウは、春型の今が一番美しく、私の最も好きな蝶である。夏型になると翅が黒ずみ、少し重たい色に変わる。

 初めてこの蝶の神秘に触れたのは中学生の頃だった。既に他界した親友と3人、国語の教師に連れられて都府楼政庁跡を歩いた。早春の肌寒い曇り空から、時折薄日が漏れる午後だった。60年近い昔、西鉄大牟田線の都府楼前駅から太宰府天満宮に向かう県道は舗装もなく、時折砂埃を立てて走りすぎる車も僅かで、道端に座って遅めの昼飯にお握りを食べることが出来るほど鄙びた長閑さがあった。

 まだ冬枯れの侘しい草むらの中で僅かな緑を見せるギシギシの葉裏に、淡い緑にうっすらとピンクを掃いた数匹の1センチあまりの幼虫を見つけた。たまたま先頃、購読していた昆虫の専門誌で見たばかりのベニシジミの幼虫の姿に胸がざわついた。
 その写真の中のベニシジミの幼虫は、半ば残雪に覆われていた。秋に生まれ、ギシギシの根方で雪に埋もれ、半ば凍結状態で冬を越す。身体をシャーベット状に凍結させながら生き延びて、早春の日差しの中で葉を食べて蛹となり、やがて見事な紅色に染まって羽化するという命の神秘は、多感な中学生にとって衝撃的なまでに強烈な印象だった。以来、幾たびも食餌のギシギシごと飼育箱に移し、蛹化し羽化する過程をワクワクしながら見守り、傷ひとつない姿のままで大空に帰すのが私の楽しみとなった。昆虫採集に熱中し、ひたすら捕虫網を振り回していた昆虫少年を卒業して虫の殺生をやめ、飼育・観察と昆虫写真にのめり込み始めたのもこの頃である。
 
 ホウチャクソウが八朔の木陰に次第に伸び、やがて花を提げる。玄関脇のハナミズキの下では黄花ホウチャクソウが開き始めた。葉が伸び始めたロウバイの下では斑入りアマドコロが小さなランタンを吊るしている。シャクナゲが6輪、間もなく満開となる。
 爛漫の春から初夏に歩むこの時節は、逞しく蔓延り始める雑草への宣戦布告の時期でもある。しかし、それは又、無心になってストレスを解消出来る楽しみでもあるのだ。
                  (2012年4月:写真:ベニシジミ・春型)

片隅の春

2012年04月09日 | 季節の便り・花篇

 「チャラリーララ、チャラリラララ~」……昔々の大昔……若い人達にとって、「戦後」は現代史というより、最早近代史の範疇になるのだろうか。「明治は遠くなりにけり」という言葉も死語になり、今では「昭和は遠くなりにけり」と言うべきかも知れない。
 そんな大昔、試験勉強の深夜、木枯らしに途切れながらチャルメラを吹いてラーメン屋が回っていた。インスタントのはしりだった棒ラーメンの夜食に飽きて、時たま屋台を追っかけた。当時はまだ、町中にいろいろな売り声が聞こえていた。「焼きいも~!」を筆頭に、博多特有のオキュート売り、納豆売り、「アサリガイよござっしょ~!」と言う声も懐かしい。歌声を流しながら「ロバのパン」も来ていた。当たり前だが「ト~フ~!」と聞こえる豆腐屋は、今も時折やってくる。豆腐屋も棹竹売りも、今では軽自動車とスピーカーになってしまったし、「網戸の張替え~!」や灯油売りが、時にうるさく感じるほどの音量で静かな団地の朝を騒がせていく。
 時代は変わった。風物詩だけでなく、自然景観も、そして人の心もすっかり変わってしまった。

 庭の片隅でチャルメルソウが立った。ラーメン屋が吹くチャルメラに似た不思議な花である。5cmほどの茎に、5ミリにも満たないチャルメラが並ぶ。目線を意識して下げないと、気付かずに通り過ぎてしまう地味な花であり、蹲り目を寄せて見詰める小さな世界に、これほど見事な造形美が隠されていることを、多くの人は知らない。山野草の魅力はそこにある。陽だまりや木漏れ日の大地に、蹲り、這い蹲ってファインダーを覗き、息を止めてシャッターを落とす瞬間の高揚を何に例えればいいのだろう。

 うららかな日差しに誘われて、いろいろ心労が続き疲れ気味の家内を誘い、久し振りに天神山の散策路を歩いた。天満宮の西高辻宮司宅の裏から境内にはいり、九州国立博物館エントランスの前から遊園地脇の天神山散策路に登りかかる。荒れていた山道がいつの間に綺麗な木の階段に改修されて歩きやすくなった反面、野趣が失われたのが少し心残りでもある。
 その取っ付きの右手の斜面に、今年も期待通りハルリンドウとスミレの群落が広がっていた。小さな崖を攀じると、実生の可愛い楓の若芽が絨毯のように隙間なく広がる間に、足を下ろすのに躊躇うほどの青と紫の群生である。傍らに植えられたシャクナゲが早くもほころび始め、ピンクの花弁に暖かい春の日差しが注いでいた。紛れもない春がそこにあった。
 天神山の尾根を巡る散策路は楓の新芽が眩しいほどに美しく、盛りを過ぎた桜の少し色あせたピンクと対比する。木立の足元にはウバユリの若い群生。天開稲荷に手を合わせ、赤い鳥居の林立する石段を下った。

 「年々歳々春を待ち、歳々年々花を待ち…」と今年の賀状に書いた。気象は毎年のように「異常」と告げ、寒波が居座って今年の春の訪れは遅かった。唐突にやってきた春の足どりは速く、咲き遅れた桜が一気に満開となり、庭の片隅も慌しく春の装いを急ぎ始めた。ユキヤナギが瀧のように枝垂れ、ハナニラが群がるように咲き揃い、チャルメルソウがすくすくと立った。クサボケがオレンジに輝き、鉢の中ではいろいろな山野草たちが芽を伸ばしている。タイツリソウも間もなく釣竿の先に数匹の鯛を提げるだろう。木陰にはホウチャクソウが一斉に芽を出した。

 片隅の春……小さくて慎ましい中にも爛漫の春を謳う喜びが、疲れた心をいつの間にか優しく癒してくれるのだ。
                 (2012年4月:写真:チャルメルソウ)