蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

春の嵐

2005年04月26日 | 季節の便り・花篇

 夜半、激しい風雨が湯布院のペンション・Mを襲った。風がびょうびょうと哭き、雨が窓を叩く。まだ若い周囲の木立が弓なりに煽られる中を、夜の時が過ぎていった。2日間の山歩きのけだるい疲れが一層眠りを浅くさせる。新芽が美しく萌える春木立の中で絢爛と咲き誇っていた山桜がしきりに気にかかった。
 半年ぶりの山だった。初日、定宿のKヒュッテに車を置き、緑の風の中で憩う家内を預けて、N夫妻と3人で長者原に下った。背中のザックと胸に抱いたカメラの間で、鼓動が心地よく脈を刻む。
 寂れたキャンプ場を抜け、泉水の山並みに取り付いた。木立をくぐり防火帯にかかると、一気に風が抜け日差しが落ちてくる。右斜面の野焼きした黒い大地にキスミレが眩しいほどに咲き輝き、防火帯の土手にはショウジョウバカマが白やピンクや紫の花穂を立てていた。下泉水山(1296)の頂近く、満開のアセビの群落の中で昼食をとり、泉水山(1447)を経て黒岩山(1502)に至る縦走路を楽しんだ。ミヤマキリシマもシャクナゲも例年になくみっしり蕾をつけている。木立あり、草原あり、灌木林ありのなだらかな山道から、眼前の久住連山、霞に煙る阿蘇五岳を望み、振り向けば遠く由布岳が天を指さす。黒岩山から急峻な坂を下ると、そこが牧の戸越え、久住連山への表玄関である。樹林帯の中の散策路を一気に長者原に下った。
 帰り着いたKヒュッテの溢れ流れる温泉はまさに極楽だった。2年前に共に九州路を旅した娘婿の父を、まだ74才で野辺に送った。その心身の痛みが音を立てるようにほぐれていく。湯煙に深い吐息を絡ませて、太ももに澱む山歩きの疲れに命を実感するのだった。
 葉末に滅びの色が迫る秋の山も捨てがたいが、長い雌伏の後に訪れる春の山がやはりいい。可憐な新芽の芽吹きが山肌を輝かせ、眩しいほどの木漏れ日の底に数々の山野草が花をつける。命の芽生える季節である。何かいいことが起こりそうな、そんな予感がするのはこの頃。
 その浮き立つ思いを叩きのめすほどの勢いで春の嵐が来た翌朝、震度3の地震が朝の眠りを揺すった。福岡沖で一ヶ月前に起こった震度6の地震、その最大の余震が湯布院までも大きく揺らした。大地の怒りはまだおさまろうとしない。
              (2005年4月:写真:ショウジョウバカマ)

風を聴く

2005年04月03日 | つれづれに

 遠い春雷に、一陣の風と共に斜めに雨が降りかかる。満開のユキヤナギが地面を掃くように大きく揺れた。
 沖縄・座間味島で求めてきたウインド・チャイムが庭先で鳴った。呼応するように玄関の軒先からもう一つのチャイムが妙なる音色を送ってくる。開け放った2階の窓にかけた南部鉄の風鈴がチリンと鳴る。大気の気まぐれが起こす風も、こうして音の変化に置き換えることで絶妙の色が見えてくる。
 FMラジオに「音の風景」という素敵な番組がある。巷のあるがままの生活の音を捉えて流すだけの短い番組だが、映像がないだけに、聴く者それぞれが想像力を存分に遊ばせることで、自由な絵を頭の中で繰り広げることが出来る。テレビを漫然と流し続けることが習慣になってしまった昨今、時たまこうして音だけの世界に浸るのは、それなりに楽しいひとときなのだ。
 カリフォルニア州ロングビーチ。その海辺にショアライン・ビレッジという、スーベニールの店やお洒落なレストランが並ぶ憩いの場所がある。気さくなネイティブ・アメリカンが営む民芸品の店や、90センチを超える長いグラスでビールを飲ませてくれるヤード・ハウスなど、お気に入りの一角なのだが、ここで昨年の秋に美しい音色のウインド・チャイムを見付けて買ってきた。玄関の軒先で囁くように鳴る美しい音色は、この冬の厳しい木枯らしさえ暖かく感じさせてくれた。
 数年前、インドネシア・バリ島のベサキ寺院でカラカラと鳴る素朴な風琴を聴いた。竹と木で組み上げた手作りの風車が回って竹の胴を叩くだけのものだったが、聖なる山・アグン山から吹きおろす風が幾つもの風琴を鳴らし、不思議に懐かしい雰囲気を醸し出していた。
 我が家の玄関に、唐津の親しい画家が描いた松の墨絵がある。日本有数の景勝地・虹の松原で一気に描き上げた一本の松が大きく左に靡き、見た瞬間に風が見えた。風の音が聴こえた。無理に分けて貰った私のお気に入りの絵のひとつである。
 また雨が走った。じっと目を閉じてウインド・チャイムを聴く。しんと心を鎮めて風を聴く。日々花の便りが届く春の夕暮れである。
          (2005年4月:写真:ウインド・チャイム)