ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「加害者」だけど

2014-09-02 07:41:29 | Weblog

「厳しい!」8月27日
 『避難者自殺判決 東電の責任厳しく指摘』という見出しの社説が掲載されました。自殺に至る経緯について、『原発事故により、女性は生まれて以来ずっと住んできた故郷を離れ、避難生活を余儀なくされた。子供と別居し、働いていた養鶏場の閉鎖で職も失った。野菜を融通し合うなど密接な近隣住民とのつながりも失った。短期間に次々と襲ったこうしたストレスが女性を「うつ状態」に至らしめたと判決は認定した』と書かれています。
 亡くなられた女性の苦しみ、遺族が負った心の傷の深さには心から同情します。しかしその一方で、「加害者」にとっては「厳しい判決」という思いも捨てきれません。それは、東日本大震災ではもっと悲惨な体験をされた被災者の方がいたのではないか、そうした中で歯を食いしばって生きている方もいるのではないか、という思いがしているからです。この女性は、夫も子供も無事でいたのですから、それだけでも羨ましいと感じる被災者はいるはずだと思うのです。
 社説では、『避難生活を送る人の中には、ストレスに強い人も弱い人もいる。脆弱性といった言葉で切り捨てることは許されない』と書かれています。その通りだと思いますが、それでは「とてつもなく弱い人を基準に責任を問われるのが適切なのか」という疑問も浮かんでしまうのです。
 学校には様々な子供がいます。そして、多くのストレス源があります。子供同士のいじめ、教員の体罰、指導や叱責などです。授業中におしゃべりしていた子供に対して、「みんなの迷惑になっていますよ」と注意し、その子供が休み時間に飛び降り自殺したら、教員の責任なのかということが気になってしまうのです。私はこの事例では、教員は適切な指導をしたにすぎず、教員の責任を問うことは酷な気がします。しかし、子供にストレスを与えたことは間違いありません。そこで、「一人一人の子供のストレスへの耐性を理解していない」と非難され責任を取らされるとしたら、怖くて教員などやっていられません。
 もっと言えば、子どもを褒める行為でさえストレスを与えることがあるのです。「頑張ったね。○○さんはやればできると前から思っていたよ」という言葉掛けが、子供にとって次はもっと良い結果を出さなければというプレッシャーになり、試験の前日に自殺したというようなケースです。これで責任を問われたとしたら、やはり「厳しい」と思ってしまいます。
 誤解のないように言っておきますが、私はこの判決自体の是非を問うているのではありません。ただ、「加害者」だからといって無制限に責任を負わせることが正義であるというような風潮を懸念しているのです。

 

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