蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

アジサイ考

2020年06月29日 | つれづれに


 雨の匂いが日ごと濃くなり、6月が逝こうとしていた。高温多湿の日々は、まだまだこれからと思うと、高齢の身には長い長い3ヶ月の道のりは厳しい。
 雨に似合う紫陽花について、西日本新聞に面白い記事を見付けた。北九州市の永明寺住職・松崎智海さんの「坊さんのマムい話」というコラムの「しがみついて生きる花」、目から鱗の知識を得た。

 ……人は意志、思想、感情など形がないものを伝えるために、古来よりさまざまな言い回しや表現を作り出してきました。中には美しさを感じるものも。それが花の終わりの表現です……
 桜は「散る」、椿は「落ちる」、牡丹は「崩れる」、梅は「こぼれる」、菊は「舞う」……なるほどと思いながら読み続けた。そして、紫陽花の終わり方は「しがみつく」と表現するそうだ。
 ……落ちることなく、枯れたままこに居座ろうとする様子からでしょう……
 確かに、花時を終えた紫陽花は見すぼらしく痛ましい。 今では、紫陽花寺など「名所」があちこちにある紫陽花だが、数十年前までは嫌われる花だったという。花びらのがくが4枚で、「しまい(終わり)」ということと、わずかに毒性があるということでも嫌われたそうだ。土壌の酸性度によって色が変わるため、心変わりに通じるとされ、花言葉も「移り気」「浮気」「変節」と厳しい。しかし花の人気が高まった最近では「和気藹々」「家族」「団欒」など、名誉を回復している。
 ……お釈迦様は「執着が苦しみを生む」と言いました。変わることが当然のこの世界で、変わらないことに執着する「我執」が苦しみを招く、と。しかし、執着の中でしか生きられないのも私です。それでも花を咲かせ、美しく生きたいと願う。だから、私はアジサイに親近感を抱くのです……

 紫陽花の見方が、少し変わったような気がする。我が家の庭の紫陽花も花時を終えて、雨に濡れて見すぼらしく、いつまでも散ることなくしがみついている。ガラ携にしがみ付いていた、わが身の執着に似たり!
 とは言いながら、相変わらず敏感なキータッチに振り回され、「ガラ携が恋しい!」とぼやく毎日である。焦るまい、そのうちに軽々と操作する日も来るだろう。未練がましく、残り少ない我が人生にも、また花が咲くこともあるだろう。
 紫陽花に続いて、オオバギボウシが今盛りである。月下美人も10個ほどの小さな蕾を着け、マンリョウもたくさんの小さな実を着けて冬に備えている。フウセンカヅラも蔓が延びて花を着け始めた。オキナワスズメウリが後を追うように蔓を延ばしつつある。今年の夕顔は、少し成長が遅い。外れ苗だったかもしれない。

 Y農園の奥様が、1ヶ月振りに新鮮な野菜を届けてくれた。房生りのトマト、キューリ、ピーマン、大葉など、採れたての色の鮮やかなこと!!玄関先でのマスク越しの会話が暫く続いた。こんな会話が、コロナ時代の「新しい生き方」だとしたら、ちょっと侘しい。

 また雨が来た。コロナ籠り、雨籠りの蟋蟀庵の夕暮れである。雨の中を、石穴の杜からヒグラシの初鳴きが届いた。去年より5日遅い便りだった。
                     (2020年6月:写真:採れたてのトマトの輝き)


サヨナラ、ガラ携!

2020年06月24日 | つれづれに

 夏至……暦の上の夏が来た。そして、この日は「父の日」。
 「父の日」がすんなり受け止められたのは、せいぜい50代までだったろうか?娘たちも50代になり、「敬老の日」にまとめていいよ!」と言っていたが、やはり二人共忘れずに毎年祝ってくれる。確かに、幾つになっても母は母であり、父は父には違いない。
 「退職したら、贈り物探すのに苦労する!」とぼやきながらも、今年も届けてくれた。食欲だけで生きているような年寄りだから、飲食物が一番無難という判断だろう。長女からは「馬刺し3種のお試しセット」、次女からは「エールビール5種の詰め合わせセット」。二人共、自分が食べたいもの、飲みたいものを選んでいるのが可笑しい。
 熊本名物の「馬刺し」は、牛肉以上に高価である。解凍時間を調整しながら、ルイベ状のシャリシャリ感を残して生姜醤油で食べると、格好の酒の肴である。下戸でも、これは箸が止まらない。
 昔、初めて阿蘇内牧温泉で馬刺しが出たときは、さすがに箸を出すのに勇気が要ったようが、今では熊本県の温泉旅行の夕食には、必ず「馬刺し」を特注する娘たちである。コロナ禍で需要が落ち、牧場に馬が溢れているというニュースを見たのは、つい先頃のこと。私に似て下戸ながら、馬刺しに目がない長女なら、3種類を並べて一気喰いだろうが、我が家は慎ましく3回に分けて味わうことにした。

 エールビールは、普段馴染みがなかった。「発酵温度が、ラガービールは5度、エールビールは20度。下面で発酵するラガー酵母と異なり、上面で発酵するエール酵母を使う」と書いてあるが、下戸にはよくわからない。
 ネーミングが楽しい。「なよなよエール」(一口飲めば、鮮やかに香るホップのアロマとモルト由来のゆったりしたコクが絶妙なバランス)、「軽井沢高原ビール」(軽快でゴクリとのどに流したくなる爽快な味わい)、「インドの青鬼」(苦みが強烈な個性派ビール。口に含んでみるとニガッ!と声が出てしまうほどの強烈な苦さ)、「東京ブラック」(ロブスターポーターというスタイルの、イギリス生まれの黒ビール。グラスの向こうが見えないほどの漆黒の色合い)、「水曜日のネコ」(ベルギー生まれのベルジャンホワイトエールというスタイル)。
 猫好きで、今も2匹の姉妹猫を家族にしてカリフォルニアに住んでいる次女は、このネーミングで選んだという。上戸だから、彼女なら5種類を並べて一気に飲み比べることだろう。

 そして……遂に、アベの10万円×2を使って、ガラ携をスマホに買い替えることにした。コロナのお蔭でキャッシュレスが加速、現金払いは情報弱者や貧乏人のシンボルみたいになってきた。スマホを持たないと入れない店があったり、厚労省の「接触確認アプリ」が強く進められたり(尤も、早速複数の不具合が発生したらしいが)、スマホが生活必需品への道を辿り始めている。「生涯ガラ携」という信念が遂に潰えて、ショップに走った。
 3時間、店で特訓を受けたが、なんと使いにくく、疲れることか!PCやガラ携で「押す」「叩く」というキータッチに慣れた身にとって、そっと触れるだけで反応する超敏感なキータッチに戸惑うばかりである。女の扱いより神経が疲れる!入力ミスが相次ぎ、目は霞み神経痛の肩は痛み、慣れるまで暫く苦労が続きそうだ。
 果たして、慣れる日が来るのだろうか?若い人が、目まぐるしく画面操作している姿を見ながら、改めて「情報弱者」を思い知らされている。嗚呼、ガラ携が恋しい!!!

 そして、沖縄「慰霊の日」が来た。カッコばかり沖縄風にして、空しい言葉を並べながらリモート挨拶するアベのしらじらしさ!
 「沖縄県民斯ク戦へり 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」……自決前夜に、日本海軍沖縄方面根拠地隊の太田司令官が海軍次官に送った電文に対し、政府は何の高配もすることなく、辺野古の埋め立てばかりが進んでいる。この日、大宰府は33.8度の暑さに茹だっていた。
 かつて、このブログにも載せた「沖縄戦後史の原点」を、改めて読み直してみよう。
                     (2020年6月:写真:娘たちからの「父の日ギフト」)

小さな大旅行

2020年06月16日 | 季節の便り・旅篇

 久々の温泉だった。昨年12月に、アメリカから帰省した次女を連れて、熊本県平山温泉の露天風呂付離れに泊まって以来のことである。隠忍自重、雌伏半年?!……温泉好き、旅好き、ドライブ好きの我が家が、こんなに長く温泉から遠ざかったのは、リタイア以来20年で初めてのことかもしれない。
 例年ならば、大分県男池に春の山野草探訪をして、帰り道に貸切り露天風呂に立ち寄ったり、九重高原をドライブして、長者原の湿原から樹林を回遊する木道を歩いて、そのまま山宿に泊まったり、南阿蘇の隠れ宿で部屋付き露天風呂を楽しんだり……それが我が家だった。
 不要不急の外出自粛、県を跨ぐ旅行の自粛と、コロナに縛られる日々が、もう4ヶ月も続いている。もやもやが日ごと鬱積し、いい加減くたびれ始めていたそんな中に見付けた新聞の折り込みチラシに、間髪を入れずにカミさんが反応した。365日24時間亭主が居て、三度三度の餌を与えなければならない主婦にとって、旅=外食=他人がが作った食事をあげ膳据え膳でいただき、後片付けをしないで済むということは、貴重な「骨休め神事」なのだ。

 11時、誰一人いないロビー。カウンターにただ一人いたマスク姿の女性がチェックインを受けてくれる。温泉宿にしては、部屋に案内する人もいない。部屋に入って着替えを済ませようとしたが、日帰り客に部屋の提供はあっても、浴衣のサービスはない。そのまま、取り敢えず大浴場に向かった。
 広い展望大浴場には、高齢の人影が一つ、背中を丸めて頭を洗っていた。つまり、老人ふたりの貸切り状態なのである。地下200メートルから汲み上げるアルカリ性単純ラジウム温泉の熱源は50度、仄かに硫黄の匂いが混じる掛け流しの湯船は40度ほどに保たれ、滑らかな肌触りに疲れが一気にほぐれていくようだった。少し軋るようなつるつるした肌触りは、嬉野、武雄、原鶴、平山、別府、鉄輪などの温泉とも、ひと味違う感触で心地よかった。
 腱板断裂手術を受けた左肩、山鹿の八千代座での海老蔵公演で痛めた右膝、人工股関節置換手術を受けた左脚股間、帯状疱疹後神経痛が続く右腕……それらの古傷がゆっくりと癒されていく。振り返れば、私の病歴は全て整形系ばかりである。幸い、内臓も脳も、まだ(かろうじて?)今のところ健在である。
 太もものすべすべした肌触りを、女体の太ももに置き換えて妄想するのも毎度のこと(呵々!)幸四郎ほどの逞しい色気はないが、近ごろのアイドルのようなカマキリ脚ではない。毎朝のストレッチと散策で、それなりに引き締まった太ももである。(誰も褒めてくれないから、取り敢えず自画自賛!)

 展望大浴場の窓から遠く、高校から大学を通してひたすら歩き回った健脚向け「三郡縦走コース」の宝満山―三郡山―砥石山―若杉山と連なる山並みが望まれ、部屋のソファーに座れば、目の前に天拝山が迫る。手前を横切る九州道……そう、ここは太宰府市の隣り、筑紫野市湯町の「二日市温泉」の「D荘」。我が家からひた走って、何と6.3キロ、15分の最も近い温泉である。小さい旅行だが、我が家にとっては大旅行にも相当するリッチな時間だった。
 かつては、大宰府天満宮詣、所謂「宰府まいり」の宿場であり、芸者遊びも出来る温泉場だった。しかし、JRや私鉄が伸びたことによって、福岡から僅か20分ほどで結ばれるようになり、宿場としての存在価値を失っていった。柳が揺れていた川も暗渠となり、万葉の時代から守られてきた風情も喪われていった。宴会や団体客も、このコロナ騒ぎが一切を奪い、大々的に折り込みチラシを撒いた今回の企画も、平日の今日は僅か2組だけだった。

 近年稀な部屋食というのがいい。決して高価な食材ではないが、有田焼の器の数々に盛られた料理は手綺麗で美しく、自宅食を続けていたカミさんにとっても、嬉しく、楽しく、美味しいランチとなった。
 福岡市内出身ながら、すでに20年この旅荘の寮に暮らす仲居さんが気安くもてなしてくれた。食後の憩いのあと、再び大浴場を独り占めした。3時間、期間限定の夏ランチ「彩(いろどり)紀行」、温泉と部屋食付きでまったりと寛いで、3,800円の満ち足りた時間を堪能した。

 因みに、目前に迫る天拝山……かつて都から大宰府に左遷された菅原道真公が、都に帰ることも叶わぬままに亡くなり、この天拝山から龍神となって京都に飛んだ。京の街の諸所に雷を落として暴れまわったが、唯一菅原家所領の「桑原」という所には雷が落ちなかった。後世人々が、雷が鳴ると「くわばら、くわばら!」と唱えながら頭を抱えて身を伏せるようになった所以の逸話である。桑原という地名は、今も京都の道路脇の小さな空き地として残っている。

 梅雨の合間の夏空には、小振りな入道雲が幾つも湧き立ち、天拝山の裾をシラサギが斜めに飛んだ。梅雨本番は、まだまだこれからである。
                        (2020年6月:写真 夏ランチ「彩紀行」)

食物連鎖

2020年06月12日 | 季節の便り・虫篇

 自然界は非情だった。

 6月11日、梅雨入りの激しい雨が降った夜、寝る前の恒例として、6月3日に勝手口の脇の壁に蛹となったアゲハチョウの蛹を見に行った。変わりない姿に安堵して眠りに就いた翌朝、朝の散歩から戻って見ると、蛹の姿が跡形もなく消えていた。
 危惧していたことが現実となった。ニホントカゲの姿を何度も見かけていたし、犬走にあまりにも近くトカゲの行動範囲だから、気になって毎日何度も見に行っていた。
 こうして、美しい姿を見せることなく、一つの命が、もう一つの命を繋ぐために喪われていった。非情ではあるが、これが大自然の掟である。

 クロアゲハと思っていたが、形・色・サイズに疑問があって、その後図鑑で確かめたところ、普通のアゲハチョウの蛹だった。
 調べたのは、私のお宝図鑑の一つ「日本蝶類幼虫大図鑑」、昭和35年(1960年)保育社から刊行された座右の1冊である。大学2年、当時の価格で1800円は、学卒初任給の1割に相当する高価な買い物だった。
 卵・幼虫・蛹・成虫という4段階の変容を遂げる、完全変態の蝶の全ての段階が写真に捉えられている。アゲハ類は、幼虫だけでも1齢(初齢)から5齢(終齢)まで脱皮を繰り返して変容し、蛹になる前には「前蛹」というステップもある。俗に「毛虫」や「芋虫」と呼ばれて忌み嫌われることの多い蝶の幼虫の、真正面の目線で捉えた顔の緻密な造形美に圧倒されたのも、この図鑑が初めてだった。白水 隆、原 章という二人の昆虫学者の共著である。
 
 昆虫少年だった中学生の頃、九州大学農学部に憧れていた。部活は生物部に属し、二人の親友と共に、昆虫、魚類、貝類、プランクトンなどを追いかけていた。九州大学の世界的魚類学者の内田恵太郎先生(1896年・明治29年12月27日―1982年・昭57年3月3日)の案内で、福岡市の東を流れる多々良川でトビハゼを採った思い出もある。
 同じく、蝶類の世界的権威の江崎悌三名誉教授がいた。(1899年・明治32年7月15日―1957年・昭32年12月14日)
 余談だが、1970年・昭和45年3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空「よど号」ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件であり、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着して、犯人グループはそのまま亡命した。 運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたが、その時の副操縦士、江崎 悌一さん(当時32歳)が、江崎悌三先生の御長男であることはあまり知られていない。

 その江崎先生のあと、九州大学農学部で蝶類の国際的権威となったのが白水 隆先生だった。(1917年9月14日―2004年4月日)
 将来、九州大学農学部に進学し、昆虫学を学ぼうという願望は、「それじゃ、飯が食えないぞ」という周囲の反対で呆気なく潰え、私は就職に無難な法学部に進むことになった。嗚呼、何という意志薄弱!
 いまだに昆虫少年の残滓を身に纏い、八十路にして虫を追いかけている原点がここにある。

 雨季……憂き季節の始まりである。薄日が差す雨の切れ目に、紫陽花の花をかすめてアゲハチョウが飛んだ。今更ながら、悔しい命の喪失だった。
 庭中のスミレを集めたプランターに、まだツマグロヒョウモンは訪れない。10株繁らせたパセリにも、まだキアゲハはやってこない。
                     (2020年6月:写真:アゲハチョウの蛹・遺影)

捨てる神あれば……

2020年06月06日 | つれづれに

 数日前に松の剪定を済ませた植木屋が昨夕集金に来て、突然「今日で引退します」という。80歳、カミさんと同い年であり、たまたま誕生日が我が家の結婚記念日と同じ日である。それやこれやの親近感で、お互いに一升瓶を祝いに送り合ったりしながら、長年親しくしていた。
 父の代からの出入職人であり、もう半世紀を超える付き合いだった。彼の師匠は植木の里・田主丸の昔ながらの植木職で、父が家を建てたときに、築山や泉水、蹲を配した純和風の庭園を築いてくれた。
 父が逝き、一人で10年生きた母が亡くなって家を売るに際し、庭石や植木を形見として我が家に移した。その際にも、年老いた田主丸の師匠が来て、顎で指図しながら我が家に松3本に槇、紅椿、乙女椿、山茶花、侘助、何本もの躑躅などの植木と6個ほどの庭石を配して日本庭園を造ってくれた。師匠は既に故人となったが、その弟子の植木職人が、ずっと我が家の面倒を見てくれていた。
 3年ほど前に大病を患って以来体調安定せず、松以外の手入れや消毒も滞りがちになっていた。突然ではあったが、年齢を考えれば引退も已むを得ない。長年の世話に感謝して別れるしかなかった。
 また一人、身近な人が去っていった。

 さて、困った。神も、この庭を見捨てたか!
 我が家の庭は植木も多く、手が届く低木の剪定は素人でも出来るが、高木や、まして松は手が出ない。シルバーセンターに頼むと、電動鋸で無残な姿にされてしまう心配があるし……。
 しかも、今年はチャドクガが異常発生している。侘助に付いた毛虫が、紅椿と乙女椿、山茶花にも蔓延り、特に乙女椿は再生不能かと思わせるほど無残に食い荒らされ、すぐにも消毒しないと大変なことになりそうな有り様である。
 取り敢えずホームセンターに走り、買ってきた消毒剤を噴霧したが、高い枝には届かない。

 カミさんと頭を抱えていたが、ふと思い出した。「拾う神」が2軒隣にいるではないか!植木職人が、数年前に越して来ていたのだ。早速、今朝カミさんが相談に行ったら、二つ返事で今後の面倒を引き受けてくれた。経験10年、年中組の女の子と3人暮らしの若い職人である。
 「チャドクガでしょ、今から消毒に行きます」と、恐縮するほどの身軽さである。早速噴霧器を抱えて駆けつけ、4本の椿系を消毒してくた。
 「剪定は、それぞれの時期がありますから、その時が来たら参ります」
 
 「初めてですから、今回はタダでいいです」
 「いや、それでは今後の付き合いがやりにくい。前の植木屋さんには、消毒に5000円払ってたから、それで」
 「いや、それは全部の木をやった時でしよ。今日は4本だけだから……1500円ももらっておきましょうか」
 「それじゃ申し訳ないから、じゃあ、3000円で」

 そんな会話も楽しかった。「捨てる神」の翌日に現れた「拾う神」、世の中、まだまだ捨てたものじゃない。

 昨日ショッピングセンターで、懐かしい「アブッテカモ」を見付けた!「オキュウト」と並ぶ博多の味である。スズメダイに、粉を吹くほど塩を効かせて売っている。これを焼いて、硬い骨を剥がしながら皮ごと毟って食べる。酒の肴にもよし。子供の頃から親しんできた干物だが、今では滅多に見かけなくなった。
 炙って噛むから、アブッテカモ。なんとも分かりやすい名前のこの味を知っているのは……やっぱり高齢者だけか!
 明日は友人の畑で、ジャガイモを掘らせてもらう。今夕、庭で採れた10キロの梅のうち2キロを届けてくれた。梅酒は1キロ漬けてあるから、梅サワーで1キロ、梅蜜で1キロ、今年の猛暑は梅尽くしで乗り切ることにしよう。

 梅の木の周りを、しきりにユウマダラエダシャクが儚げに舞う。梅雨の蛾である。
                         (2020年6月:写真:アブッテカモ)

命のステップ

2020年06月02日 | 季節の便り・虫篇

 大胆に筆で叩いたように、深い緑が輝いていた。ハンドルから軽やかに伝わる舗装道路の振動が心地よい。久し振りのドライブだった。
 
 毎日「何か」を見付けて身体を動かしてきたが、さすがに逼塞感が鬱陶しくなり始めていた。梅雨入り前の貴重な晴れ間、爽やかな日差しに誘われて、少し遠出することにした。
 目指すは、大分県!「県を跨ぐ不要不急の外出は自粛」と要請されているが、「不要不急」ではない生活必需品=食品の買い出しという言い訳がある。福岡県ナンバーで大分県を走る後ろめたさを、ドライブの楽しさが押しひしぐ。煽られることも、傷つけられることもなく、大分県が迎え入れてくれた。わずかな距離の越境である。マスクと手洗いで、迷惑を掛けないようにしよう。

 筑紫野ICから九州道に乗り、鳥栖JCTで大分道に曲がり込む。異様なほどに車は少なく、大分道では前後全く車の姿を見ない状況が何度もあった。日田ICで降りると、若いバイカーが何台も連なって追い越して行く。この先には、私の好きな「ファームロードWAITA」という、アップダウンとカーブが連なる広域農道がある。完全舗装された車の少ない山道を、ギア操作とエンジンブレーキを駆使しながらドライビングを楽しめる道である。バイカーたちも、日ごろの鬱積を晴らしに走りに来たのだろう。

 日田ICから10分ほどで目的地大山町の「木の花(このはな)ガルテン」に着いた。
 我が家から1時間余り。この道を上り詰めると、小国町から阿蘇外輪山の大観峰へと繋がる。上り詰めたい欲求は抑え難いが、今は自粛の時。ガルテン名物の田舎料理バイキングの店は閉じていたが、物産店は開かれていた。
 我が家の生活圏内のスーパーに比べ、とにかく新鮮!そして、安い!!久し振りのドライブに解放されて喜んだカミさんは、あれこれ物色しながら豪快にカートに放り込んでいく。昔から、ご近所や友人への「お裾分け」が大好きな性分だから、旅先での買い物はついつい大胆になる。カートに溢れるほどの野菜などを積み込み、それでも1万円を少し超える程度の買い物だった。
 レジに並んでいた、お洒落な農家手作りマスクを一つ買って、自粛破りへのささやかな申し訳にした。

 この辺り独特のファーストフード(?)、「蒟蒻稲荷」(薄揚げの代わりに、蒟蒻で包んである稲荷寿司)のお弁当を買い、店の前のオープンテーブルで木漏れ日を浴びながらランチを摂った。人影も少なく、吹く風の爽やかさは、「コロナなんて、何処にあるの?」というほど長閑だった。

 帰路は小郡ICで降り、麦秋の畑を見ながら走り戻ってきた。

 夕方、撒水の折りに、漸く探していたものを発見!
 昨夕、東の庭に立つ八朔で育ったアゲハチョウの終齢幼虫が、枝から壁に這い移り、蛹になる場所を探して遥々南に回り込んで、壁面を2階に向かってヨジヨジと這い上っていた。多分、春に度々八朔の周りを舞っていたクロアゲハの幼虫だろう。今朝、南の壁を探したがどこにも姿が見えず、案じながらドライブに出かけたのだった。
 何と、昨日の場所から更に東、北と我が家を半周して、北面の裏口の横の壁に前蛹となってしがみ付いていた。4度の変態の第3ステップの前の姿である。明日の朝には、頭に角を乗せた蛹に脱皮していることだろう。
 僅か3センチほどの幼虫が辿った20メートル余りの距離は、人の身長に置き換えると、700メートルほどになるだろうか?命のステップを踏み重ねる小さな虫の頑張りに、少し元気をもらった気がした。

 可燃ゴミを出す序でに確かめると、ソーラーセンサーライトの光に包まれて、前蛹は静かに明日に備えていた。命を繋ぐ静止の期間が過ぎれば、やがて美しい蝶に羽化していくことだろう。その一瞬に立ち会う奇跡を楽しみにしている、昆虫少年の成れの果ての昆虫老人がいた。
 130キロのドライブの余韻が心地よかった。
                   (2020年6月:写真:クロアゲハ前蛹)

《追記》 今朝6時半、早朝散歩に出る前に見に行ったら、ツンと2本の角を立てた綺麗な緑の蛹になって、誇らしげにそっくり返っていた。犬走りから80センチ、トカゲの行動範囲である。いつかのように、蛹になったばかりの時に喰われることがないように祈りたい。厳しい生存競争に打ち勝って、美しく大空に舞い上がって欲しいと思う。