蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

虚しい宴

2021年07月26日 | 季節の便り・花篇

 民意を無視して、2020東京オリンピックが始まってしまった。関係者の辞任・解任が相次いだ開会式を観ながら、「なんだ、これは!?」と、次第にシラケていく自分がいた。暗い!部分的には、気持ち悪く、不気味なシーンもあった。
 そもそも、コンセプトなど、説明を聞かないとわからない演出って、いったい何だろう?無観客でよかった。テレビでズームして観ているからわかるチマチマしたシーンなど、広く遠い観客席からでは意味がわからなかったかも知れない。独りよがりが不愉快でさえあった。解説するNHKアナの言葉にも、いくつもの抜けがあった。最近のアナウンサーは勉強していない。
 あまりにも冗長過ぎた。あんな深夜まで天皇を拘束し、しかも天皇の開会宣言に遅れて立ち上がる不敬なスガやコイケの醜態!ハシモトやバッハの長たらしい挨拶に比べ、簡潔に開会のみを宣言した天皇は、潔く見事だった。

 好きな試合だけを拾い観しながら、コロナがらみの報道が急速に影を薄めたことに気付かされる。NHKは、完全に政府に報道コントロールされているのが見え見えである。この時期の気候は良好などと、梅雨明けの高温多湿のこの時期にオリンピックを誘致した罪人・アベ、「福島はアンダーコントロールにある」と言った言葉とともに、歴史に残る欺瞞・虚言のひとつである。
 選手たちは、相手と戦う前に暑さと戦っている。熱中症で気を失った選手もいる。試合時間を夕方からに遅らせるよう要求した選手もいる。選手や関係者のコロナ感染も日々増え続けている。追い打ちをかけるように、大型台風8号が迫っている。アメリカのマスコミの圧力?スポンサーの圧力?政権の保身?選挙対策?アベからスガに汚泥を引き摺ったオリンピック、国民感情を取り残し、ある意味で選手たちまで犠牲にして、オリンピックが独り走りしていく。

 久々に、新聞のコラムに快哉を叫んだ。西日本新聞26日朝刊2面「提論~明日へ」に書かれた、日本総合研究所調査部主席研究員藻谷浩介氏の快論である。部分引用させていただき、36度を超える猛暑の憂さ晴らしとしたい。
 まず第2段から。
 ~~日本は(アルファ株もデルタ株も)どちらもうまく防げなかった。その原因が国内の体制不備だと理解せず、五輪に絡めて外国人を攻撃しているようでは、攘夷気分に狂って世界の現実を見ようとしなかった幕末の日本人を笑えない~~

 ~~客観的な数字を見れば、先にワクチン接種が進んだ欧米、そして入場行進した国々・地域の多くに比べ、日本は安全なのだ。
 首相以下の五輪推進派の関係者がなぜ、こうした数字を示さず「安心安全」という精神論を唱えるだけなのか。数字を見ていない、あるいは数字を国民に説明する言語能力がないのだろう。強権を振りかざして忖度させるだけで、周囲のやる気を喚起する言葉を持たない人物を首相に据え、それを問題とも思わない政党に、時代の求める「政権担当能力」はないと有権者はいつ気付くのか~~

 そして、終段。
 ~~延期を1年3ヶ月にして10月開催にできていれば、ワクチン接種も進み、暑さ対策にもなっただろうが、在任中の実施をもくろむように延期を1年とした前首相は何を思うのか。大会組織委員会の名誉最高顧問でありながら開会式を欠席した節操のなさ、腹の座らなさには言葉がない。ここでも責任は、彼の数々の公私混同を多年放置してきた、われわれ有権者自身にある。
 五輪はそれとは無関係に第5波の下で遂行され、多少もしくは多数のごたごたとともに、しかし他国で行われた場合に比べれば大過なく終わるだろう。それがいかに利権やスキャンダルまみれであれ、その開催を世界のスポーツ選手に対し引き受けた日本として、最低限の責任は果たす形だ。五輪より開幕が1か月遅いパラリンピックは、ワクチン接種が進む分、少しでも盛り上がることを願う。
 そしてその後に、われわれ日本人に何が足りていないかを、今度こそ深く反省しよう。それは物事を客観視する訓練と、標準的な公徳心と言語能力持つ人物をリーダーに選ぶ習慣に他ならない~~

 言い得て妙、言い尽くして快!

 この夏2度目の月下美人が、今夜4輪花開く。一夜限りの美人を愛でながら馥郁とした香りに浸り、束の間の安穏な宵を楽しむことにしよう。
                 (2021年7月:写真:頭を擡げる月下美人の蕾)

水の真珠

2021年07月15日 | 季節の便り・旅篇

 夜明けの露天風呂は、いつも寛ぐ。夜来の雨が嘘のように、穏やかな朝だった。美味しい「久木野米」で贅沢な朝食を済ませ、胃袋が落ち着いたところで、4度目の露天風呂で名残を惜しんだ。

 食事処で配膳してくれた若いネパール人の男女に見送られて、三たびの隠れ宿を後にした。今日中に大宰府に帰ればいいという、あてもない気紛れ旅である。昨日、「道の駅阿蘇」でもらったガイドブック「あかうしのあくび」を開いたら、もう20年近く前にみんなで行った「高森湧水トンネル公園」を見つけた。ナビで探ると、最短19分とある。
 途中、「あそ望の郷くぎの」で、娘のソフトクリーム巡りに付き合い、東に向かった。ナビは利口なようで不親切な面もある、南阿蘇の外輪山中腹を巻く道は、時に離合困難な農道になったり、突然道が消えて、その向こうに新しく出来た綺麗な道にぶつかったりする。このナビが搭載されたころには、まだ新道が出来ていなかったのだろう。いきなり、湧水トンネルの駐車場に出た。目の下が、トンネルの入り口だった。

 パンフに歴史が書いてあった。
 熊本~延岡間を結ぶ鉄道が昭和37年に認可された。昭和48年、高森~高千穂の間に6480メートルのトンネル工事が始まったが、約2キロほど掘ったところで毎分36トンの出水が起こり、町にある8つの湧水が涸れ、水道が使えなくなる事態となった。鉄道建設は断念され、代わりにここを親水公園として整備、平成6年にトンネルの550メートルが一般公開された。
 激しく流れる水に沿って、両側に歩道が続き、クリスマスや七夕には、美しい飾りつけがされる。コロナの為、今は過去の優れた飾り物が作品として並べられていた。
 肌寒いトンネルを進むと、一番奥に細い流れを滝のように落とす壁面に辿り着く。ストロボが点滅し、シンクロすると小さな流れが水玉となって停止したり、逆に上に上って行ったりして、まるで輝く真珠のように見える。「ウォーターパール(水の真珠)」と名付けられた光のイリュージョンである。
 
 トンネルを戻る途中、天井にごろごろと響く雷鳴を聴いた。入口を抜けたら、ちょうど雷雨が通り過ぎた後だった。いつの間にか、お昼を過ぎていた。
 ナビ任せで、小国に向かうことにした。予想通り、高森から阿蘇五岳の北端・峩々たる岩山の根子岳を巻く道だった。高千穂峡でボートを漕いだり、炭火に焙られながら名物の高森田楽を食べたり、何度も走り慣れた道だった。十数年振りに辿る道は、峩々たる岩峰を左右に見る曲折多い道に両側から木や草が覆い掛かり、路肩が見えないほど緑が深くなっていた。

 ヘアピンを重ねる道を娘のハンドルに委ね、やがて阿蘇市に出た。内牧に曲がる道を少し通り抜け、「山賊旅路」という面白い店で、山賊飯や団子汁で遅めのお昼を食べた。店の天井いっぱいに、全国から集めた無数の土鈴が下がっていた。
 世界最大の阿蘇カルデラを一気に走り抜け、内牧から紆余曲折する外輪山を駆け上がり、大観峰に寄ることもなく小国に抜けた。
 途中、娘の希望で大山ダムの下からダムの上にのしかかる「進撃の巨人」を見上げるエレン、ミカサ、アルミンの少年期の銅像を見に寄り道した。「進撃の巨人」を知らないジジババは、ちんぷんかんぷんだったが、娘は大喜びである。原作者が、ここ大山の出身らしい。

 大山の「木の花ガルテン」でトイレタイムを取って日田に抜け、大分道~九州道を走って、雷雨明けの太宰府に夕刻無事に帰り着いた。
 「雨女」と言っていた孫娘は、実は「雨の神」だったらしく、この二日間の観光や走行中に豪雨に見舞われることがなかった。いつも雨上がりを追いかける幸運なドライブだった。
 翌日、お土産で膨らんだキャリーバッグを引き摺りながら、孫娘は博多駅から帰っていった。自動車メーカーの本社工場で、内装デザイナーとして3年目の仕事が待っている。下の孫娘は、留守番しながら就活の真っ最中である。

 昭和、平成、令和と、三世代生きた私たちは、もう「歴史」になろうとしている。いい時代を生き、いい娘たちや孫たちを残したという、ささやかな自負と喜びがある。
                    (2021年7月:写真:ウォーターパール)

露天風呂雨情

2021年07月15日 | 季節の便り・旅篇

 35.3度!!梅雨明け後の散発的土砂降りの後に、茹だるような暑熱がやってきた。高齢の両親の、2回目のコロナワクチン接種の副反応を心配して駆けつけてくれていた娘を、昨日空港に送り、またジジババ二人の日常が戻ってきた。上の孫娘まで助っ人に駆けつけてくれて、久し振りに三世代の家族の温もりに、ほっこりと癒された。その孫娘も、一日前に帰っていった。

 7月9日、昨年より5日早く庭で羽化し始めたセミは、すでに10匹を超え、今朝も庭の木立から「ワ~シ、ワシ、ワシ、ワシ!!」と、けたたましく鳴きたてて炎熱を呼び込んでいる。
 昨日と同じ朝の気温なのに、湿度が下がって今朝は爽やかだった。洗濯物を干していても、汗をかかないのは久し振りだった。

 「まん延防止等重点措置」が解除されたのをきっかけに、三世代の温泉ドライブを楽しんだ。選んだのは、我が家一押しの隠れ宿・南阿蘇俵山温泉「竹楽亭」。3年ぶり、3度目の訪問だった。5000坪の緩やかな山腹に、竹あかり(竹燈)で飾られた回廊が、全室露店風呂付離れを連ねる宿である。熊本大地震で一部傷んで休業していたが、2017年初夏にリニューアルを終えて再開した。翌年訪れた時には、まだ途中の道路やトンネルが崩壊し、大きく迂回して辿り着く状態だった。

 豪雨の予報が残る中を、娘にハンドルを託して早めの出発とした。筑紫野ICから九州道に乗り、広川SAで早めのランチを摂った。しかし、雨の気配はない。時間に余裕があり過ぎるから、益城熊本空港ICで降りる予定を変更し、熊本ICで降りて、帰りに寄る予定だったカミさん希望の阿蘇神社を先に訪れることにした。
 57号線を東に走る途中、この春開通した新阿蘇大橋を右に見た。その先に、地震で崩落した旧阿蘇大橋の残骸を見下ろす崖の上に、慰霊碑が建てられている。残された「負の遺産」が痛ましく、車を停めずに走り抜けた。

 火振り神事で有名な阿蘇神社が震災で倒壊してから5年3ヶ月、拝殿がこの12日に復活したばかりである。日本三大楼門の一つとされる楼門など、国指定重要文化財6棟が損壊した。楼門は今も組み立て工事が進められており、23年12月の完成を目指している。その工事建屋の壁面に、在りし日の楼門がリアルに描かれていた。本物と見紛うほど、圧倒される迫力だった。
 新阿蘇大橋を超えて宿に向かう途中、激しい豪雨が来た。しかし、瞬間的走り雨で、3時半に宿に着いた頃には雨も上がり、回廊を下って和洋室離れ「さつき」に入った。

 部屋付きの露天岩風呂は食後の楽しみに残し、ほかの客が到着する前に大浴場と露天風呂を楽しんだ。女湯からは賑やかな声が聞こえるが、男湯は今日も独り占めだった。
 身体を洗い、大浴場で身体を温めて庭園露店風呂に出る。岩を敷き詰めた足元の危うさに、この3年間の足腰の衰えを実感させられた。カミさんも「露天岩風呂は怖い」と言っていた。
 立てられた何枚もの巨岩の間から、幾筋もの湯が流れ落ちる。一角に突き出た岩には碁盤が刻まれ、碁石も配してある。腰湯で碁を楽しむ設えだが、のぼせないだろうかと気になる。いつまでも浸っていたい、癒しの湯音だった。

 霜降り馬刺しと赤牛ステーキ、ヤマメなどの会席料理を、ワインと共に満喫した夕飯だった。夕闇を呼び込むヒグラシの声が、山の澄んだ空気のせいか、鋭いほどに冴えわたる。
 酔い覚ましのうたた寝に、激しい雷雨がやってきた。雷鳴轟き稲妻が奔る空から、大粒の雨が降り注ぐ中を、部屋付き露天風呂に浸かった。半露天だから、頭は濡れない。湯の面に弾ける雨粒も、得難い夜の露天風呂風情だった。

 まだ7月半ばでこの猛暑!昨日は、また県下一の最高気温だった。ジジババにとって、長く厳しい大宰府の夏が始まった。
                    (2021年7月:写真:庭園露天風呂)

コロナ・ワクチン顛末記 その2

2021年07月08日 | つれづれに

 「若い人ほど、副反応が強く出る」……口コミやネットで、様々な情報が乱れ飛んでいる。当然なことながら、不安を煽るマイナーな情報の方が多いのは世の常の事。人の不幸を喜ぶ愉快犯には事欠かない。
 そんな中で、ためらう人も少なくない。医師でさえ「私は接種しません!」と公言する場面にも出会った。しかし、我が家には毛筋ほどの迷いもなかった。7月1日14時30分にカミさん、時間差を置いて4日9時30分に私が、それぞれ2回目の接種を受けた。流れは1回目同様にスムーズで、15分の待機時間を含めて30分足らずで接種会場を出た。
 カミさんは、少し腕に痛みが出て、夕方38.4分まで熱が出た。早めにベッドに入らせ、氷枕で頭を冷やして、予め掛かり付け医に処方してもらっていた解熱剤・カロナールを1錠服ませた。私がベッドに入る11時、薬のせいでびっしょり汗をかいたパジャマを着替えさせた頃には、36度9分の微熱迄下がっていた。翌日、軽い倦怠感が残ったが、腕の痛みは1回目ほどではなく、夕方には治まった。

 私の場合。腕の痛みは、1回目より軽い。カミさんが「ブラのホックが留められない痛さ」と言っていたが、試しに後ろに手をまわしてみたが、大丈夫だった。夜から翌日いっぱい、36.9分~37度という微熱と、軽い倦怠感が続いたが、夜には平熱の36度5分で安定した。
 若者並みのひどい副反応を怖れ(そして、若干期待)を抱いていたが、やはり「後期高齢者」の歳相応の結果でしかなかった。(笑)抗体が出来る今月半ば頃には、北部九州の梅雨も明けていることだろう。

 2回目接種を終えたという安堵感は意外に希薄だった。ウイルスは今後も変異を重ねる、インド型・β(ベータ)型に続き、オリンピックを強行する愚かさのツケとして、ワクチン効果が五分の一といわれる南米型・λ(ラムダ)型の上陸が懸念されている。人類とコロナとの鼬ごっこは、コロナ優位のまま、先行きの見通しが立たない。2回目の接種が終わっても安堵感がわかない原因は、多分ここにある。特効薬のめども立たない中で、不毛の戦いはまだまだ続くだろう。マスク生活も、当たり前の世界になるだろう。目は表情のポイント、目美人が増えて、それはそれで楽しい……そう思わないと、この2年の耐える日々はあまりにも切ない。

 庭の片隅に、いつの間にか茗荷畑が出来ていた。かつてハナミズキの紅白を植えていたが、訳もなく白だけが枯れた。その切り株の周りに、植えた記憶もないのに茗荷が生え始め、数年の内に根から増殖して、今年は50本近くに増えた。10日ほど前から収穫が始まった。油断すると白い花を咲かせてしまう。花が咲くと中身がスカスカになるから、朝晩見回って花が咲く直前で収穫しなければならない。薬味としては万能だから、カミさんの腕によりがかかる。

 子供の頃、母から「茗荷を食べ過ぎると物忘れをする」と言われていた。その言葉の源をネットで辿ると、思いがけずインドに行きついた。
 『インドの北部で誕生した周利槃特(しゅりはんどく)という少年がいました。この人は、兄の摩訶槃特(まかはんどく)と共に、お釈迦様に弟子入りして学びはじめます。兄は賢く、お釈迦様の教えをよく理解して仏教に帰依しましたが、弟の周利槃特はなぜか物忘れをしやすく、自分の名前すら忘れてしまうこともあったそうです。それでも、熱心に修業に取り組んでいたので、お釈迦様が名前を書いたのぼりを持たせてくださいました。
 周利槃特がお釈迦様が書いてくださったのぼりを持ち、托鉢にまわると、人々はその手書きの文字を見ることをありがたがり、お布施もたくさんいただくようになりました。お釈迦様の教えの通りに、毎日掃除や托鉢に励みつつも、自分の愚かさに涙を流すこともあったそうです。それを見たお釈迦様が「自分の愚かさに気づいている人は、知恵のある人です。愚かさに気づかないのが、本当に愚か者です。」と言われたこともあるそうです。
 何十年も毎日、毎日、お釈迦様からの教えの通りに、ほうきを持って掃除をつづけた周利槃特は、自分の心のごみまで除き、阿羅漢と呼ばれる聖者の位にまで到達し、お釈迦様は大衆の前で「わずかなことでも徹底して行うことが大切」とお話しをされ、周利槃特が、徹底して掃除をしたことで悟りを開いたと皆に伝えました。
 その後亡くなり、埋葬されたところから見慣れぬ植物が芽をだし、花が咲きました。これをみつけた人が、自分の名を荷い(にない)努力を続けたことから、「茗荷(みょうが)」と名付け、ここで眠る周利槃特とみょうがを結びつけて、みょうがを食べると物忘れをするという由来になったという話しです。』

 茗荷を食べなくても、物忘れが進む世代である。カミさんと何度も「思い出しゲーム」をすることが、日常茶飯となった。いつか、コロナ禍も忘れる日が来ることだろう。
 6月27日ヒグラシ、28日ニイニイゼミ、7月5日クマゼミ、8日アブラゼミ……初鳴きを重ねて、季節は忘れることなく歩みを進めている。
                      (2021年7月:写真:朝採り茗荷)