蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

新嘗祭

2005年11月23日 | つれづれに

 年を経た神殿を囲む紅葉は、例年になく枯れ葉に近い滅びの色にくすんでいた。春は桜、初夏は石楠花、耳鳴りを感じるほどの蝉時雨の夏は深緑、そして秋は見事な紅葉を惜しげもなく繰り広げてくれる、ここ竃(かまど)神社。太宰府天満宮からおよそ3キロほど谷あいの道を辿る。かつての修験者の道場・宝満山の中腹、標高125メートルの神社の朝は、この暖かい小春日和の初冬にもかかわらず凍み入るような底冷えだった。
 新嘗祭、新穀感謝祭、大麻(おおぐさ)頒布式に参列した。板張りの神殿に正坐して神事の進行に身を委ねていると、膝下から腰、腰から背中に厳しい冷気が這い上り、やがて背中全体が氷柱と化す感がある。開ききった板戸から寒風が吹き入り、時折チチッと小鳥の囀りが静寂を破る。修祓から始まった式典、低頭した耳に「オーッ」という神官の声の合間に、西高辻宮司が開扉する扉がギギッと鳴って、厳粛さをいや増す。神前に挙式し、仏前に弔ういわば無信仰の身にも、ふと神の存在がためらい無く信じられる一瞬である。
 5月の播種際、6月の御田植祭、10月の斎田稲刈祭と続いた農事に関する神事が、この新嘗祭で閉じる。
 標高830メートルの宝満山山頂に上宮を置く竃神社は、玉依姫を祀る。玉依姫とは特定固有の神ではなく、各地の神社でさまざまな同名の神が祀られているが、「霊依」、或いは「魂依」に由来し、加えて女性の子供を産む能力という性的要素を強く反映しているという。そして、古来女性の出産する力は豊穣や多産のシンボルと考えられてきた(インターネット情報)。そのことを思えば、この新穀に感謝する新嘗祭や、この竃神社が縁結びの神とされていることが素直に頷ける。
 更に言えば、ここは杖術・神道夢想流の開祖、夢想権之介が修業した場所でもある。宮本武蔵に一度は剣で、2度目は杖(じょう)をもって挑んだが敗れ、3度目にしてようやく勝ったのが修業の末に編み出した神道夢想流杖術だった。杖術(棒術)を志す者にとっては、今も聖地である。
 岩を延々と重ねた石段を登る宝満山は九州でも有数のキツイ山だが、同時にアクセスの良さもあって非常に人気のある山であり、1時間半ほどの急峻な登山を繰り返す人は数多く、年中登山者の途絶えることがない。
 玉串を奉奠し、2礼2拍手1礼で五穀豊穣を感謝して神事が終わる頃、身体はすっかり冷え切っていた。石段を下りながら見上げる梢は紅葉も冴えず、つい先日辿ったみちのく「奥の細道」探訪で、目が染まるほど見事な紅葉を観た身には物足りないものだった。雨、日照り、風、寒の締まり……微妙なバランスの上に季節の饗宴は成り立つ。異常が異常でなくなりつつある近年の気象変化を、為すすべもなく見守るしかないのだろうか。
 下って大宰府天満宮で神事を繰り返す頃、境内は閉幕間近の九州国立博物館開館記念特別展の客と、七五三に参る参拝客で正月のような雑踏の中にあった。
 こうして、やがて今年も暮れる。
     (2005年11月:写真:みちのく毛越寺の紅葉)

八朔

2005年11月09日 | つれづれに

 立冬を待っていたように、たわわに実を付けた八朔がかすかな色づきを見せ始めた。もう植えて十数年になる。3年前からようやく実り始めたものの、最初の年は僅か3個、それもかなり強い酸味で舌が痺れるほどだった。定年後植木職人の資格を取った友人の忠告で、根の周囲に自然薯鍬で50センチ程の穴を幾つも穿ち、油粕と骨粉をたっぷりと施した。2年目に10個が実り、土に転がして暫く雨に当てていたら、ようやく八朔らしい甘みを含んだ。3年目の今年、40個ほどの実が枝を大きく撓ませるほどになった。
 世界中で柑橘類の種類は3000種を超えると聞いた。その中で最も我が家に馴染む蜜柑・八朔…不思議な名前である。早速インターネットを開いたら、何と100を超える記事がある。その中でようやく探していたものを見付けて納得した。
 記事に曰く『八朔は、1860年に瀬戸内海に面する広島県因島の恵日浄寺の境内で、偶然発見された。八朔という名は旧暦の8月1日という意味で、この頃になると食べられることから、寺の住職が命名したと伝えられる。しかし、実際にはこの日ではまだ青く食べられない。八朔の日は、昔の農家では初収穫の節句として祝う習慣があったようだ。当時、数少ないビタミンの供給源であった八朔を供物として、収穫を祝ったのであろうと言われている。』
 隣りに両親が住んでいた頃、庭に3本の八朔の木があった。その下枝をくぐる垣根を取り払ってお互いに行き来していた。何か用事があると、八朔の青葉のトンネルをくぐって父や母が声を掛けに来た。炬燵を片付ける、大掃除をする、池の水を換える、キムチを漬ける、網戸を洗う…季節の折々で用事は違うけれども、「手が空いた時でいいから…」と言いながら、せっかちな母はすぐに馳せ参じないと機嫌が悪くなった。師走近くなるとやって来て「霜が降りたら苦くなるから…」と言って八朔をもぐよう急き立てた。脚立に上って100個以上をもぎ、廊下に転がして春先まで食べるのが常だった。今でも夢の中で、時折母が八朔の下枝をくぐってやってくる。
 長女が生まれ、名古屋で育児が始まった。冬の小春日和の午後、矢田川の堤で柔らかな日差しを浴びさせながら、八朔を「お獅子ばくばく」にして食べた。甘く柔らかな酸味を出産前から家内の胎内で味わったのだろう、娘も八朔好きで育った。ようやく豊かに実り始めた我が家の八朔、その味は冬休みにやってくる孫達へと、4代の家族に受け継がれていく。
 初冬の日差しを浴びて、今盛りの大文字草の花が白にピンクに輝く。今年の冬将軍はいつになく足取りが遅い。引き締まらない寒波に、紅葉も物足りないままに空が日毎鉛色に重く沈んでいく。
        (2005年11月:写真:大文字草・白石水)