蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

わらわらと……

2019年04月26日 | 季節の便り・虫篇

 季節外れの夏日が続く朝だった。一人寝の眠りから覚めて寝室のカーテンを開け、空気を入れ換えようと窓を開けた途端、その光景があった。カマキリ誕生の劇的瞬間を目撃したのは初めてだった。
 秋の終わりの頃、もう産卵のタイミングとしては遅い時期に、すこし動きの鈍くなったカマキリが窓の下を歩いていた。多分それが親だったのだろう、窓に垂らした天津簾の裏側に卵塊(卵鞘)を残していた。形も歪で、懸命に産んだと思わせる小さめの卵塊を時折確かめながら、冬を過ごした。(動きの鈍かったカマキリは、やがてエアコンの室外機の裏で、ひっそりと命の火を消していた。)

 短く、酷寒に至らないままに冬が過ぎ、急ぎ足で春が駆け過ぎて行った。すぐに初夏が来て、身体の準備も衣服も整わないうちに夏日が訪れた。
 もう少し先だろう思っていたのに、この日の誕生だった。小さい卵塊ながら、多分200匹は優に超すちびっこカマキリが、わらわらと卵塊の下にぶら下がった。誕生してすぐに脱皮し、一丁前の姿形をしたちびっこカマキリが、簾の隙間から落ち、思い思いに庭に散っていく。

 ネットにこんな記載があり、思わず笑った。
 ……卵は卵鞘内で多数の気泡に包まれ、外部からの衝撃や暑さ寒さから守られる。卵鞘は「螵蛸」(おおじがふぐり)という別名を持ち、これは「老人の陰嚢」の意味である。卵から孵化した幼虫は薄い皮をかぶった前幼虫(ぜんようちゅう)という形態で、脚や触角は全て薄皮の内側にたたまれている。前幼虫は体をくねらせながら卵鞘の外へ現れるが、外に出ると同時に薄皮を脱ぎ捨てる最初の脱皮を行う。……

 毎年、散策の折りに卵塊を探し、枝ごと折り採って鉢に差して孵化を待ったが、こんな劇的な誕生の現場に出くわすことはなかった。少しときめきながら、カメラを取りに走った。
 マクロにクローズアップレンズを嚙ませて、ファインダーに捉えたちびっこたちの、なんと小生意気なこと!こんなにたくさんの兄弟と産まれを共にしても、生き残るのはおそらく数匹だろう。たくさんの天敵がいる。肉食の彼らには、餌が乏しければ、共食いもある。それが、大自然の摂理。生き残る可能性が少ないからこそ、これほど多数がわらわらと誕生するのだ。

 学名は「預言者」というギリシャ語に由来し、英語には「お祈り虫」の意味がある。鎌を畳んで背を逸らした姿を見れば、その名前の所以が理解できる。近年の日本でカマキリと言えば、香川照之(市川中車)の「昆虫すごいぜ」のカマキリの着ぐるみが、圧倒的な存在感を見せる。
 私が好きで使う「蟷螂の斧」という言葉がある。中国の故事に由来する言葉だが、斉の国の君主・荘公の馬車を止めて道を譲らせた一匹のカマキリ、その勇気に因み、日本の戦国時代には兜にカマキリを飾った武者もいたという。しかし今では、無力な己を顧みずに突き進む無謀な行動を指して言うようになった。
 永田町に歯ぎしりして怒る度に、己の無力さを恥じて「蟷螂の斧」という言葉をよく使う。その使用頻度は、安倍政権になってから、一気に高まった気がする。

 ……閑話休題(それはさておき)……数匹でもいい、この庭で生き残って逞しく成長し、やがて庭木の梢でセミを捉えて鳴き騒がせる日が来ることを、密かに祈っている自分がいた。

 友人から、スズランの鉢植えを頂いた。ぷっくり膨らんだ蕾を見ていると、身体中がざわついてくる。もうすぐ小さなランタンを並べて、心で聴く微かな鈴を鳴らすことだろう。

 季節が奔る。額に汗する日々は、紛れもなく「初夏真っ盛り」である。
                 (2019年4月:写真:カマキリの誕生)

慌て者の夏日

2019年04月20日 | つれづれに

 アゲハチョウが、八朔の新芽に卵を産んでいった。
 ベニシジミが、スミレの葉に暫く羽を休めて、小さな炎のように飛び去った。
 我が家の住人ハンミョウが、早くも目覚めて庭先で飛び遊び始めた。
 モンシロチョウが、あてもなく木漏れ日の下を彷徨い、塀を越えて行った。
 プランターに10株並べたパセリに、キアゲハまだやって来ない。
 20株ほど集めたスミレのプランターにも、まだツマグロヒョウモンの訪れはない。

 5ヶ月振りに、月下美人の3つの鉢を広縁から出し、梅の木の蔭に並べた。
 白梅の実は今年は乏しく、20個余りを数えるばかりである。
 あまりにも日差しが強いので、12余りの花の鉢をラカンマキの陰に移した。
 夏が来たら、今度は八朔の木陰に移し、苛烈な日差しを避ける。

 昨夜、玲瓏と雲間に漂う平成最後の満月を観た。

 春と秋ばかりでなく、今年は冬までも短くなり、夏がどんどん長く暑くなっていく。
 亜熱帯化が進む日本列島、つい先週まで冬の下着だったのに、こう夏日が続くとやってられない。クローゼットやタンスの中から、一気に冬物を片付けた。一度も袖を通さなかった服がある。氷やツララを見ることもなく、呆気なく冬将軍は尻尾を巻いて逃げて行った。桜の開花も早く、束の間の戻り寒波で長く満開を見せてくれたが、散り始めるとたちまち葉桜に姿を変えた。
 オオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、スミレ、ハナニラ、キンポウゲ、スズメノエンドウ、タンポポ、ハルリンドウ……早春から春の草花を追いかけているうちにキブシも散り、もうシャガが咲き、石穴稲荷の境内にはシャクナゲが満開である。

 急ぎ足で、初夏が来た。
 季節の移ろいは穏やかな方がいい。躊躇うように行きつ戻りつしながら、気付いたらいつの間にか季節が変わっていた……そんな情緒は、昨今望むべくもない。乱高下する気温に振り回され、必死に追いかける我が身の背中に、容赦なく老いがのしかかってくる。

 修猷館高校年次学年総会の実行委員長と、案内状の原稿の依頼が来た。卒業30周年の昭和63年、卒業以来初めての総会を開いた。我が高校には修学旅行がなかった。自主性を重んじ、「ベからず」は唯一、「学校の廊下を下駄で走るな」という1項目だけだった。旅行も行きたければ自分で行ってこい……「先生、何故修学旅行がないんですか?」「君たちを連れて行ったら、帰りには半分いなくなってるだろう」……そんな冗談が、なかば本気で交わされるような、自主性第1の学校だった。だから、生徒会も文化祭も運動会も、教師は一切口を挟まないし、ましてPTAがしゃしゃり出てくる隙もない。その分、生徒たちの責任感も強かった。

 30周年を期して豪華展望列車「サザンクロス(南十字星)号」を貸切り、博多駅から由布院にひた走る「朝霧への旅」で、修学旅行を実現させた。
 昭和33年卒業に因んで、私たちの同窓会は「さんざん会」という。この時の列車の所要時間が、なんと3時間33分!偶然並んだ3のぞろ目に手を叩いたのも、もう31年前……遥か昔の想い出である。
 以来、5年毎の周年総会の実行委員長と、案内状の原稿を担当してきた。今年、令和元年の秋、61周年の記念総会で同窓会の歴史を閉じる。
 館友……我が高校では、「学友」と言わず「館友」と言い、校歌も「館歌」という。(因みに、校章は六光星である。)その館友も、多分3割以上が既に鬼籍に入り、生き残った我々も、今年すでに傘寿に届き、あるいは傘寿を迎えようとしている。それぞれに想いが溢れるこの年、懐旧と惜別の情に包まれる最期の同窓会である。
 「会っておけばよかった……そんな悔いを残さないように、多数の皆様のご参加を、心よりお願い申し上げます。」……そんな言葉で案内状の草案を閉じた。

 31年前の案内状には、こんな一節を書いた。
 「ひとりひとり、懸命に幾山河を越えてきました。そして、歩き疲れて振り返ると、いつもそこには六光星があたたかく瞬いていました。その小さな温もりに励まされて、また歩き出したことだって数知れません。私たちにとっての修猷館は、まさしく母港であり母星だったのです。」

 今年の案内状の書き出しは、こうである。

 「ふと館歌を口ずさみたくなる朝がある……
     彼岸に渡った館友の笑顔が、瞼に浮かぶ夜がある……」

 多感だった青春の日々に想いを馳せながら、慌て者の夏日の日差しを浴びていた。
                   (2019年4月:写真:ベニシジミ)

「令和」に思うこと

2019年04月02日 | 季節の便り・花篇


 万朶の桜が青空に映えた。此処、御笠川沿いの桜並木は、時折冷たい風が花びらを散らし、川面に花筏を流す。マガモが遊ぶ水面に青空と雲片を映しこみ、長閑な午前の佇まいだった。
 この川を少し辿り、朱雀大橋を右に折れると、やがて大宰府政庁跡に辿りつく。7世紀後半、大和朝廷が那の津の宮家を移し、奈良・平安時代を通じて九州を治め、西の守り、外国との交渉の窓口となる役所は、万葉集に「遠の朝廷(みかど)」と詠われた。今は広大な広場に礎石を残すだけだが、此処を抜けて少し左に進むと、新元号ゆかりの「坂本神社」に到る。「梅花の宴」を催した大伴旅人の屋敷跡とされる神社である。日頃は訪れる人も少ない小さな神社が、発表と同時に脚光を浴び、報道陣や観光客で賑わいはじめた。

 「れいわ」という響きに異存はない。ただ、これを政治的に利用し、したり顔で談話を述べる総理の姿が苦々しかった。歴史に残る改元を、見え透いた茶番にしてしまったのが許せない。
 「令」という文字が持つ意味、それを初めて知った人も少なくないだろう。命令、指令、軍令、勅令、法令など、普段は上から目線の意味が先に立つ。定めた内閣が内閣だけに、一層腹黒い魂胆が見えてしまうのだ。
 誰かが新聞に書いていた。「国民を律して和を図る、といった意味に取れて、正直違和感を覚える」。「時間的余裕があったにも関わらず…発表を遅らせ、さらに統一地方選の真っ只中に首相と官房長官が露出し続けるイベントをぶつけた。強い作為を感じる」
 全く同感である。安倍の「安」を使わなかっただけが救いだったが、そんな事でも平気でやりかねないのが、「一党独裁、一人独裁」の傲り切った今の政治である。
 万葉集の「初春令月、気淑風和」という序文から取り、初めて國書を出典にしたと得意気に言っても、実は中国の詩文集「文選」に書かれた張衡の詩「帰田賦」に、「仲春令月、時和気清」とある。過去の優れた文章を真似することは当時としては当たり前だったし、「梅花の宴」に出た大伴旅人も山上憶良も知っていたはず、と記事にあったから、それは良しとしよう。

 「令」というひと文字から、思い浮かぶ論語の一節がある。
 「巧言令色、鮮(すくな)し仁」……言い得て妙である。「口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどいない」
 「文質彬々(ひんぴん)として、然る後に君子なり」……文(形式)と質(実質)とが彬々(ひんぴん)として(調和して)いてこそ君子である。
 文献の末尾に、こう記されていた。
 「孔子は何より巧言や令色によって、他人を瞞着する、その狡猾さを憎んだのだった。与党の公約は不履行に終わるのが常識だが、国民を欺瞞して恥じぬ、このような巧言令色の徒の充満している今日、孔子のこの言葉には、私たちの俗根を凛々としてうち叩くものがあるのではないか」
 因みにこの文献は、昭和42年に刊行されたものである。半世紀前にも、今と同じ政治情勢があったとは! 
 政治とは、与党とは、そういうものであると諦めてはいても、さすがに昨今の政治には、果てしなく危機感を孕みながら慄然とさせるものがある。

 長女の名前には、「令」のつくりがある。「玉の鳴る音のように、すずやかで美しくあれ」という願いを込めた。偶然、嫁ぎ先の姓にも「令」というつくりがある。「めでたし、めでたし」とメールしたら、「めでた過ぎて、胃もたれ感(笑)、この字、書きづらいのよ(笑)」と返事が来た。

 蟷螂一匹が鎌を振り上げても、野党が脆弱である限り今の政治は変わらないだろう。せめてもの一撃と、新元号決定を待って知事選・県議選の期日前投票に出掛けた。同じ思いでもあったのか、市役所前駐車場は長蛇の列だった。
                 (2019年4月:写真:青空に映える御笠川の桜)