蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

初鳴き

2018年06月29日 | つれづれに

 鈍色の空の重さが、ズシンと背中に落ちかかるような夕暮れだった。雨の足音が近付いてくる。
 梅雨真っ盛り。沖縄・糸満のハーリー鐘が鳴って沖縄の梅雨は明けたが、北部九州はこれからが本番である。明日は大雨の予報に、ちょっと行き過ぎのように思われるサッカー・ワールドカップの狂乱を醒めた目で見ながら、ポーランド戦を観る気もなく、今夜は早寝と決めた。
 ファンにとっては心外だろうが、選手達の反則期待のわざとらしい大袈裟なパフォーマンスや、サポーターのマナーに顰蹙して以来、プロのサッカーは見ない。高校時代までは、ラグビーに次いで好きなスポーツだったのに……走ることが好きで、短距離と走り幅跳びに没頭していた中学時代、体育の時間のサッカーも得意種目のひとつだった。そんな60年以上昔の想いに耽るのも、加齢の為せるわざだろうか。

 蕾を着けはじめた月下美人の葉の上で、今年もアマガエルが目を半眼に閉じて瞑想に耽っていた。去年と同じアマガエルだろうか、余程お気に入りらしく、日差しを避けて葉を移動しながら、此処を定位置と定めて夕暮れには戻ってくる。雨が近付くと、その湿りを敏感に嗅ぎ取ってキコキコと鳴きはじめる。1匹が2匹となり、多い時は3匹が呼応する。季節のBGMである。

 4鉢の月下美人うち、3鉢に蕾が着いた。そのうちのひと鉢は、はるばるカリフォルニアの娘の家から一枚の葉を運んで来たものである。もう7年目だろうか、少しばかり時差を見せながら一昨年頃から咲き始めた。残りの3鉢は、43年前に沖縄から持ち込んだ月下美人が、既に何世代も重ねて今に続く鉢である。それは同時に、亡き父の形見でもある。
 沖縄・豊見城に住んだ家の庭にあったものから、2枚の葉を父に届けた。父が丹精込めて咲かせた。当時は珍しい花で、知らせれば放送局や新聞社が取材に来てもおかしくない時代だった。ご近所を招いて、花を披露するのが常だった。
 南米産が台湾から持ち込まれ、全国に広がった。ある意味でクローンだから、不思議なことにほぼ全国同じ日に花が咲く。
 35年前に父が亡くなって母が受け継ぎ、やがて母も逝って私が引き継ぐことになった。以来26年目になる。ご近所にも2鉢が嫁入りしているが、そろそろ次の世代を考える時が来た。いつも世話になっているY農園の奥様にひと鉢を託すことにして、蕾が育つのを見守っている。形見分け?いやいや、まだまだ早いだろう。

 夕暮れを待っていたように、石穴稲荷の杜からヒグラシの声が風に乗って届いた。待っていた初鳴きである。去年は7月7日だったから、9日も早いことになる。そろそろ我が家の庭のセミの誕生も始まることだろう。期待を込めて8時過ぎに八朔の辺りを探してみたが、今夜の誕生はなかった。明日は豪雨、もう暫く地の下でおとなしく待っていた方がいい。
 キンモクセイの葉陰には昨年の空蝉が二つ、厳しい木枯らしにも耐えてまだしっかりとしがみついている。何となく心楽しく、浮き立つ思いだった。鬱陶しいこの季節、ともすれば気持ちも凹みがちだが、こんなささやかな季節の便りが届くと、少し元気をもらえる。
 梅雨の語源……この時期は梅の実が熟する頃であることからという説や、湿度が高く黴が生えやすいことから黴雨(ばいう)と呼ばれ、これが同じ音の「梅雨」に転じたという説……黴雨という説に軍配を上げたい、そんな気分の毎日が続いている。

 夜半、激しい雷雨が来た。雨をものともせずに夕顔が開き、オキナワスズメウリが蔓を延ばし始め、種を差し上げたら苗になって帰ってきたフウセンカズラもしっかりと根付いて、植え替えた5株のパセリもキアゲハの訪れを待っている。

 こうして、我が家の夏の準備は整った。
                    (2018年6月:写真:アマガエルの瞑想)

鎮魂

2018年06月24日 | つれづれに

 6月23日、沖縄「慰霊の日」。この日を待っていたように、沖縄の梅雨が明けた。糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれた「沖縄全戦没者追悼式」で、今年も魂を絞る感慨があった。
 首里の日本軍司令部が壊滅したこの日に戦いを終えていれば……日本軍の愚かな抵抗を此処で終焉させていれば、どれほど多くの命が救われたことだろう。「鉄の暴風」の下で失われた20万を超える尊い命を、摩文仁に吹く風が悼んでいた。
 かつて、「沖縄戦後史の原点」という長文をブログに載せ、私なりの沖縄への想いを綴った。毎年この日に、若者が平和への想いを熱く静かに述べる。今年、浦添中学3年の相良倫子さんが詠いあげた「平和の詩」も感動的だった。原稿を全く見ることなく、参列者の顔を見詰めながら滔滔と詠った。その輝きに比べ、目の前で目を閉じて聴く総理の顔の何と醜かったことだろう。強引に推し進める辺野古へ基地移設に触れることもなく、白々しい通り一遍の文章を読み上げるだけの挨拶だった。終わって低頭する姿に、澎湃として湧き上がる野次を微かに聴いた。数々の疑惑に応えることなく、「人柄が信用出来ない」という声に耳を傾けることもなく、しれーとした顔で居坐る続ける姿は見るに堪えず、無知蒙昧、傲慢不遜、厚顔無恥……あらゆる罵詈雑言を浴びせても言葉が足りない。今日の私は、尋常でない怒りと悲しみの淵にいる。

 この日も、追悼式をよそ眼にミラーサングラスをかけたアジア系観光客が摩文仁の丘を笑いながら闊歩していた。「戦場(いくさば)の跡が、観光地であっていい筈がない」という思いを新たにする。立ち連なる「平和の礎」に刻まれたたくさんの人々の呻きが聞こえるようだった。
 「生きる」という詩、ひとりでも多くの人に読んでもらいたいという思いで、此処に転載させていただく。
 もう、多くの言葉はいらない。

    「 生きる 」           相良倫子
 私は、生きている。

 マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
 心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
 草の匂いを鼻孔に感じ、
 遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 私は今、生きている。

 私の生きているこの島は、
 何と美しいのだろう。
 青く輝く海、岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
 山羊の嘶き、
 小川のせせらぎ、
 畑に続く小道、
 萌え出づる山の緑、
 優しい三線の響き、
 照りつける太陽の光。
 
 私はなんと美しい島に、
 生まれ育ったのだろう。

 ありったけの私の感覚器で、感受性で、
 島を感じる。心がじわりと熱くなる。

 私はこの瞬間を、生きている。
 
 この瞬間の素晴らしさが
 この瞬間の愛しさが
 今という安らぎとなり
 私の中に広がりゆく。

 たまらなくこみあげるこの気持ちを
 どう表現しよう。
 大切な今よ
 かけがえのない今よ。
 
 私の生きる、この今よ。

 七十三年前、私の愛する島が、死の島と化したあの日、
 小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
 優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
 青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
 草の匂いは死臭で濁り、
 光り輝いていた海の水面は、
 戦艦で埋め尽くされた。
 火炎放射器から吹き出す炎、幼児の泣き声、
 燃えつくされた民家、火薬の匂い。
 着弾に揺れる大地。血に染まった海。
 魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
 阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 みんな、生きていたのだ。
 私と何も変わらない、
 懸命に生きる命だったのだ。
 彼らの人生を、それぞれの未来を。
 疑うことなく描いていたんだ。
 家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
 仕事があった。生きがいがあった。
 日々の小さな幸せを喜んだ。手を取りあって生きてきた、私と同じ、人間だった。
 それなのに。
 壊されて、奪われた。
 生きた時代が違う。ただ、それだけで。
 無辜の命を。当たり前に生きていた、あの日々を。

 摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
 悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
 私は手を強く握り、誓う。
 奪われた命に想いを馳せて、
 心から、誓う。

 私が生きている限り、
 こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
 もう二度と過去を未来にしないこと。
 全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
 宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
 生きる事、命を大切にできることを。
 誰からも侵されない世界を創ること。
 平和を創造する努力を、厭わないことを。

 あなたも、感じるだろう
 この島の美しさを。
 あなたも、知っているだろう。
 この島の悲しみを。
 そして、あなたも、
 私と同じこの瞬間(とき)を
 一緒に生きているのだ。

 今を一緒に、生きているのだ。
 
 だから、きっとわかるはずなんだ。
 戦争の無意味さを。本当の平和を、
 頭じゃなくて、その心で。
 戦力という愚かな力をもつことで、
 得られる平和など、本当は無いことを。
 その命を精一杯輝かせて生きる事だということを。

 私は、今を生きている。
 みんなと一緒に。
 そして、これからも生きて行く。
 一日一日を大切に。
 平和を想って、平和を祈って。
 なぜなら、未来は、
 この瞬間の延長線上にあるからだ。
 つまり、未来は今なんだ。
 
 大好きな、私の島。
 誇り高き、みんなの島。
 そして、この島に生きる。すべての命。
 私と共に今を生きる、私の友、私の家族。

 これからも、共に生きてゆこう。
 この青に囲まれた美しい故郷から。
 真の平和を発信しよう。
 一人一人が立ち上がって、
 みんなで未来を歩んでいこう。

 摩文仁の丘の風に吹かれ、
 私の命が鳴っている。
 過去と現在、未来の共鳴。
 鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
 命よ響け。生きゆく未来に。
 私は今を、生きている。


  ……「慰霊の日」の夜、夕闇に一輪、ひっそりと夕顔が咲いた。
                      (2018年6月:写真:夕顔)
 

「しろしかネ~!」

2018年06月10日 | 季節の便り・虫篇

 重く垂れ下がった鈍色の雲の瞼から、今にも涙が零れそうな朝だった。湿度69%、梅雨特有の鬱陶しい空気が身体に纏わり着き、吐く溜息に肩を落としそうになる。こんな時の気分を、博多弁では「しろしい」という。
 肩を濡らしながら雨の中をしょぼしょぼと歩く……「しろしかネ~!」……何となく鬱陶しく、切なく、煩わしく、惨めで、寂しい……ひと言では言い尽くしがたい、それでいて気分にしっくりくる懐かしい方言である。

 朝食を済ませ、いつものように庭の草木や山野草の鉢を見て回る。一日に何度も繰り返す日課である。股関節の痛みで、好きな山道の散策が制限されるようになって、それでいながらじっと座りっぱなしだと却ってよくない。仕方なく、折に触れて庭を歩き回るようにしている。(断じて、徘徊ではない!)
 数日前、いつの間にか鉢のエイザンスミレの葉が食い尽くされていることに気付いた。その鉢の前には、庭中に散っていたスミレの株を集めたプランターがあるが、そこはまだ勢いよく育ったスミレの葉で覆われていた。
 今朝になって気付いたら、そのプランターのスミレの葉も、一部食い荒らされた形跡がある。ふと期待に胸を膨らませながら、しゃがみ込んで一枚一枚葉をめくって調べてみた。
 「いた、いた!」
 いつの間にか終齢間近にまで育った3センチほどのツマグロヒョウモンの幼虫が1頭、身体をくねらせて茎にしがみ付いていた。黒い身体の背中に赤い筋を走らせ、全身にとげとげの突起を立てる姿は、余程の虫マニアでない限り、飛び退るほどにえぐいかもしれない。体節に6本ずつ立つ棘は頭に近いものは黒く、後ろは根元が赤く先のとげとげの棍棒が黒い。目を近付けてみると、そのとげとげの造形美に息を呑む。勿論、その棘で刺すこともなく、毒もない無害の毛虫である。やがて蛹になると、黒い背中に黄金色の小さな瘤が並ぶ。その煌めきがまた美しい。
 毎年、スミレをかき集めてプランターに仕立てるのは、この蝶の食卓としてなのだ。ツマグロヒョウモン(褄黒豹紋)、タテハチョウ科の蝶だが、本来は熱帯から温帯に生息し、日本では沖縄、九州、四国、本州の近畿地方以南に分布していた。しかし、1990年代以降、東関東、北陸へと次第に分布を拡げ、今では関東北部にまで定着して普通に見られるようになった。

 温暖化は、全ての生き物の北上を加速させている。日々変わりつつある生態系、気候ばかりでなく、ペットの放流や海外からの運輸に伴って持ち込まれる有害生物など、人為的要因で在来種が絶滅に瀕している事態は深刻である。危険な生物の発見も相次いでいる。セアカゴケグモ、ツマアカスズメバチ、ヒアリ……マラリア蚊の日本上陸も時間の問題かもしれない。

 閑話休題(それはさておき)……ツマグロヒョウモンは雌雄の姿が顕著に異なる。雌は地味な豹柄だが、雄は豹柄の前翅の外側が青い光沢のある黒色で(「褄黒」の名前の由来である)、中心部に白い斑紋がある。裏翅の黄土色、白、ピンクの紋様に豹紋が散り、翅を閉じて花の蜜を吸う姿はなかなか優雅で、私の好きなチョウのひとつである。

 梅雨空が涙を拭ったのか、薄日が漏れてきた。食べ尽くした葉から次の葉に移り、旺盛な食欲で貪り食っている。もう、前蛹を経て蛹に変態するのは時間の問題だろう。どこか目に付く処で蛹化して欲しいものだと思いながら、首を縦にくねらせて食べ続ける姿に見入っていた。

 遠く南の海を、台風5号が北上している。しろしい雨の季節である。
                 (2018年6月:写真:ツマグロヒョウモンの幼虫)

<追記>よく見たら、葉陰にもう1頭が潜んでいた。およそ20株のスミレ、2頭なら餌は十分だろう。楽しみが倍に増えた。

湯船に沈む

2018年06月03日 | 季節の便り・旅篇

 五月晦日、後姿が遠くなる初夏を引き留めるように、ホトトギスが頻りに鳴く。すっかり達者になったウグイスが澄み切った囀りを添え、緑の梢の間を縫って、ルリビタキとおぼしい鳴き声が湯船に転がり落ちてくる。早めのチェックインで、誰一人いない露天風呂を我がものにして寛いでいた。
 昨日の船乗り込みの声掛けで痛む股関節を揉みほぐし、疲れた太ももを撫でさする。アルカリ性単純硫黄泉が肌をぬめるように柔らかにさせ、我がむくつけき太ももが、さながら女体のようなすべすべと悩ましい肌触りに感じられて、ひとりほくそ笑んでいた。
 湯船に差しかかる緑の葉陰に垣間見る空は、梅雨空の鈍色。斜めに傾いたお日様の姿は何処にもない。昨年より23日早く、平年より8日早く迎えた北部九州の梅雨入りは5月28日だった。5月の梅雨入りは2013年以来5年振りという。

 熊本県山鹿温泉に近い平山温泉、常宿のひとつ「湯の蔵」、こんもりとした小山の深い木立の坂道に点々と離れの部屋が置かれ、24時間掛け流しの露天風呂がそれぞれの部屋に付いている。部屋まで案内されたら、あとはチェックアウトまで気儘な空間と静寂をほしいままに出来る山宿である。
 アジア系団体が決して来ない宿。6室の「福亭」と10室の「寿亭」が木立の中に配されている。今回は古民家風の「寿亭」の一室「西岳」を選んだ。重厚な岩風呂が、静かに湯音を奏でていた。

 我が家から九州道をひた走って1時間20分、およそ80キロの山あいにその宿はある。ナビは難関ICで降りることを薦めて来るが、山越えの道が好みでなく、少し距離を伸ばして菊水ICで降り、山鹿温泉に向かう途中から左に折れて、菊池川沿いを平山温泉に走る。鉛色の空が少し明るくなってきた。

 二日降った雨が早々と中休みとなり、眩しいほどに晴れ上がった午後、六月博多座大歌舞伎・二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎襲名披露の船乗り込みは、3万人の群衆の歓声に包まれた。福岡の歓楽街・中洲を囲む那珂川の分流・博多川沿いの博多大橋の袂に陣取り、カミさんの歌舞伎仲間二人と一緒に下ってくる船を待った。痛む股関節のこともあり、キャナルシティ―博多の乗船から追いかけてくる気力はない。
 用意のいい仲間は折りたたみ椅子を持参、年寄りをいたわって座らせてくれ、日傘まで差しかけてくれる。次第に集まってくるご贔屓たちの群れの中で、談笑しながら1時間半ほど日差しを浴びていた。遠く川上に見えてきた船が、川端ぜんざい広場に横並びに船を並べて口上が述べられる。
 やがて、賑やかなお囃子に乗って船が近付いてきた。「高麗屋~っ!」と声を掛けながらカメラを向けた。十艘ほどの船に分乗した役者さんたち。披露公演だから、重鎮の皆さんが揃い踏みである。素顔で見ると、改めて年輪を感じる。
 白鸚、幸四郎、仁左衛門、魁春、鴈治郎、孝太郎、高麗蔵、彌十郎、友右衛門、梅玉、亀鶴、壱太郎、廣太郎、松之助、吉弥、錦吾、宗之助、寿治郎、笑三郎、笑也、猿弥……。
 老いても爽やかな仁左衛門が際立って印象的だった。密かに贔屓している壱太郎の若さが瑞々しい。祖父の坂田藤十郎は流石にご高齢、今回の船乗りみは辞退された。
 声が枯れるほど、声を掛け続けた。「高麗屋~っ!」「松嶋屋~っ!」「加賀屋~っ!」「成駒屋~っ!」「大和屋~っ!」「明石屋~っ!」「八幡屋~っ!」「緑屋~っ!」「紀国屋~っ!」「澤瀉屋~っ!」……相次ぐ屋号を叫び、汗が噴き出る。
 「幸四郎さ~ん!」と黄色い声を掛けて上気したカミさんの仲間たちとアイスコーヒーで喉を潤した後、元気な彼女たちは「切り紙アート展」に向かい、私は痛む股関節に脚を引き摺りながら一人車を走らせて帰った。

 部屋付き露天風呂で何度も脚をねぎらい、山宿の夜が更けて行った。静かな夜……限りなく静かな夜だった。
                (2018年6月:写真:24時間掛け流し部屋付き露天風呂)