蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

土と語る

2014年11月23日 | つれづれに

 突き抜ける晩秋の青空を掃き寄せるように、観世音寺山門の銀杏が黄色に染まった。境内を彩る楓の紅葉の葉末越しに、一面のコスモスがまだ健在である。背中のリュックを揺すりあげて、参道を裏に抜けた。

 冬場、我が家の食卓には酢蕪が欠かせない。蕪がある限り、漬け続けるのが私の楽しみである。先日いただいた3個を食べ尽くし、家内に頼んでメールで厚かましくYさんにお伺いを立てた。
 「午前中畑で草取りしていますから、お出掛け下さい」
 300坪の畑からのお裾分けで、この2年どれほど恩恵を受けたことだろう。玉葱、ピーマン、胡瓜、トマト、茄子、南瓜、スナップエンドウ、大根、春菊、、分葱、隠元、西瓜、瓜。1キロのラッキョウもいただいて漬け込んだし、好物の無花果は食べきれないほど何度もいただいた。
 先週は、木枯らしのはしりの冷たい風の中を家内と畑に招かれて、温厚なご主人の笑顔に見守られながら、数十年振りの芋掘りを体験した。茹でたお芋をいただきながら、果樹の間にシートを敷いて、持参した珈琲を楽しんだ。傍らには、鈴なりのレモン、枝を撓わせて垂れ下がる子供の頭ほどの巨大な晩白柚、しかめっ面の柚子、畑の一角にはコスモスが一面に咲き広がっていた。大輪のコスモスを一抱え、ご主人が摘んで土産に持たせて下さった。我が家の玄関の紹興酒の大壺が、秋を豪華に演出する。

 せめてものお返しに畑の草取りをお手伝いすることにした。踏み固められた我が家の庭の雑草のしたたかさに比べ、この畑の雑草の柔らかさは感動的でさえあった。ニンジン畑を覆い尽くす若い雑草たちは、ほとんど抵抗なく柔らかに土から引き抜かれていく。和毛のような優しさに、このままおひたしにして食べてしまいたいような手触りだった。鋤きこまれ耕されてたっぷり空気を含み、豊かな養分と朝露が収穫を誘う。美味しい野菜作りは、肥沃な土作りから始まる。これが「丹精」というものだろう。
 気が付いたら既にお昼。ひと畝のニンジン畑に蹲った小一時間は、無我無心の静かな土との語らいだった。

 ニンジンの葉の上に、キアゲハの2齢幼虫が1匹、4齢幼虫が2匹。やがて美しい5齢(終齢)幼虫に脱皮し、前蛹を経て蛹になり、そのまま冬を越すことだろう。見守りをYさんに頼んだ。農薬を使わない畑では、いろいろな虫たちとの出会いがあるから嬉しい。

 膝をいたわって貸して下さったコロ付きの作業椅子を滑らせながら草を抜いているとき、道端から「こんにちは」と声を掛けてくる男性がいた。顔を上げた瞬間…。
「あれ、ツユさん?」
「お、アイちゃん!」
 同期入社して、1年間同室で見習い時代を送ったI君だった。画家の奥さんが観世音寺の秋景を描いている間、散歩しているところだという。思いがけない晩秋の出会いだった。

 折り重なるほど土から盛り上がった蕪を3個と、大根、春菊、レモンを3個いただき、リュックを乗せた背中の汗の温もりを楽しみながら、再び観世寺音の紅葉を潜って家路についた。久し振りの土いじりに腰が熱い。いただいた野菜で膨らむリュックのポケットには、ミカンの枝から手折ってきたオオカマキリの卵塊が揺れている。
 折からの風に、山門の銀杏が大きく空を掃いた。
                (2014年11月:写真:観世音寺の銀杏)

男の悲哀

2014年11月05日 | つれづれに

 西日本新聞朝刊に「春秋」というコラムがある。時折面白い記事があって、筆者の顔を想像しながらほくそ笑むことがある。先日の「春秋」からの引用を交えながら、雄♂牡男について考える。

 セアカゴケグモという外来の毒蜘蛛が港湾地区から上陸して、全国に生息圏を拡大している。福岡でも次第に被害が広がり駆除が続けられているが、嚙まれると激しい痛みに襲われ、高齢者や子供は重症化することもある。
 ところが……実は、毒を持つのは雌だけで、雄は体も小さく、交尾後雌に食われてしまうという。だから「後家蜘蛛」という。カマキリが交尾しながらオスを頭から食う話は以前に書いた。神経系統が違うから、頭から食われても下半身は生殖機能を果たし続けるという羨ましいような話だった。
 深海魚のチョウチンアンコウの雌は、顔の前の提灯のような発光器で餌をおびき寄せる凄まじいご面相の魚だが、雌は体長僅か数センチで、雌に嚙みついて寄生する。ここからが凄い!やがて雄は雌の体内に取り込まれ、雌の血管から養分をもらって生きる。目や内臓は退化してしまうのに、生殖機能だけが残って、雌を受精させ子孫を残すという。自然界は、何故こんな残酷な掟を作ったのだろう?

 生物界は、概ね雄のほうが姿も美しく逞しい。より強い雄を求めて、雌は雄に様々な試練を与える。鳥が囀り、秋の虫や蝉がひねもす鳴き続けるのも、全て雌を惹きつけるための手段だし、獣が角突き合わせ命をかけて戦うのも、交尾の権利を確保するためである。巨大な雄が何匹もの雌を率いてハレムを作る動物もいる。鯨のブリーチングも、より高く水しぶきを上げて雌に強さをアッピールするためという説があるし、メキシコ・ロスカボスの夜明けに見たトビエイのジャンプも、同じ目的があるらしい。カブトムシもクワガタも、立派な角があるのは雄。
 しかし、蝶は花に寄る習性のせいか、美しさで雄を引き寄せる必要があるのか、雌の方の斑紋が美しいものが多い。小さな雄が雌の背中にしがみつくオンブバッタの例もある。

 さて、人間は?…おそらく、元々はライオンのように雄…いや、男の方が立派で美しかったのだろう。雌…女が美しくなったのは、男の「言葉」と「視線」だったというのが私の負け惜しみの自説である。男が賛美の目で見詰めながら、「美しい、美しい!」と囁き続けてン百万年、いつの間にか女の輝きが男を凌いでいった…のだろう。(但し、全ての化粧品がこの世からなくなったら、スッピンの世の中がどれほど悲惨なものになるか…想像すると怖ろしい!それにしても、近頃の女性は強い!)
 儒教という男にとって都合のいい理屈は、男力の弱りを感じ始めていた社会にあっという間に蔓延した。世の中のすべての物差しが男に都合のいいように作られ、女性の地位が落ちていった。いまだに日本で男女共同参画が根付かないのは、男どもが衰えいく男力を守るための必死の抵抗が一因なのかもしれない。
 草食系男子が増え、都会の男の生殖能力が徐々に衰えてきている。結婚願望が衰え、未婚男女が増えていく。それは、とりもなおさず子孫繁栄のための生殖機能の放棄であり、種としての人類ホモサピエンス滅亡への必然の道筋なのかもしれない。リニア新幹線、東京オリンピック、原発再稼働などと虚構の繁栄にうつつを抜かす前に、男よ、肉食系男子として復権の戦いを始めよ。(呵呵)

 とつおいつしながら、雲一つない眩しい秋空を見上げる。この秋一番の冷え込みの中で、ようやく紅葉便りも届き始めた。まだまだ見頃は雲仙仁田峠や九重九酔渓、五家荘、菊池渓谷など山深いところでしかなく、光明寺や竈神社など太宰府に紅葉前線が降りてくるのずっと先のこと。天満宮裏山から実生で採ってき我が家のイロハカエデも、まだ青々としている。温暖化により、この50年で20日も紅葉が遅くなったという。いずれは、クリスマスの頃が紅葉の見頃になるのだろうか?

 朝晩の落ち葉掃きが峠を越えた。こうして、冬の足音がひたひたと近付いてくる。
     (2014年11月:写真;太宰府・光明寺の紅葉2008/12/01)