蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初めての入院・手術(その3)

2013年03月03日 | つれづれに

 三が日も過ぎた15日目の朝、慌ただしく同室の仲間たちに別れてリハビリ先のK整形外科に転院した。幸い、我が家から徒歩10分の近場にある評判のいい病院だった。義弟が院長夫妻と親しく、今も仕事の縁があって快く受け入れてくれた。二人部屋の窓側のベッドは全面ガラス張りで明るく、毎日日の光を暖かく浴びるサンルームのように快適さである。同室の膝のリハビリを続ける大学生も、真面目で静かな、そしてすでに就職も決まって卒業前の試験に遅くまで勉強し、松葉杖で補いながら時たま通学もする好青年だった。昨日までの、長屋の花見のように賑やかな部屋との落差は感動的でさえあった。

 此処で、看護の素晴らしい理念を知った。婦長の信念だという。
「食事はお匙を使わず、お箸で摂ってください。吸い飲みは使わないでください。手助けしますから、起きあがって自分で湯呑を使って飲んでください。尿瓶やおむつは決して使いません。夜中でも構いませんから、必ず看護婦を呼んで自分の足でトイレに行ってください。」
 手助けし過ぎない、放置しない。あくまでも「自力」を尊重する。排泄という、ある意味で人間の尊厳にかかわる行為を大事にする。だから、寝たきりにはさせない。……それが出来ない病院が増えてきている。前の病院でも、日夜看護婦や助手の人たちの献身がいかに大変かということを身をもって体感してきた。だから、この理念の凄さはよくわかる。
 6週間、肩の自力リハビリは禁止されているが、肘から先は動かせる。入浴が隔日、三角巾をしたまま、初めのうちは右手と背中だけを看護助手に洗ってもらっていた。やがて、固定した左手を使って、背中や右手を洗うコツを見つけて、自力入浴が可能になった。左肘を脇に固定したままで着替えをすることも可能になった。バスタオルを使い、右手だけで全身を拭くことも覚えた。「出来るだけ、看護婦や看護助手の手を煩わせないようにしよう」……自分に課したささやかな決め事だった。

 転院10日目に、高校同窓会の世話を一手に引き受けてくれていた友人の訃報が届いた。電話してきたのは、前にも書いた同窓の整形外科医、そして偶然此処の院長も彼の教え子だった。術後25日過ぎたし、足は関係ないから葬儀に出てこないか、と。そして、着替えの仕方を丁寧に教えてくれた。許可を得て自宅に帰り、家内にエスコートしてもらってJRで葬儀に駆けつけた。
 卒業30周年の総会を湯布院への修学旅行で始めて以来、実行委員長として彼と同期会を重ねてきた。この秋に卒業55周年を迎える。その企画の骨子を、手術1ヶ月前に打ち合わせていた矢先の急逝だった。新年会の飲み会の帰り、自宅まであと300mのタクシーの車内で意識を失い、二日後に息を引き取ったという。同窓会の柱を失った喪失感に涙をこらえながら出棺を見送り、力を落として病院に戻った。

 6週間目を迎える前日、就寝時のバストバンドが取れ、いよいよ自力リハビリが始まった。46日目に、三角巾からも解放された。自分の左腕の重さに驚き、細く弱々しくなった腕に愕然となった。毎日30分ずつ午前と午後2回のリハビリが、さらに続いた。読書とテレビとラジオと、やがて許された外出許可を使って近郊を歩き回り、時たま自宅に帰り……そんな単調な日々の慰めは、窓辺に家内が置いてくれた「おひさまフラワー」だった。
 明るくなって太陽の光を浴びると電池が作動し、ひまわりの花と葉ががゆらゆらと動き始める。日が暮れると、おとなしく眠りにつく。のどかで健気な姿が、看護婦やお掃除の人たちの人気を呼び、毎日その動きに癒されながら声を掛け合う。家内が通販で3個取り寄せ、ほかの病室にも置かせてもらうことになった。

 9時から7時まで、10時間の消灯は、夜を限りなく長く感じさせる。「これが入院ということなんだな」と実感しつつ、命に障りないことを改めて噛みしめる日々だった。
 2月10日旧正月、終日自宅外出の許可をもらって、果たせなかったお雑煮で遅ればせのお正月を祝った。いつしか、夜明けが早くなっていた。そして、病室の窓辺の一輪挿しに水仙が香って、ゆっくりと春が近づいていた。
           (2013年3月:写真:おひさまフラワー)


初めての入院・手術(その2)

2013年03月03日 | つれづれに

 夜毎救急車が何台も走り込む病院である。しかも師走押し迫った年の瀬の病棟には、様々な人間模様がある。初めから贅沢は言わない心づもりだった。完全看護で、真夜中でも何の不安もない見守りがある。夜勤の看護婦の忙しさは想像していたから、極力ナースコールはしないと決めていた。66日間、唯一コールしたのが手術終わった日の夜だった。尿管カテーテルを抜いた直後の排尿の痛みに貧血を起こしかけ、さらに絶食後のトンカツの夕飯に腹痛を起こし、脂汗を流しながらホットパッドを頼んだ。苦しみながらも「此処は病院」と思うと、どこか安心しきっている自分がいた。

 入院患者の食事への心配りも憎いものがあり、クリマスにはチキンにケーキが添えられる。元日の夕飯には、紙製ながら重箱のおせち料理が届き、予め「お餅食べられますか?」という問い合わせがあった。その反面、整形外科には私も含め片手しか使えない患者が何人もいるのに、2週間の間に殻つきの海老の料理が3度、丸ごとのゆで玉子が2度も出て大苦戦!しかし、食い意地が工夫を生み、何とか片手と口で殻を剥けるようになるから面白い。一番の難儀は、衛生の為に料理の鉢に被せて出されるラップを剥がすことだった。

 来年5月には、外来診察室、入院病棟、手術室を含めたこの本館は新館に移り、此処は駐車場ビルに生まれ変わる。その整理段階の入った為なのか、整形外科と小児科が同じフロアに混在する病棟だった。夜更けまで痛々しい赤ちゃんの泣き声が廊下に染み入り、同室の3人の大鼾が轟く。隣のベッドの少し認知症の出たお年寄りが、ひっきりなしにナースコールを鳴らし、看護婦が遅れると大声で呼ぶ。目の前にナースセンターがあり、ひと晩中ブザーの音が枕に響く……三日後に一人転院したのを機に、ベッド位置を替えてもらったが、すぐにそれ以上にただならぬ状況になった。
 新たに夜間徘徊中に転んで大腿骨を骨折し、正月明けの手術を待つ認知症のお年寄りが入院、二日目に嚥下困難で肺炎を起こした。痰の吸引が1時間おきに続けられ、その度に苦しげな吸引音と、大声で励ます看護婦の声が眠りを奪った。1週間目にさすがに耐えられなくなり、同室の仲間たち4人と訴えて漸く病室を一斉に移してもらうことになった。それから二日間、5人は時も忘れて昼も夜も昏々と眠り続けた。入院以来、初めての熟睡だった。
 折から巷にはノロウイルスとインフルエンザが猛威を奮い、入院するなり婦長が来て見舞い来客の自粛を依頼された。入院が決まった時点で、家内以外は身内さえ見舞いを一切辞退してきていたから異論はない。しかし、日本人の見舞い好きは困ったもので、年寄りが年寄りを見舞いに幾人も病室を訪れる。その挙句、正月明けの転院前夜に、同室の6人が全員風邪を引く羽目になった。幸いインフルエンザではなかったものの、風邪を抱えての苦しい転院となった。
 
 その反面、件の肺炎を起こしたお年寄りは看護婦に任せきりで、家族が見舞いや世話に寄ることは殆どなく、たまに嫁が訪れても、おざなりな声を掛けるだけで5分そこそこで帰って行った。年の暮に単身赴任から帰って来る筈の息子も、とうとう訪れることはなかった。
 足慣らしに歩き回る病棟の窓から冬枯れの景色を眺めながら、高齢化が進む中で迎えるこれからの歳月に思いを馳せること頻りだった。
 独り留守居の家内が、部屋が寒いという。一人の夜が怖いという。ベッドで遠くに除夜の鐘を聴きながら、ひっそりと年が暮れた。
          (2013年3月:写真:留守宅の雪景色)