蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

そして、2年……

2015年01月19日 | つれづれに

 馬齢を重ねて76年。頑健だった兄と違って幼少の頃から蒲柳の質で、いつの頃からか自分は長生きできないと思い込むようになった。今考えれば、人並みに陸上競技や柔道、サッカー、ラグビー、山登りなどこなして来たし、確かに風邪を引きやすく、おなかを下しやすい体質ではあったが、ただそれだけのことだった。兄と妹は徳富蘇峰が名付け親だが(当時、婦人雑誌でそんな企画があったらしい)、「お前の名前は、電話帳から探した」とか、「京城(ソウル)の橋の下で拾った」という親の戯言を何処かで真に受けいた時期もあったらしい。いかにも「次男坊の僻み根性」そのものである。

 いつしか、「俺は30までの命。だから、そこを過ぎたら毎年年齢を引いて行こう。それからは余生だ」と決めていた節もある。何のことはない、厳しい病を抱えて苦難の老後を送っている兄や妹に比べ、結局大病ひとつせず、この歳まで生きて生きた。蒲柳の質という思い込みが病に対して臆病になり、用心深くなり、結果として「一病息災」のような人生になったのだろう。
 風邪気味になると主治医に駆け込む。「あなたが来たから、そろそろ風邪の季節の始まりだね」と、主治医にからかわれる。毎年インフルエンザ予防ワクチンを欠かさないせいか、もう20年ほど前にカナディアン・ロッキーのコロンビア大氷原で感染した激甚なインフルエンザ以来、一度も罹ったことがない。あのときは、家内と次女の3人ともアトランタの次女のコンドミニアムで寝込み、高熱にうなされながら十数時間の空路を帰ってきた。熱で朦朧としながら見下ろしたロッキー山脈の美しい氷河が、今も目に焼き付いている。

 そんな私が生まれて初めて全身麻酔の手術と、2ヶ月の入院、6ヶ月のリハビリを体験したのが、ちょうど2年前だった。「左肩肩甲下筋断裂、上腕二頭筋長頭腱亜脱臼」凄まじい病名だった。要は「左肩腱板断裂」である。チタンの螺子4本を内視鏡手術で埋め込み、切れた腱板を縫い合わせる手術を受けた

 誕生日の翌日の寒風が吹き募る朝、術後2年目の検診に向かった。建て替え前のおんぼろだった病舎が、術後間もなく新築され、今は見違えるように綺麗な病院になっている。薄暗く、小児科病棟と相乗りだったあの頃、一晩中小児の痛々しい泣き声と、ひっきりなしのナースコールのブザー音、6人部屋の凄絶な鼾に不眠の日が続いた。何とか同室の人たちと懇願してナースセンターから遠い部屋に移った夜から、全員が泥のように眠りこけた。鼾さえ、もう苦にならないほどの爆睡だった。こうして、クリスマスと大晦日と新年を過ごした。それぞれリハビリ専門の病院に転院する日に、全員が風邪を引くというオチまでついていた。今となっては懐かしい思い出である。(ちょっぴり、負け惜しみの言いぐさではあるが。)
 
 X線で3枚の画像を撮り、主治医が一番で診てくれた。同窓の整形外科の権威の教え子という縁あって、本当に懇切丁寧に2年間ケアしてくれた主治医である。いつものように、右腕と左腕を、渾身の力で押して計測する検査があり、「大丈夫ですね。2年間診させていただきましたが、今日で終わりにしましょう」
 完治宣言が下った。文字通り、ふっと肩の力が抜けた。

 蝋梅が朝日を受けて艶やかに輝く季節である。春を呼ぶ蟋蟀庵の花のひとつであり、脇の紅梅もキブシも、蕾が日毎に膨らんでいく。まだ酷寒の2月を越さなければならないが、太宰府天満宮の飛び梅開花のニュースも届いたし、春への歩みは遅々としながらも確実に進んでいる。燈篭のミカンを啄むメジロを驚かさないように、潜み足で玄関に抜けた。

 センター試験を受けた横浜の孫娘から、誕生日のメッセージが届いた。
 「ちょい遅れちゃったけど、誕生日おめでとう!受験終ったら暇見付けて遊びに行きますね。あと一か月、頑張りますぜ。」
 人生の新たな旅立ちに向かって、「サクラサク」春よ、来い!
               (2015年1月:写真:綻び始めた蝋梅)

「寒かねぇ!春は、まだかいな」

2015年01月14日 | つれづれに

 小吉で迎えた新年。アメリカに住む次女とお正月を過ごすのは何年振りだろう?カリフォルニア州デスバレーで、汗ばむ日差しを浴びながら迎えたのが、その年の新年だった。真夏は50度を超える灼熱の大地である。真冬こそが絶好の、そして安全な観光シーズンなのだ。塩の原野を駆けまわって、夕暮れと共に谷をめぐる稜線に上がり、ネバダ州のホテルで初夢を見た朝、辺りは真っ白の雪だった。
 だから、お御籤は「小吉」でも、寂しい老いの新年を華やかにしてくれた今年は、私たち夫婦にとっては「大吉」だった。遅めのお屠蘇と、関東風に博多の味付けを施した我が家のお雑煮で元旦を迎え、ほろ酔いを引き摺ったまま迎えた正月二日、太宰府に雪が舞った。それなりに、この辺りでは珍しいほどに激しい雪だったが、2センチほど積もっただけで、呆気なく雪景色は消えていった。
 その降る雪の合間を縫って、すっかり居ついてしまったメジロの番いが、燈篭の上に置いたミカンを啄みにやって来た。いつも二匹、「朝ご飯、食べたいよぉ!」と催促するように、早朝から紅椿の繁みの中でチュクチュクとうるさいほどに囀る。毎日、朝夕で二個。そのためにわざわざミカンを買いに走る。たまにお相伴にあずかると、何となくメジロのご飯を失敬しているような後ろめたさが付きまとうのが可笑しい。
 やがて、あらがましいヒヨドリがやってくると、メジロは追い払われる。激しくつつき、燈篭から落とし、皮まで毟って食べ散らかして飛び去っていく。メジロにとってはまさしく狼藉者である。だから、ミカンを置く前に大きく柏手を打ってヒヨドリを追い払い、紅椿のお宿に隠れるメジロを招くのだ。

 今年も300枚ほどの生存証明(年賀状)をいただいた。一枚一枚確かめ終わって、届かなかった友の安否がふと気になる瞬間が、年ごとに多くなる。
 「過ぎた日々を悔いず、来たるべき日々を憂えず、今が良ければ全てよし……そんな思いで、春和景明の日々を重ねています。気が付けば後期高齢者、願わくは光輝高齢者たらんと……それは、誰かのために生きていると、そして誰かに生かされていると実感することで始まるのかもしれません。」
 そう、年賀状に書いた。同窓の友からの年賀状に「高貴高齢者」とあって、思わずニンマリ。それぞれに表現は変わっても、老醜をさらさず、老害をもたらさずに、潔い老後を送りたいという悲願に変わりはないのだろう。
 変化の乏しい日々には違いない。「笑点」大喜利で日曜日と知り、「燃えるごみの日」で火曜日と金曜日を知る……そんなつましいリズムの中で、時たま癒しを求めて温泉に浸り、緑の風に吹かれて高原をドライブし、カサカサと落ち葉を踏みながら樹林を歩く。海外旅行にも、もうそれほどの魅力を感じないし……ある意味で、人生を極めたという穏やかな満足感がある。後ろを振り向けば、曲がりくねった歪な足跡が見えるのだろう。嫌なことから忘れていくから、常に「昔はよかった」という感慨に耽りがちだが、もう後ろは見ない。悪い記憶はホロホロと崩れていくが、いい思い出は決して風化しない。前を憂うることもやめた。今、この瞬間の足元だけを見詰めて、小さな喜びを重ねながら今年も生きて行こうと思う。

 ガラス越しに、またメジロと目が合ってしまう。雪の上で寒そうに少し身体を膨らませたメジロが、博多弁で問いかけてくる。
 「ほら、蝋梅も綻び始めたろうが。春は、もうそこまで来とうよ」

 「そうか、今年は昭和90年か」……この5月23日、我が家は金婚式を迎える。
               (2015年1月:写真:雪メジロ)