蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

春の使者

2013年03月06日 | つれづれに

 「そういえば、手術台で左肩を上にして斜めに固定されたよなァ…」突然今頃になって、欠落していた記憶が蘇る。

 2月13日(水)にF大学病院の術後検診が終わって、退院への期待が膨らみ始めてから10日目だった。見た目には健康体で、暇があると歩きに出てばかりいると、松葉杖や歩行器、三角巾やバストバンドの人たちばかりの病棟に住むのが、些か後ろめたくなり始めていた。そんな遠慮をよそに、本当に大事にケアしてもらった。火曜日と金曜日の午後、院長回診がある。その度に実は密かに期待した。しかし……。
 15日(金)「そろそろ退院を考えましょうか。はい、手を挙げて。う~ん、もう少しですね。あと1週間か10日がんばりましょう」
19日(火)「はい、腕挙げて。うん、いいですね。明日退院でもいいけど…折角だから土曜日までいて、集中リハビリしましょう」

 23日、晴れて退院した。真っ先に携帯電話の買い替えに走った。文字盤が剥がれ始めたこともあるが、どうやら新手の振り込め詐欺(らしきもの?)にアドレスを盗まれたらしく、「900万円当たっています。現金振り込みますから、折り返し口座番号をメールしてください」といったメールが日に何通も届くのが煩わしく、メルアドを変更する序でに、退院記念として家内共々買い替えることにした。こんなお粗末なメールでも、引っ掛かる人がいるのだろうか。
 当分、毎日リハビリに通うことになった。担当の理学療法士が丁寧にマッサージしてくれる。筋肉の一本一本を辿りながら固まった部位をほぐし、30分の予定が時として1時間近くまで及ぶ日もあって恐縮する。私は力を抜いて横たわっているだけだが、理学療法士は汗を流しながらの全力作業である。最後に滑車で7分間左腕を引き上げ、ゴムバンドを3分間引く。

 そんなある日、リハビリ室の助手の女性が真剣な表情で寄ってきて耳元で問いかけた。「うちの梅の木に、目が白くないメジロが来るんですけど…」
 「それって、ウグイスでしょ!」
 暖かい日が次第に多くなり、春が近付いていた。入院中に植木屋に捥いでもらった八朔を二つに切り、棒に刺して植木鉢に立てた。メジロが来てせっせと啄み、隣の槇の枝でヒヨドリが順番を待っている。図体の大きいヒヨドリが、メジロを追い払わないでじっと待っているのが妙におかしい。

 3月5日夕刻、九州国立博物館のボランティア活動に復帰した。折から終盤を迎えた特別展「ボストン美術館」の雑踏が残る館内で、懐かしい仲間たちと3か月半振りに温湿度計の記録紙を交換しながら、ようやく退院の実感が湧いてきた。作業も滞りなくこなせて、先ずはひと安心。入院中にメールで内諾を得ていたボランティア最終年6年目の登録も済ませ、夕風の中を満たされて家路についた。
 夕刻、復帰を報告した五人会の「お母さん」からメールが届いた。「偶然というより、やはり必然!さすが、かつての昆虫少年、啓蟄の日に復帰!いろんなものが飛来して、外出もままならない悩ましい春ですが、ボチボチ過激にお願いします」因みに、五人会の仲間内では、私は「過激なお父さん」と呼ばれている。
 「啓蟄」……虫たちが眠りから覚めて動き始めるこの日は、まさしく彼らにあやかる、私には相応しい現場復帰だった
 我が家には、白い目のメジロしか来ない。
                  (2013年3月:写真:八朔を啄むメジロ)