蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

師走騒動記

2018年12月29日 | つれづれに

 2018年が逝く……。

 股関節の痛みからリハビリを始めて丁度1年、8月1日の人口股関節置換手術から5ヶ月。漸く「筋力、作動域共に、ゴール・レベル」というお墨付きを頂いた。
 リハビリをあと2回残したところで、突然、肩、首、右腕に激しい痛みが出た。右腕が抜けるように痛く重く、切り捨てたいほどに怠い。整形外科に駆け込んだ。事情を話すと、「原因は首ですね」と4枚のレントゲン撮られた。頸椎に2か所、僅かに狭くなっているところがあり、それで神経を刺激しているんだろうという。「当分首の牽引を続けましょう」ーー6キロの負荷をかけて、15秒ずつ10分間牽引する。痛み止めの薬と、塗り薬をもらって帰った。
 二日ほど繰り返したが痛みは治まらず、しかも毎日痛みの位置が移動するのが不思議だった。1度目の牽引で、背中と肩の痛みが消え、右首筋に移動、2度目の牽引で首の痛みが消え、耳殻が痛みだした。痛みが移動するという事は、牽引が効いているということなのだろうか?

 薬の作用で軽い吐き気が続いた。処方を替えてもらおうと、再び医師の診断を受けた。たまたま頸椎や脊髄のオーソリティの医師が居てくれて、再度レントゲン写真を精査してくれた。「綺麗な頸椎ですよ。これでそんな痛みが出る筈ないんだけどなぁ。それも右だけに痛みが出るのは……」暫く首を傾げた後「右手が抜けるほどに怠くないですか?ちょっと上半身裸になってみて下さい」

 気付かなかった、右肩から腕、胸にかけて赤い発疹が!
 「ヘルペスですか!」何で発疹に気付かなかったのだろう。何がストレスになったのだろう?
 「頸椎の治療は必要ありません。ヘルペスの治療をしましょう」 
 「皮膚科に行って点滴ですか?」
「ここまで発疹が出たら、点滴はあまり効果がありません。飲み薬で、対応できますから大丈夫です」
 抗ウイルス剤と神経ブロックの痛み止めを服用することになった。ヘルペスとわかった途端に、右胸の刺すような痛みが耐え難いほどに強くなった。聞きしに勝る痛さだった。出産を知らない男は、痛みに弱い。カミさんの再三再四の手術の痛みを、改めて思いやった。
 しかし、薬を服用し始めた夜から、嘘のように痛みが消えた。右腕の怠さもない。それでも、時折右胸をスズメバチが刺す。「うっ!」と呻いて、息をのむ瞬間がある。強い薬だから、眠気やふら付きが出る。翌日、気を付けて運転しながら、最後のリハビリに臨み、担当の理学療法士から「長い間お付き合いいただいて、ありがとうございました」と逆に礼を言われ、恐縮する。1年間のお礼を言って辞した。

 その午後、38度9分の高熱が出た。夜には37度5分まで下がったが、ヘルペスのウイルスと、抗ウイルス剤が熾烈に戦っているのだろうか。二日目の午後も、38.8度まで上がった。
 これほどの高熱は、もう20数年振りだろうか?熱にい弱い私である。天井が回り、起き上がれず、食事ものどを通らず、布団の中で呻吟するのが常だった。ところが、そんな高熱にもかかわらず、普通に動けるのが不思議だった。食事も残さずに食べることができる。これは、何よりもの救いだった。

 ヘルペスと判明する前に、迎春の買い物は済ませていたから、何とか文字通りの「寝正月」の準備に差し障りはない。
 カミさんが笑う。「最近、お互いの裸を見ることなんてないから、発疹に気付かなかったのね」私自身、前日はいったお風呂でも、鏡の前でパジャマに着替えた時も気付かなかった。勿論、自分の裸をしげしげと見るナルシストではない。
 しかし、病院の正月休み前に分かってよかった!歳を取ると、いろいろ出てくる。自覚して気を付けようと思っても、その限度は自分ではなかなか判断がつかないものだ。80歳間近のツケが、ここにきてやって来た。

 新聞のコラムで「ウイズ・エイジング(with aging)」という言葉を知った。老いに抗って若返りを目指すのが「アンチ・エイジング(anti aging)」。老いを否定的に捉えず、自然のままに受け入れ、年相応に生きるのが「ウイズ・エイジング」。……納得出来る言葉だった。
 大晦日まであと3日、八十路の扉を叩くまで23日、思いがけず慌ただしい師走の騒動だった。粗大ごみと化したわが身をもてあまし、一人で頑張るカミさんに詫びながら、本格的「寝正月」がやってくる。
 キーボードを叩くのも、正直つらい。これをもって、今年の「蟋蟀庵便り」の「打ち納め」としよう。大切な「納め」は、ほぼ終わった。当面、ヘルペスとの戦いに専念する。

 気温の乱調に戸惑ったのか、蝋梅が1ヶ月も早く狂い咲いた。
                 (2018年12月:写真:狂い咲く蝋梅)

Graduationー卒業ー

2018年12月19日 | つれづれに

 前回計画書からの改善・変化点「左股関節可動域及び股間周囲筋群、ほぼゴールレベル。また、歩行及び階段昇降等、問題ないようです。但し、端坐位保持後の起立動作及び左股外転動作時に、僅かに疼痛出現すること残存。」
 目標:最終「疼痛緩和、左股関節機能向上による応用歩行能力向上」
 本人の希望「来年夏には、スキューバ・ダイビングに再挑戦したい」

 リハビリ期限150日終了を前に、担当の理学療法士による最後の機能検査が行われ、「もう、大丈夫でしょう。人口股関節としての機能は、ほぼ回復しました。年齢に対しても平均以上の筋力です。」
 その後の医師の診断でもOKが出て、昨年12月から始まった左股関節変形との闘いから晴れて卒業することになった。冬、春、夏、秋、そしてまた冬……1年に及ぶストレッチ、手術、リハビリの日々だったが、一度も休むことなく重ねて来た努力が報われた日だった。若干残る一時的な疼痛は時が薬、徐々に緩和してくるだろう。なんといっても、人工股関節置換手術の術後5ヶ月である。焦ることもあるまい。
 リハビリがない日は、朝5時半に起きて30分の筋トレ・ストレッチをやり、6時25分からのテレビ体操で身体を目覚めさせる。お天気のいい日は、時々御笠川沿いや博物館裏山を、6~7000歩を目途に歩く。習慣になってしまえば、さほど負担にはならないし、年寄りにとって、やり過ぎてもいけないのが筋トレ……だから、毎日歩くことを自分には強いない。それがストレスになっては、意味がないからだ。
 健康に関しては、慎重且つ臆病な私のことだから、きっと今後も、この習慣は続けていくことだろう。

 振り返れば、変形の痛みを発症してから5ヶ月のリハビリ・ストレッチで筋力を強化し、右股関節や膝に異常が生じないうちに早期の人口股関節置換手術を決断した時が、この治療の重要なターニングポイントだった。手術の前日まで、入院した病室で筋トレをやって手術に臨んだ。だから、僅か16日目で退院し、歩いてリハビリに通うことが出来た。手術翌日から始まった自力歩行のトレーニングから退院まで担当してくれた理学療法士が、「今まで担当した患者さんの中で、最も速い回復です!」と言われた。だから、再入院リハビリのつもりで訪ねた近所の整形外科で、「もう、通院で十分です」と、入院を断られる意外な展開となった。
 「あと1ヶ月くらい入院するだろうから」と、友人と遊ぶ計画を立てていたカミさんは,ちょっと慌てたらしい。

 年が明ければすぐに、70代を卒業する。そして、平成という年号も卒業する。決して急いでいるわけでもないのに、時は韋駄天走りで駆け抜けていく。
 来たるべき年には、社会、政治共に期待することは何もない。むしろ、危惧ばかりが膨らんでいく。
 環境悪化・地球温暖化は加速の一途を辿り、最早人知では回復の可能性が乏しいところまで悪化している。
 少子高齢化で労働力人口は減少、若者の無気力化がさらに経済力を失わせていく。
 外国人観光客が3000万を突破、政府は6000万を目指すと豪語する。数兆円の経済効果と銭勘定ばかりしている陰で、政府は軍事予算を急増させようとしている。
 観光客の急増が既に公害化しているというニュースを見た。更に、古都・京都の街並みが通り一本丸ごと中国人に買われ、その中国人が通りに自分の名前を付けると嘯いているという。観光産業や、水資源の土地や山林が中国人に買い占められつつあるという話も聞く。
 日本民族の存亡は、今や危機的状況に瀕しようとしているのではないか、日本民族さえも「卒業」しようというのか……例年になく、愚痴が多い師走である。

 雑念を払って、来年夏、沖縄・慶良間諸島・座間味島でのダイビングに想いを馳せる。ライセンスを取って12年目、サイボーグとしての復活……あの美しい海が、きっと温かく私を迎えてくれることだろう。
 俄かに「卒業」の喜びが湧きあがってきた。ひと足早い春の先駆け、水仙が匂う季節である。
                     (2018年12月:写真:水仙香る)

平成最後の師走

2018年12月16日 | つれづれに

 前夜、ふたご座流星群は、とうとう一つも目にすることなく去って行った。1時間に全天で40個ほど観られるはずの流れ星だった。生憎の曇天が阻み、今年も願い事は叶わなかった。
 雲の切れ目から、「オリオン座」が堂々と姿を現した。三ツ星も、その下のオリオン座大星雲も、霞んだ目にも確かめることが出来る。その左肩、赤みがかったベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンが形作る「冬の大三角」もクッキリと夜空を切り取り、期待して首が痛くなるほど見上げていたが、残念ながら西の空を福岡空港から飛び立った夜間飛行の機影が、ライトを点滅させながら横切るだけだった。

 一夜明けて……Y農園の奥様から「ジャガイモ掘りますけど、いらっしゃいませんか」とお誘いの電話が来た。待っていた収穫祭!手帳を手繰ると、去年もこの日12月15日に、畑でジャガイモを掘っていた。明日から雨になるという。防護柵で囲まれているとはいうものの、イノシシの乱暴狼藉も心配される季節である。その前にと、私達たちの都合に合わせて、忙しい中を畑で待っていて下さった。観世音寺の駐車場に車を置き、そそくさと境内を抜けて、暖かい小春日の日差しの下をカミさんと畑に向かった。

 東側を日吉神社の小山が遮り、後ろは四王寺山の屏風、西は小さな尾根が風を遮り、10時頃から16時頃まで、ほっこりと陽だまりに包まれる300坪の畑である。植えられた晩白柚、柚子、檸檬、無花果、枇杷、タラなどの木々が南に日陰を作り、畑仕事の中休みの憩いを包む。
 無農薬の畑には、幾種類もの野菜が丹精込めて育てられていた。あの苛烈な夏の日差しにも負けず、生き生きと葉を繁らせている。
 ひと畝のジャガイモ畑を引き抜いていった。術後の股関節をいたわって、私には折り畳み椅子を用意して下さる。しかし、私も掘りたい!
殆ど奥様の作業だったが、引き抜いた根っこに、直径10センチを超える大物から親指の先ほどの小芋まで、真っ白なジャガイモが姿を現す。掘り起こせば、まだ地中には幾つも埋まっているという。ワクワクドキドキのひと時だった。
 折角だからと、大根3本、大きな蕪、春菊、ラディッシュ、アスパラ菜、ホウレンソウ、柚子……持ち切れないほどの野菜を、わざわざ自転車で駐車場まで運んでいただいた。慌ただしい1時間足らずの収穫祭、今回は私の珈琲を淹れるのも忘れ、手提げ袋だけシッカリと抱えてやって来た。その厚かましさを快く包み込んでくださる、Y農園ご夫妻の優しさはいつも変わらない。自治会の副会長と、公民館主事を兼ねるご主人は、今日は太宰府天満宮と日吉神社のお札を配るのに忙しく、奥様一人で私たちを畑でもてなして下さった。
 葉の上に、一匹のテントウムシが日差しを浴びていたのも、嬉しい自然の演出だった。追加のお土産は、2連のオキナワスズメウリの実!暑熱に焼かれて、我が家のオキナワスズメウリは壊滅状態だったから、何よりのお土産だった。早速、玄関脇の簾を飾ることにしよう。
 こうして、当分我が家の食卓は、鮮度100%の贅沢な野菜で賄われる。

 畑から戻った午後は、町内の公民館で「クリスマスコンサート」。近くの女子短大からやって来た学生たちが、楽しいひと時を演出してくれた。地元のケーブルテレビがカメラを担いで取材に来ていて、インタビューを受けた。
 「丁度、私たちの孫娘の年代の皆さんです。横浜の孫たちを想いながら、楽しく聴かせていただきました。これで、年の瀬を越す元気を頂きました」と応じた。明日の夜、4分間の放映があるという。蟋蟀庵ご隠居の、久し振りのテレビ出演(?)となるのだろうか。

 気功教室、同期入社のOB会、自治会区長OB会、それぞれの忘年会も早めに済ませた。親でなく、夫や妻、兄や姉の訃報が増えた25通もの喪中欠礼の葉書に心痛めながら、200枚の年賀状も書き上げた。こうして、平成最後の師走が暮れようとしている。残り少ない日々に、幾つもの1年の「納め」が待っている。喜怒哀楽さまざまに交差した1年だったが、無事に「納め」を出来る果報を喜びたいと思う。

 夜……今夜も、オリオン座と冬の大三角は、遮るもののない中天に美しく輝いていた。
                   (2018年12月:写真:主格の数々)

落ち葉の隠れ宿

2018年12月07日 | 季節の便り・旅篇

 乱調の季節の歩みを取り戻すように、一気に酷寒が来た。3日前の24.9度という異常な暖かさ!82年ぶりに12月の記録を塗り替えた日が嘘のように、7度の寒風が落ち葉を吹き散らせている。今夜は3度まで下がり、山では雪が舞うという。

 限度いっぱいに膨れ上がった23キロのスーツケース二つを預け、10キロほどの機内持ち込みキャリーケースを引いて、次女は無事にロサンゼルスに帰って行った。見送った淋しさよりも、疲労困憊して溜息を吐きながらベッドに倒れ込んだ一夜が明けて、ようやく2週間振りに老いた二人の日常が戻ってきた。2週間の慌ただしい帰国の締めは、雨に包まれた露天風呂の一夜だった。

 39度ほどの、私にはややぬるめの掛け流しの部屋付き露天風呂に沈む。いつまでも浸かっていたい心地よさに、股関節をねぎらって至福の時が流れた。
 枝先から滴り落ちる雨の雫が、ポトンポトンと小さな泡坊主を浮かべる。散り敷いた落ち葉を叩く雨音に、吐口から注ぐ湯の音も紛れて消える。時折、風に払われた落ち葉が湯の表に舞い落ちる。取り払うのも惜しくて、そのまま湯に漂うままにしていた。

 42度の源泉が、そのまま檜の湯船に注がれ、自然の風に冷やされて39度ほどになる。ぬるい時はボタンを押せば、2分間だけ熱湯が注がれるという。20度を超える季節外れの大気に丁度いい湯加減となって、疲れた私を柔らかに包み込んでくれた。カミさんと次女は、岩盤浴に出掛け、私一人が部屋の露天風呂をほしいままにした。

 筑紫野ICから九州道に乗り、小雨の中をスピードを控えめにしながら南下、菊水ICで降りて山鹿温泉方面に走り、途中から左折して田舎道を行くと、やがて平山温泉郷に着く。かねてから常宿の一つにしている宿に着いたのは、およそ1時間半後だった。
 片道85キロ、ふと思う。術後のドライブとしては、一番長い距離ではないか。オートマ車だから左足は使わないものの、座りっぱなしの1時間半は、それなりに股間に負担を与える。
 山の中の細く曲がった坂道の途中に幾つもの離れが建つこの宿、雨の中を下駄履きで坂道を上り下りして大浴場に行くのはちょっと不安もあり、それに面倒だった。だから選んだ、露天風呂付き離れのこの宿、肌を包む湯の温もりに陶然としながら、雨を聴いていた。

 湯上りの火照った身体を布団に包んで微睡むうちに、夕飯の時間が過ぎていた。岩盤浴からようやく戻ってきたカミさんと娘を連れて、お食事処に向かう。所々に灯された光に、葉の上に散り落ちた枯れ紅葉が輝くのも風情だった。
 そこそこに満足できる夕飯ではあったが、やや創作が過ぎ、素材本来の持ち味が消されている料理があり、少し残念だった。料理人の工夫したい気持ちはわかるが、素材の鮮度に恵まれた九州の宿は、やはり素材そのままで味わいたいと思う。遠く異郷の地で暮らし、日頃新鮮な和食には恵まれない娘だからこそ、本来の和食を食べさせたかったと思う。これも親心。
 しかし、この宿の優しさは、食後持ち帰る夜食にある。竹の皮で作られた、一見田舎の藁屋根の家に見立てた弁当箱に、お握りと沢庵が包まれている。夜更けの露天風呂から上がって、小腹が空いたところで頬張るお握りは、替えがたい味わいがあるのだ。

 一夜明けて、大浴場に向かったカミさんと娘をよそに、朝風呂も部屋付き露天風呂で済ませ、帰途に就いた。途中広川SAで買い物と昼食を済ませ、帰り着いた午後から、娘は帰国の為のパッキング作業に忙殺された。いつもの慌ただしい時間である。

 雨が少しずつ冷たくなっていった。娘との別れの時が近付いていた。
                 (2018年12月;写真:雨に濡れる枯れ紅葉)