蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

目線を下げて

2010年05月17日 | 季節の便り・虫篇

 ザックを枕にシートに寝転び、カミサンと枕を並べて緑の風に染まっていた。ツグミがせわしなく草の間を覗きながら餌を探している。眩しいほどの紫の野薊が咲き、小さなボタンのように可憐なニワゼキショウが風に揺れ、黄色いキンポウゲ(ウマノアシガタ)が艶やかな輝きを見せ、木漏れ日の下をジャノメチョウが舞う。南に迫る梅雨前線が足踏みする5月半ばの五月晴れの都府楼・太宰府政庁跡は、爽やかな初夏の風と日差しに溢れる緑の空間だった。 
 DNA鑑定の検体は、昨夕の町内での追加捕獲に加え、頼んでいたご近所からのお届けが加わり、総数85匹を超えた。博物館近隣1キロ以内のサンプルとしては、十分過ぎる数となったが、博物館科学課の虫愛ずる姫のYさんから第2ポイントでの捕獲を頼まれ、長年の虫好きのダンナにすっかり感化されたカミサンを伴い、数キロは離れた政庁跡にお握りを持ってミニ・ピクニックを兼ねたヒメマルカツオブシムシの探索にやって来たのだった。
 先に腹ごなしを済ませ、捕中網もなく花もない政庁跡での探索を諦め、近くの散策路を辿った。100メートルほど観世音寺方面に戻った畑の畦道の隅に、ひと握りのマーガレットを見付け、目を寄せた。ほんの僅かな花の塊なのに、何と数十匹のヒメマル君が黄色い蕊の絨毯の上に蠢いていた。その気になって見ないと、決して目にとまらない2~3ミリの粟粒のような甲虫である。歩き出して僅か10分あまりで、目標の数をクリア、ビニールの小袋に移して、明日までの命のつなぎに花を一輪添えた。「2010年5月16日13時15分、観世音寺4丁目」とサインペンで袋に書き込む。
 折角だからもう少しと、50メートルほど欲張って足を進めて、少し背中が寒くなる光景を目にした。同じ所番地の、とあるお宅の庭園を覆いつくしている数百本を超えるマーガレットの群落があった。「ウワッ、何十匹捕獲!」と勇躍覗き込んだ花びらの中に、なんと1匹のヒメマル君さえいない。繰り返し見詰め続けたけれども、一面の花の絨毯が拡がるだけで、とうとう収穫ゼロのままそこを後にした。おそらく……手入れの良い庭だった。消毒が行き届いていたのだろう。ヒメマルカツオブシムシの成虫は、花の蜜を吸うだけで何の悪さもしないのに……行き過ぎた殺虫・殺菌は、無害な虫さえ殺戮して生態系を崩していく。
 九州国立博物館が一貫して固持しているIPM(総合的有害生物管理:大規模な化学薬剤燻蒸をやらずに、文化財はもとより人と環境に配慮したあらゆる有効な防除手段を合理的総合的に組み合わせて、害虫を入れない、増やさない、黴を発生させないように日常管理する)という理念の持つ重大な意味合いに、改めて思いを馳せたのだった。
 少し先の庭先で更に捕獲を重ね、およそ50匹を超えたところで、政庁跡に戻った。こうして、3日間で135匹を超えたヒメマルカツオブシムシ捕獲のミッションは終わった。

 立ったままの人の目線、およそ1メートル50センチから世界を見ていたのが変ったきっかけは、庭の隅のユキノシタの花だった。何気なく「白い花」としか見ていなかったのが、ある日屈み込んでマクロレンズをつけたカメラのファインダーで覗いて、その目を見張るような繊細な美しさに息を呑んだ。山野草の花にのめり込み、いつしか大輪の花に目を向けなくなったのは、その日が始まりだった。
 30人ほどの博物館の環境ボランティアの中で、唯一「虫の味方」を公言して憚らない。人の目でなく、目線を下げた虫の目で見るとき、そこには思いがけない感動の世界が広がる。そうそう無駄に虫は殺させない。今回の検体が、博物館のヒメマル君のルーツを見極め、今後のIPMにどんな形で反映されるのか……それを見守るのが、135匹も捕らえた私の贖罪でもあるのだろう。
 「昆虫少年の成れの果て」が燃えた3日間の心躍るミッションを終え、博物館科学課のYさんに届けて帰る頃、太宰府では29.5度の日差しが燃えていた。
             (2010年5月:写真:太宰府政庁跡寸景)

追跡!

2010年05月14日 | 季節の便り・虫篇

 九州国立博物館・博物館科学課のYさんから依頼があったのは4月の初め頃だっただろうか。ヒメマルカツオブシムシを見つけて欲しいという。
寒暖乱高下する今年の春から初夏への気候は定まらず、数日前まで暖房を入れていたのに、突然の夏日で冷房が欲しくなり、かと思うと又朝晩の冷え込みに、片付けかけたガスストーブに手が伸びるという日々が続いた。例年なら夏のダイビングに備え、庭先にサマーベッドを持ち出して、初夏の日差しに甲羅の下焼きをする筈のゴールデンウィークに夏風邪を引き込み、初めて寝正月ならぬ寝連休を過ごす羽目になった。

 キク科の白い花を好むヒメマル君の為にマーガレットと、よく似た洋花のノースポールを買い込み、ご近所の知人にもヒメマル君の写真をメールして観察を依頼し、ひたすら待ち続けた。1ヶ月が過ぎてもまだ現れない。つい先日、Yさんから「まだ捕まりませんか?」という問い合わせがあった。「モテなくなったジジイには、虫まで寄り付いてくれません」と詫びを入れて5月半ばを迎えた。
 風もない五月晴れの今朝、ポストに手紙を入れに行ったカミサンが、声を弾ませて戻ってきた。観察ポイントのひとつ、斜め向かえのIさん宅の玄関先のマーガレットに、「何だか黒い点みたいなものがいる!」という。早速ルーペとビニールの小袋をもって駆けつけた。
 いたいた、紛れもないヒメマル君の成虫が2匹、黄色い蕊の上で蠢いていた。早速Yさんに報告の電話を入れ、まだ開館前の博物館に届けに行った。行きがけの駄賃にもう1匹を加えて。……「節足動物門昆虫綱鞘翅(甲虫)目カブトムシ亜目カツオブシムシ科ヒメマルカツオブシムシ」というれっきとした戸籍を持つ3ミリほどの甲虫である。かつて高校生の頃、3年がかりで採集した十数箱の昆虫標本を、この虫に悉く破壊し尽くされた経験がある。生きるための無心の食害だから恨みはないが、忘れ難い存在ではある。
 ネットの辞典には「基本的に繊維質を餌とするのは幼虫であって、成虫は花の蜜を餌としている。干からびた動物のタンパク質を食べ、骨は食べないという性質を利用して、脊椎動物の骨格標本作りにも利用されている。」とある。幼虫が、綿・麻・絹、動物標本、木材、紙、羊皮紙、毛織物、竹材、乾燥植物など食べるとあっては、博物館にとって見逃しがたい存在なのである。
 丁度出勤して来たYさんとボランティア室で会った。彼女も途中で1匹捕らえてきたという。今日はどうやら一斉に発生する気候条件らしい。
 実は……九州国立博物館である時期からヒメマル君が搬入遊口付近で大量に発生し、その後も1階エントランスなどで発見され、どうやら地下の免震層では世代交代を繰り返しているらしいという。たまたまその頃、関東から持ち込まれた収蔵物があった。ヒメマル君のルーツがその関東にあるのか、それとも太宰府土着の地下者(じげもん)なのか……それを、DNAを調べて特定しようというのである。その為に関東から検体が送られてくるという。少なくとも15匹欲しいというYさんからの注文だった。
 昆虫少年の成れの果てとしては、何ともゾクゾクするような話である。最近、日本の下らないドラマに辟易して海外物ばかり観ているのだが、中でも近代科学技術を駆使して犯罪現場を克明に調査分析し、犯人解明に繋げる「CSI科学捜査班」のシリーズ(ラスベガス編、マイアミ編、ニューヨーク編がある)にのめり込んでいる。(序でながら、日本でも模倣した作品が幾つも作られているが、いずれも稚拙極まりなく観るに耐えない。)虫のDNAでルーツを探るなんて、まさしくその世界である。

 午後更に9匹を捕らえ、再び博物館に届けた帰り道に、隣の町で又5匹をゲットした。……大発生の予感でときめきが更に高まっていく。小さすぎて、このブログに載せられないのが残念だが、マクロのレンズで捉えた一枚に、お尻をもたげ、首を蕊に突っ込んで蜜を吸っている微笑ましい姿がある。ときめき続けた一日だった。
     (2010年5月:写真:ヒメマルカツオブシムシ…ネットから借用)