蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

秋を歩く

2010年11月01日 | 季節の便り・旅篇

 吹き抜ける烈風に、湯煙が渦巻いて暗い夜空に消えた。露天風呂がいつになくぬるく感じられて、掛け流しの湯口に擦り寄りながら、誰一人いない独り占めの空間に夜を聴いていた。

 しぶとく居座る夏に押しやられながら、ようやく遅れ馳せの秋が芽生え根付き始めた所に、いきなりの冬将軍の殴り込みだった。一気に10度近く気温が落ちて、北日本ばかりでなく西日本からさえ雪便りが届く一日となった。
 三俣山(1745m)、硫黄山(1580m)、星生山(1762m)を豪華な屏風に見立てて借景した久住・タデ原湿原。ひと山越えた坊ガツル湿原と併せ、山岳地に形成された中間湿原としては国内最大級の湿原が、一面ススキに覆われたという新聞記事と写真に誘われたのは、もう1週間前のこと。天候や体調、スケジュールが合わず、ようやくこの日になった。その逡巡をあざ笑うように、前日、この秋一番の猛烈な寒波が列島に襲い掛かった。
 予報に出た前後曇りや雨の間に見えた晴マークを信じて高速に乗った。木枯らしの先駆けのような突風が車を煽る。玖珠インターで降りて、国道から四季彩ロード、湯坪温泉を経て、遠くに八丁原地熱発電所の猛々しい湯煙を見ながら、飯田(はんだ)高原・長者原に駆け上がった。時たま雲が流れるものの、概ね晴。硫黄山の煙が南に傾いて流れていく。三俣山南峰がうっすらと白いのは、昨夜の雪の名残だった。
 しっかり冬支度に身を固め、ザックを肩にタデ原湿原の木道に立った。一面のススキは少し盛りを過ぎてはいたが、吹く風に大きく穂を揺らしながら晩秋の空を掃いていた。木道の傍らの湿地に、時折ヤマラッキョウのピンクの花が珠のような姿を見せる。昨夜の寒波で凍りついたのだろう、日差しに解けた花は艶やかな輝きを失い、少し哀れな佇まいだった。
 風に吹かれ、日差しを懐かしみながら、ススキの海をひたすら歩く。木道が尽きた辺りから樹林にはいると、そこはお気に入りの「長者原自然探求路」である。雑木林の樹林の中は風も届かず、時折紅葉に染まった木立を垣間見せながら、落ち葉散り敷く小径と湿地を跨ぐ木道が連なり、小一時間ほどで元の長者原ビジターセンターに戻る。木立ちを湿らせて流れる山水は硫黄を含み、勿論飲用に適さない。そのせいか昆虫などの生き物の姿を見ることは稀であり、鳥の声も乏しいけれども、四季折々の変化を見せる木立の静寂は、心を洗うに格好の散策路なのである。
 木立を抜けた渓流沿いの陽だまりのベンチでお弁当を開いた。途中のコンビニで慌しく買ってきたお握りと漬物だけのお弁当……自然の中で食べるのに、これ以上のご馳走はない。梅干を包み込み海苔で巻いたお握りが、中学時代から続く山歩きの定番弁当である。
 
 車で牧の戸峠を越える。見事な紅葉にしばし車を止めて歩いた。黒岩山(1503m)への登山口にある展望台から望む沓掛山(1503m)斜面の紅葉は今真っ盛りだった。青空を背景に西に傾く秋の日差しを浴びて点在する紅の塊が、一面の紅葉とはひと味違う趣を見せる。ススキと紅葉と散策と……十二分に満足して、馴染みの宿「久住原コテージ」に向かった。

 広い露天風呂の外には雄大な高原風景が広がり、遠く阿蘇五岳が横たわるお気に入りの宿である。夕食後、宿が用意してくれた星空観測に期待して着膨れてキャンプ場に出た。残念ながら、20分前までの星空が無情にも奔る雲に覆われ、昇ったばかりの月のクレーターを瞬間垣間見ただけで終わった。
 冷え切った身体を再び露天風呂に沈め、渦巻く湯煙に頬を嬲らせた。辺りは、掛け流しの湯音と吹き過ぎる風の音だけ。……短い秋が逝こうとしていた。
           (2010年11月:写真:長者原・タデ原湿原のススキ)