蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

造形の妙

2005年06月21日 | 季節の便り・虫篇

 草をむしる指先に、額から汗の滴が落ちた。梅雨に入ってもう10日あまりというのに、雨が降らないままに鉛色の空から暑熱だけがのしかかる。じっとりと重い空気を分けるようにして一匹のツマグロヒョウモンが舞い降りた。
 我が蟋蟀(コオロギ)庵の庭には、訪れる蝶たちのための席が用意してある。八朔にはアゲハチョウが、スミレの群落にはツマグロヒョウモンが、ギシギシにはベニシジミが、そしてプランターのパセリは我が家の食卓用ではなく、キアゲハが訪れて卵を産み落とすために植えられている。やがて卵を産み終わった蝶たちは、白い穂を立てるオカトラノオの花蜜を吸って暫しの憩いの時をすごし、また大空に舞い上がっていく。
 蝶の卵は小さすぎてなかなか人の目にふれないが、ルーペに捉えられるその色と形はまさに造形の妙、ケーキのような果物のような、実に見事と言うほかはない。やがて卵から孵った幼虫はそれぞれの食草を食べながら育っていくが、幼虫の姿形もまた美しい。多くの人は「毛虫!」のひとことで文字通り毛嫌いするが、目を凝らせばその造形の妙に目を見張るに違いないのだ。
 昔、九州大学の世界的魚類学者・内田恵太郎先生の随筆にこんな意味の言葉を読んだ。…人は怖い、嫌いと思ったら一歩退いてしまう。逆に一歩前に出て目を近づけてごらん、きっと嫌いなものにも好きになれる何かが見付かるはずだよ…子供や孫達にもこのことを教えてきた。おかげで二人の娘は「虫愛ずる姫君」に育ち、虫は勿論、沖縄ではキノボリトカゲをポケットに忍ばせて遊ぶまでになった。その影響を受けて二人の孫娘も小さな生き物に関心を寄せ、帰省するたびに「ジージ、虫採りに行こうよ」とせがむ。蟋蟀庵の孫育ての極意は「野に放つ」ことにある。
 都会っ子がデパートでカブトムシやクワガタを買う姿は哀しい。年間輸入量100万匹と聞いて絶句したことがある。それを商売にして助長している大人達が腹立たしい。夜中に起きて雑木林を巡り、櫟の樹液に寄るクワガタやカブトを見つけて感動する環境から、子供達がどんどん遠ざけられている。子供の好き嫌いは、その多くが親に起因しているのも事実だろう。親の無責任な「汚い!怖い!危ない!いけません!やめなさい!」といった発言が、どれだけ子供達の旺盛な好奇心を摘み取っていることだろう。生まれながらの子供には、嫌いなもの怖いものなんて決してなかったはずなのだ。
 「…と、こんなグチを言うようになったらもう歳だな。」と苦笑いしながら、今日も降りそうにない空を見上げて、又ひとしきり庭の草取りに精出す蟋蟀庵ご隠居だった。
             (2005年6月:写真:ツマグロヒョウモン)

至福のひとときー追想のバリ・その4ー

2005年06月10日 | 季節の便り・旅篇

 芳醇な香りと、とろけるよう滑らかな感触に、目が潤むほどの陶酔があった。鼻先までは異臭といっていいほどに強烈な匂いがありながら、口に入れたとたんに甘く濃密な香りが膨らむ。唇を境にこれほど劇的に味わいを変える食べ物を私は他に知らない。
 ガイドブックにこんな表現があって、思わず笑ってしまった。「プロパンガスの栓を開けっ放しにした部屋にクサヤを置き、それに腐ったニラのエキスを振りかけた感じ…」それではあまりに果物の王・ドリアンに失礼というものだろう。
 かつてバンコクの水上マーケットで初めてドリアンに出会った。チャオオプラヤ河(メナム河)の小さな支流に、笹舟を大きくしたような鋭角の舳先を持つ水上タクシーで滑り込むと、たくさんの小舟が果物や土産物などを山積みして寄ってくる。色々な果物が日本の感覚ではタダ同然の安い値段の中で、ひとりドリアンだけは3000円ほどの高値が付いていた。折角ここまで来て幻の「果物の王様」から目を背けては罰が当たる。
 喩えようのない不思議な匂いだった。仲間の多くは、その匂いだけで吐きそうな顔になり、とうとう最後まで手を出せなかった。その強烈な匂い故に、ホテルやレストランは持ち込み禁止であるし。勿論お土産に航空機に持ち込むなどもってのほか。屋外で食べる機会がない限り決してお目に掛かれない幻の逸品なのだ。
 棘だらけの外皮の中から黄色いネットリとした果肉が現れる。それを指で掬い取るようにして口に運ぶと、一瞬にしてこの世にない絶妙の味わいが広がった…以来病みつきとなって、再会の機会をひたすら待つことになる。強烈なバンコクの思い出のひとつである。
 
 二度目のバリの大きな目的は「ドリアン再見」にあった。その為の季節を選んだ。ボロブドゥール、プランバナンの日帰りツアーだけで、あとは一切フリーという願ってもないプランを見付けて申し込んだ。「2名以上催行」という条件が意外な幸運をもたらすことになる。オフを狙ったのが奏功したのだろう、何と参加者は私達だけとなり、個人ツアーに等しい好き勝手な贅沢をさせて貰うことになったのだ。これが結果としてドリアンを呼び込むことになる。
 再び最古の仏教遺跡・ボロブドゥールを訪ね、プランバナンの遺跡を存分に歩いた。最大の規模を誇るヒンズー教寺院ロロ・ジョングランのシバ堂を中心とするビシュヌ堂やブラフマー堂等の聖堂はまだ数多くの瓦礫に囲まれ、年々ひとつずつ再建が進められている。その周辺にチャンディ・カラサン、チャンディ・サリ、チャンディ・セウ、チャンディ・プラオサン等の仏教寺院が点在し、ヒンズー教と仏教のチャンディ群を短時間で鑑賞することが出来る。ボロブドゥールの圧倒的迫力とはひと味違った、美しい観光スポットである。
 バリに帰り着けば再び無為の至福の時が待っていた。そんな一日、ガイドに無理を言って、前回訪ね損ねたバリ・ヒンズーの総本山であるベサキ寺院に走ってもらうことにした。バリ島最高峰の聖なる山アグン山の中腹の斜面に階段を連ねて、伽藍が立つ。割れ門をくぐり、数々の塔や石像の表情に触れて歩いた。ガイドがバリの正装で現れたのに驚いたが、これがここでの規則、「聖なる場所」を訪れる常識なのだ。観光客も肌を大きく露出することは許されない。ノースリーブ、ショートパンツは当然御法度。先年娘が訪れたときはバリの衣装を借りたそうだが、今回は腰に色鮮やかな布帯を巻くことで拝観を許された。これも観光地バリのひとつの変化と思うと、一抹の寂しさがある。
 殆ど毎日、バリの何処かの寺院で祭があるが、この日のベサキ寺院も正装に着飾ったたくさんの人々が捧げ物を抱いて列をなしていた。寺院のここかしこから、竹で作った素朴な風琴がカラカラと乾いた音を響かせる。雲に包まれたアグン山の山頂から吹き下ろす風に、風琴の響きが一段と冴えた。
 その帰路の道端にドリアンの売り子を見付けた。思わず駆け寄ろうとするのをガイドが引き止めた。「観光客と見たら高い値が付きます。私が買ってくるから、知らん顔して通り過ぎなさい。」
 二つも抱えてきたのを、ガイドの車の中で運転手と4人でむさぼり食べた。何という芳醇な味わいだろう。王の王たる所以、ここにあり…そんな思いでドリアンとの贅沢な再会にのめり込んだのだった。その2個のドリアンを、ガイドは自分が奢ると言って聞かない。こんな贅沢な物を甘えていいのだろうか、と幸せを噛みしめる一方、ここではそれ程に普通の果物なんだな、と納得する出来事でもあった。

 数日後、真っ黒に日焼けして満たされた心でバリを去るに当たり、デンパサール空港まで同じガイドと運転手が送ってくれることになった。その車中、ニコニコ笑いながら彼がビニール袋から出してきたのが、何とふたつのドリアンだった。「もう一度食べてもらいたくて買って来ました。ご一緒にいかがですか。」これも彼の奢りだという。
 もう言葉がない…。これ以上何の言葉があろう。バリには限りない至福があった。
            (1997年11月:写真:ベサキ寺院)

仏に吹く風ー追想のバリ・その3ー

2005年06月10日 | 季節の便り・旅篇

 椰子の木をまじえた粗い木立の向こうに、圧倒的な存在感で巨大な石造りの建造物が立ち上がった。一瞬絶句した。頭の中の物差しで実寸の知識はあったけれども、眼前に聳え立ち上がる遺跡は想像を遙かに超えていた。世界最大の仏教遺跡・ボロブドゥールがそこにあった。

 その存在を知って10年、カンボジアのアンコール・ワット、バンコクのワット・アルン(暁の寺)と並んで、心の中で暖めながら次第に憧れが膨らんでいった遺跡を、今ようやく自分の目で確かめようとしていた。先を越して学生時代に訪れた上の娘が、現実の情報をいろいろとインプットしてくれたお陰で、インドネシア・ジャワ島への憧れはもう抑え切れないところまで高まっていた。(この時点では、バリ島はまだ「序でに立ち寄るリゾート基地」という存在でしかなかった。)
 憧れがあまりに長いと、遭遇したときの現実味は逆に希薄になってしまう。かつてバンコクでワット・アルンの急傾斜の石段に立ったときがやはりそうだった。三島由紀夫の小説で知ったあの「暁の寺」が殆ど現実味のない実像としてそこにあった。耳たぶから滴る汗にうだりながら、華麗にして重厚な塔を見上げて呆然と言葉を失っていた。
 バリ島のデンパサール空港からガルーダ・インドネシア航空のジェットでジャワ島のジョクジャカルタに飛んだ。小さな海峡を渡ると、眼下に森林と畑の広がるのどかな田園風景を垣間見ながら、雲の間をすり抜けていく。円錐型の鋭い山容が幾つか雲を突き抜け、この島が火山島であることを肯かせる。小一時間のフライトで空港に降り立ち、マイクロバスで一時間余り揺られてきたはずなのに、何故かその間の風景などの記憶が欠落してしまっている。その翌年、再度同じコースを走ったときもやはり同じだった。おそらく心は既にボロブドゥールに奪われてしまっていたのだろう。
 最上段のストゥーバの先端だけを残して火山灰に埋もれていたのを長い年月をかけて発掘し、その全容が現れたのが1835年。周辺が歴史公園として整備され、本格的に観光客を受け入れ始めてから、まだ10年の余しか経っていない。
 一辺113メートルの方形二層の基壇の上に、下四層の方形回廊、上三層の円壇を重ねて、高さ34メートル、九層の回廊の総延長10キロという数字の上の寸法では図り知れない圧倒的な存在感で、それは聳え立っていた。
 地下の一層を含めた二層の基壇部分は「欲望の界」、その上の四層の方形回廊は「有形の界」、そして最上階三層の円壇は悟りの「無形の界」という。回廊の壁面に隙間なく彫られた1460ものレリーフを全て見尽くすには、あまりにも時間が足りない。
 悪行の数々を描く地下の第一層(分別善悪報応教)、釈尊の生涯を表す第一回廊(方広大荘厳教)、善財童子が普賢菩薩に出会うまでを描く第二、第三回廊(大方広仏華厳教入法界品)…そんな知識は後刻ガイドブックを読み直して得たものであって、その場ではただひたすら圧倒されるばかりだった。帰って見直そうとやたらにシャッターを切りながら、信仰がもたらす巨大な力に、敗北感に似た思いで打ちのめされていた。
 回廊のレリーフの上部に彫られた仏像の表情も捨てがたいものだった。円壇に置かれた数え切れないほどのストゥーバの石の格子の中に一体ずつ納められた仏像が素晴らしかった。ひとつひとつの方形や菱形の格子を覗きながら、眩しい熱帯の日差しの影を格子状に身体に置いた仏体を拝するうちに、不思議な静謐が心に宿り始める。信仰の有無とは全く違う次元で、ひたひたと心に寄せてくるものがあった。
 中央のストゥーバを背に、見晴るかす広大な風景が心の静謐の上に豊かな安らぎを拡げていく。吹く風さえどことなく爽やかに感じられて、心は限りなく幸せだった。
 およそ1200年の昔、この地にシャイレンドラという仏教王国が栄えた。その歴代の王達によって築かれた世界最大にして最古の仏教遺跡・ボロブドゥール。憧れ続けて10年の歳月を一気に飛ばして、限られた旅のひとときが終わろうとしていた。
 戦禍の傷跡癒えず、無数の地雷がいまだに住民の命を奪い続けるカンボジア・アンコール・ワットはようやく旅人への門戸を開いたが、まだ不安がつきまとう。戦禍に加えジャングルの営みと後を絶たない盗人が荒廃を進めている。
 それに引き換え、日本の国際協力事業団を含む世界中の智恵と資金で整備が進むボロブドゥール、そして訪れるのに何の不安もないインドネシアのお国柄が嬉しい。仏の大慈大悲が、今も注がれ続けているということなのだろうか。
 人は皆何かを信じて生きている。それは決して既成の神や仏でなくともいい。十字架やご神体や仏像でなくともいい。朝日に頭を垂れ、夕日に感謝し、日々何か大きなものに生かされている自分にふと気が付いて謙虚な気持ちになる、そして周りの人達に少しばかり優しくなる…そんな信仰に似た気持ちがあってもいいのではないだろうか。
 仏に吹く風に包まれて、ひとつ自分が大きくなったようなきがしながら、まだ強い日差しの中をボロブドゥールを後にした。
          (1997年年10月:写真:ボロブドゥール遺跡)

天国の落日ー追想のバリ・その2ー

2005年06月10日 | 季節の便り・旅篇

 机の上に置いた透明なシートの下に、2枚の写真がある。バリ島ヌサ・ドゥアの朝日と、ハワイ・マウイ等の夕日。海のうねりも雲の佇まいも、黙って示されたらどちらが夕日でどちらが朝日なのか全く区別がつかない。ファインダーを覗いた私だけが知る微妙な違いなのだが、太平洋とインド洋の波頭を煌めかせ雲を染める太陽には、共通するある潔さがある。
 水平線を割り、天頂に向かって躍り上がる朝日は黎明を引きずらないし、雲を一瞬燃え上がらせて波間に沈む夕日も、決して黄昏を引きずらない。明け惑い、暮れなずむ曖昧な昼と夜の交代劇の躊躇いが見事なまでにないのだ。
 太陽の下縁が水平線を離れた瞬間に、もう眩しく輝く昼が始まり、上縁が波間に没した瞬間に潔く一気に夜の帳が引き下ろされる。
 日の出と日没の違いは、見る者の心の中にだけ存在する。目覚めと、新たなる一日の始まりに寄せる漠然とした期待が朝日をより眩しくさせ、いつものように何事もなく一日を終え、少しの安堵と少しの諦めを心に取り残して去っていく夕日をもの哀しくさせる。朝日に喜びを、夕日に哀しみを感じさせてくれるのは全て人の心のなせるわざなのだが、何かに託してみたくなる…それが私自身にとっての太陽の存在感だった。

 「タナロット寺院の夕日を見に行こう!」発作的に思った。バリ島西部のロック・テンプル。若者のビーチ・クタの夕日をはじめとして、バリには数々の夕日のビュー・スポットがあるが、波に洗われる巌上に幾つかの重層の屋根を連ねて、残照の中に黒いシルエットを見せるタナロット寺院の夕景は、自分なりに必見と決めていた。
 早速、ホテルのロビーで遊んでいるガイドをつかまえて交渉にかかった。例によって「Mahal(高いよ)!」を幾度かやりとりして、およそ3500円で往復3時間ほどのサンセット・ツアーをまとめた。

 釣瓶落としの夕日を追いながらタナロットに向かい、程よい刻限に到着した。もう日暮れ近いというのに、小さな子供達が観光客に纏わりつきながら絵葉書を売っている。何故かどこに行っても、何を売っていても「千円、シェンエン!」で全てが決まる。カエルの民芸品1個が5個になり、最後に10は個になる。「一枚シェンエン!」の帽子が最後には10枚になって、「10枚もいらないよ、1枚100円なら買うよ」という算数が通用しない不思議な観光地商売は、バンコクでも同じだった。そんな掛け合いを楽しむのもアジアならではの旅なのだ。
 可愛い女の子にせがまれて10枚つながった絵葉書セットを10セット、千円で買ってしまった。(これでもインドネシアの大卒の給料1万円、一流ホテルの女子店員の給料3500円という相場では大変な高い買い物なのだ。)

 海に面した崖の上の茶店の籐のベンチに座り、ココヤシを抱えてその青臭く薄い甘みのジュースを飲みながら日没を待った。雲を染める夕焼けが今宵は一段と美しい。夕日の映える島・バリでも、いつでも見事な夕日に巡り会える訳ではない、とガイドがしきりに胸を張る。
 穏やかな海に最後の煌めきを輝かせて太陽が没すると、一気に夜が来た。黒い寺院のシルエットはどこまでも静かに佇み、中天から幕を引き下ろしたように、圧倒的な広がりで星空が落ちてくる。星屑が降るという程度ではない。空そのものが無数の輝きを包み込んだまま、一気に落ちてくるのだ。
 厚みのある闇が、満天の星を限りなく深くする。必見、タナロットの日没。3500円は決して無駄な投資ではなかった。

 帰路、クタの街を走った。かつての小さな漁村は、ヒッピーに発見され、オーストラリアのサーファーに育てられて、今では世界中の若者がサーフボードを抱えて集まるビーチとなった。島の人々も若者も、ちょっと高級なビーチに憩うリゾート客も夕日を見に集まり、昼間以上の賑わいとなる。高級なブティックから屋台に近い店まで、様々な顔を持つクタの街は、決して飽きることがない。小さな蛍光灯だけの店先には、眩しいまでにライトアップされた日本の商店街には見られない、懐かしい温もりがある。
 なけなしの千円札を握った若者でも、万札を懐に潜ませたハイソサエティーでも、分け隔てなく楽しませてくれる不思議な街・クタ。
 Selamat Pagi(おはよう)、Terima kasih(ありがとう)、Mahal(高い)、たった三つのインドネシア語で全てが楽しめる島・バリ。天国が、手の届きそうな所にある、そんな豊かな心にさせてくれるこの島を、自分自身の生涯のリゾート地と決めて、今年も訪ねるチャンスを窺い続けながら過ぎようとしている。
          (1997年10月:写真:タナロットの夕日)

無為の贅沢ー追想のバリ・その1ー

2005年06月10日 | 季節の便り・旅篇

 瞼の裏にオレンジ色を焼き付けて太陽が燃えた。南緯10度に満たない殆ど赤道直下の日差しは、まさに壮絶といいたいほどに強烈だった。
 椰子の木陰に置いたデッキチェアーに懶惰に横たわり、文庫本を片手に無為の時を流しながら、心は限りなく贅沢だった。向こう1週間何の予定もない。気が向けば海に飛び込み、空腹になればボーイを呼び、うつらうつらと熱帯の日差しの中でまどろみながら、無造作に自分を放り出しておく。何もしない贅沢を初めて知ったのが、ここバリ島のビーチだった。
 インド洋とティモール海が接するあたりの外洋の波涛は豪快に沸き立ち、この島が世界中の若者達のサーフィンのメッカであることを文句なしに頷かせる。その波音の合間に、空の高いところから鳥の形をした大きな凧の羽音が降ってくる。それにかぶさるように椰子の木立の奥からけだるいガムランの音楽が響く。日差しは苛烈なまでに強いのだが、吹き抜ける海風が汗を拭い去り、日本の夏のような不快感はない。時たま熱い砂を踏んで頭から涛に飛び込んでは、またデッキチェアーに寝そべって肌に塩を吹かせる。太陽が西に傾き、華麗な残照の夕焼けが始まるまで、贅沢な無為の時が過ぎていった。
 多島海インドネシア中南部の外れ、ジャワ島の東に潜むように小さな島・バリがある。その又南の外れに小さな島を橋で繋いで、全島リゾートとして開発されたヌサ・ドゥア。五つ星クラスのホテルが点在し、ゴルフ場と専用ビーチを持ったここは、一般の人々を中に入れない、治安と美観に何の不安もない別天地である。

 先年、ジャワ島にある世界最大の仏教遺跡ボロブドゥールを観たくて初めてインドネシアを訪れた。そのツアーに組み込まれていたのがここヌサ・ドゥアのバリ・ヒルトン・ホテルだった。椰子の木立に囲まれ、バリ特有の数々の石像を配して、一切の壁や扉を取り払ったエントランスからロビーへの佇まいに魅せられて、以来ここがバリの定宿になった。
 5月の連休を終え、日本では観光の端境期になる頃訪れると、日本人の姿も少なくなり、迎えるスタッフも、特に夫婦者や家族連れの客には限りなく優しくなる。  
 初めての時は、何も解らないままに旅行社任せの盛り沢山のツアーだった。デンパサールの街を歩き、ジャワ島のジョクジャカルタに飛んで、ボロブドゥールやプランバナンのヒンズー教の寺院を観て再びバリに戻り、ロブスター・ディナーを楽しみながらバロン・ダンスやケチャック・ダンスを観賞して、バリ絵画の村ウブドゥ、木彫りの村マス、銀細工の村チュルク等を駆け足で回り、キンタマーニ高原に駆け上がってインドネシア料理を食べ…やたらに忙しい旅をした。
 純化された特有のバリ・ヒンズー教の信仰と歌や踊りの芸能、バリ・アートと言われる絵画や彫刻や金銀細工、バティック(蝋染め)やイカット(絣)という染色織物、それらが日常生活の中に渾然一体となって何の違和感もない。“神々に最も近い島”として一度訪れたら病みつきになってしまう島の観光は忘れ難いものだったが、それにも増して何よりもの収穫は「何もしない贅沢」を身をもって知ったことだった。
 昼間のビーチやプール・サイドに日本人の姿はない。右往左往しながら「元を取らなきゃ損」とばかり駆け回り、疲れ切ってホテルに戻って寝てしまう日本人観光客の姿を見て、あれが昨日までの自分たちだったのだと思うとおぞましい。リゾート、バカンスに関してはまだまだ日本は後進国なのだろう。オーストラリアやヨーロッパからの滞在客は、すべからく何もしない。一見怠惰に見えて実は何という贅沢な過ごし方だろう。
 日が傾いた頃ビーチを引き上げ、途中プールに飛び込んで塩を洗い落とし、少し着飾って今夜は隣のホテルのダイニング・ルームでディナーを楽しむことにしよう。ギターを抱えたトリオが寄ってきて、ラテン・ナンバーのリクエストに応えてくれる。それを快く聴きながら、キャンドルの淡い光に包まれて摂るディナーの何とリッチであったことか。
 昨日はシャトル・バスに乗って夕暮れのクタの街に出掛け、英語を話せないドイツ人と日本人の夫婦4人連れが、英語の通じない街でショッピングするという珍道中を楽しんだ。これが旅なんだな…そんな確かな実感があってやたらに嬉しかった。

 日が落ちるとバリに深い闇が落ちる。もう日本ではよほどの山奥に行かないと見ることが出来ない濃密な夜がやってくる。殆どの商店も民家も短い蛍光灯1本だから、夜空に光が拡散することがない。見上げると幾層もの厚みを持った奥行きのある夜空が、怒濤のように落ちかかってくる。憧れ続けた南十字星でさえ、この絢爛たる星屑の海では慎ましく目立たない存在でしかない。わざわざ椰子の木に擦り寄り、その葉末に南十字星を搦めてようやく確認しなければならなかったほどに、この星空は華麗だった。そしてそれを引き立てる豊かな闇があった。

 3年間の空白が、しきりにバリに心をいざなう。守護神ガルーダが呼びかけてくる。ガムランの音色が心の奥に蘇る。…心を揺する振幅が次第に止められなくなって、思わず吐息を洩らしてしまう…それが私達のバリなのだ。
            (1997年10月:写真:バリ・ヒルトン・ホテル)

バックルーアラスカ紀行番外編ー

2005年06月09日 | 季節の便り・旅篇

 もう2年前になるだろうか。ロスに住む娘がジーンズ用のベルトに着ける一つのバックルを送ってくれた。「アメリカン・イーグル」の精悍な横顔が見事に彫り出されている逸品である。ズッシリと重い合金が黒ずんだあかがね色の光沢を帯びて、猛禽の風格を一段と高めている。
 メキシコのティワナで「貧乏プライス、見るだけタダね!」という売り込みの声に乗せられて、冷やかしに買ったベルトがある。本牛革という売り込みだったが、明らかに馬の一枚皮であり、紋様も型押ししただけの安物と承知で普段用に買ってきた。40ドルを20ドルにまけさせ、ホクホクしていたところ、後日ロスのメキシコ人街の屋台で遙かに安く売られていたという、お笑い付きのベルトである。さすがに、こんな安物に着けるには勿体なく、親しい友人に頼んで本格的革細工師に、バックルに相応しいベルトを作ってもらった。2枚あわせの牛革に全面細かい細工を彫り込んだ、これ又逸品というべき仕上がりだった。バックルとベルトの彫刻が調和し、しかも革が腰に馴染み、使い込む程に衣服にバックルが磨かれて次第に輝いてくる。私の自慢の愛用品である。
 その細工を頼んでくれた友人も又バックルのコレクションにハマッテおり、ネイティブ・アメリカンのアパッチ族の大酋長・ジェロニモの横顔を彫り込んだバックルなどをさりげなく着けてくる。いつか彼に面白いバックルをプレゼントしようと、海外に行くたびに心がけてきたが、その願いはまだ果たせていなかった。
 アラスカの州都ジュノーをクルーズで訪れたとき、街の土産物屋のショー・ウインドーで数点のバックルを見つけた。「あった!」と思わず心の中で快哉を叫んでいた。「ワタリガラスのトーテムを見たい!」というのが、この旅の大きな期待の一つだった。先住民クリンギット族やハイダ族に伝わる伝説や神話を彫りあげたトーテム・ポールに、熊、鷲、シャチ、鮭、ワタリガラス等が登場する。3番目の寄港地ケチカンにその期待があったのだが、ひと足早くこのジュノーで見つけたバックルに、その全ての紋様が彫り込まれていたのだ。
 残念ながらトーテムの紋様のバックルはひとつしなく、これはさすがに譲り難い。「ゴメンね!」と心で詫びながら、友人には後日シアトルのマーケットで見つけたイーグルの模様のバックルを持ち帰ることにした。
 今、やや膨れ始めた私の腰をキリリと締め上げるベルトの中央に、そのバックルが鈍く黒ずんだ輝きを見せている。アラスカ・クルーズの一番の土産である。いつもは外に垂らすシャツの裾をジーンズの中に押し込み、これ見よがしに歩く姿は我ながらは少し滑稽である。今のところ、まだ誰も気づいてくれない。
          (2005年6月:写真:トーテムのバックル)

旅の出会いーアラスカ紀行5ー

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 アラスカ洋上3日目、初日の大揺れが嘘のように微動ひとつない静かなスイートのキャビンに目覚めて朝食に出たとき、ドアの外に嬉しい演出があった。キャプテンからの青いバルーンが二つと、『HAPPY ANNIVERSARY!』のメッセージが貼り出されていたのだ。(ツアーの関係で、お祝いのケーキとクルー達のお祝いの歌は2日後の2ndフォーマル・ナイトのディナーの席に用意された。)
 2814名の乗客の内、日本人は34名、その中に日毎親しみを増していった二組のご夫婦があった。宮崎の歯科医のN夫妻と、千葉から参加のW夫妻。ある不思議な偶然が、この二組のご夫妻との距離を急速に縮めていった。Nさんは私のかつての会社の同僚とゴルフ仲間、そしてWさんは『地球交響曲』と星野道夫に想いを寄せるという共通の話題を持ち、しかも同じ結婚40周年のご夫妻だった。
 はるばる8千キロを飛んだ東南アラスカのたった34人、その中で見つけた偶然の接点、これはもう奇蹟としか言いようがない。これこそが旅の醍醐味であり、出会いの不思議さでもあるのだ。
 二度のフォーマル・ナイトの緊張も楽しい語らいでほぐれ、オプショナル・ツアーを一緒にしたり、写真を撮り合ったり、美しい洋上の夕日を見送ったり、カジノで遊んだり、ヴィクトリアの夜の街を散策したり…やや天候に恵まれずツアーが淋しかっただけに、この語らいは貴重だった。マルガリータやアラスカン・ビアを飲みながらダンスに興じたのも楽しいひとときだった。まさに『旅は道連れ』である。
 ケチカン出航後の2ndフォーマル・ナイトの仕上げは、吹き抜けのロビーで開かれたシャンペン・ウオーター・フォールのパーティーだった。積み上げた数百個のグラス(本来、それ程に揺れない巨大クルーズ・シップなのだ)に注がれたシャンペンを囲んで、国籍を忘れた和やかなダンスで夜が更ける。こんな夜は日本古来の奥ゆかしさ、遠慮深さなど取り払って無邪気に盛り上がる…海外旅行の『脱・日常』の醍醐味はこれに尽きる。
 帰国前夜のシアトルのホテルに、ロスに住む娘からお祝いのシャンペンとフルーツが届いていた。これもまた目頭が熱くなる絶妙の演出だった。
            (2005年6月;フォーマル・ナイト)

朝焼けーアラスカ紀行4-

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 呼応する霧笛の中、凪の海を船は滑るように進んだ。ベランダで、流氷と遠く崩れ落ちる大氷河を見ながらシャンペンで祝うはずだった朝食は、濃密な霧を見ながらキャビンで摂るしかなかった。スティーブン・パッセージを南下して、アラスカ屈指の絶景といわれる45キロのフィヨルドの奥まで入るこの日のクルーズは、この旅の最大の目玉だっただけに心が残った。
 しかし、次第に晴れていく霧の海、その中から遠く残雪を頂いた峻険な嶺々が浮かび上がってくる神秘的な風景は見飽きなかった。双眼鏡を片手に、終日海に見入っていた。時折、クルーズ船がすれ違う。鮭の群がジャンプする。水鳥が波間に浮かぶ。シー・ライオンの群が岸辺を覆う島が過ぎる。蒼い流氷がゆっくり漂っていく。島の森の梢から白頭鷲が見送ってくれる。(この日見ることが叶わなかった鯨も、後に見学を許された操舵室の窓から、そしてヴィクトリア上陸前のランチのテーブルから見ることが出来た。)
 翌未明、家内の声で起こされた。午前4時、左舷の遙か彼方の山を黒々とシルエットにして、壮絶な朝焼けが燃えていた。燃え上がる雲と山影と朱を映す波と、重々しいまでに荘厳な朝焼けだった。日没が9時半、長い長いアラスカの一日が始まろうとしていた。
 午前6時、アラスカ最後の寄港地ケチカン。かつてはクリンギット族が鮭などの狩猟生活を送っていた集落であり、街の名前の由来は『羽を広げた鷲』を意味する。クリンギット族やハイダ族の文化である数多くのトーテム・ポールは、この旅で見たかったもののひとつだった。星野道夫もボブ・サムとトーテムの原点を探って、きっと歩いたに違いない街なのだ。
 寄港時間が短く、慌ただしいバスのツアーになってしまったが、熊やシャチや鷲と共に、お目当てのワタリガラスのトーテムを幾つか見ることが出来た。
 先日、ジュノーの街の売店で、思いがけずトーテムの紋様を幾つも彫り込んだジーパン用のベルトのバックルを見つけていた。そしてこれが、私のこの旅の一番の土産になったのだった。
            (2005年6月:写真:洋上の朝焼け)

霧の中の航海ーアラスカ紀行3ー

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 『十代の頃、神田の古本屋で、ある一冊のアラスカの写真集を見つけた。なぜ、こんな地の果てのようなところに人が暮らさなければならないのか。いったい、どんな人が、何を考えて生きているのだろう。僕はどうしても、その人々に出会いたいと思った…』こうして、エスキモーの小さな村シシュマレフを訪ねたときから、星野道夫のアラスカとの深い付き合いが始まった。
 今、彼の5冊の写真集と7冊のエッセイを積み上げて、アラスカ・クルーズへの参加を決定づけた彼の存在を改めて思う。アラスカを愛し溶け込み、独り雪山に籠もってカリブーの群の大移動を待ち、ヒグマをファインダーに追い続け、先住民族の心の原点であるワタリガラスの神話を訪ねてアラスカからアジアに渡る旅の途上、カムチャツカのクルリ湖の畔でヒグマに襲われて亡くなり、クリンギットの熊の一族の名前『カーツ』を与えられた一人の動物カメラマン。写真は勿論だが、書き残したエッセイも比類を見ないほどに美しく深い。
 そして、クリンギットの神話の語り部ボブ・サムや、元ブッシュ・パイロットのシリア・ハンター、絵本作家のメアリー・シールズ、クリンギットのベトナム帰還兵ウイリー・ジャクソン、彼が最も尊敬していたビル・フラ-等々、友人達が語るミチオ追悼の言葉と涙は、氷河から流れ出す水のように純粋で美しい。私の心の中のアラスカは、いつしか星野道夫を暖かく囲むこれらの人々への思いで包まれていた。
 龍村仁監督がシリーズとして自主上映だけで作り続けている『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』は、もう5番に及んだ。星野道夫への追悼とも云える第3番に、彼の全てが語られている。
 『人は、母なる星・地球(ガイア)という大きな生命体に生かされている存在である』という監督の思いに共感して久しい。感動の底から蘇ってくる謙虚さ、既に滅びの笛が聞こえ始めている人類の未来を救う道があるとすれば、それはこの謙虚さではないだろうか。
 フィヨルドの奥深く、トレーシーアームの流氷と氷山崩壊目撃を断念させられた濃霧の航海の間、哀愁を帯びた霧笛に重ねて、心のどこかで星野道夫やボブ・サムの声を聴いていた。
            (2005年6月;写真:残雪の嶺々)

過ぎ去った栄華ーアラスカ紀行2-

2005年06月05日 | 季節の便り・旅篇

 氷河が限りない時間をかけて削り上げた険しい山々を背景に、猫の額のような土地に開かれた小さな港町。アラスカの3つの寄港地は何れも19世紀末にゴールド・ラッシュに沸いた街だった。州都ジュノーでさえ今は3万人、スキャグウエーにいたっては最盛期の2万人が今は冬の人口800人という寂れた風景の中に沈んでいる。そこに1隻4千人近い人間を乗せた巨大クルーズ船が2~3隻停泊する…どこかちぐはぐなその落差は些か居心地の悪いものだった。
 ジュノーにはメンデンホール氷河という目玉があるからまだしも、二つ目の寄港地スキャグウエー観光は切ない。かつての砂金の採掘機のそばに小さな小屋を建て、年老いた家族がゴールド・ラッシュ時代のけばけばしい衣装を纏ってトークや唄を聴かせてくれる。途中台詞が途切れたり息切れしながらの唄はあまりにも哀しい。新しい金鉱が発見されると潮が引くように去っていった束の間の繁栄、その残滓だけに縋って観光客をもてなす姿が痛々しかった。
 最後の寄港で訪れたカナダ・ヴィクトリアの美しい街並みや豊かな佇まいとの落差はあまりにも極端だった。選んだコースにもよるのかもしれないが、先住民の文化などを、もっと誇らしく謳う観光であってほしかったと思う。
 期待していた太古の森の散策、白頭鷲やワタリガラスやヒグマや鮭、そして海には鯨やシャチやイルカといった豊かな野生の大自然とのふれあい。しかし、クルーズ船の慌ただしい限られた時間で駆け足に過ぎる旅行者の目では、本当のアラスカの奥深い魅力は味わい得ないということなのだろう。
 しかも、荒々しく、美しい蒼に輝く氷河も年々後退を続けている。先進世界による環境破壊・地球温暖化の爪痕は、こんなところにまで及んでいるのだ。メンデンホール氷河を覆う黒い汚れが、しきりに気になった。
 だからこそ、梢の先で静止する姿や、堂々とした滑空を見せてくれた白頭鷲は素晴らしかった。眼下の観光客のざわめきを俯瞰しながら、彼等はいったい何を思っていたのだろう。
 ひとシーズン滞在して、心ゆくまでこの大自然の営みに触れてみたい…そんな未練と渇望を確かめながら、タラップを上る毎日だった。
    (2005年6月:写真:氷海を行くダイヤモンド・プリンセス号)