ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

経験から学ぶもの

2011-02-28 08:03:10 | Weblog
「経験則」2月23日
 「医療を開く」という連載コラム欄に、東京女子医大名誉教授の岩田誠氏が、『「マニュアル医師」が増えている』というタイトルでコラムを書かれていました。その中で、岩田氏は、『自らの頭で考えない医師が増えている』『私が研修医になった時に、担当医から「学校で学んだことは臨床では一切役に立たないことを思い知るがいい」と言われた。それが大事なことだったと思う』『科学的な根拠に基づく医療は重要なことだが、同じくらい医師の「経験知」も軽視されるべきではないと考える』と書かれています。
 この指摘は、重要です。私も同じことを感じています。最近の教員が、自らの「経験知」を高めることを重視しない傾向にあるように思われてならないのです。「経験知」は、本を読んだり、講師の話を聞いたり、教員同士が短時間討議したり、他人の授業を見たりしても高まっていきません。他人の書いた授業案と他人の作った資料をそのまま使って授業をしてみても、「経験知」を高めることはできません。
 授業のねらいを明確に意識し、自分の学級の子供の顔を思い浮かべながら学習指導案を作成し、資料をつくり、具体的な発問までイメージし、授業に臨んで失敗を自覚し、しばらく落ち込んだ後授業記録を分析して失敗の原因を見つけ出し、その対策を盛り込んだ学習指導案を作るという繰り返しの中で、授業に対する「経験知」を高めていくのです。
 授業は子供と教員が創り上げるものです。「よい授業」の基本的な原則はありますが、授業の重要な構成要素である教員が一人一人異なっているのですから、他人のサルマネではうまくいかないのです。ですから「経験知」は、教員一人一人が悩んで身に付けていくしかないのです。マニュアルはないのです。
 教員養成段階での改革も、教員研修の充実も大切です。しかし、結局は、授業力は教員が日々の授業への取り組みに多くの時間と労力を注げる環境づくりこそが最も重要なのです。
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違いが大事

2011-02-27 07:51:02 | Weblog
「違いを守る」2月22日
 京都大学大学院小倉紀蔵准教授が、韓流現象に関わってインタビューを受けています。その内容が、『東アジアの「共異体」化』というタイトルで掲載されていました。その中で小倉氏は、『すべての人が異質な他者とつきあわねばならぬいわれはない。もし東アジアが共同体化するなら、異質な部分をどう守り、互いの世界観の違いをどう尊重するかという観点が重要だ。それを私は「共同体」ではなく「共異体」と呼んでいる』と語っています。
 「共異体」という言葉には違和感がありますが、「すべての人が異質な他者とつきあわねばならぬいわれはない」という主張、「異質な部分をどう守り、互いの世界観の違いをどう尊重するかという観点が重要」という提言には、注目したいと思います。とはいっても、国際政治や外交の話をしようというのではありません。学校に話です。
 学校、特に小学校では、「みんな仲良く」とか「クラスの仲間」というフレーズがよく使われています。多くの教員が好んで口にします。しかし、30人の人間すべてが好きだ、というようなことはありえません。それは、教員が自分自身のことを振り返ってみれば分かるはずです。職場には嫌な奴、気の合わない人がいるはずですから。それなのに、「同じクラスの仲間なのだから」という理由で、「共同体」の一員として同じ価値観、同じ行動を強いられるとしたら、それは子供にとって苦痛以外の何者でもありません。
 そうした有形無形の圧力が、子供の学校生活を息苦しくし、不登校やいじめといった学校不適応の原因となっているのです。今大切なのは、大人の都合で便宜的につくられた学級という集団への服属を強いることではなく、もっと緩い集団とすることなのです。授業や清掃、給食などを同じ場所で行う人といった感覚でよいのです。電車に乗り合わせた人が、他の人の迷惑になるような行動、例えば大声を出す、フラフラ歩き回る、大音響で音楽を聴く、といった行動をしないのがマナーであるように、授業中には授業中のマナーがあるということを共通理解するだけでよいのです。たまたま隣に座った人と気があったら仲良くなればよいのです。「今度遊ぼうぜ」と言えばよいのです。教員は、それ以上は求めない代わりにマナー違反者にはバスから降りてもらうような毅然とした態度で接すればよいのです。
 バスの乗客の間でいじめは発生しません。
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「オープン」を数える

2011-02-26 07:40:28 | Weblog
「授業力の根幹」2月21日
 萩尾信也記者が、「憂楽帳」に『「聞く」と「聴く」』というタイトルでコラムを書かれていました。萩尾氏はその中で、『質問のやり方には、「クローズドクエスチョン」と「オープンクエスチョン」の2通りがあるそうだ。13年間にわたり電話相談活動を続けるNPO法人「東京自殺防止センター」の創設者・西原由記子さんから教わった。前者はYESかNOかをただすもので主導権は問う側にあり、多用すると価値観の押し付けになりかねない。片や後者は相手の思いを引き出す問いで、会話が広がるきっかけにもなる』と書かれています。
 傾聴ボランティアの話ですが、これは教員の授業力の根幹をなす「発問力」にも通じる考え方です。授業力のない教員は、子供に問いを投げかけることをしません。一方通行の説明を延々と続けるだけです。そこには、「教えること」についての専門性は全くありません。録音を流し続けているのと同じです。こんな教員は給料泥棒と呼んでもよいでしょう。
 授業力が十分でない教員は、「クローズドクエスチョン」を連発します。これは、知識再現型の質問で、単語で応えることが可能な問いです。「江戸幕府を開いたのは」「徳川家康」、「水素の原子記号は」「H」、という類です。この型の質問の特徴は、教員にとってみると「楽」であるということです。誤答に対しては、「違う」という一言で対応可能ですし、正答には「その通り」と呟いていればよいのです。
授業力のある教員は、「オープンクエスチョン」を使います。「関ヶ原の戦いを前にして、君が○○地方の大名だとしたら、どんなことを考えるだろう」という問いには、正解はありません。10人の子供が発言すれば、それぞれが異なります。「ピンポン!」や「ブー!」では評価することはできません。丁寧に考えの根拠や筋道を聞き取らなくてはなりませんし、授業との狙いの関係から「この視点は面白い。みんなで話し合うテーマにしよう」という判断(評価)をしなければなりません。そのためには、授業の明確な見通しと豊富な教材研究が欠かせません。もちろん、考えるのに必要な情報を事前にきちんと提供しておく授業構成も必要です。これは「言うが易く行うは難し」です。授業力のない教員では、立ち往生してしまうのです。そんな失態を恐れ、授業力のない教員は、「オープンクエスチョン」を嫌がるのです。
 「オープンクエスチョン」をきちんと使える発問力こそ、授業力の根幹なのです。若い教員の皆さんは、自分はどうなのか確かめてみる必要があります。授業を録音し、自分の発問の中で、「オープンクエスチョン」が何回あり、「クローズドクエスチョン」が何回あったかカウントしてみるのです。最も簡単で確実な授業自己評価の方法です。
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鬼の巣窟?

2011-02-25 08:14:01 | Weblog
「残業」2月21日
 西東京市立小学校に勤務し、06年にうつ病になり自殺した教員の自殺について、公務災害を認めないという決定がなされたという記事が掲載されました。痛ましい事件です。ご冥福をお祈りします。ところで、記事の中に気になる部分がありました。『2年生の学級担任になった。連日深夜まで残業し、7月にうつ病と診断されて一時休職した』という記述です。
 「残業」とは何でしょうか。一般の公務員や企業では、「残業」について様々なきまりがあります。本人が職務の進行具合を勘案して勤務時間終了後も仕事をし、タイムカードで退勤時間が管理され、その分の超過勤務手当てが支給されるという形、あるいは上司が命じて仕事をさせ超過勤務手当てが支払われる形が一般的だと思います。いずれにしても、上司が「残業」について、事前か事後の別はあっても「認める」ことになっています。私も、教委の管理職であったときには、部下一人一人の前月の「残業」時間をタイムカードで確認し、承認印を押していました。
 しかし、教員には、そうした形での「残業」はありません。教員に「残業」、正式に言えば時間外勤務を命ずることができるのは、・生徒実習に関する業務、・学校行事に関する業務、・職員会議に関する業務、・非常災害に関する業務に限られています。したがって、小学校で2年生を担任している教員が、連日時間外勤務をすることはありえないのです。この教員がしていたのは、世間一般がイメージする「残業」ではないのです。
 おそらく、明日の授業の準備や子供のノートなどの点検やコメント書きなど、日々の担任業務を自分なりに納得いくところまで、「自主的」に熱心に取り組んでいたことを「残業」と表記したのでしょう。
 しかし、個々は正確に記述してほしいと思います。「連日深夜まで残業」では、鬼のような校長が、非人間的な過重労働を強制していたようなイメージになってしまいます。職場の同僚も自分のことしか考えないガリガリ亡者と思われてしまいます。学校の実態、雰囲気を知る者として、「もう遅いから帰りなさい」「昨日も遅かったようだけどあまり無理をしないで」「明日手伝うから、たまにはパァーと飲みに行かない」というような言葉掛けが、同僚や管理職からあったはずだと思います。そうした言葉に、「大丈夫です。もう少し」とつくり笑顔で応える教員の姿も浮かびます。私も、新卒の頃、いくら時間をかけても満足のいく授業ができず、隣のクラスに比べて騒がしい自分の学級の状況に疲れ果てていたものでした。私の場合は、根がいい加減だったので自殺には至りませんでしたが。
 自殺自体については、深夜にまで及ぶ保護者のクレームへの対応など、「残業」以外の要素もあり、公務災害認定自体の是非は判断できません。ただ、教員には勤務時間などあってないようなものという現状、真面目な教員ほど燃え尽きるまで頑張ってしまう構造が「学校文化」として色濃く残っていること、近年の保護者の苦情にはその教員個人を標的にしているとしか思えない理不尽なものが増えていることなどを理解してほしいものです。決して、非人間的な管理職や自己中心的な教員が多いのではないことも。管理職や教員集団を事故の原因としたのでは、いつまでたってもこうした悲劇はなくなりません。
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見ているだけで怖がる子

2011-02-24 07:58:48 | Weblog
「我慢させるのか」2月20日
 NPO法人フリースペースたまりば理事長の西野博之氏が、連載コラム「きっとだいじょうぶ。」の中で、定時制高校を題材にした映画を取り上げていました。その中で、西野氏は、『ヒールをはいて、机の上に寝そべる女の子。授業に出ずに職員室にたむろする子どもたち』という状況を紹介し、さらに『派手な服装を身にまとい、暴言を吐きながら突っかかる』生徒について述べ、それでも「処罰という名で追い出し」たりせずに粘り強く関わり続ける教員に讃辞を送っています。そしてその対極にあるものとして、『校則に違反するような行為が一つでもあれば容赦なく処罰する「ゼロトレランス」(寛容度0)方式』を批判しています。
 よく分かります。教員を志す者の多くは、そうした「学園者のヒーロー」のような教員像を理想に掲げていた経験をもっていたのですから。しかし、多くの教員は、年月を経るにしたがって、程度の差こそあれ、処罰や処分という手段を用いるようになってきます。それを、「理想を捨てた」、「教育者としての敗北」と断罪することは簡単です。でも私はそうは思えません。
 西野氏のような考え方には、「他の大勢の子供」という視点が不足しているように思います。例えば、経済的理由から全日制の高校に通えず働きながら学ぼうと定時制高校に入学した生徒が、派手な格好で教員に悪態をつく同級生を見て、通学することに恐怖を感じる場合だってあるはずです。悪態をつき続ける同級生にきちんと注意をしない教員に不信感を抱くことだってあり得ます。その結果、真面目に学ぼうとしていた生徒を退学に追い込んでしまうかもしれないのです。
 学校教育はマンツーマンの師弟関係の中で行われるものではありません。多様な個性や感じ方をもつ子供の集団の中で行われるものです。「家庭にも社会にも居場所のない子供たち」だけのためにあるわけではありません。
 小学校や中学校でも考え方は同じです。一人一人の子供を大切にするという理念は尊いものですが、一部の子供のために他の多くの子供が不快を我慢しなければならないという考え方は受け入れがたいものです。例えば、いじめによる出席停止という措置を考えてみましょう。この措置を、いじめをしている子供といじめられている子供という図式で考えてはいけません。第三の視点が必要なのです。
 いじめる子供は、何らかの心の傷を抱え、それを一時的に癒し不満を満たすためにいじめという行為をしている場合がほとんどです。そういう意味では、彼らも「居場所のない子供」の一人です。一方、いじめられている子供は被害者です。彼らも学級の中に居場所をなくしている悲しい存在です。そしてさらに忘れてはいけないのが、いじめを見ている子供たちです。彼らの中には、実際に自分がいじめられているわけではないのに、「もし自分もいじめの対象にされたらどうしよう」「次の標的は自分なのではないか」という恐怖心をもっている者がいるのです。いじめをしている者に処分や処罰を行わないということは、直接の被害者だけではなく、多くの第三者をも恐怖にさらし、学校生活への適応を阻害することなのです。だからこそ、出席停止という手段を用いることが許されているのです。それは、堅苦しい言葉で言えば、他の子供の学習権を守るということなのです。これもまた、教員の大切な仕事なのです。
 特別な子供に優しい学校が、多くの普通のこの我慢の受けに成り立つというのは間違っています。少なくとも、出席停止や退学という措置をとることが悪であるというような発想だけはやめなければなりません。

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それも仕事

2011-02-23 07:38:28 | Weblog
「それも仕事?」2月19日
 「新教育の森」の「授業で新聞」欄に、横浜国立大学の高木まさき教授へのインタビュー記事が掲載されていました。高木氏は、新聞活用に向けた学校や教育委員会の支援について問われ、『管理職は、先生が新聞を読んでいても「サボっている」と思わないでほしい。教材研究ですから』と述べています。
 何気ないことのようですが、難しい問題を秘めています。実際問題として、勤務時間中に教員室で教員が新聞を読んでいたとき、自分が校長だとしたらどのように対応するか、悩んでしまいます。教材研究とは、生の素材に過ぎないある事実や事象を、子供の発達段階と学習指導要領の内容の視点から、子供が思考操作することができる教材へと加工することです。どのような事実や事象が教材となりうるかの判断は、確固たる基準があるわけではなく、「教員の嗅覚」によるものなのです。そして、教材になりそうだと判断しても、実際には教材にできない場合もあります。つまり、「はずれ」があるということです。ですから、A教員が新聞を読んでいたのにいつまでたっても新聞記事を生かした授業を行わなかったからといって、A教員がサボっていたとはいえないのです。
要するに、サボっているのか、真剣に職務として教材研究に取り組んでいるのかは、判断が難しいのです。もし、ある保護者から、「A先生はいつも新聞ばかり読んでいる。そんなヒマがあるのならば、子供のノートをもっと丁寧に見たり、授業の工夫をしたりしてほしい。どうして校長は黙認しているのか。税金泥棒、給料泥棒を見逃しているようなものではないか」という苦情が寄せられたら、校長はどのように対処すればよいのでしょうか。こうした苦情が、他の職員から出される可能性もありますし、校長を飛び越え、教委に苦情がいったり、議員がらみで議会で問題になることだってありえます。かといって、「Aさん。さっきから新聞を読んでいるけど、仕事の一環なんだろうね」などと言えば、教員の熱意に水を掛け、管理職への反感を募らせる結果になってしまうかもしれません。
 しかも、教材研究の対象になるのは、普通紙に限りません。スポーツ新聞だって、業界紙だって、教員の腕次第では教材となる素材に満ちているのです。同じ発想でいえば、週刊誌だって、新書や文庫だって教材研究のために読んでいるという主張が成り立つのです。私も、新書・文庫の内容を授業で使ったこともありますから。
 教員の仕事は、管理監督に向かない面があります。教材研究はその最たるものです。教育における新聞の活用を図るためには、教員を信じ、教員の行動を細かく管理しなくてもよいという、世間様の「共通理解」が必要です。現状は、その「共通理解」語りないように思われます。
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錯覚による思い込み

2011-02-22 07:45:50 | Weblog
「錯覚」2月18日
 大学生に流行っている「一人飯恐怖症」について、筑波大学教授の土井隆義氏が、インタビューに答えていました。その中で土井氏は、『今日の社会では人間関係が幅広い人こそ価値がある人間だとみなされる傾向がある~(中略)~幅の広い人がもっとも価値のある人だという「錯覚」が生じてきた』と述べ、『今日の就職活動でコミュニケーション能力が最も重視されているという背景とも重なる』と指摘しています。
 その通りだと思います。記事の見出しのもある『友の数=価値、は錯覚』なのです。こうした「錯覚」は、学校の教員にも深く浸透しています。「友達が多い子供は健全に育っているが、いつも一人でいる子供は何か問題を抱えている」、そんな見方をし、保護者にも「お友達が少ないことが心配です」などと、不安の種を植え付ける教員は少なくありません。それどころか、一人で本を読んでいたり、水槽の金魚の世話をしている子供を見つけると、本人の気持ちを斟酌せずに、「さあ、天気がいいよ。みんなとドッチボールをやろう。先生もやるから」などと、無理矢理連れ出す教員までいます。
 人には様々なタイプがいます。その人なりの快適な空間、快適な時間というものがあるのです。それは、その人の個性であり、尊重されなければなりません。もちろん、学校に「天気のよい日は外遊び」という決まりがあり、それを守らせるということはあってもよいでしょう。それは集団生活の約束事を守るという視点で行われる指導であり、「一人でいる君はよくない状態なのだ」という価値観を押し付けるものであってはならないのです。 また、健康のため、体力づくりのためにドッチボールを推奨するのであれば、そのことをしっかりと伝え、その子供が好きな「一人読書」を否定してはならないのです。小学校における教員の「錯覚」に基づいた善意による価値観の押しつけが、大学生の「一人飯恐怖症」の一因だと思います。
 教育は、子供をある型にはめ込み、価値観を注入するという側面をもっています。しかし、行き過ぎはよくありません。教員は、注入するのは基本的な価値観にとどめる配慮をもたなければなりません。それ以外の価値観については、子供に選択の自由を与えるべきなのです。そのとき、誤解してはいけないのは、ここの場面で行動を規制することはあってもよい、ということです。集団による学びと生活の場である学校では、一定の規律が必要であり、そのためには「○○をしてはいけません」「○○しなさい」という強制は許されます。ただし、それは上述したように、健康のためであったり、保持のためであるという理由を知らせて行わなければならないのです。
 大学生の「一人飯恐怖症」は、自分の「錯覚」に基づく指導の結果なのではないかと自問してみることは大切です。
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教委と校長の「格」

2011-02-21 07:35:00 | Weblog
「教委と校長」1月18日
 「記者の目」欄で中西啓介記者が、「格上校長に遠慮 教委及び腰」という大見出しの記事を書かれていました。私も本ブログで以前に触れた、甲府市教委の問題を起こした教員の処分についての不手際の背景を論じる記事です。
 中西氏は、『取材を進めるうちに、教員の間では、県庁所在地の甲府市の私立小中の校長は「格が高い」ことが分かった。甲府市教委学校教育課長は「甲府市内の校長への栄転が約束された待機ポスト」に過ぎず、強く指導できないというのだ。ある中学の教諭は「市教委課長が教員を指導することは、校長の経歴に傷を付けること」と話す』と書き、こうした悪弊解消のために『甲府市内の校長経験者を学校教育課長に任命できないか』と提案しています。
 私自身が、都内某市の指導室長(教育課長と同じ職)を勤めていた経験から、この記事を大変興味深く読みました。実は都教委は、平成15年度から、指導室長の任用制度を変え、校長経験者が指導室長に就くという方針を立てています。中西氏の提案に近い形です。では、東京都でも山梨県と同じような問題があったのかというと、そうではありません。
 私が指導室長に就いたとき、市内の小中校の校長は全員年上でした。副校長でさえ、私よりも年下は1人だけでした。校長の中には、かつて他市の指導室長を経験した者も数人いました。そんな状況でしたが、校長たちから軽んじられたという経験は皆無でした。私の上司である学校教育部長は、校長会が終わるたびに「俺の話のときは上の空で、室長の話になるとみんな一生懸命にメモを取っている」と愚痴っていたものでした。教委内の「序列」では、庶務課長、学務課長の次が指導室長でしたが、学校への教育委員会訪問では、校長は上席の両課長には目もくれず、私にばかり気を遣っていたものでした。もちろん、教員に問題がある場合、私が直接指導したことも、校長に指導を指示し、報告を受けて「そんな指導では不十分」と再指導を命じたこともありました。
 それでは、私は特別に指導力と威厳のある指導室長だったのかというと、そんなことはありません。指導室長という職が、実質的に教員の人事権と評価権を一手に握り、その中には校長や副校長の人事権・評価権も含まれているという制度的な要因によるものだったのです。東京都においても、指導室長がその後校長になるというのは甲府市と同じですし、区市の間に「格の高い低い」という違いがあるのも同じです。しかし、人事権・評価権のもつ力は、そんなことを吹き飛ばしてしまうほど大きなものなのです。もっとも、校長に対して指導力を発揮することができる秘密はそれだけではありません。
 山梨県と東京都とのもう一つの大きな違いは、指導主事という存在の重さの違いという面もあると思います。私も指導主事を長年務めてから指導室長になりました。かつて、指導主事試験は、校長試験や教頭試験とは比較にならないほどの難関でした。しかも、単に倍率が高いというだけではなく、その教科・領域の指導についてのスペシャリストという「条件」が必要でした。当時、東京都には、各教科・領域ごとに、研究員、開発委員、研究生という3つの資質向上の制度が設けられており、指導主事になるには、それらを経験し、研究物を残しているということが暗黙の条件だったのです。そうした難関を突破して指導主事になった者に対して、学校現場にはある種の「尊敬」がありました。当然、その指導主事を長年務めて指導室長になった人間に対しては、敬意をもって接することになったのです。余談ですが、校長会や各教科・領域の全国規模の研究組織などのトップになるのは、ほとんどが東京都の指導主事経験者なのです。
 山梨県だけでなく、すべての都道府県に指導主事という職は存在します。しかし、その重みという点では、東京都都は違っていました。多くの道府県では、指導主事から、教務主任になったり、副校長になったりするのですが、東京都では、指導主事を6年務めると、校長となるなど、指導主事の「格」が違ったのです。もっとも、都教委は、近年の「改革」で、指導主事の軽量化を進め、指導主事の権威は落ちる一方になっています。
 教育行政は、他の行政分野と異なり、命令はほとんどなく指導・助言によって行われるという特色があります。教育の権力からの独立を重視する多くの国民にとって、強すぎる教委は、認めがたいという思いもあるでしょう。そして、教委の学校教育活動に対する指導・助言・指示のほとんどが指導室長と指導主事という教員経験者集団によって行われています。学校の自主性をある程度保証しつつ、「格上校長に遠慮」などという問題を生じさせないためには、この指導室長と指導主事への「畏敬の念」が必要なのです。指導主事の資質向上とそれに伴う権威の向上という視点こそ、甲府事件の再発を防ぐ鍵になると思います。
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「生」だけでは料理はできない

2011-02-20 07:56:41 | Weblog
「知識の缶詰」2月17日
 立命館大学教授の陰山英男氏が、インタビューに答えていました。その中で、陰山氏は、社会科について語っています。『私は、社会科の教科書はあくまでも知識の缶詰だと思っています。実際の社会を知るには、生ものでないとわからない。それが新聞なんです』。
 陰山氏が言いたいのは、新聞を使った授業の有効性なのだと思います。その点に異論はありません。ただ、「社会科の教科書は知識の缶詰」という捉え方には賛成できません。社会科に限らず、理科の算数も「知識の缶詰」なのでしょうか。そうではないはずです。教科書を知識の缶詰とする認識は、授業の素人に、知識注入主義と誤解されかねません。また、「生」がよくて缶詰はよくないと誤解されかねません。そして、教科書無用論につながり、教員の主体性の美名の下、偏向教育が横行することにもなりかねません。
 教科書は、知識を与えるものではなく、物の見方・考え方を学ばせるものです。少なくとも、教科書の執筆者は、どのように学ばせ、どのように見方や考え方を獲得させるかという視点で頭をひねっているのです。理科なら科学的な見方・考え方、算数なら数学的見方・考え方、社会科なら社会的な見方・考え方の基礎を身に付けさせることを目指して、教科書を書いているのです。
 私が専門とする社会科に絞って言えば、社会的な見方・考え方、例えば、「人々はより良い生活を望んでいる」「社会は多くに人たちの努力と工夫で成り立っている」「多くの地域や組織の広域的な連携で社会は維持されている」というような見方・考え方を、子供自らが発見し獲得し、繰り返す中で強化することができるように、対象となる「典型的な社会事象」を選定し、子供が理解できるように加工して、教材とするのです。決して、庄内平野のコメの生産量の推移や農機具の価格の変化、就農人口の年齢別割合などの個別の知識を覚えさせようとしているのではないのです。
 ですから、教科書は「生」ではないのは事実かもしれませんが、それは否定的な意味ではなく、有効成分が凝縮された有意義なものなのです。私自身、正直に言うと、教員時代に社会科の教科書を使ったことはありませんでした。新聞はよく使いました。しかしそれは、社会科についてだけは教科書以上の授業ができる自信があったからです。でも、他の教科では教科書を使って授業をしていました。社会科ほどの自信がなかったからです。小学校は全科です。すべての教科について高度な専門性を発揮できる教員はそんなに多くはないはずです。義務教育に求められる「画一性」を保証するためにも、便利で栄養バランスのよい「缶詰」は必要なのです。新鮮な「生」もバランスのよい「缶詰」も共に使いこなし、美味しい料理(授業)を提供するのが教員の務めなのです。

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尊敬の念

2011-02-19 08:19:43 | Weblog
「尊敬の念」2月16日
 ベネッセ教育研究開発センターによる小学校の英語教育に対するアンケート結果が掲載されました。記事によると、『英語の指導者について、専門の教員と担任のどちらがよいかを聞いたところ、「どちらかといえば」も含めると担任の73%、教務主任の76%が「専門の教員がよい」と回答。既に英語を指導している担任の62%が「負担を感じている」と答えた』のだそうです。
 こうした結果について、識者は『担任が1人ですべてを背負い込まないような態勢作りが必要』と指摘していますが、大事な視点が抜け落ちていると思います。それは、教員への「尊敬の念」です。子供はヒーローが好きです。ヒーローとは、自分にはできない困難なことを平然とやってのける「超能力」をもつ存在のことです。
 子供が教員に求める「超能力」とは、鉄棒で連続逆上がりができたり、潜水でプールを往復できたり、30秒で子供の似顔絵を描いたり、初見でピアノを演奏することができたりするというレベルです。こうしたことを目にしたとき、子供は、「先生、すごい!」と目を輝かせて教員の周りに集まってきます。もちろん、こうした「実技系」のことだけでなく、いろいろな知識をもっていることや暗算やパソコン操作などでも同じことです。当然、英語の会話力もその一つです。英語の会話が得意な教員とそうでない教員がいた場合、「うちの先生、英語全然ダメなんだぜ。恥ずかしいよ」という反応が生じる可能性は高いと思います。なぜなら、英語の会話力は、子供にとって分かりやすい指標だからです。しかも、潜水や似顔絵やピアノと異なり、必ず披露しなければならないのです。つまり学級のすべての子供が「評価」することになるのです。
 いうまでもなく、「教員の資質」は多くの要素で構成されており、英語の会話力は、その中のごく一部にすぎません。しかし、子供は教員評価の専門家ではありません。目に付きやすい指標で「評価」しがちであることは予想できます。そして、子供の「評価」は保護者に伝わり、保護者の印象を決定づけます。不幸な結果です。
 素朴な尊敬感情は、教育という営みの基盤です。英語教育の導入に当たり、この視点を忘れてはなりません。

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