蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

駆逐艦「雪風」

2011年09月30日 | つれづれに

 思いがけず、テレビで懐かしい名前に出会った。かつて、大日本帝国海軍の陽炎型駆逐艦の8番艦として太平洋戦争を戦い、50隻の中で16回以上の主要な作戦に参加したにもかかわらず、殆ど無傷で終戦を迎え、唯一終戦まで生き残った「奇跡の駆逐艦」である。

 昭和14年(1939年)、私が生まれた2ヵ月後に進水し、昭和16年(1941年)の開戦時には第16駆逐艦隊の司令艦であった。歴戦を生き残った「雪風」は、敗戦の色濃い昭和20年4月、大艦巨砲主義のシンボルのひとつだった戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に、第2水雷戦隊(旗艦「矢矧」)に所属して参加し、日本を出撃する。4月7日正午を過ぎる頃から米空軍機約400機の波状攻撃を受け、「大和」は午後2時23分に沈没。生き残った「雪風」は、その後避難した宮津港での米軍機との戦闘を最後に、8月15日の終戦を迎えた。第17駆逐隊は「雪風」1隻を残して幕を閉じた。
 「雪風」は終戦後特別輸送艦となって米軍に引き渡された。10月15日に帝国海軍の艦籍から除かれ、武装を全て外して復員輸送艦となった。昭和21年(1946年)12月28日まで15回の復員輸送任務を遂行し、1万3千人以上を運んでいる。その中には、後に漫画家として有名となる水木しげるもいたという。…ここから、私との接点が始まる。

 国民学校1年生の1学期が終わった夏休み、終戦を京城(ソウル)で迎えた。父は招集されて済州島(チェジュド)に駐屯、母と叔母と兄、妹の5人で隣家の庭で暑い日差しを浴びながら玉音放送を聴いたが、子供心に終戦(敗戦)の意味も分からず、頭を焼く夏の日差しだけが記憶にある。
 その日から京城(ソウル)の町中に一斉に朝鮮の国旗が翻り、日本人は外出禁止となった。時たま偵察機が遥か上空を飛ぶ以外、爆発音ひとつ聴いたことのない京城(ソウル)の上空が、ロッキードやグラマンという米軍戦闘機群の機影に覆われた。食料品などは会社が差し向けたトラックで届けられ、息を潜めて暮らす日々が続いた。
 やがて、父が復員。秋には、内地への引き上げの為に、釜山(プサン)に向かう有蓋貨車の中にいた。一人現金は千円に制限され、リュックや両手に持てるだけの荷物を持って、幼い子供3人は手を引かれることも出来ず、母の声に導かれてついて行った。…この辺りから、私自身の僅かな記憶と、後に母に聞かされたことの記憶が自己体験として混在していく。だから、事実との整合性に自信はない。
 有蓋貨物列車は、何度も山の中で停められ、そのたびに皆がお金を出し合って朝鮮人機関手に届ける。走り出す、又止まる。その繰り返しで、釜山に着くころには持ち金はほとんど尽きていたという。道の両側には、持ちきれずに捨てられた荷物が山積みとなり、その間を引揚船に導かれて行った。

 乗せられた船が駆逐艦だったのは間違いない。母はそれが「雪風」だったという。生き残った唯一の駆逐艦「雪風」が復員船に徴用されたのは確かだから、母の話はおそらく事実だろう。
 初冬の玄界灘は波荒く、引揚者全員が烈しい船酔いに苦しんだ。前部主砲塔の下に寝転び、空を流れる雲を見ながら、烈しくローリングとピッチングを繰り返す甲板で、内臓をかきむしるような船酔いに苦しみ、半死半生の状態だった。この原体験で、以来船に乗るにはかなりの覚悟が要るようになる。実際には、小さな船で真冬の玄界灘を博多から平戸に渡った時も、波高8メートルの荒波の中を石垣島から西表島に渡った船旅でも、乗客の殆どが船酔いに苦しむ中で平然としていたのだが、それでもいまだに船に乗るには躊躇いがある。
 まだ浮遊機雷があって、引揚げ船がどこの港に着くかは、最後まで明かされなかった。一夜明けて 艦首の向こうに博多の箱崎八幡宮の大鳥居が見えた時の父母の安堵はどれほどのものがあったことだろう。朝、乗組員の兵が大きな鍋で熱い味噌汁を振舞ってくれた。その味は、いまだに忘れることが出来ない。港から牛車に揺られて、箱崎八幡宮にほど近い母の実家に帰り着いた。運がいい引き揚げだった。
 そして、私達の「戦後」が始まった。小さな長屋に、祖父母と叔父叔母、5人の叔父一家、そして我が家の5人、合わせて14人の貧窮生活が暫く続くことになる。

 駆逐艦「雪風」は、昭和22年(1947年)7月、中華民国に引き渡され、中華民国海軍の旗艦「丹陽(タンヤン)」として生きた。しかし、内戦での国民党軍の敗北に伴い、上海から台湾の基隆に逃れた。蒋介石総統が台湾に逃れた際には、その乗艦になったとされる。その後、再武装工事を受け、引き続き中華民国海軍所属として第一線で活躍したが、機関の老朽化によって昭和40年(1965年)12月16日に退役、翌年11月16日付で除籍された。訓練艦として就役していたが、昭和44年(1969年)夏に暴風雨により艦底を破損、艦齢29年で解体処分となった。

……あの日から66年目の秋が、何事もなく深まっていく。
                   (2011年9月:写真:駆逐艦「雪風」)
※駆逐艦「雪風」の写真及び戦歴等は、ネットより借用

旅へ

2011年09月29日 | つれづれに

 2年振りのアメリカへの旅立ちまで、あと2週間。スーツケースを開き、そろそろパッキングの準備に掛るタイミングとなった。

 毎回、山のようなお土産でスーツケースを重たくしてしまう。前回は手荷物の制限重量を超え、お情けで超過料金を免除してもらったことに懲りて、お土産の先送りを郵便局に持っていった。2個口の小包の重量22キロ!送料31,000円に苦笑いする。これだけで、一人分の手荷物重量オーバーである。「ダイビングで担ぐ重さに近いのかな?」と呟きながら「これが、親心の重さだよ」と自己弁護して、近付いた娘との再会を想う。
 「何?この判じ物みたいなお土産の山!」と呆れ、笑いながらも喜ぶ娘夫婦の顔が彷彿する。今回はダイビング用具(マスク、ブーツ、フィン、グローブ、シュノーケルなど)を持っていかない分と合わせ、手荷物はいつもの半分になるだろう…多分。フォーマルの要らないカジュアルなカリフォルニアだから、衣類も少なくていい。

 A4サイズ1枚の味気ないEチケットも受取った(昔の何ページもの航空券がチョッピリ懐かしい)。インターネットでアメリカ大使館のホームページにはいって、ESTA(Electronic System for Travel Authorization 渡航認証許可番号)も取得した。このブログを書き終わったら、筑紫野警察署に国際運転免許証を受取りに行く。こうして、手馴れた旅立ちの準備が着々と整っていく。

 10月12日、福岡空港から成田に飛んで、夕方の便でロスに向かう。着くのはその日のお昼前。いつもながら面白い時差のイタズラである。往路10時間、復路は季節柄強い偏西風に逆らって飛ぶから12時間。何度飛んでも、エコノミー・シートの空の旅は長いが、時差ぼけを一気に解消する為に、眠らずに映画を5本見て耐える。10年前には往復8万円だった。5,000円追加したら、ロスのホテルに1泊して、ガイド付きの半日観光までセットされた。
 2年前には15万円となり、今回は燃油サーチャージという不可解なものがドーンと乗って約20万!だから、「折角高い航空運賃使って行くのなら」と、41日間の滞在とした。それでも2年前の2ヶ月にくらべると、アッという間に過ぎる娘との生活である。帰り着いた頃には、太宰府はもう木枯らしの先駆けが吹き始めていることだろう。

 9月も終わろうとしているのに、相変わらず残暑の居座りは厳しく、湿気を伴った30度の暑い日々が続く。もう暑さには倦んだ。充分過ぎるほど、暑さに叩かれた。庭先で鳴き騒いでいたツクツクボウシの鳴き声もいつしか遠くなり、石穴稲荷の鎮守の森から風に乗って微かに数匹の声が届くばかりである。代わりにシジュウカラが山から下りてきて、ツツピン、ツツピンと空気を弾く。
 ハナミズキの落ち葉が日ごと数を増し、朝夕の落ち葉掃きの秋の日課が戻ってきた。20本ほど立っていた白いヒガンバナもそろそろ終わり、シロバナホトトギスがたくさんの花を並べている。戻り残暑に一時声を潜めていたコオロギの声が盛り返し、夜毎蟋蟀庵を濃密に包み込む。今年最後の月下美人が4輪の蕾を垂らしている。やがて頭を擡げ、儚く、それでいて限りなく豪華なひと夜限りの花を開くのは、2年前と同じく旅立ちの頃だろうか。
 八朔の葉裏に空蝉がひとつ。この夏幾度も命誕生の感動を見せてくれた名残は少し寂しいけれども、シッカリとしがみ付く姿は、どこか健気でさえある。さよなら、夏。明日からのひと雨で、来週以降の気温は一気に22度まで下がるという。遅れて来た秋は、今年もきっと韋駄天走りに違いない。

 そして今、庭の隅々に幾本もの赤い小花を連ねるミズヒキソウを、雨がしめやかに叩き始めた。
               (2011年9月:写真:白いヒガンバナ)

梢の道化師

2011年09月21日 | 季節の便り・虫篇

 本当に久し振りの出会いだった。かつては木立にはいると、必ず枝先から下がり秋風に揺れるその姿があった。いつの頃からか姿を消し、今では巡り会うのは奇蹟に近い。台風15号が日本列島を縦断する余波で時折雨と風が奔る中、庭石の上を枯葉の衣を纏って歩く一匹のミノムシがいた!楓の葉に移し、何となくときめきながら暫く眺めていた。

 色とりどりの千代紙や金紙銀紙を細かく刻んで箱に入れ、指でゆっくりと揉み出したミノムシを落とすと、一夜のうちに色鮮やかな蓑を作り上げていた。子供の頃の遊びであり、幾種類もの蓑を作らせては切り開き、それを並べて夏休みの宿題に提出したこともあった。

 ミノガの幼虫・ミノムシ…その一生は少し哀しい。蛹から孵ったメスは翅もなく、脚もなく、一生蓑から出ることもないままで、フェロモンを風に散らせてオスを呼ぶ。誘われて飛んで来たオスは、腹部を精一杯伸ばして蓑の奥の蛹の殻に潜むメスと交尾し、やがて死んでいく。蛾に羽化して羽ばたけるのは実はオスだけなのだが、そのオスも口は退化し、花の蜜を吸うことも出来ない。交尾を終えた雌は蓑の中の蛹の殻の中に1,000個以上の卵を産み、その表面を腹部の先に生えていた細かい毛で覆って、卵が孵化するまで蛹の殻の中に留まり、やがて孵化する頃に蓑の下の穴から出て地上に落ちて死ぬ。オスも哀れ、雌も哀れな生涯である。

 ミノガ科を示すPsychidae と、ひところ騒がれた幻覚剤によってもたらされる心理的感覚や様々な幻覚や極彩色イメージよって特徴づけられる視覚・聴覚の感覚を表す言葉・サイケデリック Psychedelic、ギリシャ神話に出てくる美の女神・プシュケ Psyche が語源を同じとするという話を読んだのは、遥か昔のこと。ミノムシの不思議な変態と生き様から語られていたような記憶があるが、その一文の中に、「梢の道化師」という表現もあった。何となく分かったような、分からないような、曖昧なままで今日に到っている。 

 外来種と思われるオオミノガヤドリバエに寄生されて、今では絶滅危惧種に選定される事態になってしまった。寄生率は5割~9割に達するといわれ、その寄生率は九州に近くなるほど高いという。だから、この日の出会いを敢えて「奇蹟」という。

 「枕草子」43段
…みのむしいとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐ろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて「今は秋風吹かむをりぞ来んする。まてよ」といひおきて、にげていにけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。…

 勿論、ミノムシが鳴くことはない。しかし、「父よ、父よ」と鳴いてもおかしくないほどに、哀れを感じる一生ではある。
 そして、蓑を作るのは秋。秋台風の凄まじい爪痕をテレビで聴きながら、乱調子の季節の移ろいに疲れ果てた気だるい身体を、今日も持て余している。
              (20111年9月:写真:珍客ミノムシ)

ワン・コインの宇宙の旅

2011年09月02日 | 季節の便り・旅篇

 微かな縞模様を見せる巨大な第5惑星・木星の左右に、それぞれ2個、合わせて4つのガリレオ衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)が横一列に並んで、神秘的に輝いていた。久住高原コテージを包む平原の夜空は見事に晴れ上がり、ワン・コイン(500円)で参加した星空散策は、横たわる天の川を仰ぎながらの思いがけない宇宙への旅となった。
 太陽の720倍という蠍座の赤色超巨星アンタレスの眩しいほどの煌き、南に飛び続ける白鳥座(北十字星)の二重星(連星)アルビレオの金と青の連なり、昔から視力検査に用いられたという大熊座(北斗七星)の二重星ミザールとアルコルの可憐な寄り添い、アンドロメダ銀河(大星雲)の朧ろな拡がり、琴座M57リング星雲(ドーナツ星雲)の仄かな彩り、そしてフィナーレを飾ったのが、東から昇った木星の衛星の整然とした横一列の連なりだった。

 「夏休み平成おもしろ塾」最終日。快晴の夏空の下で三つの竈が見事に9個の飯盒を炊き上げた。手作りの火吹き竹と火挟みまで持ち込んでくれた助っ人の正昭さんと二人、子ども達と一緒に焚いた飯盒は殆ど失敗なく炊き上がり、夏野菜カレーをかけたご飯の美味しさに3杯もお代わりした男の子や、カレー嫌いなのにお代わりした女の子など、3升6合の茨城産コシヒカリを殆ど食べ尽くすほどの勢いだった。炊飯器で炊いたご飯しか知らない子ども達には、薪で焚くご飯の香ばしさは大好評だったし、飯盒の底に少し残ったお焦げが、お母さん達の新鮮な興味をそそった。恒例となったスイカ叩きの大歓声が弾ける中に、十年目のおもしろ塾を閉じた。

 少し疲れが残った身体を休めたくて久住に走った。一気に駆け上がった飯田高原・長者原。標高1000メートルを超える高原は、下界の暑熱をよそに爽やかな風が吹き抜け、胸の奥まで洗い清めていく。木立の下にシートを広げてお弁当を食べた。途中のコンビニで買ったお握りと漬物だけのお弁当だが、私にとっては最高のご馳走である。二人合わせて「643円の幸せ」と笑い合い、飛び交うトンボと戯れながらススキの穂を開き始めた高原の秋を楽しんだ。

 15分ほど走り、山道を登って友人のE山荘を訪ねた。挨拶も忘れて木立の中の山野草にカメラを向けてご夫妻に笑われる。採り立ての甘いコーンをいただきながら、珈琲をご馳走になった。「こんな暑い日に、どうして来たの!」とからかわれても、連日34度の酷暑に痛めつけられた私たちにとっては、26度の山風は無類の憩いである。物静かで穏やかなご主人との語らい、明るく暖かな奥様のもてなしで夏を忘れた。
 テラスの水盤にシジュウカラが水浴びに来た。いつもスマートなタキシード姿をかなぐり捨て、ムクムクの毛玉になって水を浴びているのが可愛い。庭に降りて山野草の写真を撮らせてもらう。ツリフネソウ、キツリフネ、ハガクレツリフネ、マツムシソウ、ミズヒキソウ、キンミズヒキ、吾亦紅など、眩しすぎてカメラの絵が白く写るほどの日差しである。ヤマシャクヤクの赤と紫の種子、マムシグサの不気味な実、まだ青いウバユリの実、裏山には真っ赤なツチアケビの不思議な実もあった。アカネトンボやノシメトンボが飛び交う木立の中の山荘で、瞬く間に過ぎた癒しのひと時だった。

 久住高原コテージ「ラスト・サマー・プラン」。月末2日間5組限り1泊2食7300円の格安料金に、更に500円の割り引き券が使え、加えて7度目の宿泊特典として24時間ステイ、1600円の貸し切り家族露天風呂無料とくれば、もう見逃すわけにはいかない。そして待っていたのが、前回雲に遮られて果たせなかった星空散策だったのだ。

 まだ若いススキの原を駆け抜け、ヒゴタイ公園で真っ盛りのヒゴタイと咲き残りのユウスゲの花を愛でた。大観望、小国経由、蕎麦街道の「吾亦紅」で遅めのお昼を摂り、いつもの「ファームロードWAITA」を一気に駆け下って、再び残暑の巷に帰りついた。
 こうして、蟋蟀庵ご隠居の長い夏が終わった。
            (2011年9月:写真:長者原と久住連山)

お知らせ:フォトアルバムを開きました。上段の「フォトアルバム」を
開いて、スライドショーをお楽しみ下さい。