蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

押し戻す野性

2021年05月30日 | つれづれに

 観世音寺前に住む友人から、写真を添えてLINEが届いた。「戒壇院の参道でアナグマに出遭いました。」乳首が膨らんでいたというから、子育て中なのだろう。野性の動物が、一番狂暴になる時である。牙を剥いてうなる姿は、さぞ怖かったことだろう。後日ご主人に訊いたら、子育て中の巣が草刈りで奪われ、子供を咥えて移動中の出来事らしい。
 佐賀県吉野ケ里に住むカミさんの友人に写真を転送したら、こんな返事が返ってきた。つい先ごろ迄、島田市の山奥で野性に囲まれて暮らしていた女性である。

 「おはようございます。とうとう古都にも現れましたか!?
 伊久美(静岡県島田市伊久美)時代は私の天敵でした(笑)。近所の家では、留守の台所に上がって何もかも喰い散らかしていた所を帰宅した人と出くわし、大騒ぎになりました!西瓜など上から覆って護っても、土を掘って底から食い尽くされます。野菜の被害もですが「アイツは雑食だから、仔猫だって危ないよ」と注意されて、猪、狸、猿、ハクビシンより烏より神経を使う厄介者でした。
 憎らしい奴ですが[害獣]と言うコトバには抵抗があります。人間が勝手に野山を崩して住処にして、彼らを窮屈にして厄介視するのは傲慢な気もします!保護したり排除したり、あらゆる生物を思っても悩ましい問題ですね(>_<)
 昨日は畑仕事に来てくれた彼女と、野菜の周りに沢山のスギナやマルバツユクサを取り除けながら、食べられる植物ばかりか美しい花の咲く植物なら種を蒔いたり、買ってきて植えたり増えやして喜んだり…人って自己中そのものだよねって笑って話しました。その時に伊久美の困った獣たちの思い出話もしていました!
 偶然その頃、太宰府の町の中ではアナグマ母さんが人間を威嚇していたのですね!!
 写真ありがとうございました(^^)/」

 観世音寺や戒壇院周辺の畑はイノシシの被害が広がって、今ではすべてイノシシ除けの柵で囲われている。写真を送ってくれた友人の畑も、度々イノシシやカラスに収穫直前の作物や果物を食い荒らされている。
 「大変ですね!」と慰めながら、心のずっと奥の方で、野性の逆襲に拍手を送っている自分がいる。(叱られそうだな!)
 かつては、彼らの生息地だった。人間が彼らの土地を奪って人口を増やしてきたのは事実である。最近、各地でクマや、シカ、イノシシ、ハクビシン、サル、アナグマ、タヌキ等々野性の逆襲がニュースになる。

 「人間が勝手に野山を崩して住処にして、彼らを窮屈にして厄介視するのは傲慢な気もします!」

 そんな傲慢な人類に新型コロナウイルスが襲い掛かったのも、一つの野性の逆襲かもしれない。「押し戻された人類」は、彼らにとってはウイルス以上に悪質な存在なのではないだろうか?
 歌舞伎の世界の「押し戻し」……「紅の筋隈、鋲打ちの胴着、菱皮の鬘、三本太刀など、典型的な荒事師の扮装に、竹の子笠をかぶり蓑を着て、太い青竹を手にして登場し、跳梁する妖怪や怨霊を花道から本舞台に押し戻す役とその局面」とネットに解説してある。
 牙を剥き、唸り声をあげるアナグマに、ふとそんな荒事芸の姿がオーバーラップする。彼らにとって、人は妖怪、怨霊に似た存在なのだろうか?

 まことにに矛盾した行為だが、写真をくれた友人の畑で、カミさんと今年3度目の収穫を楽しませてもらった。育ててもらっているラッキョウの堀上げである。掘るというよりも、ただ引き抜くだけで、ラッキョウが鈴なりで姿を現す。
 持参した珈琲を楽しみながらご夫妻と爽やかな初夏の風に吹かれて歓談、1.4キロほどのラッキョウ(洗って姿を整えると、ちゃんと1キロに収まる)、小玉の新玉葱、ジャンボニンニク、枇杷、捥がせてもらったキューリとイチゴと抜かせていただいた大根……盛りだくさんのお土産だった。

 野性の君たち、この畑だけはそっとしておいてくれないかな(笑)……現金なご隠居夫妻の収穫祭だった。
                   (2021年5月:写真:戒壇院のアナグマ)

惑い、飛ぶ

2021年05月19日 | 季節の便り・花篇

 どこかに、ホッとしている自分がいた。刀折れ、矢尽きた感否めない日本列島、取り敢えず信じられるものは、最早ワクチンだけとなった。そのワクチンさえ、いずれはインフルエンザワクチンと同様、コロナの変異と鼬ごっこを繰り返すだろう。イギリス型変異にはそれなりに有効とはいうものの、爆発的拡大を展開し始めているインド型変異への結論は出ていない。
 日本が命運をかけようとしているファイザー社製に、近々モデルナ社製も認可されようとしている。認可前なのに、大規模接種会場を自衛隊に依存しながら東京・大阪で展開しようというのも、本来考えられないことであり、万策尽きて支持率を記録的に下げ続けている政府の足掻きの象徴にも見える。先ず、ワクチンの国内生産を可能にしないと、これからのコロナとのせめぎ合いは、日本人にとって非常に過酷なものになるだろう。

 高齢者へのワクチン接種の予約が、各地で大混乱。その多くが「情報弱者」と烙印を押されている高齢者対象に、専用電話かWEBかLINEでしか予約を受けつけないと言えば、回線がパンクするほど電話に集中するのは子供にでもわかる。多くの高齢者は、本質アナログ人間である。そこに気付かずに、大混乱を招いた政府の実態があからさまになる混乱だった。
 八十路の坂を上り始めている我が家も、パソコンやスマホのLINEでそこそこ遊んではいるが、所詮は昭和の人間、気持ちはアナログなのである。

 18日夕刻5時、郵便配達さんがポストに2通の封書を落としていった。市から「5月中旬から下旬に送付」と予告されていた「新型コロナウイルスワクチン接種のお知らせ」というクーポン券の到着だった。
 予告通りのタイミングは、まず誉めてやろう。しかし、掛かり付けの病院の医療従事者への2回目の接種が、ようやく今週終わるというタイミングのズレはいただけない。先月下旬にクーポンが配られた85歳以上の接種が、すでに始まっているタイミングである。
 小刻みになっていた。これも褒めていい。今回は80歳から84歳まで。75歳~79歳は5月下旬~6月下上旬、70歳~74歳は6月上旬~6月中旬、65歳~69歳は6月中旬~6月下旬に、それぞれクーポン券が送られる。
 確かにこの通り進めば、政府が根拠なく大見得を切った「7月中に全ての高齢者への接種を完了する」という図式に乗る。どうやら、脅迫にも似た手法で全自治体の答えを促したようだが、まあお手並み拝見としよう。「発送時期は変わることがあります」という但し書きに、ささやかな自治体の抵抗がうかがえる。
 会場までの移動手段として、まほろば号など地域路線のバス券が2往復分同封されていた。これも褒めるに値するだろう。我が家からは徒歩10分の距離に接種会場の一つがあるが、駐車場が限られた中での移動が厳しい高齢者も多い。身近な掛かり付け医での接種の道を閉ざしているのは、市の拙策である。
 そして、一番の難はクーポン券の文字の小ささである。券番号を読み取らなければならないのだが、10桁の、しかも頭に0が5つも並んだ券番号を、視力の弱った高齢者の目に突きつけるのは、あまりにも配慮に欠けている。。

 夕餉の支度に台所に立ったカミさんをよそ眼に、早速パソコンを開いた。初めから、電話は諦めていた。httpsで始まるWEBを開くと、即座に画面が出た。その指示に従ってスケジュールの空き日を探り、僅か10分で6月10日14時30分~15時の予約が取れた。すぐにカミさんを呼び、カミさんはカミさんのパソコンでWEB入力をする。同じ日の同じ時間帯に、まだ6席の空席があり、即座に予約を入れた。マイページで予約内容を確認し、念の為にコピーを取る。(ここが、アナログ人間たる所以である)
 呆気ない予約劇だった。横浜の長女にLINEで報告すると。「だから、あなた方は情報弱者じゃない!」とお𠮟りが来た。

 平成元年、長崎支店長時代に取引先の電気屋さんから一株いただいたオリヅルランが、32年の歳月を重ねて幾つもの鉢に分けられ、幾つかは友人知人宅に嫁入りし、今花時を迎えた。風呂場やトイレや玄関先に吊るした鉢から何本ものランナーが延び、その先端に地味な白い花をつける。体内時計が為せる技なのか、夕方になると花も萎む。
 緊急事態宣言下のコロナに疲れ、老いに追われる日々に惑い、気持ちだけはどこまでも飛びたいと思う。そんな逼塞間の中で、心癒される小さな折鶴の飛翔だった。
 花言葉は、≪守り抜く愛≫
                        (2021年5月:写真:折鶴蘭飛ぶ)

初夏を踊る

2021年05月13日 | 季節の便り・花篇

 父の代から50年以上の歳月を経た蹲を、みっしりと苔が覆い、その苔にユキノシタがしがみついていた。例年になく記録的な早さで訪れようとしている梅雨のはしりの雨が上がるのを待っていたように、葉陰から一斉に小さな踊り子が舞って出た。山野草に目覚めさせてくれた原点の花である。
 恥ずかしくなるほどしどけなく足を広げた人型の白い花は、立ったままの目線では可憐さは見えてこない。蹲り、目を近付けて初めて、はっとするように微妙な彩りに触れることが出来るのだ。マクロに接写レンズを噛ませてファインダーを覗き、例年のようにこの季節の踊り子たちの姿に見入っていた。

 昨日、西日本新聞の記事で、小林武彦さん(東大定量生命科学研究所教授)の新刊「生物はなぜ死ぬのか」の紹介記事が出ていた。記述者は平原奈央子さんと出ている。説得力のある記事だった。
 
 ……いつか誰にも訪れる死は、生命の進化の大きな流れの中では、一つの終着点であり、始まりでもある。

 「生物は進化のバトンの中で生きている。前の世代からバトンを受け取り、次世代に渡す生命の連続性の中で、死は終わりであると同時に始まりでもあります」

 生命の太古の姿は、実はコロナウイルスによく似ている。地球上に生物の種のように現れたウイルスは、自分の遺伝情報を複製して拡散し、他の細胞に入り込んで生き永らえた。安住先の細胞と共倒れしないよう本来はおとなしくしているが、何かのきっかけで猛威をふるう。コロナウイルスも古くから存在し、今回突如として感染力を強めた。普段はコウモリなど動物を「宿主」とするが、行き場を失い人に襲いかかった。

 「人間の地球への破壊行為が、しっぺ返しのようにパンデミック引き起こしたのでしょう。コロナは、太古からの使者のようにも思えます」

 生物は無数の細胞が集まって一つの個体になり、絶え間ない生死のリレーの中で種として生存する。ある生物が絶滅することで他の生物が栄える。そうした生の多様性を支える原動力こそ「死」であり、生き物も本質は「死ぬ物」なのだ。

 「生き物はすべて有限な命を持っているからこそ『生きる価値』を共有することができるのです」

 死があるからこそ、生は輝く。命の有限性である「死」は、長い進化の過程で生物が導き出した最善のプログラムでもある……

 日頃感じていることを裏付けてくれるようで、何度も読み返していた。残り少なくなるほど、命の重みは増していく。その尊さを、コロナごときで毒されたくはないが、どこかで「人間に絶滅の順番が巡ってきたのかもしれない」という思いもある。
 
 気になる一節があった。
 ……懸念するのは人工知能AIによる人の思考力の低下だ。決して死なずにバージョンアップし常に正解をくれるAIは、生物の摂理から大きく外れている……

 同感だった。車の自動運転化の機運が異常なほど高まっている。安全のためというが、それは人間の運転技能の劣化をもたらし、機器の不具合の際の瞬間的判断力や対応力を失わせることでもある。技術ばかりを信奉し、「人間」という大切な要素を見失って突っ走ることが正しいのだろうか?それは、わかってもいない政治家が、デジタル化を闇雲に急ぐ姿の滑稽さにも通じるものがある。

 小さな踊り子たちに癒されながら、初夏の一日が今日も何事もなく過ぎていった。コロナワクチンのクーポンは、まだ来ない。
                     (2021年5月::写真:踊るユキノシタ)

寄り添う

2021年05月07日 | つれづれに

   85歳以上3,700人、4月下旬クーポン発送、5月6日予約開始、
   5月18日接種開始。
   75歳~84歳7,300人、4月中旬~下旬クーポン発送
   65歳~74歳 未定

 これが我が町のコロナワクチン接種計画である。散発的にワクチンをチョロッとばらまき、「医療関係者の接種を始めました!」「高齢者の接種も、予定通り始めました!」という点のような「言い訳事実」を作っただけである。「虚言・隠蔽・改竄」の権力体質とどこか似ている。
 医療関係者の2回目接種さえ半数にも達していないのに、そんな医師が高齢者への接種をやらざるを得ない。接種体制は自治体に丸投げ、各地の混乱や足並みの不揃いは目に余る状況が続いている。一斉にクーポンを発送し、予約が集中して電話回線もネット回線もパンクして予約を中止したり、ネットを使えない高齢者に「家族に頼んでネットで予約してもらいなさい」と突き放す自治体がある。身寄りのいない高齢者、独居老人を取り残して、不安だけを拡大させている。重症化必至の高齢者にとって、最後の頼みの綱がワクチンだった。それさえも、こんな有様である。
 「わたしたち、いつになったら予約できるんでしょう?」

 福岡も、頼んでもいないのに12日から月末まで緊急事態宣言が出されるという。蔓延防止等特別措置申請で済ませようとした福岡県知事もお粗末だが、申請したのは5月1日である。決断し切れないままに放置した政府が、昨日になって突然、12日から緊急事態宣言の対象にすると一方的に宣言。失われた11日間の重みが、今後どう作用してくるのだろう?打つ手打つ手が悉く後手後手となり、変異型ウイルスが第4波を不気味に押し上げつつある。インドを始めとする新たなウイルスの猛威、やがてワクチンを無効にする変異さえ起こりかねない。インド変異ウイルスは、これまでのコロナの変異というよりも、まったく新たなウイルスの発生であるという説もある。それなのに、入国制限さえまだである。
 「やっぱり、人類滅亡の兆しかも」という、かねてからの持論が、心の奥にどっしりと腰を据え始めた。

 すべての対策が、「政治の思惑」の中で進められている。我々後期(末期?)高齢者はいい。暁の鐘を既に6つ迄聴いた。
       ♪…残る一つが今生の、鐘の響きの聴き納め…♪  (曾根崎心中)
 十分に生きたから、仮に感染して重症化しても、人工呼吸器やエクモによる治療は、カミさんも私も断ることにしている。乏しい機材は、先のある若い重症者に使ってほしい。

 そんな中で、なんでオリンピック?!?!?!
 来週に迫った我が街の聖火リレーも、緊急事態宣言を受けて中止になった。当たり前だろう、こんな惨めったらしいリレーなど見たくもない。蔓延防止等重点措置を申請している北海道で、オリンピック・マラソンのテスト大会をやる神経は何だろう?

 オリンピックに出ることだけが生き甲斐のように言うアスリートたちに問いたい。世界中から選手たちが集まり、医療崩壊している中で医師や看護師を国家権力で集め、その余波で助かる国民の命がどれほど失われるか予想もつかない。さらに、参加者の中で感染が始まり、国際的クラスターが日本で集中的に発生するかもしれない。アスリートたちよ、そんな国民のリスクを冒してでも、君たちは「オリンピック命」なのか?人間として、躊躇うところはないのか?
 為政者が、影響を怖れ、わが身可愛さに「やめる!」と言わないなら、君たちこそ声を上げるべきではないのか?それでも「やりたい!」というスポーツバカなら、私は君を決して応援などしない!

 畑の収穫祭で、欲張って山ほどいただいてきたグリンピースの莢を割ると、ふっくらと膨れ、きれいに並んだ緑の豆が寄り添いながら現れた。
 こんなに寄り添って語り合える日は、いったいいつになれば還ってくるのだろう?政治に期待出来ないとしたら、私たちは何を頼みにすればいいのだろう?毎日、スガの顔を見ると蕁麻疹が出そうになる。ホントに帯状疱疹後神経痛は、2年半経っても一向改善しないし、むしろひどくなっている。
 心冴えない立夏である。
                 (2021年5月:写真:寄り添うグリンピース)