蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

「納め」の越年

2019年12月31日 | つれづれに

 大晦日は、烈しい風の中に明けた。
 薄明の中を、今年の「歩き納め」のウォーキングに出た。風が唸る。石穴稲荷の杜が鳴る。ダイビング用のウインドブレーカーのファスナーを喉元まで上げ、手袋をしていても、早朝の寒風は肌を刺すように冷たかった。石穴稲荷のお狐様へのお百度詣り、その納めのお礼詣り……さまざまな思いを籠めながら、いつもの道を歩いた。

 せせらぎの音さえも、今朝の寒風の唸りには負けてしまう。早起きカラスも、ヒヨドリも鳴りを潜めて、烈風の唸りだけが薄明を支配していた
 納めても納めても、納めきれない令和元年だった。一年は、帯状疱疹と後遺症の神経痛で始まった。痛みは和らぐことなく、今に続いている。痛みに耐え、雨に耐え、酷暑に耐え、気温の激しい乱高下に耐え、寒波に耐え……ひたすら耐えることの多い一年だった。乗り越えられないかもしれない、という不安が兆すほど八十路を意識する中に、妹を喪った。そして、兄は病院で正月を迎えることになった。
 妹の通夜と葬儀には、長女が横浜から駆けつけてくれた。四十九日の法要には、アメリカから帰国していた次女が参列してくれた。28年振りに、先立った連れ合いの許に寄りそう納骨の儀で、「よかったね、長い間淋しい思いをしたね」……そんな慰めを心の中で囁いていた。

 3つのスーツケースに50キロの荷物を詰め込んで、次女はアメリカに帰って行った。気が付けばクリスマスも終わり、師走が押し迫っていた。喪中欠礼の葉書が、今年は15通ほどと少ない。その世代の友人知人が、もう少なくなってしまったということかもしれない。ここにも淋しさの一因がある。

 四十九日で忌が明けたとはいうものの、やはりいつものようにお正月を盛り上げる気にはなれない。ジジババ二人の越年は、例年になく慎ましいものとなった。玄関の注連飾りも、慎ましく小さなものを飾った。「お節料理」も出来合いの二人用で間に合わせ、1ヶ月前から肉屋に依頼していた生の牛筋とアキレスを受けとり、我が家定番のおでんを煮込んだ。おでんに欠かせない大根は三つの家庭菜園から7本も届いているし、お雑煮の餅も、親しい友人が搗きたてを32個も届けてくれた。ウォーキングの途中で声を掛けられて、博多のお雑煮に欠かせないカツオ菜も分けていただいた。
 カミさん共々、長年地域の仕事やボランティアを続けてきたお蔭で、昔ながらの「隣り組」のお付き合いが続いている。都会ではすっかり失われてしまった風情が、我が家の周りでは、まだまだ息づいている。だから年寄り二人でも、周りの人達の温かい見守りの中で生きていくことができるのだ。
 こうして、お正月の準備は呆気なく終わった。

 総じて、この冬は暖冬である。今朝の烈風で気温は急降下し、今日の最高気温の予報はこの冬一番の6度まで下がるという。殆ど散ってしまった蝋梅に、黄色い花が綻び始めていた。例年より1ヶ月ほど早い。ウォーキングの道端には、水仙が甘い香りを拡げていた。雪も氷も見ないままに年が暮れ、もうそこかしこに春の気配が漂い始めているようだ。寒さが苦手な私にとっては、ありがたい現象ではある。(強かった筈の夏にも、ここ数年は挫けそうになっているが)

 令和元年が逝く。来たるべき新年に、過大な期待は持たない。欲張りな希望も持たない。ただ平穏な日々が一日でも長く続くことを祈るばかりである。
 東京オリンピック?……原発事故の後始末さえ出来ず、相次いだ風水害の被災者が苦しんでいるというのに、しかも酷暑の真夏に嘘をついてまで開催する狂気の祭典に、何の食指も動かない。参加することにこそ意義があったスポーツの祭典が、いつの間に賞金付きメダル合戦に堕してしまったのだろう。そして、それを政治に利用する愚かな為政者がいる。優先順位を間違ってはいないか?

……と、今年の「愚痴り納め」、「怒り納め」をして、今年のブログを閉じることにしよう。もっともっと楽しい「納め」がある筈だ。

 片雲が漂う大晦日の夜空の中天に、オリオン座と冬の大三角が輝いていた。これこそ、私が求めていた一年の「納め」だった。
               (2019年12月:写真:春が匂う水仙)

落ち葉の小舟

2019年12月14日 | 季節の便り・旅篇

 木枯らしが舞い降りて、湯気を螺旋状の渦に巻いて湯の上を転がす。離れの鄙びた部屋に備えられた湯船は総檜、大人二人が脚を延ばして浸れるほどに広い。
 1年振りの平山温泉だった。小さな山の斜面に、木立に包まれた露天風呂付き離れが点在し、琉球畳が敷き詰められた部屋は、チェックインが終われば、もう気兼ね要らずの静寂に包まれる。師走も半ば、木々は紅葉し木枯らしが落ち葉を散らしていた。

 アメリカから帰省した次女は、カミさんと二人で「牡丹燈籠!」と戯れながら、「カラーンコローン」と下駄を鳴らして、少し小高い所にある大露天風呂に浸かりに行った。1時間半のドライブに疲れた私は、部屋に付いた露天風呂で、のんびり独りを楽しむことにした。
 板塀に囲まれた露天風呂の脇には、柊南天と楓が伸びている。湯気に温まれるせいか、ここの楓はまだ紅葉もせず、黄色い葉をいっぱい付けたまま夕日に弄らせていた。
 板塀の外の橡が、風に載せて落ち菜を湯船に届けてくる。湯気に戯れながら、小さな小舟となって湯の表を漂っていた。掛け流しの湯が、小さなせせらぎを聴かせながら流れ去っていく。その湯音に癒されて、身じろぎもせずに湯船に横たわっていた。

 いつになくドライブに疲れていた。九州道を筑紫野ICから乗って南下する。1時間足らずの走りで、ナビは南関ICで降りるように指示するが、ここからだと山越えになるから、いつものように次の菊水ICまで走り抜ける。山鹿方面に下って、やがて左折して田舎道をしばらく走れば、もうそこが平山温泉。常宿のひとつ「湯の蔵」に着く。
 42度の源泉を、そのままかけ流しにしてあるが、寒い冬の露天は冷まされてややぬるめの湯になる。湯船に沈んで暫く馴染んでくると、もう少し熱めの湯が恋しくなる。そんな時には、壁のボタンを押すと、源泉をそのまま沸した熱湯が2分間吐口から注がれる仕組みである。
 滑らかな湯触りに癒されているうちに、うとうとと微睡んでいた。

 大露天風呂を満喫したカミさんと次女を伴い、「カラーンコローン」と下駄を鳴らしてお食事処に向かう。個室がそれぞれ用意され、気兼ねなく食事を楽しむことができる。アジア系団体が決して来ることのない、大人の隠れ宿である。
 (余談だが、洗浄トイレに音楽が仕掛けられており、聴こえてきたのがリストの「愛の夢」だったのには、思わずクスッときた。さすがに、訳ありカップルに相応しい選曲!そのほかは、ショパンの「ノクターン」、バッハの「G線上のアリア」だった。)
 食事は例によって年寄りには多すぎる。そして、凝り過ぎて素材の味を殺している感が強いが、板さんの頑張りだから許すことにしよう。絶品は、予め特有していた赤身の馬刺しだった。珍しく満室に近いお客の為に、料理を出すペースがやけに早い。途中から、少しペースを落とすよう頼んだ。
 白ワインのあと、温泉では必ず摂るようにしている地酒を、今夜は「ちよのその」と決めた。

 帰りに必ず用意してくれる夜食が、この宿の魅力の一つである。竹の皮を編んだ、藁屋根の田舎家風の籠に、お握りと沢庵が入っている。もう満腹で下も向けない状態なのに、寝る前になると必ず小腹が空く。お握りを食べ、再び部屋の露天風呂に入り、眠りに落ちた。
 次女は殆ど一晩中露天風呂を出入りしていた。カリフォルニアに永住を決め、アメリカ国籍に転じていても、日本の温泉には根深い執着があるらしい。

 夜明けの朝風呂は、大露天風呂と決めた。一人、坂道を上がると、朝風が切るように鋭い。(この日、山鹿市は氷点下2・5度だった。平山温泉辺りも、同じくらいの冷え込みだったのだろう。)
 広い岩風呂を独り占めして、師走の締めとした。

 帰路、大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の生家や記念館をハシゴして、16時半、太宰府に無事帰着した。
 さぁ、いよいよ師走が「韋駄天走り」になる。
                  (2019年12月:写真:夜食のお握り)

せせらぎに聴く

2019年12月01日 | つれづれに

 夜明けには程遠い午前6時過ぎ、ペンライトで足元を照らしながら歩き始めた。歩く人も、走り過ぎる車もない師走の朝だった。
 30分足らずのクールダウン・ウォーキングだが、楽しみは途中7か所ほどで聴こえる小さなせせらぎの音である。谷あいを開発した住宅地だから、何か所もの自然の湧水がある。我が家を出て坂道を下り、点滅信号を左に折れる。女子大がふたつもあるから、通称「学園通り」という。すぐに又左に曲がると、去年まで田圃だった小さな空間に出る。開発が進んで、今は僅か2枚ほどの田圃を残して、2~3千万の建売住宅が建設中である。
 そののり面沿いに、湧水を集める小さな流れがある。私の朝のミニ散策路は、そののり面沿いに緩やかに登り、やがて我が団地から児童公園、公民館、そして石穴稲荷神社に到る。その所々で、小さなせせらぎを聴くことができるのだ。仄明るくなった頃、お狐様に手を合わせて一日の安寧を祈り、小高い所に建つ筑紫女学園ののり面を巻いて住宅街に戻り、早起きのカラスやヒヨドリ、時にはキジバトの鳴き声を聴きながら我が家に帰り着く。

 せせらぎは、私にとって何よりの癒しの音だった。かつて、小学6年の頃から、中学、高校、浪人、大学、そして就職して8年間の名古屋暮らしの後に再び福岡に戻ってからも続けた、お気に入りの山歩きのコースがある。その一つ、「脊振山~金山」縦走コースに、いつも癒されるせせらぎがあった。もう、30回も歩いただろうか、若い頃は母校修猷館高校に近い脇山口からバスに揺られ、車を持ってからは那珂川町から峠を越えて、椎原という集落まで行く。
 ザックを肩に山道にはいって暫く登りあがると、やがてメタセコイアの林に出る。その傍らに、小さな谷川があった。そのせせらぎを聴きながら檸檬を齧ったり、昨年製造中止になった清涼菓子のカルミンを舌に転がしながら、谷水を掌に掬って憩う。時には岩の上に身を横たえて、せせらぎと小鳥の声に耳を澄ますこともあった。カミさんや二人の娘を連れて、谷川の淀みに釣り糸を垂れてハヤを釣ったこともあった。小さなサンショウウオを見付けて、精が付くからと生きたまま呑みこんだこともあった。

 後年40代の頃、不安神経症(パニック・シンドローム)に罹って九大病院に1年間かよったことがあった。安静剤よりも、医師のカウンセリングと自律訓練が効いてやがて回復した。仄暗いソファーに身を委ね、全身の力を抜いて「気持ちが落ち着いていて、両手両足が重たくて温かい。お腹の辺りが温かい……」という暗示をかけていく。最後に、自分の好きな言葉や情景を頭に浮かべる。1年も訓練に通うと、不安が生じた時に、その情景と言葉を頭に浮かべるだけで、気持ちが落ち着くようになった。昔々の、闘病生活である。その暗示に掛ける情景と言葉が、この谷川と「せせらぎが聴こえる」という言葉だった。

 「せせらぎ」には、もう一つの想い出がある。高校3年の頃、文芸部で幾つかの短編小説を書いた。その一つに、甘い甘い手紙文形式の「せせらぎに聴く」という作品がある。
 神奈川県足柄上郡山北町で、幾つかのミカン山を営んでいたのが父の実家だった。親友と1学期の修了式を教師公認でサボり、富士山に登った。その帰りに、ひとり実家を訪ねた。その際に従弟たちと辿った酒匂川、そして洒水の滝……その時のせせらぎの音をテーマにした作品だった。今読めば汗顔もののベタ甘の掌編小説だが、それも青春、懐かしさだけが蘇る。甘いけれども、自分では好きな小説だった。

 さて、縦走コースに戻ろう。
 谷川のほ畔での暫しの憩いの後、せせらぎを聴きながら更に登りあがると椎原峠に出る。尾根伝いに辿ると、やがて鬼が鼻岩の岩頭に立つ。月に一度と決めていた気軽な登山は、ほぼ此処が目的だった。絶壁に腰を掛けて握り飯を頬張り、汲んできた谷水で喉を潤す。春に登ると、博多湾に到る畑地は一面の菜の花と蓮華だった。黄色と紫のコントラストを眺めながら、思うままに心を解き放った。
 さらに金山に向かって尾根の稜線を辿る。漁師岩の岩頭を過ぎて下れば、小爪峠。そこから夕暮れの斜光を浴びながら椎原に下る。
 椎原~板屋峠~脊振山(1055m)~矢筈峠~椎原峠~鬼が鼻岩(840m)~漁師岩(893m)~小爪峠~金山(967m)~花乱の滝~石釜に到る縦走路、佐賀県と福岡県の県境を連ねる尾根道の一部を削り取ったコースである。手許に、すっかり茶色に変色してぼろぼろになった「九州の山」という登山ガイドブックがある。1968年発行の、当時は最も頼りになるガイドブックだった。脊振~金山縦走のページの隅に、「1972年5月3日、25回目の」というメモが残されている。
 ここにも青春の残り香があった。

 親しい友人が、オキナワスズメウリを蔓ごとひと抱え持ってきてくれた。早速、玄関脇の簾に絡ませ、師走を飾った。
 忙しない年の瀬が始まった。無事乗り切った1年に、様々な想いを馳せるひと月である。
            (2019年12月:写真:師走を飾るオキナワスズメウリ)