蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

気にし始めたら、際限なく…

2019年03月30日 | 季節の便り・花篇

 何気なく使っている言葉なのに、なぜ?と気になりだすと止まらなくなった。意味は分かっている。しかし、その語源は何だろう?
 「男の沽券にかかわる」…よく使う言葉である。ん?、「沽券」てなに?これがきっかけだった。本を読んでいて、次々に疑問の言葉に引っ掛かり、ページが進まなくなった。
 早速、調べにかかった。

 「沽券 (こけん)」とは、家屋敷の売渡しを証する書面をいう。町役人・五人組が立会いのもとで土地の売買が行われ、契約書である沽券が作成されたので、沽券は土地権利証としても機能した。契約書であるため土地の明細の他に売買代金も記載され、土地の価値を証明するものとされ、これから転じて「沽券に関わる」という慣用句が生じた。当時、火災が多発し家屋がしばしば消失したため、沽券に家屋の情報は記載されなかった。
 土地を担保にする場合も、町役人・五人組が契約に立ち合い、町役人が担保物件の沽券を完済まで預かった。売買契約書であるため、町割りから一度も売買が行われていない土地には沽券が存在しない。
 時代がたつにつれ、「沽券」は意味を変え、人としての価値や品位などを表すようになった。「沽券にかかわる」とは、人の評判や品位、名誉に差しさわりがあることを意味する。(ネットからの引用)」

 まさに、「目から鱗」だった。気にし始めたら、気になる言葉は枚挙にいとまがない。
 「杜撰(ずさん)」とは?
 「悋気りんき」」の悋とは?
 「語呂(ごろ)合わせ」の語呂とは?
 「婀娜(あだ)な女」の婀娜とは?
 「けりをつける」のけりとは?
 「慇懃(いんぎん)無礼」の慇懃とは?
 「贔屓(ひいき)する」の贔屓とは?
 「啖呵(たんか)を切る」の啖呵とは?
 「姑息(こそく)な手段」の姑息とは?
 「僭越(せんえつ)ながら」の僭越とは?
 「嬶(かかあ)天下」の嬶とは?
 「四阿(あずまや)」とは?
 「三和土(たたき)」は何でこう書くの?
 「埒(らち)があかない」の埒とは?
 「破落戸」と書いて、何でごろつき?
 「塒(ねぐら)」???

 調べが進むにつれて、目からうろこがぼろぼろ落ちた。
 「ぼーっと生きてんじゃねえよ!」と、チコちゃんに叱られそうなほど、語源も知らずに使っている言葉の、何と多いことか!
 4月の読書会、「伊勢物語」を読む前の前座にしようと纏めた。
 
 3月が逝く。もう3ヶ月過ぎたというのに、しつこい神経痛は傲然と右腕と肩に居座り続ける。「悪女の深情け」でもあるまいに。ある程度痛さにも慣れて、四六時中の痛みにも日常の動きは左右されない。
 地方選が始まった。支援する現職の女性候補者が挨拶に来られた。かつて区長をやっていた頃、男女共同参画推進活動で共に仕事をした盟友である。対抗馬として保守系が立てて来た候補は、太宰府の「太」も知らないよそ者であり、訳の分からない観光支援策を語り、「国からも県からも予算を取ってくる」と豪語する。前回同様、恫喝で企業などの組織票を固め、えげつない電話作戦も展開しているらしい。「組織」対「草の根運動」の厳しい闘いである。正義が通用しない日本の政治、また前回のように僅差の選挙戦になるのだろうか?もうこの歳だから、組織的支援活動には訣別した。ただ祈り、信じるだけである。
 そして、平成が間もなく終わる。

 数日前の散策の折り、観世音寺参道脇の草むらで、ハルリンドウが咲いているのを見付けた。早過ぎる開花である。「野うさぎの広場」では、例年4月10日前後にハルリンドウの絨毯が拡げられる。
 そろそろカメラ担いで出かけてみようかと思いながら、花曇りの空を見上げていた。
                (2019年3月:写真:観世音寺のハルリンドウ)

駆け抜ける

2019年03月23日 | 季節の便り・旅篇

 羽田も福岡も、いつから空港はこんなに延々と歩かせることになったのだろう?
 手術以来初めての空路、最大の楽しみは、人口股関節が金属探知機に引っ掛かり、「これが目にはいらぬか!」とサイボーグ証明書を掲げることだった。
 無念残念、往路も復路もブザーが鳴ることはなく、呆気なく検査場を通過する羽目になった。「こんな警備で、オリンピックは大丈夫なのか?」と負け惜しみを言ってみたものの、チタン合金は金属探知機に反応しないのかもしれない。

 羽田空港の出口に、娘と上の孫娘が迎えに来てくれた。昼を済ませて、洗足学園音楽大学の前田ホールに向かう。1年生の下の孫娘が、歌劇「カルメン」全4幕の日本語上演に、合唱の一員として出演する。ゼミのメンバーを中心に、1年かけて全て手作りで完成させた舞台である。
 カルメン全曲は初めての鑑賞だった。粗削りながら、ひたむきさに好感が持てる3時間だった。たばこ工場の女工に扮した孫が、アドリブを加えながら自然体の演技で舞台を行き来する。カルメンやドン・ホセ、闘牛士のエスカミーリョが歌い演じる後ろで、終始さりげない演技を続けるのが見事だった。担当のパートがないと、ついつい立ち尽くすことが多いのに、初めての舞台にもかかわらず、見事な演技だった。(孫馬鹿じゃない!)

 翌日は久し振りの歌舞伎座。カミさんの道案内で、迷うことなく東銀座に降り立ち、木挽町広場に辿りついた。夜の部。仁左衛門、雀右衛門、錦之助、孝太郎、秀太郎、左團次による「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」。詳しくは歌舞伎に目がないカミさんの世界であり、そちらに譲る。勘太郎がいつの間にか成長し、高綱の一子小四郎を立派につとめていた。
 「雷船頭」。始めて観た演目だった。幸四郎と猿之助が、偶数日奇数日交代で船頭役をつとめる。今日は偶数日の幸四郎の出番だった。その踊りの見事さは言うまでもないが、亡き富十郎の遺児・鷹之資が、落ちてきた雷の役をおどけた所作で楽しく演じていた。久し振りに「天王寺屋!」という大向うを聴いて嬉しかった。
 最期は「弁天娘女男白浪・浜松屋店先より、稲瀬川勢揃いまで」弁天小僧と南郷力丸を幸四郎と猿之助が、これも偶数日奇数日で交代して演じる。今日は、猿之助が弁天。小気味よく楽しそうに演じていた。
 1階席を奮発したから、大向うで声を掛けられないので、少し欲求不満が残った。

 3日目。多摩美大に走って、上の孫娘の卒業制作を観る。山肌を這い上るようにいろいろな学舎が並ぶ。この前来たのは秋だった。木々の種類が多い学園である。ガラスや金属工芸は文字通りの力作、卒業生たちの気負いと力みが各作品に見られて、なんとも微笑ましかった。
 圧巻はテキスタイルの部だった。染と織りの緻密な彩りが美しく華やかで、ついつい足が止まる。孫が最後に、自分の作品に案内してくれる。ほかの作品と異なり、布ではなく、細引きと糸で織り為した大作だった。
 縦2.5メートル、横1メートル、奥行10センチほどの木枠を2枚立て、様々な太さの細引きや糸を染めて織り、紡ぎ、張った作品には、「透き間」とタイトルがつけてある。
 「プライバシーに敏感になった今の社会では、個人のスペースは閉塞的なものになる傾向にある。故に、より広く光を感じる、風通しが良い、そういった心地よさを公共のスペースに求められるのではないかと思う。
 空間は一本の線で区切ることが出来る。そこで面になりきらない線の集合でも壁になりうると考えた。視線を切る、動線を作るといった機能を持ちつつ、圧迫感が少なく空気を通す室内用の壁として今回の作品を提案する」
 4か月をかけたという労作である。このまま、何処かの美術館に置きたいと思った。(再び、孫馬鹿ではない!)
 間もなく卒業式を終えた上の孫娘は、自動車メーカーに就職し、社員寮で一人暮らしを始める。将来、内装など車の色彩に関わる仕事を目指している。

 その夜、ようやく家族全員が顔を揃え、Hungry Tigerで孫二人の労いと祝いの宴を張り、翌日、婿と下の孫娘に送られて羽田を発った。

 駆け抜けた3泊4日の横浜の旅だった。24度に届くほど温かく、それでいて強い風が吹き荒れる日々だった。孫馬鹿に尽きる……それもよし。それぞれが自分の道を見付け、巣立っていく。
 歳を取るのも、決して悪くはない。
                  (2019年3月:写真:孫の作品「透き間」部分)


10.300歩の重み

2019年03月15日 | つれづれに

 1,100年以上の歴史を重ねた名刹、京都山科の奥で木立に包まれる、真言密教「醍醐寺」九州国立博物館特別展が間もなく終わる。密教には抵抗があるが、どうしても会いたい仏像があった。重要文化財「如意輪観音坐像」、10世紀平安時代の仏像である。蓮華の上で右膝を立て、六臂の右腕の肘をつき、拳を軽く頬に添えて寛ぐ坐像は、言葉に尽くせない安らぎの姿だった。

 冷たい風の中を歩き、朝一に行きつけの理髪店(昭和の世代に馴染む言い方は「散髪屋さん」)の扉を叩いた。40年来、亡くなった先代の時代から通っている店である。刈り込んだ頭は却って手がかかるらしく、いつもじっくりと時間を掛けてくれるから、開店を待って訪ねるのが恒例である。いつか電車の中で見知らぬ男性から「見事なカットですね!」と声を掛けられた。思わず、「はい、植木屋さんに刈ってもらってます」と答えたくなるほど、丁寧な仕上がりである。裾は刈り上げ、頭頂でも2センチほどの長さしかない。七三に分けて撫で付けていた現役時代、朝に時間を掛けてドライヤーで整えていても、汗をかくと直ぐにだらしなく膨れ上がる直毛剛毛に悩んできた。リタイアして真っ先にしたのが、この刈込だった。シャンプーも少量で済むし、整髪料も要らない。雨が降ろうと汗をかこうと、平然としていられる解放感は何ものにも代えがたかった。

 刈り終えて帰ると2800歩。カミさんが、アレルギー検査の結果を聞きに行きたいという。そういえば、先月末にホームドクターから「帯状疱疹をやると免疫力が落ちるから、いろんな病気が出てくることがある。この前も、調べたら胃がんだった人がいる」と脅され、10年振りくらいに胃カメラを呑んだ結果もまだ聞いていないことを思い出して、「歩いて行って、何処かでお蕎麦でも食べて、序でに天満宮に詣でよう」ということになった。
 カミさんのアレルギー反応は全てゼロ!花粉から食べ物まで、一切心配ないという結果だった。わたしの市からの通知は「今回の検査では、胃がんは認められませんでした。」と、実にそっけない文章が連なっていた。

 参道で唯一手打ちしている蕎麦屋で昼を食べて参道に出たら、今日もワーワーキャーキャーとアジア系旅行者の喧騒!思わず、日本語が懐かしくなるほどの姦しさである。トイレを汚す、ゴミをまき散らす、自撮りで通行を妨げる、そしてやたらにうるさい。「観光公害」は数年前から始まっている。
 馴染みの店で名物の「梅が枝餅」を1個ずつ買い、いつものように「歩き食べ」を楽しむ。この程度の行儀の悪さは良し、と自己判定するのは毎度の事、地元「太宰府原住民」の特権である。
 太宰府天満宮の本殿で、2か月半遅れの「初詣」を済ませた。心に残っていたしこりが一つ消えた。車に貼る交通安全のお札を受けて、博物館に向かった。
 いつもは歩いて上る120段の階段だが、今日は自重してエスカレーターに乗る。トンネルの中の動く歩道を歩きながら、七色に変わる照明を楽しんだ。トンネルを出ると、パッと光が広がり、九州国立博物館の偉容が姿を見せる。左手に、6年間環境ボランティアとして通い詰めた階段が見えて、なんとも懐かしい。
 1月29日に始まった「醍醐寺展」も残すところ10日、もう一つ心に残っていたしこりだった。仏教に帰依しているわけではないが、仏像には目がない。一は興福寺の「阿修羅像」、そして新薬師寺の「十二神将」、長谷寺の「十一面観世音菩薩立像」、室生寺の「十一面観音像」、東大寺の「日光・月光菩薩」、法隆寺の「夢違観音」……枚挙にいとまがない。
 
 少し疲れた脚を労わりながら帰り着いたら、今日の歩数は10,300歩を超えていた。万歩を超えたのは、一昨年12月に左股関節を痛めて以来、実に15か月ぶりだった。これで自信がついた。久住高原の山歩きも、男池(おいけ)の山野草探索も、もう大丈夫だろう。
 俄かに、春への期待が膨らんできた。10.300歩の重みである。

 六光星が、庭一面に輝き始めた。ハナニラ……春を告げる花のひとつである。
             (2019年3月:六光星・ハナニラ)

モンシロチョウ、初見!

2019年03月13日 | 季節の便り・花篇

 穏やかな早春の青空が広がっていた。その空の優しさに誘われた。
 「ちょっと歩いてくるね」とカミさんに声を掛け、道に降り立った途端、空の優しさを裏切るような烈風が、真正面から吹きつけた。思わず、ウインドブレーカーのファスナーを閉じ、襟を立てた。明るい黄色を目立たせながら、顔を伏せ気味にして歩き始める。冷たい風に吹かれて、思わず涙が滲む。

 アラスカからの寒流が流れ下るカリフォルニアの海は冷たい。ダイビングの合間に船の上で凍えあがるから、厚めのウインドブレーカーは離せない。数年前、サンタ・カタリナ島で久し振りに潜った。68歳でライセンスを取った、想い出深い海である。ジャイアントケルプに埋め尽くされた合間を縫って潜っていくと、赤い魚・ガリバルディーが迎えてくれる。
 その時娘婿が着ていた黄色のウインドブレーカーを、帰国の際に譲り受けてきた。高齢者の交通事故が多い一つの理由は、地味な黒っぽい服で歩いている人が多いことだ。夕暮れ時や夜間に運転していると、よくわかる。だから、この時期の外歩きには、目立つように出来るだけこの黄色いウインドブレーカーを着るようにしている。アメリカのアウトドアブランドTIMBERLAND製だが、ファスナーの合わせが左右逆という事は、アメリカでは、このサイズは女性用なのであろうか。小柄な次女が、「子供用サイズしかない!」と嘆いていたのを思い出す。

 御笠川水は澄み切っていた。マガモやシラサギが遊ぶのを見ながら、桜並木の下の遊歩道を歩く。土手沿いに白や黄色の水仙が植えられ、風に滲む目を癒してくれる。桜並木の蕾はまだ固く、微かな彩りもない。吹く風に縮緬波が川面を走り、小さな瀬の飛沫が霧となって顔に散り掛かる。
 突然、千切れた紙片のような白い影が土手に飛んだ。今年のモンシロチョウの初見だった。俄かに、気持ちが浮き立つのを感じた。昆虫少年のなれの果てのご隠居としては、季節の移ろいは、やはり蝶で確かめたい。冬の小春日に、成虫で冬を越すタテハチョウの仲間たちを見掛けることはあるが、春の先駆けはやはりモンシロチョウである。

 向こう岸の透明な水底を、素早く走る影があった。ひょいと顔を覗かせたのはカイツブリだった。動きがあまりに速すぎて、望遠に伸ばしたカメラでも捉えることが出来なかった。小さな魚影が底の砂地に影を落とす。鳥たちにとって、この川は格好の餌場でもあるのだ。

 赤い橋の袂から右に折れ、観世音寺に向かった。宝物殿傍の駐車場の向こうに、葉を落としたメタセコイアとおぼしき木が数本、梢を伸び伸びと青空に突き刺していた。宝物殿の向こうに白い雲がかかり、空の青さを一層際立たせる。
 観世音寺は、大晦日の除夜の鐘で有名な梵鐘(国宝)ばかりでなく、九州随一の仏像彫刻の宝庫である。木造十一面観音立像(像高4.98メートル)、木造十一面観音立像(像高3.03メートル)、木造阿弥陀如来坐像(平安時代)、木造十一面観音立像(平安時代)、木造四天王立像 (平安時代)、木造大黒天立像(平安時代:大黒天像としては日本最古に属する)など、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという古刹に相応しい仏像彫刻が並ぶ。宝物殿に居並ぶ仏像の数々は、異様なまでに存在感があり、そして目を見張るほどの圧巻である。願わくば、本殿の須弥壇の暗がりの中で、慈愛のまなざしに手を合わせたかったと思う。

 宝物殿の柱の陰に「太宰府市歩こう会」の集印所がある。集印帳に、日付入りのスタンプを捺した。これで10ポイント。この「元気づくりポイント」を貯めると、来年2月には商品券に交換できる。
 観世音寺を周回し、路地を戒壇院に辿った。道端にオドリコソウが群れ咲き、青空の欠片のようなオオイヌノフグリが可憐に日差しを受けていた。コブシの白が青空に映える。

 再び御笠川に戻り、さざ波の照り返しに目をそばめながら帰途に就いた。冷たかった向かい風が追い風となり、日差しの暖かさに汗ばんでくる。

 帰り着いて、手帳に「3月12日、モンシロチョウ初見」と書きつける。7300歩の早春散歩だった。
                  (2019年3月:写真:天に突き刺さる冬木立)

情報弱者

2019年03月11日 | 季節の便り・花篇

 嫌な言葉である。マスコミが作ったのか、行政が作ったのか、「弱者」とは、いかにも上から目線の不遜極まりない言い方ではないか。高齢故のこだわりであろうか、「キャッシュレス」をやたらに促進しようとする風潮の中で、スマホを持たなければ生きて行けないような世の中に進みつつある。ガラ携に頑固にしがみついている我が家は、「情報弱者」として時流に取り残されるのであろうか?
 それでも、日常生活に何の支障もないから、スマホに買い替える気は毛頭ない。SNS?聞こえはいいが、ネット社会の様々な問題、無責任に拡散するNET社会の弊害、何処かで破綻する危機感もある。
 やたらに「観光立国」を叫び、激増する観光客の数を得意気に誇る傍らで、「観光公害」が加速していることに目を向けようとしない。日本人が静かに楽しめる観光地や温泉がなくなりつつある。何とかのミクスという訳のわからない政策が何の成果も上げないから、データ―を改竄したりもするし、観光客増加を誇るぐらいしかないのだろう。
 今日の蟋蟀庵ご隠居は、些かご機嫌が悪い。

 東日本大震災から8年。西日本新聞のトップ記事に、「支援もう切られっぺ」と出ていた。政府は「復興は着実に進んでいる」と、いい加減な発言を重ねている。いわき市の応急仮設住宅に住む男性が、噂を聞いての言葉「オリンピックが終わったら、俺たちも支援を切られっぺて」
 「復興五輪」?被災地の実情を見ると、いかにも嘘っぽい。本当は、オリンピックなどやっている場合か!……そんな気がずっとしている。
 「人生が変わってしまった。原発事故なんて、思ってもなかった」、「建物だけを新しくして『復興した』と言われても、帰りたいのは原発事故前の故郷」、「避難者が古里を好きで離れたわけじゃないことは、忘れないでほしい」……これらの言葉の重みを、為政者はどれだけわかっているのだろう。大熊町の自宅に戻れるのは40年後と言われて「帰りたいけど、そのとき俺は100歳。意味ねえよ」と笑う。「行方不明なお2533人」と書かれた紙面が、胸にズシンとくる。
 住民投票で、全市町村が辺野古の基地反対という結果を出しても、全く無視して憚らない姿勢と通じるものがある。今の政治には「心」がない。

 ご機嫌が悪いのには、ほかにも幾つか理由がある。はかばかしく改善されない右腕の帯状疱疹後遺症の神経痛、然り。名残惜しむ間もなく冬将軍を追い立て、やたらに急ぎ過ぎる春への足取り、然り。もう一つ、「情報弱者」を実感させられた出来事があった。
 パソコンが半月使い物にならなかった。インターネットに繋がらない。我が家はケーブルテレビと契約し、テレビも電話も、インターネットもその回線に依存している。突然回線が繋がらなくなった。よくあるケースで、静電気が滞留することがあるからと、無線ルーターやケーブル回線の電源を抜いて差し直すと復帰するのが通例だった。
 ところが、何度差し直しても繋がらない。困り果てて、元SEの長女に電話したところが「電話で指示できるレベルじゃないから、ケーブルテレビに電話して、技術者に来てもらいなさい」と言う。早速、ケーブルテレビの「緊急時故障受付」に電話したところ、「最寄りの店舗に持ち込んでください」という。家内と私の2台を持ち込んでチェックしてもらったら、「ケーブルは繋がってます。念の為2~3日預かって、ウイルスチェックなど総点検しましょう」ということになった。3日後受け取りに行き、持ち帰って接続したが、やっぱり繋がらない。再度緊急受付に電話して、技術者の派遣を要請した。3日待たされて、技術者がやって来た。ちょこちょこっと触って、1分で復帰した。
 犯人は私だった。埃を払うために、無線ルーターの端子を一旦抜いて再接続する際に、Internetに繋ぐべきところを、Lan1に繋いでしまい、すぐに繋ぎ直したが、既にその情報をルーターが記憶してしまってのトラブルだった。
 やっぱり年寄りは「情報弱者」なのだろう。だから、自分自身に対してご機嫌斜めなのだ。

 長女から「生存確認!」というメールが来た。ありがたいけど、何となく切ない。
 
 春が奔る。
 気を取り直して出た庭の鉢に、ムスカリが可愛い花穂を立てていた。
                     (2019年3月:写真:ムスカリ)