蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

ゆく年

2009年12月30日 | つれづれに

 小雨降る重い冬空の下で、雪の大晦日が明日に迫った。世代交代が進む高齢団地の年の瀬は、若い人たちは里帰りしたのか子供達の声も聞こえず、静寂だけが残り少ない時を穏やかに見送っている。

 すっかり葉を落としたロウバイがみっしりと硬い蕾をつけ、その向こうに黄金色の八朔がたわわに実っている。花どき、哀しくなるほどの落花に散々気を揉んだが、長旅を終えて帰ってくると、次第に色づき始めた70個ほどの実が緑の葉陰から姿を現していた。一昨年の85個には及ばないまでも、孫達に送ってやれるほどの実りである。
 49日間の旅を無事に終えた。夕映えに赤く照り映えていたユタ州ザイオン・キャニオンの岩峰と、500メートルの絶壁を左右に見おろしながら、鎖に縋り岩肌を伝って辿ったエンジェルス・ランディングの尾根道。アリゾナ州ナバホ族の居留地の大地の割れ目に、水が刻んだ幻想的な地底回廊を繰り延べていたアンテロープ・キャニオン。モハーベ砂漠やアリゾナ大平原を130キロで疾駆した2,100キロのロング・ドライブ。暑熱のメキシコ・バハ・カリフォルニア半島最南端のロス・カボスで、マダラトビエイやウツボ、ウミガメと戯れたダイビング。コルテス海と太平洋それぞれの海で、夕日と朝日を背景に見事なジャンプを3日続けて見せてくれた鯨との遭遇。秋色濃いテメキュラ・ワイナリーのワイン・テイスティングの梯子。娘達とアメリカの日常生活を楽しみながら、繰り返し見送ったラグナ・ビーチの夕日……過ぎてしまえば、49日は一瞬だった。
 たった1日の雨を除き、美しいカリフォルニア・ブルーに染まり続け、常夏のメキシコで存分に日差しを浴びて戻った大宰府の冬は、衝撃的ともいうべき寒さだった。時差ボケと寒さへの順応に苦労しているうちに、もう年は暮れようとしている。4台のカメラで撮った2,000枚を超える写真を整理して何とか5冊のアルバムにまとめ、慌しく年賀状を刷り上げて投函し、2ヶ月ぶりの九州国立博物館環境ボランティア活動に復帰し、恒例行事の餅つき大会を取材して町内の新聞・新年号を刷り上げて……日本語の聞こえない快感の世界から戻った身には、日本語だけの世界に順応する時間も必要だった。英語とスペイン語の中にどっぷり浸かっていると、分からないだけに言葉がバックグラウンド・ミュージックとなり、不思議な安住感があるのだ。アンテロープ・キャニオンの地底洞窟の奥から聞こえてきた突然の日本語、オレンジ・カウンティーの近場にあるダウンタウン・ディズニーの雑踏の中で耳に飛び込んできたコテコテの関西弁……それはむしろ雑音でしかなかった。
 2ヶ月留守でも、何一つ変っていない政治、相変わらずくだらない番組ばかりを垂れ流すテレビ、日本だけが過剰反応して巷をマスクだらけにしている新型インフルエンザ騒動(成田でも、ロサンゼルス空港でも、マスクをして奇異な目で見られているのは日本人だけだった。メキシコの土産物屋では、豚がインフルエンザに罹って嘆いている絵柄のTシャツが売られていて笑ってしまった。日本人にはこの種のユーモアは通じないから、さすがに買ってくる勇気はなかったが。)……逆ホームシックを感じながら、ジジババだけの迎春準備に取り掛かっている。横浜の娘一家は、明日からグァムに脱出する。
 多分8度目のアメリカ・メキシコの旅の紀行を感動の薄れないうちにと思いながら、こればかりは気分が乗らないと書けない。年明け後の課題に残して、家内自慢の正月料理に時折ちょっかいを出しながら、「こんな静かな迎春もいいかな?」と思う。そして、多分来年も500円玉貯金に励みながら、アメリカに飛んでしまうのだろう。成田から往路は追い風に乗って9時間、帰りは強い西風に逆らいながら12時間。楽しみが待つ往路に比べ、娘達との別れの寂しさを引き摺る復路は、長く長く疲れるフライトだった。

 今年も、あと34時間……。
           (2009年12月:写真:ラグナ・ビーチの夕映え)