蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夕暮れに……

2007年07月09日 | 季節の便り・虫篇

 鉛色の梅雨空は夕闇の足取りを速くする。まだ4時を回ったばかりなのに、庭の木々の根元には早くも夕闇が沈み始めていた。
 空梅雨を心配したのはつい先ごろだったのに、ラニーニャという既におなじみになった現象の影響で活発化した梅雨前線は九州各地を激しい雨で覆いつくし、熊本県山間部を孤立させるほどの豪雨となった。今日も午後から降り始めた雨は、傘を差す足元をしぶきで濡らすほどの降りだった。
 夕刻の束の間、雨がやんだ。その間隙を盗んで庭に降り立ち、繁りすぎるほどに枝を広げた八朔の傍らで、足元にまで伸びてきた白木蓮の下枝を払っていたとき、それが目にとまった。
……まだ羽化したばかりの一匹の蝉。蛹の殻に前足2本でしがみつき、全身白っぽい弱々しさのまま危なげにコデマリの葉末で風に揺れている。半透明に濁った翅はようやく伸び切っているものの、まだ白っぽいままで色づかず、薄緑の翅脈だけが新鮮な輝きを見せていた。
 カメラに収めたところに、お向かいの小学校6年生の虫博士が帰ってきた。「誠也クン、ちょっと教えて!」……先年、その博学に脱帽して、それまで町内の子供達からいただいていた虫博士の称号を譲った昆虫少年である。「あ、アブラ……。雄!」と、こともなげに特定してくれた。「そうか、やっぱりアブラゼミか!うん、産卵管が伸びてないから雄だね!」と納得しながら、いつの間にか昆虫少年の昔に還っていた。
 何年も何年も地中で過ごしてようやく誕生を迎えたというのに、こんな降り続く雨の中で、果たして交尾する相手にめぐり合えるのだろうか?……三日前の7月6日の夕暮れ時、近くの石穴神社の杜から風に乗ってきたアブラゼミの初鳴きを聴いたけれども、その後は耳にしていない。「え、ちょっと早すぎるんじゃない?」と思いながらヒグラシの初鳴きを聴いたのは、その10日も前のことである。人間の季節感は人工的に次第に狂わされてきているけれども、最近は小さな生き物や草花にまで、季節のリズムの変調を感じることが多くなった。
 夜11時、闇の中でアブラゼミは本来の逞しい褐色に翅を染め上げ、抜け殻を抱きしめるようにして息づいていた。一夜明ければ伴侶を求めて大空を滑翔し、梢で高らかに謳うことだろう。

 翌朝、未明から雨が走った。気になって早めに起き出してコデマリの葉末を覗いたら、抜け殻だけをあとに残して既に蝉の姿はなかった。きっと、どこかの梢の陰で雨を凌いでいるのだろう……祈るような気持で、一日アブラゼミの鳴き声を待った。
 日暮れ近く、ヒグラシの声は届いたけれども、とうとうアブラゼミは鳴いてはくれなかった。

 夕顔が純白の花を4輪咲かせて夕闇に香りを広げ、残された抜け殻の傍らではオオバギボウシが薄紫の花穂を立てた。梅雨前線が再び北上して近付いている。……気にかかるアブラゼミの行方である。
        (2007年7月:写真:羽化間もないアブラゼミ)