蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

酣(たけなわ)の春

2022年03月28日 | 季節の便り・花篇

 シートを拡げるのを躊躇うほど、足元に春が溢れ咲いていた。スミレ、ホトケノザ、カラスノエンドウ、ムラサキサギゴケ、オオイヌノフグリ、蹲って目を凝らさないと見えないほどの小さな白い花もある。少しでも花が少ない空間を見つけ、小さな斜面にシートを敷いた。政庁跡山門手前東側に、ポツンと孤立した一本の桜の木の根方が、今日のランチテーブルだった。早春に訪ねたシナマンサクの木の近くである。
 西側は端から端までの桜並木、日曜日の今日は殆んど家族連れのシートに覆われ、晴れ上がった青空は最高の花見日和だった。
 シートの主役はコンビニのおにぎりと漬物とポテトサラダ、簡素ながら、時折風に舞う満開の桜の花が豪華なご馳走にしてくれる。

 2月と5月を慌ただしく行き来する不順な天候が、福岡市内より3日ほど遅れていた開花を、あっという間に満開にして見せた。着るものに惑う人間をよそに、花は20度を超える一瞬を見逃さず、爛漫の春を届けてくれた。昨年は3月24日に、親しい友人ご夫妻とお花見ピクニックを楽しんだ。不慮の障りで今年はご一緒出来ず、今日27日にカミさんと二人のお花見となった。
 「今年も来ることが出来たネ!満開の桜だよ!!」
 二人合わせて165歳、日毎年毎に明日が来年が、必ずしも約束されたものではなくなる年齢である。だから、朝の目覚めが嬉しいし、暦を捲る手に安堵の吐息が掛かるのだ。

 コンビニで買い物を済ませ、太宰府図書館の駐車場に車を置いて、御笠川沿いの桜並木の散策路に歩き出た。見晴るかす一本道は、満開の桜のトンネルだった。行く人戻る人、脇をかすめる自転車、皆マスク姿で表情は見えないが、青空に映える万朶の桜を見上げる眼差しは同じだった。
 毎年、同じ場所同じアングルで写真を撮ってしまう。同じ絵面でも、去年とは違う、と言い訳しながらシャッターを落とすのだった。一瞬だけマスクとサングラスを外させ、桜並木を背景にしたカミさんの写真をスマホで録って、娘に「生存確認」のLINEを送る。

 春風が川面に縮緬のさざ波を走らせた一瞬、カミさんが小さく叫んだ。
 「あ、カワセミ!!」
 この川にはカワセミが住む。時折枯れ葦の葉先を霞めて、翡翠色の小さな光が走る。見上げていた桜から目を落とした時には、すでに光は飛び去っていた。

 「世に中は、三日見ぬ間の桜かな」
 江戸中期の俳人、大島蓼太の句という。一瞬で移ろい行く世の中を、見事に17文字に籠めた。
 多分、此処一両日で花吹雪が始まるだろう。その吹雪を浴びるのも又良し。お握りを頬張る頭に、時折一片の花弁が舞う。うらうらの日差し、揺蕩う春風、文字通り「春風駘蕩」の午後が過ぎていった。

 「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞上人絵詞伝)
 嵐に吹き散らされるのもいい。軍歌に度々謳われた暗い一面もあるが、潔い散り際は日本人の心に消すことのできない思いを沁み込ませてきた。夜桜はどこかおどろおどろしく、「桜の木の下には死体が埋まっている」という言い伝えも、何故か素直に心に沁みてくる。
 全てを受け止めて、今日も爛漫と桜は咲き誇っていた。

 次第に増えていく人影を避けて帰路についた。学校院跡から戒壇院、そして確かめたいことがあって観世音寺の参道に折れた。期待は裏切られなかった。叢の中に7輪ほどの小さなハルリンドウが咲いていた。酣(たけなわ)の春の便りの総仕上げだった。
                  (2022年3月:写真:ムラサキサギゴケ)

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