蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

強盗(GOTO)キャンペーン

2021年02月21日 | つれづれに

 ニカイとかいう老残の観光族議員が、税金を湯水のごとく注いで、観光業界にエエカッコしようとしている。国民の血税を盗むという意味では、まさしく強盗キャンペーンである。前総理が、奇しくもGOTOを「ごおとお」と読んだ。これは読み違えでなく、ついつい本音が出たということだろう。
 奴らの関心は、コロナでもなく、オリンピック・パラリンピックでもなく、この秋の衆議院選挙の票読みだけなのである。
 「カーボンニュートラル」などと、仮名文字のお題目を唱えられても、馬鹿馬鹿しくてシラケるばかりである。仮名文字にすれば、偉そうに聞こえると思っている政治屋や、行政の長、学者の、なんと多いことか!言葉遊びで国民を煙に巻いて、多分言ってる本人は、何もわかっていないのだろう。

 嗚呼、久しぶりに悪口雑言吐いて、すっきりした~ツ!コロナに倦んで、閉塞する毎日に、時にはうっぷん晴らしをしないとコロナ鬱に陥ってしまう。
 蟋蟀庵の埋蔵金を数十万両盗み取った強盗を、ついにお縄にした。捕らえたといっても、カメラで捉えたのだが(呵々!!)

 暴風雪に震え上がりながら、2月博多座大歌舞伎で幸四郎を観た後、一転して4月下旬並みの陽気となった。下着を厚くしたり薄くしたり、忙しい三寒四温の日々である。客の訪れない客間に放置していた蜜柑が萎びてしまい、カミさんが二つに割って庭の灯篭の上に置いた。
 「スズメかメジロが来たらいいね!」という期待に応えて現れたのはヒヨドリだった。いつもは「ピ~ヨ、ピ~ヨ!」と姦しさ代名詞のようにやかましいのに、音もなく松の下枝を潜ってやってきた。
 庭中のマンリョウや、ヤブコウジ、南天の真っ赤な実を、一粒残さず食い漁っていった雑食の強盗である。「憎っくき奴!」と、300ミリの望遠で捉えてみると、さあ困った。こやつが結構可愛いのである。

 ……全長27.5cm。 全体が灰色に見える色彩の鳥です。花の蜜や果実が大好物です。これは熱帯が主生息地であった祖先ヒヨドリの名残り。今では虫や草の葉、芽も食べますが、花が咲くと蜜を吸いにやってきます。東京では1970年頃までは10月に渡来し、4月に渡り去る冬鳥でした。それが、留鳥として一年中棲むようになりました。より南に棲んでいた留鳥が、北上してきたものと考えられています。また、今も秋には北海道から多数のヒヨドリが本州、四国、九州へ渡ってきます……

……その昔、一ノ谷の戦いで、源義経が平家の軍勢を追い落とした深い山あいを「鵯越え」というのも、そこが春と秋ヒヨドリの渡りの場所になっていたことからです……

 ネットに見る、ヒヨドリの身元確認である。

    ひよどりの こぼし去りぬる 実の赤き   蕪村

 蕪村の句と裏腹に、我が家の強盗は赤い実を一つもこぼすことなく飲み込んで去った。
 赤く輝く実は、色彩乏しい冬庭の貴重な風物詩だったのだが、「ヒ~ヨ、ヒ~ヨ!」のヒヨドリも又、風物詩の一つには違いない。
 そう自分に言い聞かせながら、灯篭の上にキョトンと佇むヒヨドリの姿に見入っていた。
                     I(2021年2月:写真:強盗ヒヨドリ)

慈悲のまなざし

2021年02月08日 | つれづれに

 ようやく仄かに朱を帯び始めた明けの空に、仏の眼差しのような細い上弦の月が浮かんでいた。昨日の4月を思わせる陽気も、日が落ちれば冬が還ってくる。夜明け間近な空気は鋭く冷え込んで、吹く風に涙が溢れてくる。
 ♪泣きながら 歩く 一人ぼっちの朝 ♪ ??
 石穴稲荷に参って家に帰り着くころには、もう明るくなった道にペンライトも要らない。かすかな朝焼けを背景に、一時停止の赤い点滅が新鮮で、その向こうにひっそりと眉月が浮かんでいた。

 朝のストレッチの後のウォーキングを、冬の間30分遅らせることにした。ほとんど人の通らない真っ暗な朝、心細さはないが、帰り着いても暗いのはちょっと寂しい。それに、朝のテレビ体操で健康美に輝く太ももを見るのは、その日の元気の源泉のひとつでもある。それもあって、歩き始めるのを6時35分に遅らせることにした。
 中学生のころ、友人の一人が、今で云う「太ももフェチ」だった。珍しく上下2段になった廊下側の板窓の下だけを開けて、廊下を通る女生徒の下半身を見ながら、「女は脚だよ!」とうそぶくおませな中学生だった。(彼は、やがてに東京に転校し、高校生の頃自ら命を絶った。その心境に思いを馳せながら、文芸部にいた3年生の時に、「春雷」という小説を書いた。拙い掌編だが、思いを込めて一気に書いた。深夜の隅田川に、睡眠薬を飲み下したポケットウイスキーの空き瓶を放り込む背景に、遠く春雷が鳴っていた。私なりの、一つの青春の足跡だった。)
 ラガーマンや、歌舞伎役者の鍛え上げられた太ももにウットリする奥様もいるようだから、八十路のジサマの太ももフェチも、見るだけなら罪になるまい。(呵々!)

 九州国立博物館の特別展「奈良 中宮寺の国宝」を観た。時節柄3密を避けるために、予めオンラインで日時を予約するシステムが取り入れられた。ホームページを開き、日時を選んで申し込み、クレジットカードで入金すると、QRコードが送られてくる。それをスマホで写し撮り、入り口でかざして入場する。
 便利なのか不便なのか、自称「アナログ人間」、他称「情報弱者」には、いささか抵抗がある。ネットもやらず、スマホも持たないお年寄りは置き去りなのかな?
 緊急事態宣言下だから、それほどの混雑もないようで、当日券もあるという。

 遠来の客が帰り始める3時半で申し込んだ。入館時に体温を測られ、手指の消毒をして、(元論、マスクなしでは入れない)入館した。高齢者割引も障害者割引もない1800円は安くはないが、カミさんには、それを感じさせない期待と憧れがあった。

 観客は僅かだった。さらさらと流し観て進んだ。一番奥の一室を独り占めして、その仏は静寂の底にいた。「国宝・菩薩半跏思惟像」、和紙で壁一面を覆った間接照明のほのかな明かりに包まれて、慈悲の優しいまなざし、そして感じたのは妖しいまでに艶っぽい唇だった。
 仏をどう拝み、どう感じるかは人それぞれであっていい。「こうだ!」と解釈を強いられる仏像鑑賞を、私は好まない。跪き、目線を下げて仏を見上げるのが好きで、どの仏の前でも跪くのを習慣にしている。そんな私が感じた「艶っぽい唇」だった。背筋の柔らか曲線も美しかった。
 学生時代から奈良狂い、仏像狂いの娘に、さっそく「日本の仏像の最高峰!」とLINEしたら「中宮寺で見たからいいも~ん!」と返事が来た。「私は、広隆寺の菩薩さん派ですな」とも。
 「やっぱり、阿修羅!」と返したら、「阿修羅は、菩薩ちゃいますがな(笑)」ときた。
 「日本で最高峰といわれる半跏思惟像の弥勒様が、太秦・広隆寺の弥勒菩薩と斑鳩・中宮寺の弥勒菩薩。中宮寺の飛鳥仏のアルカイックスマイルと、京都のは、もう少し時代を経てややふっくらと優しい面差しの弥勒像。色も特徴も違うから甲乙つけがたいけどね」
 さすがに詳しくて、脱帽するしかない。

 5時の閉館迄、角度を変え目線を変え、何度も繰り返し観て慈悲の眼差しに包まれ、後ろ髪を引かれながら黄昏れ始めた風の中を戻った。
                       (2021年2月:写真:菩薩半跏思惟像・チラシ)