蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

雨の風情

2018年01月17日 | つれづれに

 身体の芯が融け落ちたような、頼りない儚さに包まれて時が過ぎていく。松飾りもとれたというのに、心のメルトダウン……しかし、いつまでも正月気分でいる訳にいかない。
 氷点下の酷寒のあと、一気に桜が咲き始める頃の気温になった。三日間太り続け、柄杓の柄に貫かれていた蹲踞のツララも、あっというに融け落ちて哀れな末路を迎えた。

  束の間の日差しを浴びて、たくさんのランタンを咲き拡げたソシンロウバイが艶やかに輝いたが、それも一瞬、降ってや止み止んでは降る温かい霧雨が今日も続いている。

 マッサージとストレッチで股関節の痛みは落ち着き始めたが、時を同じくして痛み始めた右肩が気になって、リハビリのついでに医師の診断を仰いだ。ひどい時は箸の上げ下ろし、包丁使い、炒め物の匙、あと片付けの水洗い、掃除機掛けも、眉をしかめる状態になる。
 数年前の左肩腱板断裂修復手術、2ヶ月の入院と6ヶ月のリハビリの記憶が脳裏をよぎり、少し心もとない思いでレントゲンの結果を待った。今度は利き腕である。半年の不自由はツラい。 
 「骨は異常なし、腱板も切れてませんよ。切れていたら上腕の筋肉が下がるし、そんなに上まで腕が上がりません」
 ゴリゴリと肩関節を揉まれ、激痛に眉をしかめる。
 「此処の3本の腱が炎症を起こしてますネ。レーザーを毎日照射して、あとは塗り薬を出します。1週間ほどで落ち着くでしょう」
 やれやれ、股関節も右肩も手術せずに済みそうだ。ホッとして、鉛色の空の下を帰った。
 こうして、毎日1分間のレーザー照射、週2回リハビリ室で40分のマッサージとストレッチに通うことになった。
 重いものは持つな、歩き過ぎるな、パソコンもほどほどに……役立たずの蟋蟀庵ご隠居は、ただ今粗大ゴミ状態である。

 実はカミさんも、1年半前の歯の治療ミスから顎関節を痛め、口腔外科の専門医からも完治は難しいと宣告され、顎の痛みからくる頭と首筋と肩から背中への筋肉痛に、食事の度に涙をこらえている。ご飯も惣菜も、柔らかめに仕上げるのが習慣になった。パスタもアルデンテから更に2分余分に茹でる。
 少しでも楽になればと、同じ整形外科に連れて行った。連鎖する痛みは、首のレーザー治療で血行をよくすれば改善するだろうと、同じく毎日1分間の治療に通っている。
 2人とも食欲は落ちない。「生きる為だけに食べてるみたいだけど、同じなら食べる為に生きたいね!」
 カミさんとそんな戯言を交わしながら、今日もゴロゴロとテレビや読書で冬籠りしていた。
 横浜の娘も、膝の靭帯を痛めて治療中というし、わが家は親子そろって整形外科に通う悲惨な正月明けになった。今年は、痛みに耐える一年になるのだろうか。

 63歳の若竹千佐子さんが、歴代最年長で芥川賞を受賞した。「おらおらでひとりいぐも」という遠野の方言のタイトルがいい。「私は私で一人で生きていくから」という意味だという。老いを真正面から受け止め、むしろ老いていくことに夢を託すという姿勢が気持ちを奮い立たせる。
 同じ新聞の投書欄に「どこかに、世を去る潮時というのがあるのではないか、ふとそんなことを考えます」という一文があった。これも重い言葉である。

 霧雨を拾い集めて、マンリョウの赤い実に透明な雫が下がった。お向かいの家を逆さまに写し込んで、引き込まれるような小宇宙である。
 カリフォルニアに住む次女から「日本の桜を観に帰りたい!」というメールが届いた。春までには、まだ猛々しい冬将軍が陣を張る厳寒の2月が控えている。
 メルトダウンした心の残滓を取り払い、身体にシャキッとした芯を立て直そう。
                 (2018年1月:写真:マンリョウの雨の風情)

厳寒

2018年01月12日 | つれづれに


 背筋を冷気が駆け上がる。未明、氷点下1.1度まで冷え込んだ外気は、正午になっても0.8度に留まっていた。「大雪・低温注意報」が、まだ大宰府から消えない。窓の外では雪虫のような雪が風に舞い、木枯らしが残雪をいただいた庭木を揺する。既に三日目の冬籠りである。

 孫たちが去って、薄ら寒いほどの静けさが戻ってきた。反動のように心身の張りを失ったみたいで、なかなか何かを始める意欲が湧いてこない。「ま、それもいいか」と居直って、「事初め」に相応しいきっかけが来るのを待ちながら、無為徒食の日々を送っている。
 年末年始から、親しい友人の癌の発症や再発、訃報など重い便りが重なった。そんな世代の真っ只中に生きている我が身にも、多少気にならないこともない事象が起こっている。
 暮れから左股関節に痛みが走り、行きつけの整形外科に駆け込んだ。X線で両股関節の写真を撮った。大腿骨と骨盤の接合部分が、これほど見事に綺麗な孤を描いているのに感動!
 肋骨は何度も胸部X線で見ているし、頭蓋骨下部、肩、掌、椎間板など、いろいろと骨の写真は見て来た。圧巻は、昨秋受けた大腸カメラによる検査だった。生まれて初めて見る腸の内部の美しさ!内視鏡に映し出されたそこは、濡れたピンクがかった襞が重なり、まるで別の生き物のようにうねうねと穿たれ続いていた。普段目にすることがない自分の身体の内部を、医療機器や器具で垣間見て、その神秘的なまでに美しい人体に見入ってしまう自分がいた。

 写真を見る医師が言う。
 「骨に変形はありませんが、左股関節の間隔が少し狭くなっています。使い過ぎて、軟骨がすり減ってますネ。股関節の動きをカバーするために、当分周辺の筋肉を鍛えましょう。それでだめなら、部品交換です。歩きすぎはいけませんよ!」
 こうして、3階のリハビリ室に週2回通うことになった。マイクロ波を10分照射して温め(これが、実に気持ちいい!)、マッサージとストレッチで40分。筋肉や筋を一つ一つ確かめながら、丁寧にマッサージしてくれる。酷寒の日でも、半袖で汗を流してくれる理学療法士が神様に見えてくる。私に合ったプログラムを作って印刷してくれて、家で毎日ストレッチするよう勧められた。寝る前や起きた時、ベッドの上で出来るストレッチである。暖かくなるまで、辛抱強く頑張ってみよう。
 「何か目標を持ちましょう」……この病院は、リハビリに励みを持たせる為に、必ず目標を申告させてくれる。
 「毎日の散策が出来るように!(秘密基地「野うさぎの広場」まで、山道を歩くことが出来るように!)」……ささやかな目標である。

 最悪の場合でも、「部品交換」・人工股関節手術の道は残っているが、この歳で(あと数日で79歳を迎えるシサマが)、身体にメスを入れるのはあまり好ましいことではない。というより……笑われるような話だが、数年前に左肩腱板断裂で内視鏡手術を受けた時、全身麻酔だった。術後の痛みもなく、半年のリハビリも皆勤したが、一番嫌だったのが尿管カテーテルの挿入と、術後それを取り出す際のおぞましい不快な痛みだった。この痛みは、女より尿管が長い男にだけがわかるおぞましさだろう。(……というほど、長くもないのだが……自笑)手術のメスより、この方が怖いという情けない男である。

 雪が舞う。柄杓を鷲掴みした氷柱は、いつまでも融けようとしない。厳冬、此処に極まった。
                  (2018年1月:写真:蹲踞に伸びたツララ)

 翌朝、氷点下2.9度の冷え込みでツララはひとまわり大きくなり、圧巻の極太になった。
 写真を、極太に差し替える。
   

心を洗う

2018年01月03日 | つれづれに

 雲一つない小春日の迎春となった。「……春遠からじ」と詠った今年の年賀状、すっかり葉を落とした蝋梅が早くもほころび始め、もう早春のときめきが鼓動する三が日である。その根方には、水仙が幾つもの蕾を膨らませ、初日の出を祝うように一輪が花開いた。まだまだ酷寒の2月が控えているけれども、もう「春が待てる」という気がする。

 長女一家が揃って帰省、久し振りに賑やかにお節の膳を囲んだ。お節も自ら作ることもなく、寿三段重と海鮮二段重を取り寄せ、好物の黒豆と数の子、菊花蕪を添える程度で、あとは我が家伝統のおでんを大鍋に煮込む。佐伯から送ってもらったカンパチを下の孫娘が捌き、初めてとは思えないほど見事に刺身に引いた。上の孫娘は娘の指導を受けながら黒豆に挑戦、カミさんが母譲りの秘伝にさらに磨きをかけたおでんを、私がお屠蘇を仕立て、菊花に切った酢蕪を漬け込む……そんな親子孫三代で作り上げる正月も、もう度々はないだろう。

 大晦日、宵詣りに娘一家を送り出した後、庭に立って遠く除夜の鐘を聴いた。かつては、太宰府天満宮近くの光明寺で除夜の鐘を撞くのが恒例だった。弾ける焚火の火の粉を浴びながら撞木を引いて撞く。震える余韻の中で、百八つの煩悩が消えていく……そんな、心を洗うような陶酔の一瞬が好きだった。住職が変わってから理不尽にもその風物詩も喪われ、今は遠く夜空を渡ってくる観世音寺の鐘を微かに聴くばかりである。

  都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦の色を看)
  観音寺只聴鐘聲(観音寺は只鐘の声を聴く)   (菅原道真)

  手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに
         爪叩き聴く そのかそけきを   (長塚節)

 7世紀後半から造営された観世音寺は、奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺と共に、天下三戒壇のひとつに数えられる古刹である。そして、「ゆく年くる年」でお馴染みの梵鐘は、京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれる国宝である。
 九州国立博物館ボランティアを務めていた8年前、誕生日二日前の1月16日に、1300年振りに兄弟鐘の音色を比べる場に立ち会うことが出来た。同じ木型で鋳造されたといわれている鐘なのに、微妙に音色の違いがあった。決して優劣をつけることではないが、そこは地元の贔屓目、やっぱり観世音の梵鐘の音色に惹かれたのだった。
 日頃は金網に包まれて触れることは出来ないが、大晦日の除夜だけは整理券が発行されて撞くことが出来る。
 近年、30日の夜から伽藍と鐘楼がライトアップされるようになった。Y農園の奥様からのお年賀のメールに、その写真が添えられていた。暮れから痛み始めた股関節のリハビリ中の為、残念ながら行くことが出来ない。せめて心の中でその鐘を撞き、新たな年の安寧を祈った。併せて、今年の「ブログ初め」に、その写真を使わせていただくことにした。

 届いた賀状の束の中に、今年から割愛させてもらった人達からの年賀が何枚も混じっていた。ひそかに詫びる想いを籠めながら、一枚一枚めくっていった。「断・捨・離」という言葉は、此処では相応しくない。「終活の一環」というのは、あまりにも切ない。
 日々ささやかな好日を愛しみながら、この一年を重ねて行こうと思う。

 今夜も、石穴稲荷の杜の上に、スーパームーンが玲瓏と輝いていた。
      (2018年1月:写真:観世音寺鐘楼のライトアップ……友人の写メより)