蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ススキのない観月

2022年09月11日 | つれづれに

「生命力」、「精力」、「憂い」、「悔いのない青春」、「なびく心」

 早朝6時、歩き出す首筋を撫でるように吹きすぎる朝風が、もうすっかり秋の爽やかさを包んでいた。日の出も遅くなり、散歩を終える6時半過ぎに、山の端を破る。坂道を歩けば、まだ微かな夏の残滓に汗ばむ。カミさんと天満宮迄歩いてお参りをしたが、あいにく小銭さえ持ってない。「ごめんなさい、今日のお賽銭はツケにしてください!」と、詫びながら2礼2拍手1礼する。
 歩き戻って熱いシャワーの後に浴びる冷水に、ようやく微かな冷たさを感じる季節だった。

 「中秋の名月」を愛でるに欠かせないススキを探して、南に走った。田圃の畔や道路ののり面、川土手、目を凝らしながら走れども走れども、ススキの姿はなかった。目立つのは、丈を伸ばすセイダカアワダチソウばかり。およそ30キロ走った朝倉で、予約しておいた「さくらよ風に」というおしゃれな名前の懐石料理の店でランチを摂った。

 ススキの開花時期には少し早く、またセイタカアワダチソウの花時にも早い。しかし、いつも中秋の名月の頃には、近場の叢でススキを刈って花瓶に差し、月見団子を供えていた記憶がある。年毎にススキが消えていくようで寂しい。

 ススキとセイタカアワダチソウには、因縁の闘いの歴史がある。
 1897年ごろに鑑賞用や蜂蜜を採る植物として、北米から輸入されたセイタカアワダチソウは、1940年代に日本全域に広まった。さらに1970年代に全国的に大繁殖を遂げ、日本においては完全に帰化植物となった
 アレロパシー(他感作用)という特殊な能力があり、放出する化学物質で他の植物の成長を抑制してしまう。ススキの群生が次第に駆逐され、周辺の野性の「秋の七草」や小動物や昆虫なども姿を消していき、栽培種の「秋の七草」がスーパーに並ぶ現状が生まれた。
 しかし、セイタカアワダチソウは繁茂しすぎると、自らのアレロパシーで自らの発芽まで阻害して衰退していき、今度はススキが盛り返してくるというのだ。
 ススキは、セイタカアワダリソウが枯らした土地に再び栄養素を与え、有害な化学物質を消化し分解する。ススキの復活のおかげで、土地は再び栄養を取り戻しつつあるという。
 厄介者の帰化植物に懸命に逆らい、何年も何年も踏ん張って最後の砦になったのがススキだった。そしてススキの群生によって、野原に土竜や蚯蚓、そして鈴虫などの秋の昆虫も帰って来た。女郎花、撫子、秋桜も、少しずつ戻りつつある。
 面白いことに、北米では逆にススキが侵略的外来種として猛威を振るっているという。

 冒頭に書いたのは、ススキの花言葉である。いずれも、私たち「昭和枯れすすき」世代には、もう縁のない言葉になってしまった。

 ススキのないままに、中秋の名月を迎えた。雲一つない夜空に午後8時過ぎ、石穴稲荷の杜を囲む山の端から、玲瓏と満月が揺るぎ昇った。戻り残暑の夜気が、まだ重い夜だった。
 300ミリの望遠レンズを噛ませたカメラを抱え、物干し台を三脚に見立ててシャッターを押し続けた。

 一昨夜2輪、昨夜は10輪、そして満月を讃えるように今夜2輪の月下美人が咲いた。本来クローンの鉢だから同じ日に咲かないといけないのに、この鉢も沖縄以来半世紀近く生きた後期高齢者である。少し認知症気味であり、そろそろ葉から育てた若い鉢に譲って、引退させる時期かもしれないーー噎せるほどの甘い芳香に包まれながら、そんなことを思う中秋の名月だった。
                   (2022年9月:写真:満月の中秋名月)」

届かぬ祈り

2022年08月10日 | つれづれに

 8月7日、77年目の「長崎原爆の日」。式典で被爆者代表として、切々と訴える宮田 隆君の姿があった。同期入社の友人である。しかし、岸田首相をしっかりと見据えて訴えた彼の言葉は、予想通り首相には届かなかった。

 5歳の時に爆心地から2.4キロの自宅で被爆、8畳間から玄関まで吹き飛ばされたが幸い大きな怪我はなかった。しかし、彼の父は5年後に白血病で亡くなり、自身も10年前に発症した癌が悪化し、苦悩の日々を過ごしているという。
 ロシアによるウクライナへの無差別攻撃と核の威嚇に、「自ら訴えたい」と、6月の核兵器禁止条約締約国会議のウイーンに飛んだ。「HIBAKUSHA」と英語で書いたゼッケンを着け、英語で各国の若者たちに訴え続けたという。
 「Please, visit Nagasaki. To see is to believe, No more Nagasaki, Stop Ukraine.」

 ゆるぎない信念を込めた格調高い「平和への誓い」は、素晴らしかった。だから一層、その後の首相の挨拶の白々しさが際立った。その首相挨拶を、宮田君は「響かなかった」と切り捨てた。

 彼の誓いに耳を傾けよう。
 「(略)――本日ご列席の国会議員・県議会・市会議員のリーダーの皆さま、被爆者とじかに対面し、被爆者の実相を聞いて、世界に広く届けてください」

 「――第2次世界大戦から77年後の今、ロシアの核兵器の使用を示唆する警告によって、世界は今や核戦争の危機に直面しています。日本の一部の国会議員の核共有論は、私たち被爆者が願う核の傘からの価値観の転換とは真逆です。核共有論は、「力には力」の旧来の核依存志向であり、断じて反対です。今や核は抑止にあらず。今こそ日本は、核の傘からの価値観を転換し、平和国家の構築に全力を挙げるべきです」
 「――そして、日本政府は核兵器禁止条約に一刻も早く署名・批准してください。昨年発効した核兵器禁止条約は、私たち被爆者と全人類の宝です。この条約を守り、行動することは、唯一の被爆国である日本政府と私たち国民一人ひとりの責務であると信じます」

 「――私たち被爆者は、この77年間、怒り、悲しみも苦しみも乗り越えて、生きてまいりました。これからも私たちは、世界の市民社会と世界の被害者と連携して、核兵器のない明るい希望ある未来を信じて、さらにたくましく生きてまいります。核兵器禁止条約をバネに、新しい時代の始まりであることを自覚し、私たちは強い意志で、子供、孫の時代に一日3食の飯が食え、『核兵器のない世界実現への願い』を引き継いでいくことをここに誓います。」

 「唯一の被爆国」として、これまで日本政府は、いったい何を成し遂げてきたというのだろう??核兵器禁止条約に批准しない日本に、どこの国が耳を傾けるというのだろう!!アメリカの核の傘の下で、卑屈に尻尾を振る為政者の姿が本当に情けないと思う。
 取材した記者が、こう締めくくった。「(被爆者代表の彼の)言葉は、リーダーだけに向けられたものではない。核の脅威が顕在化した今こそ、一人でも多くの被爆者の声に耳を傾けてほしい。そして、惨禍を経験した人に思いを寄せることが、『力には力』にあらがい、核なき世界をたぐると信じている」

 戦争の惨禍は、常に主導者や権力者には及ばない。いつも犠牲を強いられるのは国民であり、権力者が上の目目線でいう「弱者」である。被爆地広島の出身者でありながら、この日の首相挨拶に核兵器禁止条約に触れる言葉はなかった。宮田君の真摯な祈りは、首相には届かなかった。
 虚しい夏の日差し、長崎の空が何かが哀しかった。今日も大宰府は37.4度!添えるに相応しい写真も、見当たらない。代わりに、平和な太宰府の早朝の夏雲を添えよう。
                   (2022年8月:写真:大宰府の朝雲)

時の過ぎゆくままに

2022年05月20日 | つれづれに

 とどまることなく、急ぐこともなく、時は淡々と過ぎて行く。しかし、人の心の中に流れる時間の速さは、一瞬も同じということはない。置かれている状況により、時に速く、時にまどろっこしいほどに遅く過ぎて行く。そして、歳を重ねるほどに、余生が短く折り畳まれていく度に、次第に週や月の変わりゆく速さに戸惑いながら過すことになる。
 我が家の物差しは単純である。「え、笑点?!もう1週間が過ぎたの!!」

 新聞のコラムに殴られた。5月16日、西日本新聞朝刊の「春秋」である。
 「――――▼親と子が生涯であとどれくらい一緒の時間を過ごせるのか―――盆や正月など年に何回あるか。年齢や男女で異なる平均寿命などいくつかの数字を掛け合わせて答えを導く。大半の人が残り時間の少なさに驚くようだ▼大手時計メーカーが大切な人と過ごせる生涯の残り時間を算出している。例えば親と別居している30代後半の人が母親と会える残り時間は計26日ほど。50代前半では計10日足らずに。相手が父親になるとさらに半減する。残り時間は年をとるほどに減っていく―――」

 父が逝ってから39年、母の没後21年になる。転勤族で、沖縄や長崎に出たり入ったりしたが、隣同士とはいうものの、父と12年母とは21年一緒に過ごせた幸せを、今になって改めて実感させられた。

 翻って、横浜の長女や、ましてアメリカに住む次女と,あとどれくらいの時間を一緒に過ごせるのだろう!算出するのも躊躇うほど、残り時間は少ないとわかっている。電話だけでなく、スマホのLINEや、パソコンのSkypeで、いつでも無料で顔を見て話すことが出来る。しかし、そうそう毎日使うわけでもない。このコラムを、むしろ娘たちに読ませたい――とは思うものの、却って精神的な負担をかけるかもしれないと躊躇う気持ちもある。

 コラムの最後は、こう締めくくってあった。
 「――――▼親への最高のプレゼントは「時間」ともいわれる。自分の時間を使い、電話をかけたり会いに行ったり。声を聴くだけでも気分や体調の違いは感じられる。会えばなおさらだ▼母の日や父の日でなくとも、思い立った日に。時は有限である――――」

 4月の終わりに、長女と上の孫娘が「生存確認」に来てくれた。それに先立ち、傷んでいた客間の網戸を張り替え、庭の雑草を一掃した。家中の網戸23枚を二日がかりで張り替えて、もう10年ほどになる。今回は傷んだ2枚だけの張替えだったが、自分でやるのはもうこれが最後だろう。
 二人が帰った後、思い立って玄関と客間の障子10枚を5年ぶりに張り替えた。34年前に我が家を新築する際に、いくつか拘った。「客間と仏間は純和風にすること」、「壁は土壁にすること」、「軒は70㎝迄長く伸ばすこと」、「客間の障子は雪見障子にすること」。
 以来、数年毎に自分で障子を張り替えているが、雪見障子は二度手間がかかる。隠し桟を錐で突いて外し、抑えの板バネをドライバーで押さえて外す必要がある。好きで立てた雪見障子だから、苦にはならないし、むしろ無心に張り替えを楽しむのが常だった。
 逆さまに立てて上から貼ることで、刷毛から落ちた糊が貼ったばかりの障子を汚すことがない――父から習った張り替え方だった。海辺に住んでいた頃、いつも着物姿だった父が、尻を端折って波打ち際で障子を洗っていた姿が今も目に浮かぶ。5年間あしらっていた竹の模様を、玄関は松に、客間は雲竜の透かし模様にした。何故だか「95%UVカット」と銘打ってある。貼り終わったら、部屋が一段と明るくなった。
 この障子貼りも、おそらくこれが最後だろう。長女に「5年後は頼む」とlineしたら、「とっくに、断念している」と返事が来た。つまり、業者に頼むということだろう。失われていく昭和の風物詩が、また一つ。

 早朝6時の散歩が、もうすっかり明るい。通学路の階段下に、数年前からヒルザキツキミソウ(昼咲月見草)が群れ咲くようになった。早朝散歩の何よりもの慰めである。
 曇天の今朝、時折雨粒が額に落ちる。雨の匂いが次第に濃くなり、あと10日ほどでこの辺りも梅雨にはいる。
                    (2022年5月:写真:ヒルザキツキミソウ)

記憶と忘却

2022年01月29日 | つれづれに

 読書しながら、ふと使われた言葉の語源が知りたくなる--たまに、そんな作家に巡り合うと、読むことを忘れて辞書を引まくるくことになる。そんな言葉を幾つも集めて、例月の読書会で遊んだ。
 胡乱(うろん)? 正体の怪しく疑わしいこと。【語源】胡乱は室町時代に禅宗を通して日本に入った言葉で、「胡(う)」「乱(ろん)」ともに唐音である。 モンゴル高原で活躍した遊牧騎馬民族「匈奴(きょうど)」を「胡(えびす)」と言い、また胡 (えびす) が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。
 ぎこちない? 動作や話し方などが滑らかでない。【語源】「キ」牙や「コチ」骨の呉音に形容詞をつくる接尾語「ナシ」が付いた語で、「(ゴツゴツしていて)骨のようだ」という意味から「不作法だ」という意味になったと思われる。
 周章狼狽(しゅうしょうろうばい)?とても慌てていること、または非常にうろたえること」【語源】《周章》も《狼狽》もあわてるという意味がある。《周章》の「周」は「歩き回ること」を意味する。一方、「周章」の「章」は、「目立つ」という意味がある。すなわち「周章」は「目立ちながら歩き回る」様子を表し、ここから「ひどく慌てふためくこと」という意味が生まれたとされる。《狼狽>は「予想外の出来事にどうしたらよいかわからず、取り乱す様子」を表す言葉。「狼狽」は伝説の動物にある。「狼」も「狽」もどちらも狼の一種の伝説の動物。狼は前足が長くて後ろ足が短い生き物で、それに対して狽は前足が短くて後ろ足が短く、この二つの動物は対で行動するとされる。二匹そろってやっと歩けるため、もし片一方が離れるとたちまちバランスを崩して倒れてしまう。このことから「狼狽」が「(うまくいかずに)慌てふためくこと」という意味となったといわれている。

 二(に)の足(あし)を踏む、 虎落笛(もがりぶえ)、畢竟(ひっきょう)、あたら (惜・可惜)、逼塞(ひっそく)と、辞書と首っ引きが続いて、それなりに楽しんだ。この歳になっても、新しい言葉を覚えるのは嬉しい。

 しかし、ふと思う。昔々に覚えたことは忘れていないのに、昨日のことが思い出せないことがあるのは何故だろう?テレビを観ていて、俳優や女優の名前がなかなか出てこないのは何故だろう?カミさんとの会話も、次第に「アレ、ソレ、、コレ」で通じ、主語のない会話になりつつあるのは何故だろう?―――答えはわかっている。そう、「加齢!!」医者の決め言葉も「お歳ですから――」そういわれると、それ以上返す言葉がない。

 子供の頃、叔母が落語の「寿限無」に負けない長い名前を教えてくれた。それが、70年以上経っても忘れないのだ。
 「てきてきのてきすろんぼうそうりんぼう、そらそうたかにゅうどう、ちゃわんちゃべすけすっけらこう、ぎちぎちのあけすけもけすけ、てびらかのぱらりすっぽんたんざえもん」
 意味不明のまま覚えてしまった。「平家物語」の書き出し、「三国志」の「出師の表」、「奥の細道」、「南総里見八犬伝」――中学生の頃まで、貪るように読み、覚えようとした。アオバアリガタハネカクシという虫の名前や、トリステアリルアミロフェニルトリメチルアンモニウムスルホメチラートという化学薬品の名前など、とにかく長いものを「覚えること」が楽しい時期だった。

 「思い出すとは忘るるか 思いださずや忘れねば」という閑吟集(16世紀初めに、世捨て人によって詠まれての歌謡集)の歌、多分中学校の担任から教えてもらったこの歌も忘れていない。「私のことを思い出すということは、今まで私のことを忘れていたということですか。忘れていないのならば思い出す必要はありません」という、ちょっと小理屈めいた歌だが、恋の歌の返しと思えば、それなりに楽しい。

 「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」昭和27年(1952年)から放送されたラジオドラマ・菊田一夫の「君の名は」の冒頭のナレーションである。銭湯を空にしたという伝説的なドラマだった。

 「リチャード・キンブル。職業・医師。正しかるべき正義も時として盲いることがある。 彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。 孤独と絶望の逃亡生活が始まる。 髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら・・・現在を、今夜を、そして明日を生きるために」1960年代に放送されたアメリカのテレビドラマ「逃亡者」の冒頭ナレーションである。

 別に思い出しても何ということはないのだが、昨日の晩飯を思い出そうとしていたら、こんな昔々の記憶の方が先に出てきてしまった。加齢、恐るべし‼(呵々!)そして、カミさんと私に「要支援」認定の通知が来た。加齢の重みが、ズシンと来た。

 燃え盛る燎原の火のごとく、感染のスピードを緩めないコロナに立ち向かうことさえ、忘れてしまいたい日々である。3回目のワクチンの通知が来た。早速ネットで予約し、カミさんは2月1日、副反応に対応出来るよう、私は日をずらして2月10日を押さえた。「ファイザー」→「ファイザー」→「モデルナ」の交互接種になるが、今は、とにかく早く3回目の接種を終えることを優先しようと決めた。

 何故だか、今年は姦しいヒヨドリに襲われない庭のマンリョウの実が、夕日を浴びて赤々と輝いていた。
                       (2022年1月:写真:マンリョウ)

せせらぎ、木漏れ日、冬木立

2021年12月23日 | つれづれに

 冬至が明けた翌朝、2.2度の寒風が早朝ウォーキングの手をかじかませた。皮手袋を通して、シミシミと冷気が浸み込んでくる。有明の月が残る空はまだ明けやらず、ペンライトで足元を照らしながら、いつものコースを歩き、息弾ませて石穴稲荷の門前に手を合わせた。一日の息災を願い、お狐様が咥えた巻物を指でスリスリして、また坂道を下っていく。

 母が、「冬至が過ぎると米一粒ずつ日が長くなる」といつも言っていた。その母が逝った歳を、あとひと月足らずで超える。よくもまあ、この歳まで生きてきたと、無量の感がある。
 「一陽来復」――去っていた陽の気が、再び帰ってくる――易(陰陽思想)に由来する言葉が、今年ほど待たれたことはない。「冬が終わって春が来る」という解釈にはまだ実感がないが、「悪いことが暫く続いた後に、良いことが起こる」という解釈にしがみつきたい思いがある。コロナ禍のオミクロン株が不気味に蠢き始めた師走、祈る思いで「一陽来復」という言葉にしがみついている。

 早朝のストレッチとウォーキングを欠かさないものの、コロナ籠りで足腰の弱りへの不安がある。それを払拭したくて、今年最後の「野うさぎの広場」散策に出掛けた。
 暖かい冬晴れの午後になった。この後に、今冬最大のクリスマス大寒波が迫っている。大宰府の26日、最高気温3度、最低気温氷点下1度、27日には氷点下2度の予報が出ている。「一陽来復」には、まだまだ程遠い年の瀬である。

 猛暑と長雨に苛まれて体調定まらず、半年以上の御無沙汰だった。九州国立博物館への89段の階段を上り、脇を抜けて四阿沿いの散策路を辿った。イノシシの狼藉が、もう住宅地の傍まで迫っていた。道路一本隔てるだけという野性とのせめぎ合いに、どこか喜んでいる自分がいる。もちろん、私は野性の味方!

 仄暗い杉木立の下草は綺麗に刈り取られ、浸み出る水が小さなせせらぎを聴かせてくれた。風もなく、打ち合う竹林も音を潜め、時折キュルキュルと鳴く小鳥の声だけの静寂だった。イノシシ除け(実は、若い恋人たちの木立の中のふれあいの邪魔をしないための接近警告の)カウベルをリンリンと鳴らしながら、100段余りの急勾配の階段を登り詰める。

 登り上がった車道から、寒椿の真っ赤な花を見ながら左に折れて山道に入った。「野うさぎの広場」への散策路は、冬枯れの下に枯れ枝や落ち葉、イノシシの狼藉、ペットボトルや空き缶で荒れ果てていた。散らばっていたマイ・ストックの枝3本を元の場所に立てかけて、さらに山道を辿る。久し振りの山歩きだから、今日は念のためにLEKIのストックを伸ばして持参している。
 時折、鮮やかな色を残したムラサキシキブや、真っ赤なヤブコウジが迎えてくれた。春、小さな握り拳を振り上げていた羊歯が、大きく育って山道に覆い被さっていた。

 息が上がることもなく、足がよろけることもなく、無事に「野うさぎの広場」に辿り着いた。冬木立から広場に落ちる木漏れ日は、限りなく優しかった。マイ・チェアと定めている切り株に腰を下ろし、カフェラテのミニボトルで喉を潤した。かすかな風が包み込むように過ぎて、肌を湿らせていた汗の火照りを冷ましていく。ヤシャブシの棘々の実は、今年も健在だった。時に、イノシシや野うさぎを見掛けるこの広場が、私の一番お気に入りの秘密基地である。
 何度この広場で豊かな時を重ねたことだろう!時にはシートを敷いて横たわり、眩しい木漏れ日を閉じた瞼の裏に温めたり、コンビニお握りを頬張ったりもした。3か月半後、春の日差しを浴びて、この広場は一面青いハルリンドウで覆われる。

 「せせらぎ」、「木漏れ日」、「冬木立」―――好きな言葉を三つ集めて木立に寄りかかりながら、自分なりの今年の「納め」とした。
 納めきれないことの多い一年だが、未練を断ちながら今年のブログも「書き納め」にしよう。
                     (2021年12月:写真:「野うさぎの広場」への散策路)

冬日和

2021年12月11日 | つれづれに

 「これ、お宅用です。唾つけといてください。味わうのは来年、暮れに収穫して届けます」。枝もたわわに下がる巨大な晩白柚を指差しながら、ご主人が笑いかけてくる。
 春には、大変な数の白い花を付けていた。これが全部実ったら、枝が折れてしまいそうな数だった。猛暑と長雨という異常な季節を重ねて自然摘果が激しく、最終的に残った貴重な8個の一つを、我が家用に分けていただくことになった。
 瑞々しい実に加えて、皮で作るマーマレードは美味しく、ロスに住む次女が「料理に使うから送って!」と、毎年首を長くして待っている。

 今年も、残すところ3週間になった。
 「ジャガイモ掘りしましょう」とY農園の奥様から誘われたこの日、午前中の雲も消え、師走を忘れさせるような雲一つない快晴の午後となった。いつも通り、淹れたての珈琲を魔法瓶に詰めて車を出した。
 先日奥様に振舞った珈琲が全く香りを失い、恥をかいた。コロナで訪れる人も減り、買って2ヶ月以上過ぎた豆は無残だった。行きつけの喫茶店「蘭館」に走った。「香りは焙煎してからせいぜい1か月ですから、少しずつ買われた方がいいですよ」と勧められ、いつものモカ・バニーマタルを半分の100グラム求めた。3か月前から8%ほど値上がりしていた。「輸送コスト上がっているし、モカは紛争地帯の産ですから、もっと品薄になって値段も上がり、貴重品になるかもしれません」
 15年ほど前に絶妙な酸味と苦みのこの豆に巡り合ってから、多分7割ほど高くなっている。アラビア半島内陸・標高2000メートルのバニーマタル地方の段々畑で採れるモカ珈琲であり、アラビア語で「雨の子孫たち」を意味するという。

 師走というのに眩しいほどの日差しが降り注ぎ、持ってきたコートもジャンパーも車の中に置き、さらに羽織っていたセーターも脱いで畑に蹲った。モンシロチョウや蜂が黄色い菜花に舞い遊び、早くもホトケノザがあちこちに群れ咲いている。300坪のこの畑は、既に早春の佇まいだった。

 掘り上げた「デジマ」という品種のジャガイモは圧巻だった。ご夫妻が鍬で掘り上げた土の中から、カミさんと私はただ拾い上げるだけである。真っ白な肌は美しく、大きいものは拳大もある。ひと畝掘り上げるのに15分もかからなかった。9月の初めに植えた2キロの種芋が、3つの籠に大中小と仕分けされて溢れるほどの収穫である。
 土が乾くまでが、楽しい珈琲タイムになった。

 ジャガイモ、蕪、春菊、ホウレンソウ、菜花、レタス、サツマイモ、菊芋――太っ腹な奥様からのお土産がどんどん増えていく。地区公民館の要職にあるご主人は、途中から下校時間の子供たちの見守りの為に、青パトの巡回に出掛けられた。

 豊かな夕飯になった。ご飯を半分にして、大きなジャガイモを一個ずつジャガバタにする。濡れたキッチンペーパーで包み、さらにサランラップでくるんで、600Wの電子レンジでおよそ10分、ほくほくのジャガバターを主食にした。いただいたホウレンソウと春菊の胡麻汚し、採りたての柔らかい蕪の味噌汁など、畑の実り溢れる夕飯だった。
 この日、大宰府の気温は18.3度、県下2番目の暖かさだった。

 「紅白歌合戦」の顔ぶれに、もうついていけない。次第に遠くなる昭和を偲びながら、残る3週間の年の瀬を過ごすことになる。来るべき年に、きっといいことがあると信じながら、新たな命が芽ぐむ春を待ち続けよう。
                       (2021年12月:写真:畑の収穫)

主婦のハレの日

2021年11月27日 | つれづれに

 「質問:この前3人で電車で天神に出たのは、いつ、どんな用事でしたっけ?」久しぶりに天神に出ることになった。この前、いつ乗ったのか思い出せない。この2年、街に出るのは博多座の芝居がらみだけで、いつもマイカーで都市高を走って20分、川端の博多リバレインの地下駐車場に停めるのが常だった。
 かすかに残る記憶を頼りに、一緒に乗ったYさんの奥さんにLINEで尋ねた。
 「明日、久しぶりでソラリアに行きます。何ヶ月振りかなと思って」
 「こんばんは、この前電車で出掛けたのは、2月の博多座行きが雪模様だったからです」
 そうだった!あの日は大雪注意報が出ていて、帰りの車が走れなくなるかもしれないという不安があって、電車にしたのだった。

 9か月振りの電車は意外に混んでいた。西鉄五条まで徒歩10分、ひと駅で二日市から急行に乗り換えて何とか座り、天神まで17分。時間的には近場であるのに、コロナ籠りで大宰府原人化した身には、心理的に天神は遠い街になってしまった。毎日、ラッシュの人混みに揉まれて通勤していた昔が、嘘に思われる。
 車内の殆どの乗客が、黙々とスマホの画面を覗き込んでいる異様な雰囲気に、ますます電車が嫌いになった。たまに――本当にたまに本を読んでいる若者がいるとホッとする。昔は、多くの乗客が文庫本を開いていたり、新聞を縦折して読んでいたのに――それが当たり前だった昭和は、もう遥かに遠くなった。
 高校生のカップルが、吊革に掴まらずに器用にバランスを取りながらお喋りに興じている。そこに昔の自分がいた。私の右隣のオヤジは、座席に荷物を置いたまま寝たふりをしている。お陰で窮屈になったシートに肩をすぼめて揺られながら、昔もこんな中年がいたなと、それまでもが懐かしい。

 猛威を振るったコロナが小康状態となり、緊急事態宣言も消えた。もちろん、これで終わる筈もなく、いずれ次の波がやってくるだろう。束の間の平穏な日々に、少しまとめて贅沢しようと決めた。船小屋温泉「樋口軒」の特別室、原鶴温泉「六峰館」の檜露天風呂付準特別室、と温泉巡りを重ね飽食の限りを尽くした。もう一つ、佐賀県唐津市「いろは島国民宿舎」の「伊勢海老・蟹尽くし」は、体調整わず断念したが、その代りに見付けた今年最後の贅沢が、「福岡応援グルメチケット」、和牛と福岡の食材を使った食事の企画だった。税込み5000円のチケットを買えば、7000円相当のメニューが選べるというものである。
 西鉄グラドホテルとソラリア西鉄ホテルの9つの店舗から自由に選べる。カミさんは「鉄板焼き!」と即断。リタイアして21年、亭主が365日家にいて、3食食わせなければならないのは、結構シンドイものだろう。たまには外食したり、温泉に旅して賄いから解放されるのは、貴重なハレの日なのだ。いわれるままにソラリア17階の鉄板焼「Asagi」に予約を入れた
 料理しなくていい!後片付けもなし!!最近は、後片付けは私の役目。だから、主婦のハレの日は主夫のハレの日でもある(笑)目の前の鉄板で焼いてもらう幸せ!!チケット2枚のスペシャルコースのつもりだった。しかし、メニューを見て考えてしまう。
玄海魚介類のマリネ糸島ベビーリーフ添え、フォアグラの明石焼き風博多万能ねぎを使った出し汁で、スズキのパン粉焼き赤ワインソース、博多和牛サーロインステーキ(80g)、ご飯または高菜ピラフ(赤だし、香の物付き)デザート、珈琲。
 加齢によって食べる量が細くなった身には余る。諦めてチケット1枚の、グルメランチコースにした。本日のオードブル(スズキ)、季節のスープ(ニンジン)、魚介類の鉄板焼き(鯛とホタテの貝柱)、黒毛和牛のサーロイン・ポワレ(60g)パン、デザート(ブラマンジュ)、珈琲。
 満腹だった。味も量も正しい選択だった。スパークリングワインのワンドリンクも付いて、もてなしも心地良かった。12時の予約だったのに、鉄板を囲む客は3組5人、まだまだ客は帰ってきてない。

 「折角来たんだから、デパート覗きたい!」というカミさんを残し、一人電車に乗った。2時の急行発車まで、あと2分。3年半振りにホームを走った。天神南口から乗るには、エスカレーターがないから階段を幾段も上がり、ホームのずっと先の方に停まった電車まで延々と歩くことになる。人口股関節置換手術後、「走る、跳び上がる、飛び下りる」を禁じていた。医師も、出来れば避けた方がいいという。20メートルほどの距離を恐る恐る走りながら、平和台陸上競技場を疾駆していた頃の自分が、無性に恋しかった。

 寒波の中休みの、汗ばむほどの小春日だった。

 このブログを書き終わった夕べ、南アメリカで新たに拡大を始めた変異株が、「オミクロン株」と名付けられ、世界中が騒然となった。暗雲垂れ込める師走まで、あと3日。
                     (2021年11月:写真:本日のオードブル)

秋、落ちて

2021年11月07日 | つれづれに

 妹の三回忌を二日後に控えて、兄が逝った。享年84歳、私とは1年半の歳の差だった。町内に住む兄の親友が、もう一人の親友の参議に電話し、高校の同期の柔道仲間に知らせるよう頼んだところ「もう、みんな死んで居らん!」と返事が返ってきたという。84歳とは、そういう歳なのだ。74歳で彼岸に渡った父だったが、その後一人で10年生きた母が逝ったのも83歳だった。私だけが生き残って、馬齢を重ねている。

 大雨の後、猛暑が続いた秋だった。寒暖乱高下する気候に翻弄され、体調が狂った。暫く辛抱したが捗々しくなく、掛かり付けの病院に駆け込んだ。症例を話したら、「それ、自律神経!」と即答、薬を調剤され、点滴を受けた。納得である。
 爽快な秋晴れが、ようやく還ってきた。例年なら、高原ドライブをして山野を歩き回り、野性を追いかける時節である。「野うさぎの広場」への散策さえ、あと一つ気が乗らず、カミさんから老人性鬱を疑われる始末だった。

 緊急事態宣言終了を機に、月一の読書会が復活した。読み続けている「伊勢物語」は97段、何とか今年度中(来年3月)には125段を読破出来そうなところまで読み進んできた。週一の気功教室も復活した。少しずつ元に戻りつつはあるが、コロナ前の日々とは、どこか根本的なところで違っているような気がする。このところの急速なコロナの鎮静化も、日本固有の現象でどこか不気味なものがある。

 人と会うことが少なくなった。テレビの前に坐る時間が増えた。そして、やたらに昔のドラマの再放送が増えた。脚本が貧しく、役者が薄い上に、軽薄なお笑いを多用する最近のドラマより、はるかに観るに堪えるものが多いから助かっている。女優も今ほど痩せっぽちじゃないし(痩せた方が美しいと、誰が誤った風潮を作ったのだろう?カマキリ脚より、むっちり太ももの方が遥かに癒されるのに)、スカートも短くてホッとする。ジジイがこんなことを呟くから、益々自律神経がおかしいと言われるのかもしれない(呵々)。
 時々、あまりにも古すぎて、出演者の大半が故人だったりもする。どっこい、こっちはまだまだ元気で生きてるぞ!
 しかし、時々ドキッとする。昨日も、マヨネーズを買いに行って、ケチャップを買ってきてしまった。笑い飛ばしながら、どこかで加齢に慄いている自分がいる。

 雨が降らない。10月も記録的少雨だった。平年の10%にも満たないという。カラッカラの大地を踏んで、マスク不要の早朝のウォーキングも始めた。50段ほどの石段を踏んで、石穴稲荷の本殿に詣でる頃、まだ黎明の明かりは届いていない。ペンライトで照らしながら詣り、ライトを消して漆黒の闇に佇む。お狐様の館なのに、不思議に恐怖感はない。何も見えない世界の静寂は、何故か心を鎮静化する。願い事への御利益のほどはわからないが、この静寂が欲しくて、ついつい本殿までの階段を上ってしまうのだ。
 漸く薄明が届くころ石段を下りる。道端の叢には、もう種を弾かせ始めたウバユリが何本も立っていた。
 
 午後の暖かい日差しの中を、友人がオキナワスズメウリを袋いっぱい届けてくれた。数年前に我が家から分けた種を、さすがに農業のプロ、毎年おびただしいほどの実を育て、こうして届けてくれる。我が家は、今年は全滅だった。同じ日差しでも、土が違うし、丹精の籠め方が違うのだろう。
 早速、いつものように玄関脇の窓に吊るした簾に飾り付けた。緑と赤の小さな瓜の玉が、秋風に揺れる。落ち込みがちだった秋、復活への足がかりがこの実にあるかもしれない。

 明日午後、久しぶりに雨マークがついた。
                     (2021年11月:写真:オキナワスズメウリ)

居座る夏に

2021年08月29日 | つれづれに

 ツクツクボウシが庭で鳴きたてるようになると、もう夏が背中を見せ始める――筈だった。長い雨の日々がようやく過ぎると、また34度の猛暑の日々が帰ってきた。もう振り返らなくていい!何にもいいことがなかった今年の夏、もうお前の顔は見たくもない!!
 夏は好きな季節だった。傲然と座り込む夏を憎んだのは、おそらく最初で最後だろう。

 もう一度、20メートルの海底に浮遊し、色とりどりの熱帯魚に囲まれて癒されたい!――そう願っていた座間味島で、コロナ感染が拡大中というニュースを見た。ちゃんとした病院もない離島に拡がるコロナ禍、島人たちの不安をよそに、本土から、それも緊急事態宣言が出ているところから、心無い観光客が絶えないという。
 まだコロナが発症する前、観光客が溢れて公害化している頃、ダイビングに訪れた時に世話になった民宿の若主人が、「本音を言うと、これ以上観光客が来ないでほしい!」と漏らしていた。結婚を機に、「もう一般客の民宿は閉じる。長年来てくれたシニア・ダイバーだけの宿にしたい」と。
 カードが使えない島に持参した現金が不足し、宿代も後日送金という願いを快く承知してくれた上に、ひと晩娘と私を晩餐に招いてくれた。初めて「体験ダイビング」に誘ってくれたのが、当時民宿の若い二代目の彼だった。錨綱に縋って僅か数メートルの海底に沈み、小さなサンゴ礁に群れる熱帯魚の美しさに目を見張った。
 いつか必ずダイビングのライセンスを取って、この海に帰って来よう!――その夢を叶えたのは、69歳の11月末、カリフォルニア・サンタカナリア島の島陰だった。高校生たちに交じって30人乗りのダイビングボートに泊まり込み、ジャイアントケルプの林と真っ白な砂の海底を漂いながら、最後の訓練を受け、イルカの群れに見送られながら帰り着いたロングビーチの港で、ライセンス実技合格の内示を受けた。50問の筆記テストをクリアして、待望のライセンスを取得した。
 その後、メキシコの海で潜り、念願の座間味の海に帰ってきたのはその数年後だった。その間にサンゴ礁は荒れた。破壊されたサンゴで死屍累々の海の景色は衝撃だった。温暖化による白化と死滅、オニヒトデの異常発生による死滅、それに加えて、観光客が踏み荒らした。
 それでも、残った岩礁にサンゴが育ち、その合間に数々の熱帯魚が遊び、ウミウシが這う海底は美しかった。ボートからバックロールでエントリーし、耳抜きしながら深度を深め、海底近くで呼吸だけで深度を調整しながら、全身の力を抜いて漂う――シニアでもダイビングは身体に負荷がかからない。だから、80歳を超えても可能なのだ。背負ったボンベのエアが尽きるまでの1時間はあっという間だった。
 
 しかし、もう潜ることは叶わないだろう。いつ果てるとも知れないコロナとの闘いは、当分終息はしないだろう。ワクチンで共存しながら、自由に交流できるようになる前に、こちらの体力が喪われる。そして、いつか命脈も尽きる。
 全てに終わりがあることを実感させられた夏だった。夏を追っ払っても、その事実は消えない。
 
 寝坊して、いつもの早朝ウォーキングが1時間遅れた。目が覚めたら、カミさんは既に出掛けた後だった。坂道の途中で帰り道のカミさんとすれ違い、いつものコースを辿る。昇り始めた朝日を浴びて、百日紅が美しく映えた。小さな下弦の月が、花の向こうに白く残っていた。
 帰り着いて浴びたシャワー、最後に浴びる冷水がいつの間にか冷たくなり、居座る夏の衰えを肌に確かめた。
 
 風呂場の前の八朔の枝で、ツクツクボウシが鋭く鳴きたてる。そして日が落ちると、我が陋屋は湧き上がるような蟋蟀の鳴き声に包まれる。居座る夏が重い腰を持ち上げるのも、そう遠いことではない。
                  (2021年8月:写真:朝日に映える百日紅)

コロナ・ワクチン顛末記 その2

2021年07月08日 | つれづれに

 「若い人ほど、副反応が強く出る」……口コミやネットで、様々な情報が乱れ飛んでいる。当然なことながら、不安を煽るマイナーな情報の方が多いのは世の常の事。人の不幸を喜ぶ愉快犯には事欠かない。
 そんな中で、ためらう人も少なくない。医師でさえ「私は接種しません!」と公言する場面にも出会った。しかし、我が家には毛筋ほどの迷いもなかった。7月1日14時30分にカミさん、時間差を置いて4日9時30分に私が、それぞれ2回目の接種を受けた。流れは1回目同様にスムーズで、15分の待機時間を含めて30分足らずで接種会場を出た。
 カミさんは、少し腕に痛みが出て、夕方38.4分まで熱が出た。早めにベッドに入らせ、氷枕で頭を冷やして、予め掛かり付け医に処方してもらっていた解熱剤・カロナールを1錠服ませた。私がベッドに入る11時、薬のせいでびっしょり汗をかいたパジャマを着替えさせた頃には、36度9分の微熱迄下がっていた。翌日、軽い倦怠感が残ったが、腕の痛みは1回目ほどではなく、夕方には治まった。

 私の場合。腕の痛みは、1回目より軽い。カミさんが「ブラのホックが留められない痛さ」と言っていたが、試しに後ろに手をまわしてみたが、大丈夫だった。夜から翌日いっぱい、36.9分~37度という微熱と、軽い倦怠感が続いたが、夜には平熱の36度5分で安定した。
 若者並みのひどい副反応を怖れ(そして、若干期待)を抱いていたが、やはり「後期高齢者」の歳相応の結果でしかなかった。(笑)抗体が出来る今月半ば頃には、北部九州の梅雨も明けていることだろう。

 2回目接種を終えたという安堵感は意外に希薄だった。ウイルスは今後も変異を重ねる、インド型・β(ベータ)型に続き、オリンピックを強行する愚かさのツケとして、ワクチン効果が五分の一といわれる南米型・λ(ラムダ)型の上陸が懸念されている。人類とコロナとの鼬ごっこは、コロナ優位のまま、先行きの見通しが立たない。2回目の接種が終わっても安堵感がわかない原因は、多分ここにある。特効薬のめども立たない中で、不毛の戦いはまだまだ続くだろう。マスク生活も、当たり前の世界になるだろう。目は表情のポイント、目美人が増えて、それはそれで楽しい……そう思わないと、この2年の耐える日々はあまりにも切ない。

 庭の片隅に、いつの間にか茗荷畑が出来ていた。かつてハナミズキの紅白を植えていたが、訳もなく白だけが枯れた。その切り株の周りに、植えた記憶もないのに茗荷が生え始め、数年の内に根から増殖して、今年は50本近くに増えた。10日ほど前から収穫が始まった。油断すると白い花を咲かせてしまう。花が咲くと中身がスカスカになるから、朝晩見回って花が咲く直前で収穫しなければならない。薬味としては万能だから、カミさんの腕によりがかかる。

 子供の頃、母から「茗荷を食べ過ぎると物忘れをする」と言われていた。その言葉の源をネットで辿ると、思いがけずインドに行きついた。
 『インドの北部で誕生した周利槃特(しゅりはんどく)という少年がいました。この人は、兄の摩訶槃特(まかはんどく)と共に、お釈迦様に弟子入りして学びはじめます。兄は賢く、お釈迦様の教えをよく理解して仏教に帰依しましたが、弟の周利槃特はなぜか物忘れをしやすく、自分の名前すら忘れてしまうこともあったそうです。それでも、熱心に修業に取り組んでいたので、お釈迦様が名前を書いたのぼりを持たせてくださいました。
 周利槃特がお釈迦様が書いてくださったのぼりを持ち、托鉢にまわると、人々はその手書きの文字を見ることをありがたがり、お布施もたくさんいただくようになりました。お釈迦様の教えの通りに、毎日掃除や托鉢に励みつつも、自分の愚かさに涙を流すこともあったそうです。それを見たお釈迦様が「自分の愚かさに気づいている人は、知恵のある人です。愚かさに気づかないのが、本当に愚か者です。」と言われたこともあるそうです。
 何十年も毎日、毎日、お釈迦様からの教えの通りに、ほうきを持って掃除をつづけた周利槃特は、自分の心のごみまで除き、阿羅漢と呼ばれる聖者の位にまで到達し、お釈迦様は大衆の前で「わずかなことでも徹底して行うことが大切」とお話しをされ、周利槃特が、徹底して掃除をしたことで悟りを開いたと皆に伝えました。
 その後亡くなり、埋葬されたところから見慣れぬ植物が芽をだし、花が咲きました。これをみつけた人が、自分の名を荷い(にない)努力を続けたことから、「茗荷(みょうが)」と名付け、ここで眠る周利槃特とみょうがを結びつけて、みょうがを食べると物忘れをするという由来になったという話しです。』

 茗荷を食べなくても、物忘れが進む世代である。カミさんと何度も「思い出しゲーム」をすることが、日常茶飯となった。いつか、コロナ禍も忘れる日が来ることだろう。
 6月27日ヒグラシ、28日ニイニイゼミ、7月5日クマゼミ、8日アブラゼミ……初鳴きを重ねて、季節は忘れることなく歩みを進めている。
                      (2021年7月:写真:朝採り茗荷)