蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

起死回生、日常回帰

2019年11月24日 | つれづれに

 試練は、更に続いた。土・日・月と点滴に通い、医師の勧めで初めて胸部CTを受けた。全て異常なし。医師も首を傾げながらも、これで様子を見るしかないという。いったい、あの激しい震えは何だったのだろう?
 月曜日に申し込んでいた町内の柿狩りバスハイクは、さすがにドタキャンした。しかし、まだまだ休めない理由がある。
 火曜日、午前中静養し、お昼にJR二日市から快速で博多駅に走り、駅で食欲のないランチを摂った後、13時過ぎの九州新幹線「のぞみ」に飛び乗った。15分余りで小倉に着く。小倉ステーションホテルに荷物を預け、向かった先は小倉城にほど近く、紫川沿いの勝山公園に仮設された「平成中村座・小倉城公演」だった。日差しはあるが、川沿いの寒風に曝されながら、なかば朦朧として夜の部の入場を待った。

 こればかりは休めない理由があった。普段、芝居慣れしない北九州での歌舞伎である。既に観に行った仲間から、「大向うが寂しかった!」と報告が来ていた。十八世中村勘三郎が浅草に再現した江戸の芝居小屋「平成中村座」、浅草の小屋には何度か通った。九州上陸は初めてのことである。
 福岡でなく、小倉に持っていかれた悔しさはあるが、同じ九州での開催に、大向うの声掛けもない寂しさを、役者に味あわせる訳にはいかない。そんな意地もあって、こればかりはキャンセルしたくなかった。火曜日の夜の部を観て、小倉で一泊し、水曜日の昼の部を観て帰る。ここまで済ませば、「あとはどうなと、きゃあなろたい!」……熊本民謡「おてもやん」の歌詞をなぞって居直った。 
 800余りの小さな芝居小屋、役者との距離感の近さがたまらない。役者も客席に降りてくる。ハシゴで2階に駆け上がる。圧巻は、芝居の山場で舞台の後方が開き、紅葉の木々の向こうに小倉城が浮かび上がる演出である。どっと寒風がなだれ込んでくる。
 「平成中村座」に欠かせない演出は、十八世勘三郎時代から連綿と続いている。ニューヨークでは、警官が走り込んで来た。「フリーズ!」という叫びで舞台が固まり、閉幕となる。浅草でも、ニューヨークでも、ベルリンでも、名古屋でも、大阪でも、拍手喝采の波が起きた一瞬である。

 芝居の中身は、いずれカミさんがブログを起こすことだろう。ひたすら声を掛けた。
   「中村屋!」
   「萬屋!」
   「成駒屋!」
   「大和屋!」
   「松島屋」
 声を嗄らし、疲労困憊の極みの中で、二日間の大向うを務めた。夜の部は、たった二人、昼の部は「神霊矢口渡」と「恋飛脚大和往来・封印切」に挟まれて、「お祭り」があるから、大向うの声なしでは芝居が成り立たない。
 「待ってました!」と掛ける声に、間髪を入れず「待っていたとは、ありがてぇ!」と勘九郎が返す。このひと言の為に、病み上がりの身体に鞭打った。数年前、熊本県山鹿の「八千代座」で、海老蔵に掛けて以来の「待ってました!」だった。
 心底、疲れ切っていた。昼の部がハネたあと、仲間と集ったお茶の席も、ただ茫然と座っているだけだった。

 前日、夜の部の通し狂言「小笠原騒動」がハネてから、小倉駅まで寒風の中を歩いた。紫川沿いは一面のイルミネーションに飾られ、疲れを忘れた。半世紀以上訪れたことのない小倉の街は、驚くほど様変わりしていた。かつて醤油色に濁っていた紫川(それ故のネーミングと思っていた)は美しいリバーサイドに変貌し、隔世の感があった。

 駅弁を買って夕食と決め、18時過ぎに帰り着いた……というより、やっと辿り着いたというほど、疲れ切っていた。湯に浸かって、そのままダウンした。

 翌日、疲れ切った身体にもう一度鞭を打つ。明日の、今年最後の「読書会」が待っていた。担当している「伊勢物語」、七十段から七十二段の資料を作りあげ、ようやく午後から暫し休養出来ることになった。
 翌午前中、その講座を済ませ、居酒屋に頼んでおいた海鮮丼10人分を車で受け取りに走り、早めの忘年食事会で、今年の責任の全てを完了した。

 激動(?)の1ヶ月。我ながら、よく気力・体力が続いたと思う。爆睡して、土曜日から朝の30分のストレッチと、30分の散歩を再開した。日差しが戻り、汗ばむほどの快晴の午後になった。
 「そうか、今日は勤労感謝の日!」
 起死回生、やっと訪れた日常への回帰を実感する。命の蘇りを熱く感じるほどの、癒しの午後だった。 
                 (2019年11月:写真:紫川沿いのイルミ)

秋色、濃く

2019年11月17日 | つれづれに

 それは午後10時に始まった。

 妹の弔いに続き、高校と中学のダブルの同窓会解散式で実行委員長を務めた。「令和天皇祝賀御列」の日、第61回修猷館高校昭和33年率「さんざん会」の解散同窓会総会だったが、既に3割を超える多くの館友を彼岸に送った。その喪失感以上に、6割以上が生きて「傘寿」を迎えたことの意義を思う。
 生まれて間もなく戦争を経験し、終戦後の瓦礫の中を生き延びて、その後高度成長期の企業戦士として闘い、バブル崩壊と共にリタイア。食べる物もろくにない「どん底」と豊かな「ピーク」を知る、ある意味で最も幸せな世代だったのかもしれない。
 卒業30周年を期して、「さんざん会」を立ち上げた。120名参加のもとに、母校で果たせなかった修学旅行を、由布院への旅で実現した。昭和33年卒「さんざん会」30周年記念同窓会に貸し切った列車は「サザンクロス号」。その走行時間が3時間33分。奇跡的な「3尽くし」に、皆で手を叩いて喜んだ。以来31年目のこの日をもって、「さんざん会」を閉じる。
 ソラリア西鉄ホテルに集った館友、およそ100名。初めて参加した仲間もいた。遠く関東、関西、山陰などからの参加もあった。多くの言葉は、もう不要だった。全員で目を閉じ、61年を一気にタイムスリップし、館生だった当時に戻った。 溢れるほどの想い出に包まれて、語り合い笑い合う二時間はあっという間に過ぎた。80年使いこんだ身体は、いろいろ部品にガタが来てはいるが、残された日々を健やかに、心穏やかに過ごしながら、八十路の一里塚を一本ずつ立て続けていってほしい……と挨拶を結んで会を閉じた。
 既に八十路、寂しくはあるが、何処かでケジメを着けなければならない年齢である。

 その後、会場を替えて福岡学芸大学附属福岡中学校の解散同窓会を開催。8時間の同窓会三昧に、さすがに疲れ果てて帰り着いた。
 その疲れと気落ちから、俄かに風邪気味がひどくなった。掛かりつけの医者に行き、風邪薬と抗生剤の処方を受け、服み終った4日目の夜だった。熱もないのにやたらに午後から眠気を催し、うつらうつらの半日を送った。自重して早寝と決め、9時にベッドに入って「三国志」の3巻を読みはじめた。

 本が重たくなり、瞼が閉じがちになる。そろそろ寝ようと決めた時、脚の付け根の辺りから小さな震えが始まった。みるみる全身に悪寒が広がり、歯の根が合わず、瘧にも似た痙攣にベッドの上でのたうちまわった。震える手で何とか携帯電話を開き、隣室のカミさんを呼んだ。
 子供の頃、錆釘を踏み抜き、感染症で悪寒に震えて以来の出来事だった。カミさんが掛かりつけの医師に電話して相談したところ、すぐに救急車を呼んだ方がいいという。がくがく震えながら待つこと10分もしないで救急車がやって来た。
 初めての経験だった。乗り心地が悪いこと夥しい。悪寒に震えながらも、「道が荒れてるんですね」と訊く余裕はあった。「いや、車が古いんです」と答えが来る。揺られながら道筋を辿っていた。左肩腱板断裂の手術や、カミさんの亜イレウスの治療などで通い慣れた福大筑紫病院が受け入れてくれた。
 診察台に移って検査が始まる頃、ようやく悪寒が治まり、身体が熱くなって熱が38度を超えた。胸部レントゲン、尿検査、血液検査、インフルエンザのチェック……血中酸素濃度が下がっているからと、酸素吸入が始まる。白血球が少し高い。それ以外は特に問題はなく、多分急な発熱前の悪寒だろうという。
 2時間ほど抗生剤などの点滴を受け、落ち着いたのでタクシーを呼んで帰った。午前2時だった。氷枕に頭を着けて、そのまま眠りに落ちた。
 風邪薬と抗生剤を処方されたが、救急搬送には1日分しか投薬しないことを知った。明日、かかりつけの病院に行きなさいと言う。

 翌土曜日、掛かりつけの病院に行った。再度血液検査したところ、白血球の指数がさらに高くなっているから、3日間抗生剤の点滴に来なさいと言われ、日曜日の今日も3階の病室で点滴を受けた。

 付き添って乗ったことはあったが、自分自身が救急車で搬送されたの初めての経験だった。そして、やはり二度と経験したくないことでもある。暫く、ご町内の噂のネタにされることだろう。歳を取るとは、こういう事なのだろう。

 秋色濃く、庭の楓が色づきを深めていた。
                      (2019年11月:写真:楓の秋色)
   

旅立ち

2019年11月08日 | 季節の便り・花篇

 その朝、ピンクのイトラッキョウが鉢から溢れるように咲いた。昨年、猛暑の夏に水管理を誤ったのか、ピンクは殆ど壊滅し僅かに白い花が数本貧しく咲くだけだった。今年、もう白一色だろうと諦めていたのに、溢れ咲いたのはピンクの花だった。

 花が大好きで、中でもピンクと紫の花をこよなく愛していた妹が、この日彼岸に渡った。77歳だった。
 早朝6時過ぎに、妹の長女から電話が入った。胸がざわっと鳴った。
 「おじちゃん、母が危ないみたいなの。すぐ来て!」
 朝の通勤渋滞に焦りながら、病院に駆け付けた。HCUの前で、長女の婿が待っていた。
 「急いで下さい!」
 妹は待っていてくれた。姉同然に懐いていたカミさんと私がベッドの脇に立ったらすぐに、医師が来て臨終を告げた。8時8分だった。まだ温かい頬や額を撫でながら、掛ける言葉は一つしかなかった。
 「よく頑張ったね。」

 49歳の時に、55歳の夫を癌で失って以来、28年間次男と二人で病院通いの歳月を送った。週3回5時間の人工透析は、既に30年を超えていた。歳と共に骨が脆くなり、近年は転んで骨折入院を繰り返していた。しかし、弱音を吐いたことは殆どなく、そんな日常を当たり前のように重ねてきた。殆ど寝たきりとなった妹に、次男が常に側にいて、買い物や炊事など家事の全てを担って尽くしていた。
 お盆前にも転んで大腿部を骨折し、手術とリハビリに堪えて、そろそろ転院の話も出ていた矢先に、感染症を発症しICUに入った。家族以外は面会謝絶、時間も30分までと告げられた。駆けつけて見舞ったときには意外に元気そうで、声も交わし笑顔を見せていたのに……。
 「この分だと、明日にでも一般病棟に移れそうですね」という看護婦の言葉に励まされて帰ってきたが、その日が最後の元気な姿となった。

 弔いの時は、悲しむいとまもなく慌ただしく過ぎていく。斎場との打ち合わせに入ったところで、私たちは一旦家に戻ることにした。
 帰り着いた庭に、妹の好きなピンクのイトラッキョウが復活していた。まるで、妹が咲かせたように、そして妹の彼岸への旅の餞のように、溢れ咲いていた。

 何だろう、この喪失感は?
 3人兄弟の末っ子で、母にとっては目に入れても痛くないほどの掌中の珠だった。まだ婚約中だったカミさんに姉のように懐き、母も妹のことで言いにくいことなどは全てカミさんに委ねていた。だから、私以上に、カミさんの悲しみは強かった。

 頼んでいた年賀状をキャンセルし、代わりに「喪中欠礼」の葉書印刷を郵便局にネットで注文した。「印刷代20%早期割引は今日まで」とある。こんなことにまで早期割引?と違和感がある。そして、事務的にそれをこなしている自分にもおぞましさがある。しかし、そうでもしていないと気が紛れないのだ。
 「人間て、哀しいな」という、山本周五郎の言葉が蘇る。

 一日置いて、家族とごく親しかった友人だけの通夜、そして翌日の葬儀。長女と仲良かった我が家の長女も、仕事を休んで横浜から駆け付けた。夜間の運転を自らに禁じている私にとって、そして、身近な肉親に逝かれて戸惑いにも似た気落ちに沈む私たちにとってはありがたいことだった。
 骨上げの切ない時間も過ぎて、立冬の朝、娘は横浜に帰って行った。空港に送り届けて、一気に落ち込みが来た。喉や頭まで痛みだし……これは気落ち風邪でもあろう。
 
 悲しく切なく、冬が立った。
          (2019年11月写真:弔いのイトラッキョウ)

喪われた、心の故郷(ふるさと)

2019年11月03日 | つれづれに

 ラグビー・ワールドカップが終わった。想定外の大差でイングランドを下し、日本を破った宿敵南アフリカが優勝!テレビの前で血を沸せた日々が終わった。次は4年後、ウ~ン……???
 冬の体育の時間は全てラグビーに明け暮れた高校時代以来、私にとって最も好きなスポーツである。昨日今日のブームに乗った付け焼刃のファンとは、のめり込む奥行きが違う。

 そのラグビーボールのような楕円状の実が枯れて、10月の終わり頃にチューリップのように弾ける。その中に、層にになって畳まれた薄い薄い無数の種子が入っていた。掌に零すと、鼻息で吹き飛んでいくほどの軽くて薄い種子である。微かな風に乗って散り拡がっていくのだろう。
 朝の石穴稲荷詣での折りに、お狐様にお詫びして、ひと株だけ分け頂いてきた。日差しを嫌う花である。庭の日当たりの悪い隅々に、そっと散らした。果たして根付いてくれるか、来年の楽しみが出来た。
 ウバユリ……花は地味だが、すっくと楕円ボールを立てる頃の青い実は、玄関の鉢に纏めて立てるとなかなかの風情である。

 ミニ・ドライブから帰った翌朝、テレビの実況に驚愕し、言葉を失った。
    首里城炎上!!!
 紅蓮の炎に包まれて崩れ落ちる正殿の悲惨な姿に、こらえきれずに涙が出た。私にとって、喜怒哀楽を濃厚に沁みつかせている第2の心の故郷である。
 当時の外地・韓国ソウル(私にとっては、当時の「京城・けいじょう」と書く方が気持ちに馴染む)で生まれた私は、いまだに生まれ故郷を訪れたことがない。その後、豊中、平穣(ピョンヤン。妹は此処で生まれた。兄の出生地は釜山である)、京城と外地を転々とし、終戦3か月後の秋に、駆逐艦「雪風」で玄界灘の波濤を渡って福岡に引き揚げ、一時神奈川県足柄上郡山北町に住み、その後福岡で大学まで過ごし、就職して名古屋、福岡、沖縄、福岡、長崎、福岡、広島と転勤を重ね、リタイアして此処太宰府を「終(つい)の棲家」とした。 いったい、私の故郷はどこになるのだろう?

 本土復帰の昭和47年(1972年)から沖縄を17年間担当して通い詰め、1年半家族と転勤して暮らした沖縄で、様々な修羅を見た。
 それまで準海外扱いの特別扱いになっていた販売会社のマージン率を、復帰と同時に「本土並み」という美名のもとに、一挙に半分近くに引き下げた。親会社のご都合主義である。なんでたまろう、倒産の危機に瀕した販売会社に、「1年で立て直してこい」と命を受けて出向した。「駄目だったら、潰してもいい」という、非情且つ背水の出向だった。
 連日の再建会議で、交際費をはじめあらゆる経費を切り詰めていった。接待ゴルフ禁止令を出したことで、抱えて行った父の形見のゴルフ道具も、一度打ち放しに行っただけで埃を被ることになった。生涯ゴルフをやらなかった原点が此処にある。
 最期の手段は、人員整理しかなかった。当時、日本最強の労組だった沖教組や全軍労からオルグが乗り込んできて、組合員に社屋を包囲され、三線で抗議の歌を浴びせられながら、希望退職、肩叩きなどで99人いた社員を70人まで減らして、ようやく再建のめどを立てた。
 たまに、街角でやめさせていった社員に出会うと、涙を流して握手を求めてくる。温かい沖縄の心に触れて、何度涙ぐんだことだろう。だから、今後何があっても人材に手を付ける再建手段だけは決して取るまいと心に決めた。

 後に、全国の代理店を統合して販売会社を立ち上げた。高度成長がピークを過ぎてバブルが弾け、この業界にも厳しい試練の波が押し寄せて、再び人員整理に手を付けることになった。「人は宝」……10年後100年後の大計の為には、借金してでも人材を確保しなければならないのが経営の鉄則である。経営陣の蹉跌のツケを、安易に社員に払わせるのは決しては許されることではない。人を採用するということは、その人の人生を預かるということなのだ。
 人員整理を軽々しく口にする役員に、憎しみさえ感じた。だから、取締役西日本本部長として役員会での協議に臨んだ際に、自ら全役員の辞表を社長に預けることを提案した。そうしなければ、私の気が済まなかった。その覚悟がなければ、決してやってはならない禁じ手なのだ。

 沖縄の販売会社の再建が成り、当時の副知事と諮って民間から新社長を迎えて、やがて新社屋を建てるまでになった時、その屋上に私の「風葬の場」を作ろうと、社員も私も半ば本気で語り合った事さえあった。
 こうして、沖縄は私の第2の「心の故郷」となった。

 初めて沖縄を訪れた頃は、古い「守礼之門」と石垣が残るだけだった首里の丘に、長い長い歳月をかけて見事に首里城が復元された。そして、世界遺産の一部として認められた。再現文化財だから、国宝にこそ指定されていないが、沖縄の人たちにとっては国宝以上の誇りであり、心の故郷だったのだ。
 もう、生きて再び壮麗なあの城を見ることは出来ないだろう。怒りと哀しみと、たとえようのない心の震えの中で、茫然と燃え落ちる首里城を見詰めていた。
 心の中でも、何かが音を立てて崩れていった。
                (2019年11月:写真:ウバユリの種子)