蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

厚紙を剥ぐように?!

2018年08月22日 | つれづれに


 37度を超える油照りの一日、完膚なきまでに大地を焼き尽くして、ようやく真っ赤な夕焼けを引き摺りながら太陽が去って行った。期待したほどではさらさらないものの、黄昏の中に紛れもなく秋の気配が漂い始めていた。庭にすだく虫の声が、夜毎深く広く厚みを増していく。井戸水をホースで撒くかたわらで、待っていたようにカネタタキがチンチンと鳴き始めた。

 退院後二度目のリハビリで、杖からも完全に解放された。固くなった筋肉や筋を丁寧に揉みほぐしてくれるマッサージの後、平行棒での股上げと体重移動の訓練、それ以外は、手術前日まで7ヶ月の間、朝晩繰り返していた筋トレのストレッチと殆ど同じだった。
 だから、週3回40分のリハビリがない日にも、セルフ・ストレッチが可能である。履けなかった靴下が履けるようになり、高い丸椅子を持ちこんで坐っていたシャワーの椅子も低めで可能となり、左足を洗うことも出来るようになった。
 朝起きて、町内を杖なしで少し歩く。毎朝ご夫妻で犬の散歩に歩いている知人が、目を丸くして声を掛けてくる。
 「え!もう杖なしで歩けるんですか?」

 病や怪我は、「薄紙を剥ぐよう」に時が癒してくれるというが、私にとっては本当に「厚紙を剥がされている」思いだった。勿論無茶は禁物だが、少し負荷がかかる程度の無理はしないと、日常生活でのリハビリ効果が喪われる。無理か無茶か、その微妙な匙加減は、本人が日々感じ取っていくしかないのだ。
 自信がないことは、リハビリ担当の主任理学療法士に尋ね、正しいやり方(許容範囲)を教えていただく。決して、思い込みで自分勝手なリハビリはしないこと。無茶をして、脱臼した場合の悲惨さは、主治医からシッカリ頭に叩き込まれているから、よく言えば慎重悪く言えば臆病な私は、一つ一つの動きに気を配りながら行動すことになる。
 家事手伝いも少しずつこなせるようになってきたし、半月以上不自由を掛けたカミさんに少しでも楽をさせないと、年寄りが生き延びるにはあまりにも苛酷な今年の夏である。

 私が歩くと、リンリンと鈴が鳴る。称して「婆除け鈴」。先年立山・黒部を旅した時、熊よけの小さな鈴を買って来た。博物館裏山や、天満宮裏山の散策路を歩くときは、この鈴を猪除けに必ず腰に提げる。(実は、以前も書いたように、もうひとつ、カップルに対する警告という目的がある。秘密基地への山道を曲がった途端、抱き合って唇を合わせていたカップルが、慌てて跳び離れる現場に出くわしたことがある。以来、「近付いてますよ~!」という警告の意味で、リンリンと鈴を鳴らすのだ)
 家事を手伝いながら、カミさんと偶然動線が交差し、ぶつかりそうになることがある。いま一番怖いのは衝突による転倒である。だから、買い物に行く時には熊除け鈴に加えて、わざと杖を持ち、周りの人の注意を喚起することにした。それでも、棚の方ばかりを見て、カートをぶっつけて来る人も少なくないから油断できない。
 大型スーパーの駐車場で一方通行を逆走し、クラクションを鳴らして注意すると逆に睨み付けてくる中年女性、当て逃げして黙って逃げていった誰か……「おもてなしの心豊かで、優しく気働き出来る日本人」なんて、嘘っぱちだ!マナーはどんどん悪くなる!……よしよし、こんな愚痴が出るという事は、元気になりつつある証拠だろう。

 今年は、いつにも増して、秋が遠いなぁ……。
                 (2018年8月:写真:「婆除け鈴」)

「照之、喰い逃げかよッ!」

2018年08月19日 | つれづれに

 患者は我儘なものである、病気(というより、私の場合は人工的怪我)が落ち着き、リハビリも順調に進んで行動の自由が増すにつれ、「退屈」というワガママムシが蠢き始める。
 6時起床、8時朝食、主治医の回診と朝の検診が済めば、12時の昼食、15時から30分のリハビリ、18時の夕食、そして21時には消灯時間がやってくる。その間は何もすることなく、ラジオを流しながらの読書とうたた寝が延々と続く。
 日頃は23時就寝、5時起床の毎日だから、睡眠時間は6時間……これが21時に眠らされるわけだから、どうしても3時には目が覚めてしまう。術日は痛みで一睡もできず、その分二日目の夜は9時間爆睡した。
 しかし、退院までの夜毎の苦痛!個室ではあっても、夜中に何度も看護婦が懐中電灯を持って見回りに来るから、電気点けて本を読むわけにもいかない。(私はいまだに、看護師という言い方に馴染まない。6階の病棟に関わる30人ほどの人達には何人か男性もいたから、その人には看護師と言って抵抗ないが)
 輾転反側、人間は睡眠中に何度も寝返りを打つことによって、四足から二足歩行に進化したが為に昼間酷使することになった腰や筋肉をリハビリしているという。しかし、左に寝返りを打てば、「尻の一本傷」や、一昼夜大腿骨の出血を抜いたドレンの痕が痛むし、右に寝返りを打つと、まだ回復していない筋肉の為、左膝が内に曲がり込む不安(恐怖)がある。この手術で真っ先に警告されたことは「靴の女脱ぎの姿勢は絶対禁物です。人工股関節脱臼のリスクはその姿勢です!」つまり、左膝を内に入れて腰を曲げてはならないという「禁じ手」である。だから、一晩中直立不動で上を向いて寝る……これは、結構苦痛だった。(それを聞いた友人のYさんが、退院後「主人も愛用しています」と、抱き枕をプレゼントしてくれた。これで、右横向いて寝る不安が消えた。傷の痛みは、10日ほどであまり感じなくなったから、左への寝返りも可能になった。)
 ひたすら「ラジオ深夜便」を聞きながら、遠い遠い夜明けを待ち続ける毎日だった。

 6階東向き病室の窓は大きく、黎明の美しい空や、福岡空港に離発着する航空機の姿が全て見える。退屈紛れにその数を数えたりもした。「年間発着回数は17万1千回(2014年度)で、羽田、成田に次いで国内で3番目に多い。滑走路1本による運用のため、滑走路1本あたりの離着陸回数が日本で最も多い」と言う事実が、夜間の着陸灯を数えていると納得出来る。

 二日ほど、激しい雷が鳴った。東の空に次々に稲光が立ち、雷鳴が轟く。久々に興奮した。自称「雷大好き人間」だから、カメラを担いで雷の「追っかけ」をやったこともある。この病室は、まさしく雷鑑賞の特等席だった。丸椅子を窓に置いて座り、携帯(自慢のガラ携!)で、ひたすらシャッターを押し続けた。落ちて光ってからシャッターを押しても間に合わない。僥倖を期待して、ひたすら偶然の一致に賭けるしかなかった。
 その1枚が、見事に落雷を捉えた。「尻の一本傷」が興奮で震えた。

 こうして仮出所覚悟が、予想外の釈放となり、灼熱の太宰府の陋屋・蟋蟀庵に帰り着いたのだった。
 迎えてくれたカマキリ先生(香川照之)の睨みをカメラにおさめた後、そっと庭に放った。夕方、トレッキングポールを突きながら庭をゆっくりとリハビリ歩きしていたとき、キブシの繁りの中でセミが慌ただしく羽ばたく音がした。葉をかき分けてみたら、予想通り照之がセミをガッチリと鎌で抱え込んでいた。声を立てないという事は、この時期卵を産みに来たクマゼミの雌だろう。哀れとは思ったが、手は出さない。カマキリにとっても、そろそろ産卵のためにエネルギーをため込む季節である。これが自然の摂理、そっと葉を閉じた。
 暫くして見ると、キブシの根方にクマゼミの翅が1枚、カマキリの姿は既になかった。
 そこで、頭に浮かんだ言葉が、「照之、喰い逃げかよッ!」

 今日も、厳しい残暑である。
                     (2018年8月:写真:落雷)

サイボーグの帰還

2018年08月18日 | つれづれに

 一夜、鈍い痛みに苛まれ、一睡も出来ないままに、覚醒と眠りの狭間の不思議な空間を漂っていた。明け方の座薬がようやく効いて、薄明の中に眠りに落ちた。

 入院初日は、ひたすら書類仕事と、執刀医、麻酔医、ナース等々からの詳細な説明に終始した。「麻酔に伴う死亡事故は、10万人に一人です」などと、知りたくもないあらゆる副作用などが克明に記された説明書・同意書は、実に19枚に及んだ。カミさんと横浜の長女が駆け付けてくれて、何かと世話を焼いてくれる。「医者もの」が好きな長女は、そんな書類に興味津々、カミさんの度々の手術の時と同様、「手術に立ち会いたい!」とまで言い始める。

 「人口股関節置換手術」。8月1日午後1時、手術室に入った。6年前もそうだったが、手術室をテレビドラマで見た通りと思うと、とんでもない。物置のような前室を通って入った手術室は、無影燈を除けば、謂わば田舎の民宿の台所と言った方がしっくりくる。好きな女優ベスト3が出てる劇場版「ドクターヘリ・コードブルー」が上映開始して5日目、「退院した頃は終ってるだろうなぁ」……そんなのんきなことを考えながら、民宿の台所風の手術室に妙に馴染んで、すっかり気持ちが落ちついてしまった。
 「下半身を麻酔する硬膜外麻酔を使いますが、それだけでは手術中のガリガリ、ギリギリ、コンコンなどの音が聞こえていやでしょうから、眠っていただきます」……工事中の耳栓みたいな役割の麻酔で、うとうとと始めた。まだ麻酔が完全じゃないのに、尿管カテーテルがゾロゾロと入ってくるのがわかる。手術以上に嫌いなのが、こいつである。……ストンと混迷に沈んだ。

 3時間半後、ナースたちの「お疲れ様、お大事に!」という声をうつつに聴きながら、6階の個室に戻った。
 術後のレントゲンを見た。手術というより、これはまさしチタン合金とセラミックに螺子を使った「工事」だった。出血の多い手術だから、事前に自分の血を預けるために1泊入院した(貯金ならぬ貯血という)。400~800cc採血するところ、あなたは血が濃いから400ccで大丈夫と言われた。しかし、実際の出血は188ccで済み、400ccの貯血を半日かかって点滴で返してもらった。
  軟骨が徐々に摩耗したためか、「左足が少し短くなってましたから、1センチほど長くしておきました」と告げられた。数日の間、長くなった(実際には、元の長さに戻った)左足の長さに、バランスが取れなくて困ったが、リハビリを重ねるうちにやがて意識しなくなった。

 翌朝(術後2日目)、ようやく痛みから少し解放され、ベッドを起こされて38時間振りの朝食を摂った。午後、「はい、ゆっくりハァ~と息を吐いてください」と言われているうちに、おぞましい不快感に苛まれながらゾロリと尿管カテーテルが抜かれた。おお、なんという解放感!手術無事終了以上に嬉しかった。これは男にしかわからない解放感である。
 早速自力で起きあがり、車椅子に介助なく乗り移り、自力でトイレを済ます。あれ?こんなに簡単にいくものかな?

 術後3日目から歩行器になり、2階のリハビリ室でマッサージとリハビリストレッチを開始。

 術後10日目から、長年慣れ親しんだチェコ製のトレッキングポール・LEKIをカミさんに届けてもらって杖歩行を開始した。折りから太宰府は38.6度というような高温が続く異常な夏である。カミさんには「見舞い無用、洗濯物不要」と言ってある。娘が「捨てていいから」とパンツを大量に持ち込み(これが最高の差し入れだった!)、パジャマ類も半月分持ち込んである。
 それでも気になるカミさんを、友人のY農園の奥様が車で連れて来てくれた。老老介護になりかねない二人が、こうして友人の心配りに助けられている。

 13日目。ガムテープみたいなものをべりべりと剥がされて、「ハイ、傷の治療終わりです。」昔でいう鋏でチョンチョン、糸ピッピという「抜糸」である。溶けてしまうホッチギスのようなもので閉じられた傷は左ヒップ下で、自分では見えない。携帯であてずっぽうに写真を撮って見たら、長さ8センチほどの寸足らずのムカデが這っていた。「尻の一本傷」じゃ芝居のセリフにも乗らない。せいぜい、「鬼平犯科帳」の二つ名の盗賊である。

 15日目のリハビリで、杖歩行の外歩き、階段の上り下りまでクリアして、「早いですね!今まで担当した患者さんの中で一番早いです。もう此処でのリハビリの目標は達成しました。いつでも転院OKですよ」

 16日目、太宰府の自宅に近い整形外科(今回の手術の紹介元)に予定通りリハビリ転院の準備を始めた。ところが、前日までお盆休みだったせいか、15時まで待ったが転院の受け入れ通知が届かない。
 執刀医も、リハビリ担当の理学療法士も、「車なら通院も大丈夫です。取りあえず今日は退院して自宅に帰って構いませんよ。」
 またまたご主人の心遣いで、Yさんの車が送迎に駆け付けてくれた。半月振りの我が家だった。
 チタン合金とセラミックの股関節を装備した、人間サイボーグとして還って来た。「サイボーグ009」ならぬ「サイボーグ079」(この洒落がわかる人は、昭和の人である)

 翌日、紹介元の整形外科に車を運転して(!)出掛けた。前後2回の診察と、理学療法士のチェックを受けた結果は、なんと「再入院不要、週3回の通院リハビリで大丈夫です」というお墨付き!驚き、喜び……あれよあれよの急展開で、私の入院生活は僅か17日間で終わってしまった。
 
 「欣喜雀躍」という熟語は、この日の為にあった。勿論、まだ小躍りは出来ない。今のところ不自由は、左の足首から先に手が届かないことだけである。靴下が履けない、爪が切れない、洗えない……右足指を器用に使って、さぁ、ここからが工夫のしどころである。

 ツクツクボウシの初鳴きを聞いた。昨年より10日遅い……というより、立秋前後に病室にいて聞こえなかっただけのことだろう。残暑はまだ苛烈だが、これから秋が奔り出す。

 カミさんの取り込んだ洗濯物に、見事なカマキリがとまっていた。
 「おっ、香川照之のカマキリ先生!」……私に相応しい退院祝いの「睨み」だった。
                   (2018年8月:写真:香川照之の「睨み」)