快晴の空から注ぐ陽射しが、瞼の裏にオレンジ色のぬくもりを滲みこませて来る。庭先に寝そべって、心おきなくぬくもりに身を浸す。時折吹き過ぎる緑の風が、イルカを提げた金属とガラスのウインド・チャイムを「キン!……チリン!」と鳴らし、誘われたように雀の声がかぶさってくる。巣作りを終えたカササギも大人しくなり、ウグイスもシジュウカラも山に帰った。そういえば春たけなわの頃、数年ぶりに石穴神社の夜の杜で啼くふくろうを聴いた。まだ自然が身近に息づいている終の棲家である。
連休明けの新聞にこんな記事を見つけた。「昆虫少年こそ絶滅危惧種だ。」かつて、夏休み後の教室には、昆虫の標本が必ず持ち込まれていた。しかし、最近は敬遠されて「こんな虫を捕った」ではなく「持ってるんだぞ」と、買った虫を自慢するのが主流という。年間100万匹を超える昆虫が輸入されている。それを買って自慢する子供達、買って与えて満足する親達……これで一体どんな情操が育つというのだろう。
「昆虫少年の成れの果て」と自嘲しながら、やっぱり寂しいと思う。比較的短い昆虫少年だったし、科学的というより情緒的に虫と接していた。それでも、自分なりの「これは僕の樹」というクヌギの樹を里山の木立ちの中に隠していた。夏の一日、その樹液に群がるアゲハや、ヒカゲチョウ、ヒョウモンチョウ、クワガタやカブトムシ、眩しく輝くアオカナブン、精悍に幹を回り込んでくるクロキマワリ、時にはスズメバチやムカデまでが樹液に群がっていた。その頃巡り合った、背中に4つの紋を背負うヨツボシケシキスイは、ベニシジミと並び、私の好感度上位にいる昆虫である。
中学生の頃、晩冬の太宰府政庁跡の道端で、スカンポの葉裏で冬を越すベニシジミの幼虫を見つけた。淡い緑にひと刷けピンクを置いて、身を縮めながら春を待っていた。小さな身体でありながら、雪に埋もれ半ばシャーベット状になりながら冬越しをする逞しさは驚異だった。やがて、スカンポの株ごと採取し、庭先で蛹になり、羽化して大空に飛び立つのを見送るのが私の楽しみになった。その頃、既に「虫を殺せない昆虫少年」になりつつあった私は、やがて専らカメラを担いで虫を追うことで満足する、変な昆虫少年に変容していった。
地球上で最も個体数が多い生き物は、実は昆虫である。人間一人当たり、昆虫3億匹というから(誰が数えたんだろう?)、その個体数は60億×3億……もう、天文学的数字で、ゼロを数える気力もなくなる。それほど身近な昆虫達に興味を示さなくなった少年達、「絶滅危惧種」……山口県・萩博物館の嘱託職員椋木博昭さんの言葉である。
造物主のノートには、すでに人類そのものが「絶滅危惧種」と記されているのかもしれない。いやいや、造物主は最早危惧さえしてはいないのではないか、としきりに思う昨今ではある。ホモ・サピエンスと言っても所詮浅智恵と傲慢の生き物、野放図に殖え驕り、ガイア・地球をほしいままに蚕食し、資源を食いつぶして、温暖化、気候変動、食糧危機、天災と見えて実は全て人災の数々……今更、サミットで排出ガス規制をしても、もう環境回復の折り返し点は過ぎているというのに、笑止千万。大地がひと揺すりしただけで、数万の命が喪われていく。大繁殖した生物は、やがて大絶滅時代に突入するのは必然。人類は、既にその坂道を転げ落ち始めたように思われてならない。
そんなことを心に去来させながら、今日もさしあたり「日々是好日」、花盛りの庭先に寝そべって、初夏の陽射しを全身に浴びて猫になっている。
(2008年5月:写真:アツモリソウ)