蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夜の幻想

2019年08月18日 | 季節の便り・旅篇


 静かに夜の闇が落ちかかる。その闇を突きぬけるように、垂直にドローンが舞いあがった。長年憧れ続けた千人の舞が、今まさに始まろうとしていた。

 暑さに茹だり部屋籠りが続くと、身体ばかりか心までが内に籠り始める。このままでは本当に夏バテの餌食になる。そんな時、「山鹿灯籠祭と、菊池渓谷・阿蘇2日間」というツアーを見付け、迷わず申し込んだ。これで今年の夏を送り出すことができる……そんな思いだった。
 同時発生した3つの台風の最後の10号が超大型台風に発達し、焦らすように鈍足で九州四国を窺い始めたのはそんな時だった。「命にかかわる超大型台風!」「自分の命は自分で守ってください!」とテレビが緊迫感を煽り立てる。汗にまみれて台風対策を施し、15日の暴風雨に備えた。15日夜の踊りは中止となり、16日のツアーの催行も危いかと思われた。
 幸い、今回も北部九州は肩透かしに終わった。小雨と微風の中に山鹿市のホームページを開いて「16日の千人灯籠踊り実施決定」を確認したのは、そんな中だった。

 午後1時40分に福岡・天神をバスで発ち、15時35分に玉名温泉「ホテルしらさぎ」にチェックイン。束の間のまどろみの後、16時45分から早々と夕食。17時15分にホテルを発って、会場の山鹿小学校に向かった。
 鶴田一郎描く妖艶な灯籠の女性を写した団扇を手に、スタンド桟敷の最前列に座って祭の始まりを待ちながら、栞で山鹿灯籠祭の由来を読んだ。
 「その昔、菊池川一帯に立ち込めた深い霧に進路を阻まれた景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人がたいまつを掲げてお迎えしました。以来、里人たちは天皇を祀り、毎年たいまつを献上したのが始まりです。室町時代になり、和紙で作られた灯籠を奉納するようになったと言われています。」
 「頭に金灯籠を掲げた浴衣姿の女性たちが、ゆったりとした情緒漂う「よへほ節」の調べにのせて、優雅に舞い踊る夏の風物詩です。 
 中でも、薄暗闇に千の灯が浮かび、櫓を中心にして渦のように流れ、揺らめく千人灯籠踊りは、観る人を幻想的な世界へ誘います」
 「よへほ」……聞き慣れない言葉である。元唄は男女の逢瀬・呼び合いを歌った土俗風の唄だったという。昭和の初めに野口雨情が詞を改め囃子詞となった。「よへ」は「酔へ」、「ほ」は肥後弁の相手の気を惹く「ほー」、あわせて、「あなたもお酔いヨ、ホラッ」というニュアンスとも書かれていた。

 午後8時、その時が来た。昨年まで総監督を務めたという山本寛斎が正面スタンドから手を振る。静寂の中に、何処からともなく涼やかなせせらぎの音が流れ始める。踊り子の列がしずしずと進んでくる。櫓の横で左右に分かれ、輪になっていく。一列2列……5列ほどの輪が櫓を囲んだ。
 圧巻だった。十重二十重と言いたくなるほどの千人の輪が頭の灯籠を光らせながら、うねるように舞い始める。決して難しい所作ではない。ゆったりと静かに揺れ動く幽玄の波だった。

  ぬしは山鹿の 骨なし燈籠
  よへほ よへほ
  骨もなけれど 肉もなし
  よへほ よへほ
  洗いすすぎも 鼓の湯籠
  よへほ よへほ
  山鹿千軒 たらいなし
  よへほ よへほ
  心あらせの 蛍の頃に
  よへほ よへほ
  とけし思いの しのび唄
  よへほ よへほ

 「ゆらり ゆらりと 酔い痴れる」……その言葉通り、ただただ夜の幻想の中で酔い痴れていた。
 カミさんと撮ったたくさんの写真の中から、3枚を組みあわせて風情を醸し出そうとしたが、あの浸り込む感動を表すには、あまりにも無力だった。
 こうして、今年の夏に別れを告げた。翌日辿った菊池渓谷の森林浴、緑を溶かし込んだせせらぎに身を浸しながら、気持ちはまだ千人踊りの輪の中にいた。
                  (2019年8月:写真:山鹿燈籠線に踊り)

無精者の呟き

2019年08月07日 | 季節の便り・虫篇

 「ひでぇ風だな!台風8号?そんなこたぁ、知っちゃぁいねぇや。これじゃあ、何処にも移動出来やしねぇじゃねぇか!プランターのパセリも俺様ひとりで殆ど平らげたし、体内時計はそろそろ蛹になれと急かしてくる。仕方ねぇや、無精してここで蛹になるとするか。ちよっと地面に近すぎて、誰かに襲われそうで怖いけどナ……蜥蜴の野郎も、この辺りをうろちょろしてるしなぁ」

 「フゥ、何とか尻尾に糸掛けて固定した。首を反らせてひと回し、背中にも糸を掛けた。あとは、時が来たら脱皮して蛹になるだけだ。……え、何だ?俄かに空が真っ黒!雷までゴロゴロ、ピカピカ!ウッ、土砂降りの夕立じゃねぇか、まいったな。必死でしがみついているしかねェか」

 つるべ打ちの台風8号、9号、10号。直撃を覚悟していた8号は、幸い佐賀から唐津に抜けて朝鮮半島に向かった。雨も風も思ったほどもなく、取り敢えずは「やれやれ」である。9号と10号の行先はまだ定かではない。3つの台風がお互いに影響し合って、高気圧を気儘にもてあそんでいる。だから気象予報士も、特に10号については進路を読みあぐねている。

 台風一過、秋立つ……そんな筈はないか、まだ立秋前である。気温は36.4度、あっという間に真夏に逆戻りである。
 気功仲間とフレンチのランチを済ませて帰り、買い物に走った。俄かに暗くなる空に、早々に帰り着いて洗濯物を取り込んだ。それを持っていたように、夕暮れのように暗くなった空に稲妻が走り、腹に響く雷鳴が轟いて、久し振りに豪快な夕立が来た。傘も役に立たないほどの激しい吹き降りである。
 実は、これを待っていた。台風の風雨で汚れた車を、雨で洗おうという魂胆である。土砂降りの中を、あえてカーポートから車を外に出した。高速ワイパーを回しても、雨の飛沫が視界を妨げる。僅か20分ほどで25ミリの豪雨、気温は一気に23.9度まで下がった。
 追っかけをするほどの「雷大好き人間」である。車の中でワクワクしながら、ガラガラドーンと轟く雷鳴と、暗雲を切り裂く稲光に見入っていた。

 雷雲が去って、夕方の青空が戻った。ヒグラシが一斉に鳴きたて、黄昏を呼び寄せる。
 
 パセリのプランターに育っていたキアゲハの幼虫のその後が気になって探した。壁際からラカンマキの生垣近くに移したから、探すのに難儀するだろうと覚悟していた。平気で5メートルや10メートルを移動し、安全な場所で蛹になる。時には手の届かない高さまで壁を登ったこともある。
 ほぼ蚕食され尽くしたパセリを片付けようと伸ばした手の先に、ちゃっかり身体を丸めた前蛹がいた。こんな近場の食草の中で蛹になるのは初めてのことだった。探す手間は省けたが、ちょっと先行き心配な事態ではある。
 無精者め、悪天候の中で待ってられなかったのだろう。しかし、これもひとつの環境への順応力。あれほどの豪雨をものともせずに、パセリの茎に身体を縛り付けて、のんびりと憩っているように見えた。明日の朝には綺麗な蛹になり、多分10日ほどで羽化の時を迎えるだろう。

 お盆明けの頃、その羽化の瞬間を連続写真で撮ることが出来たら……昆虫老人の至福、これに尽きる。

 明日は立秋……名ばかりの秋が立つ。
                   (2019年8月:写真:キアゲハ前蛹)

虹の彼方に……涼はなかった!

2019年08月03日 | 季節の便り・虫篇

 暮れなずむ西の空に、細い眉のような月が傾いでいた。それを掠めるように、イエコウモリ(アブラコウモリ)が幾何学模様の飛跡を描いて軒下に消えた。我が家の住人夫妻である。
 もう棲みついて何年になるだろう?昨年は育児にしくじり、2頭の子どもを地面に落として喪った。今年こそ、という期待と祈りを籠めながら夕空を見上げていた。
 午後7時半、昼間の38度の灼熱地獄の余熱で、まだ32度を超える熱気が肌に纏わり付く。昼間の日差しは、暑いというより痛かった。焼けた石ころに躓いただけで火花が散って、一気に空気が燃え上がりそうな暑さだった。

 しかし、すぐ南の久留米市が38.4度という全国一の記録を出したために、小さな市の太宰府はニュースにもならない。(と言っていたら、「太宰府は全国で3番目の暑さ」とニュースに出た!……こんなところで自慢してどうする。)
 「来た~ッ、38度!」と長女にメールを打つ。長女の住む横浜市都筑区は33.7度……「ふ~ん、涼しくていいね!」と、嫌みのひとつも言いたくなるような一日だった。
 熱波を押し上げるように、台風8号が九州直撃コースで急速に近付いている。今年は凄まじい夏になりそうだ。

 生い茂り、花が咲き、種になりはじめたパセリに、漸くキアゲハの幼虫が姿を現した。若齢の鳥糞状の姿から、緑の身体に黒い帯、その上にオレンジの斑点をちりばめた終齢の鮮やかな模様に脱皮していた。まだ2頭を育てるくらいの葉は残っている。よしよし、安心して見守ることにしよう。
 この苛烈な日差しを、あの小さな身体で耐えている不思議!おそらく体温もかなり高くなっているはずなのに、灼熱をものともせずに黙々とパセリの葉を貪っていた。
 スミレのプランターは、いつの間にか裸になっていた。ツマグロヒョウモンは蛹まで育つことが出来たのだろうか?

 これだけ暑いと、藪蚊も寄ってこない。蚊の活動適温は26度~31度で、35度を超えると葉陰に隠れて活動しなくなるという。
 「ざま~見やがれ、38度じゃ動けまい!(呵呵)」

 「蚊に刺されやすい人、7つの条件」というネット記事を見付けた。
   ①暗い色の服装はターゲットにされやすい
   ②蚊は「動くもの」に反応する
   ③体温が高いほうが刺されやすい
   ④蚊は人間の吐く二酸化炭素を50m先から見つけている
   ⑤ビールを飲むと蚊が寄ってくる!
   ⑥「O型」が最も刺されやすい
   ⑦肌や汗の成分も要注意(遺伝による影響大!)
 カミさんも私も血液型はO型である。しかし、カミさんの方が遥かに蚊に弱い。体温は私の方が高い。但し、私は外気温に敏感に反応する自称「変温動物」である。
 さて、カミさんが蚊に弱い要因は何だろう?……そんなことを考えていたら、余計に暑くなった。

 撒水のホースを思い切り高く掲げて、小さな虹を描く。束の間の、ささやかな暑気払いである。しかし、蛇口を閉めた途端、頭頂にガツンと炎の矢が突き刺さった。箱庭のような虹の彼方に、涼はなかった。
                   (2019年8月:写真:キアゲハの幼虫)

転寝から目覚めて

2019年08月02日 | 季節の便り・虫篇

 苛烈な日差しをものともせずに繁り続ける雑草を前に、ただ茫然と佇む。気温は37.3度と、今年の記録を更新した。「高温注意情報」という赤いテロップがテレビに流れる。「命の危険にかかわる暑さ」といわれても、この気紛れな気象をどうすればいいのだろう?
 いや、気紛れではない。年々「異常気象」という言葉が繰り返され、過去の異常は今は通常……その根底に、いつも「人間の営み」がある。愚行がある。
 ホモサピエンスは本当に叡智ある生き物なのだろうか?地球環境を破壊する愚かな動物は、懲りることなく更に破壊を加速し続けている。既に折り返し点を過ぎてしまった地球環境は、もう決して元に戻すことは出来ない。
 更に、自ら生み出したSNSという怪物が人間性さえ破壊し、会話能力さえ喪った歪な人間を大量に生み出している。電話を取れない若者が増えているというニュースに慄然とした。スマホという小さな密室に籠り、指先だけで、自ら名乗ることもなく、無責任に呟くことしか知らないから、電話が鳴ってもどう受け答えしていいかわからず立ち竦むという。

 数え上げればきりがない「人類滅亡」の予兆を感じながら、その悲惨な末路を見ることなく彼岸に渡れることを喜ぼう。いい時代に生きた、最後の世代かもしれないと思う。敗戦後の破壊し尽くされた大地で食べるものもない時代に育ち、無から有を生み出す喜びを実感しながら高度成長の企業戦士として働き、バブル崩壊と同時にリタイアして、13年間地域に奉仕し、そして今本当の「余生」の中にいる。曲がりくねった人生行路を振り返っても、そこには満ち潮しかない。

 少し痛めた腰がよくなったら、早朝の草取りという不毛の戦いを始めよう。昨日8月1日は、人工股関節置換手術1周年記念日だった。いまは何の違和感もなく、股関節を意識することもない。医術の進歩には、素直に感謝の頭を下げよう。
 今朝、カミさんに頼んで、数少なくなった山野草の鉢を真夏の棲家に移してもらった。日当たりを微妙に管理しなければならない山野草である。冬は日当たりのいいところに、そのあと半日陰に移し、この苛酷な日差しの真夏には、セミの誕生が終わった八朔の根方の日陰に移す。

 さて、昨日の「昆虫、やばいぜ!」の続き……。

 オオカバマダラという蝶がいる。アメリカ北東部から5000キロ離れたメキシコまで、1年に2度の南下と北上の大移動をする。北米で生まれたオオカバマダラは、秋になると南下を始め、温かいメキシコや南カリフォルニアの森で越冬する。その数、なんと数億頭!鈴なりになったオオカバマダラの重みで、枝が折れることもあるという。そして春には北上を開始し、世代交代を重ねながら北米に辿り着く。
 ところが、環境変化により食草の分布が北上し、オオカバマダラは更に長い距離を飛ばなければならなくなった。地域によっては、この20年間でその数が2割に激減しているという。
 しかし、ここからが「昆虫、すごいぜ!」ということになる。ある研究によると、150年前に比べオオカバマダラの翅の面積が4.9%広くなっているというのだ。
 より広くなった翅で上昇気流を捉え、より遠い距離を飛べるように進化……これこそ真の叡智、大自然の本能が生み出す生存への叡智である。
 廃炉に40年以上もかかり、人知では制御しきれない原発を、懲りることもなく再稼働するような大馬鹿ではない。
 
 外は煉獄!焼ける日差しの下、今日は元気なハンミョウさえ姿を見せない。カラッカラに乾いた洗濯物も、取り込むのは日が陰ってからにしよう。28度に控えた冷房でも、9度の温度差は厳しい。せめておとなしく夕方を待つぐらいの知恵しか、今日の私にはない。
             (2019年8月:写真:オオカバマダラ  ネットから借用)

「昆虫、やばいぜ!」

2019年08月01日 | 季節の便り・虫篇

 こんな姿で再会したくはなかった。多分、再会まで半世紀を超える時間が流れている。

 あれは中学生の頃だった。ひたすら、母校の小学校の裏山・西公園に365日通い詰めて虫を追った。まだ、採集することにうつつを抜かしていた頃である。埋め立てされてない時代、博多湾に突き出した小さな小山。春は桜、秋は紅葉が全山を彩り、酔客の喧騒の季節さえ外せば、笹に覆われた細い径は、昆虫少年」の無我の世界だった。
 この時期、この時間、何処の小径に立つと、どの方向に、どんな蝶が飛んでいく……「蝶道」という地図さえ頭に入り、思うままに捕虫網を振るった。
 木陰にはヒカゲチョウやジャノメチョウが飛び交う。山道から笹薮に踏み込んでクヌギの樹を探し、樹液に群がる虫たちを拾うように採集した。カブトムシ、ヒラタクワガタ、ノコギリクワガタ、青緑に輝くアオカナブン、クロキマワリ、サビキコリ……妙に気に入っていたのは、背中に赤い4つの斑紋を持つヨツボシケシキスイだった。
 いろいろな蝶も訪れる。時にはスズメバチもいて、採集を試みて刺されたこともあった。無謀でもあり、純粋でもあった昆虫少年……そのなれの果てが今の「昆虫老年」の私である。
 何もなかった時代である。捕虫網も、蝶を納める三角紙も三角ケースも、蝶の翅を拡げる展翅台も、勿論採集した虫たちを納める標本箱も、全て手作りだった。ピンセットさえ竹を割り削って自製していた。

 その頃初めて、ノコギリカミキリを捕まえた。黒光りする背中、鋸のようにギザギザの触角、肩にある鋭い棘、両脇を親指と人差し指で掴むと、後ろ脚を前翅に擦りつけてギーギーと音を立てる。腐敗しないようにホルマリンを注入し、触角や脚の形を整えて標本に固める。暫くの間、私の標本箱のセンターを取っていた虫だった。
 採集することにうつつを抜かしていたのは中学校までだった。やがて食草ごと採って来て幼虫から育て、羽化して飛び立つ姿を見送ったり、カメラに納めることで満たされるようになった。今、我が家のプランターのスミレの群落はツマグロヒョウモンの為、そして生い繁るパセリはキアゲハの為……その原点が、65年前のこの頃にある。
 早春の大宰府政庁近くの道端で、スカンポの葉裏に冬を越したベニシジミの幼虫を見付けた日のことは今も忘れない。雪に埋もれて、半ば凍結した状態で冬を越す逞しさ、春の日溜まりをチロチロと小さな炎のように舞うベニシジミは、私の最も好きな蝶になった。

 庭の片隅で、梅雨明けと共に延びはじめた雑草に包まれるように、あの懐かしいノコギリカミキリが骸になって転がっていた。近くにビロードコガネも脚を縮めて蟻の引くままになっている。
 虫も焼き尽くすほどの猛暑である。連日、35度を超える猛暑日が続いている。
 蝉の骸も目立つようになった。姦しい鳴き声も、彼らにとっては雌を惹き付けるための、懸命の求愛の歌声である。鳴き疲れ、交尾を済ませた雄や産卵を終えた雌は、やがて力尽きて地に落ち、蟻に身を任せる。まだ8月にもならないのに、沢山の虫たちの命が尽きていく。
 そんな暑さをものともせずに、庭の散策にいつも付き合ってくれるのは、2匹に増えたハンミョウだけである。

 そして、8月が来た。

 今夜の番組に、カマキリ先生・香川照之の「昆虫すごい!やばい!」と出ていた。遥々コスタリカまで虫を追っかけて行ったらしい。歌舞伎役者の市川中車としてより、カマキリの着ぐるみを着たの彼の方が遥かに生き生きしていると思う。
 「やばい!」という言葉が気になる。近年、昆虫の絶滅が増えているというニュースを見た。人間一人当たり3億匹とも5匹億ともいう昆虫の個体数だが、絶滅していく数も半端じゃないのだろう。

 今日も36.1度。明後日に、38度の予報が出た!

 何故か、ハナミズキにニイニイゼミが群れる。これも今年初めての現象だった。数年後には、このハナミズキの枝にたくさんの空蝉がしがみつくことだろう。
 その光景を絶対に見届けてやろう、と決意している自分がいた。
                  (2019年8月:ノコギリカミキリの骸)

<追記>
 「昆虫カタストロフィー」⇒⇒「人間カタストロフィー」という、怖ろしい内容を示唆する番組だった。毎年2.5%昆虫の数が減り続けているという。100年後には、僅か1%に激減……食物連鎖の最下層の昆虫が激減すれば、やがてその連鎖は上層に及び、人類も滅亡に到る。更に、植物の80%が昆虫に依存して授粉している。その機能が失われれば、廻りまわってやはり人間のカタストロフィーに結び付くというのだ。
 誕生以来4億年の間に、昆虫は幾度もの生物絶滅期を生き延びてきた。既に、環境に順応して変化(進化)を始めている昆虫も確認されているという。加速しながら絶滅期に突入した人類……人間が亡びた後に地球を席巻するのは昆虫か、それともウイルスか?……いずれにしろ、人間が地球最悪の害獣であることに疑いはない。