ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

ついて行ってはいけません

2022-06-30 08:55:06 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ついて行ってはいけません」6月25日
 『経済安保「スパイ対策」講演』という見出しの記事が掲載されました。『目黒署は22日、先端技術を保有する目黒区内の企業関係者らを対象に、経済安全保障に関する講演会を区内のホテルで開催した』ことを報じる記事です。
 その中に面白い記述がありました。『(社員は)知らないおじさんにはついて行かず、SNSに情報を載せる前に一度よく考えてほしい』という伊藤署長の言葉です。後段はよく分かります。しかし、前段の「知らないおじさん~」には、思わず笑ってしまいました。小さい子供に誘拐されないための注意をしているのではなく、いい大人に対して言っているのですから。
 しかしよく考えてみると、現代は、情報を入手するためには「普通の人」がターゲットにされる時代なのだという注意喚起であり、そういう意味では先端企業に限らず、全ての社会人が注意を求められる時代になっているとも言えそうです。
 学校はどうでしょうか。普段は意識していませんが、学校は多くの個人情報を管理している組織であり、その管理が甘く、自分たちが多くの情報を保有しているという自覚に乏しい組織なのです。子供の生年月日、住所、連絡先、保護者のアドレス、成績、健康状況、家庭の経済状況、家族構成等々、多岐にわたります。
 もし、成績と家庭の経済状況についての情報が外部に漏れ、それが進学塾の関係者に渡れば、入塾の勧誘に大いに役立つでしょう。地域の全家庭に入塾を進めるビラを配る(老夫婦だけの私の家庭にも相当数のビラが入る)よりも、少ない経費で集中的に勧誘ができるのですから。
 また、万が一上記のような事態が起これば、学校から個人情報が流失したとして、その地域の学校全体が不信の目で見られることになってしまうでしょう。その損失は短期間では回復できないと思われます。
 勤務を終えて、居酒屋で一杯、そのとき隣の席の「おじさん」が話しかけてきても、うかつに応じてはいけない、そんな研修をしている教委はほとんどないでしょう。私が指導室長をしているとき、役所の課長以上の管理職を対象に、素行不良者の手口について研修が行われたことがありましたが、校長対象にはありませんでした。そろそろ教委も考えてみてはどうでしょうか。

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鉛筆をもたせれば?

2022-06-29 08:48:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どうすればよかった?」6月26日
 書評欄に、詩人渡邊十絲子氏が、『書こうとしない「かく」教室 いしいしんじ著(ミシマ社)』についての書評を書かれていました。その中に『書くことは、あらかじめ自分の中に用意したもののアウトプットではない。書くことで初めて姿を現すものを待ち受けることなのだ(略)中身あっての表現ではなく、表現が中身をつくっていく』という記述がありました。
 思わず唸ってしまいました。私が都教委の指導主事だった頃、表現を重視するという新しい教科指導の方向性が示されました。私も、表現力の育成をテーマにした校内研究に講師として呼ばれることがありました。私はそうした場で、表現の仕方に習熟させることが大切なのではなく、まず表現したいと思える内容を一人一人の子供にもたせることが重要だと説いていたのです。
 学習の中である発見や気づきがある→その内容を、発見の感動を誰かに伝えたい(表現したい)思いが高まる→表現の仕方を学ぼうという欲求が強まる→表現能力が高まる→よい表現が行われる、という流れをイメージしていたということです。私は社会科が専門でしたので、社会科においてこうした話をしてきたわけですが、他の教科でも同じです。
 書くことというと普通はまず国語科が浮かびます。国語科の作文指導でも、まず書きたいこと伝えたいこと(主題)を明確にし、そこから章立てをし小見出しを付けという形で進んでいきます。多くの教員が同様な指導をしていたと思います。私もそうでした。色分けしたカード等を用い、それを操作しながら文章の構造をつくらせていたのです。
 私は夏休みの自由研究の指導でも、テーマ設定の理由(疑問を持ったわけ、きっかけ)、予想、確かめるための実験調査、結果、分かったことと新たな疑問などの章立てをさせていました。同じ発想です。
 これらは全て、用意したもののアウトプット型の「書く」です。しかし、それではだめだというのですから、唸ってしまったわけです。いしい氏は文筆業者、つまり書くことのプロです。アウトプット否定型の文章作成は、人生経験豊富で書くことを生業としている大人だからこそできることであり、小中学生には難しいことなのかもしれないとも思いました。しかし、いしい氏の「作文教室」は子供も対象にしているらしいのです。
 私が不勉強なだけで、もしかしたら、国語科の教員の間では、表現が中身をつくっていく授業は一般的なものになっているのでしょうか。

 

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抗う壁になれ

2022-06-28 07:48:11 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「拍車をかける」6月24日
 『映画鑑賞 早送りで?』という見出しの記事が掲載されました。『「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ-コンテンツ消費の現在形」(光文社新書)』の著者稲田豊史氏へのインタビュー記事です。
 『早送りでの視聴者は、映画やドラマを1.5倍や2倍速で見るだけではない。結末にかかわりがなさそうな日常会話を飛ばしたり、視聴前に「ネタバレ」サイトをチェックして重要なシーンだけを部分的に見たりする』そうで、そうした行為の背景について、語られている記事です。
 記事の中に、『現代の若者は、時間がなく、お金もない傾向にある(略)でも、SNSで常に他人とつながり、共感を強要され、見るべき作品とされる映画は内容を把握しておかなければならない(略)食事そのものを楽しむのではなく、栄養を摂取する目的で手軽にサプリメントを飲むようなもの』という記述がありました。
 稲田氏は、早送り視聴者を非難してはいません。たしかにその通りです。私もそう思います。しかしそれは、若者だけに責任があるのではないのだから若者を責めても仕方がない、ということであり、この状況が問題ないと考えているわけではありません。 
 読書で要約版だけを読み、ドラマは早送りという生活は、私には、カサカサに乾ききった不毛の暮らしを思わせます。そこには人間らしい暮らしはなく、AIが読書し映画を鑑賞し、要約文を作成する光景が重なります。そこには、人がもつ共感力も想像力もありません。何かを美しいと感じる情感もありません。ロボットはいても人間はいない死の世界です。少し言い過ぎかもしれませんが。
 記事にはありませんでしたが、私はこうした風潮を学校教育改悪が後押しするように思えてなりません。そう考えるのは、高校国語における文学軽視、契約書や取扱書などの実務的な文書によって論理的な思考力を養うという改悪が浮かんできたからです。
 この改悪については、現場の教員からもさまざまな立場の識者からも、批判が寄せられていますが、文科省はこのまま突き進むようです。契約書をAIで点検させることはできても、小説を読み味わわせることも映画を鑑賞させることもAIにはできません。AIにはできないことにこそ、人間性が宿っているのではないでしょうか。それこそがAI時代に生きる人間に求められ必要とされている資質なのではないでしょうか。そんな風に思えてならないのです。
 世の中が早送りという効率主義に侵されていく時代だからこそ、学校教育はその流れに抗う壁となる必要があると考えます。

 

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金持ちは死せず

2022-06-27 07:53:31 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ディベートしたら」6月21日
 『BTS活動休止表明 「芸能人の兵役免除」韓国与党議員が主張』という見出しの記事が掲載されました。人気グループBTSの活動休止声明を受け、『与党「国民の力」の尹相現議員は20日、フェイスブックで「経済への影響が甚大だ」とし、功績が大きい芸能人の兵役を免除するための兵役法改正を主張した』ことを報じる記事です。
 BTSについては、メンバーの誰一人として知りませんし、楽曲も知りません。ホワイトハウスや国連本部に招待された世界的な人気と知名度を誇る人たちという程度の知識しかありません。それなのにこの記事に注目したのは、これはディベートの題材として最適だと思ったからです。
 中高生は、BTSに興味関心をもっているでしょう。そこで、BTSの兵役を免除することに賛成か反対かと問いかけるのです。兵役とは現代の日本人にはなじみが薄い制度ですが、かつては我が国にもありました。さらに、ロシアのウクライナ侵攻を受け、国防に関心が集まる中、この問題を考えることは、我が国の過去の戦争の歴史を知り、現代の安全保障を考えることにつながるという「価値」があるのです。
 そしてもう一つ、隠れたテーマがあります。それは、人間の格差、経済至上主義への向き合い方ということです。兵役は突き詰めれば生命の問題に突き当たります。ある人は自分の命を危険に晒すことを強要され、別の人は免除されるということが平等か、人権侵害ではないのか、という問いを立てることができます。また、その判断基準が、「経済への影響」つまり、カネを稼ぐか否かということでよいのか、カネを稼ぐ者が特権階級となることが正義なのか、と問うこともできます。これこそ、究極の経済至上主義です。
 この考え方を突き詰めれば、多くのカネを政府に納める人は苦役を免れることができるということになります。高額納税者の子供は兵役を免れ、貧乏人は戦争に行ってお国のために死ね、ということが公然と認められる社会になるということでもあります。
 これはおとぎ話ではありません。我が国でも高額納税者だけに参政権が認められていた時代があったのですから。もしかしたら、当初はBTSの音楽を聴きたい、踊る姿を見たい、だから兵役を免除してあげてというような表面的な意見が多いかもしれませんが、教員の問いかけ次第では、ドンドン深めていくことができる題材なのです。
 ディベートをする時間がないというのであれば、1か月後に迫った夏季休業日の課題としてはどうでしょうか。さまざまな視点から調べ、いろいろな人の意見を聞き、自分なりのレポートをまとめるという課題にするのも面白いかもしれません。中高の教員の皆さん、どうでしょうか。

 

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私だけ?

2022-06-26 08:40:14 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「みんなそう?」6月21日
 精神科医香山リカ氏が、『「スターの話題」内輪で』という表題でコラムを書かれていました。その中で香山氏は、患者さんに生活の様子を聞くときのことについて触れられていました。
 『スポーツや歌番組が好きなどと話しているうちに、「あの選手今年は全然ダメだね」「好きだった歌手が結婚したんだけど、イメージと違う相手なの。もうガッカリ」などと激しい言葉が飛び出ることがある』とし、『選手や歌手などスターにとっては気の毒な話だ。全く会ったこともない遠くの人たちに、「ダメ」「ガッカリ」と好き放題言われるのだから』と述べられています。
 そしてさらに、でも『それがスターの役割』とも述べ、『(私たちにとって)気楽に「いいね」「ダメだね」などと口にすることができて、ちょっとしたストレス解消にもなる』と精神科医らしい視点から指摘なさっています。
 確かに共通して知っている人について、ああだこうだと話すのは、座が盛り上がり、ストレス解消になるという一面があることは否定できません。私は今は一切酒を飲みませんが、教員時代は職場の後輩や研究会の仲間とよく飲みに行っていました。教員にとって、共通の知人と言えば、まず「子供」です。そして一部の有名な「保護者」です。では、教員仲間との飲みの場で、よく子供のことが話題となったかと言えば、ほとんど話した記憶がないのです。
 もちろん、教員は公務員です守秘義務がありますし、教育者としての倫理面からも、酒場で子供のことを話題とするのは好ましいことではありません。小さな声で話していても、個人情報が洩れることもありますから。そうしたことへの配慮というのは無意識にあったようには思いますが、それにしてもほとんど記憶にないのです。
 放課後に職員室での雑談で子供のことが話題となるということはよくありました。でも、学校外でそうした話はしなかったのです。何故なのか、今振り返ってみても理由が分かりません。誰かが子供のことを話し出したとして、「しっ、ここでそんな話はしないで」と制止するほど私は倫理感の強い人間ではありませんでしたから、一緒に酒場に行った仲間も子供の話はしようとしなかったということになります。
 私や私の仲間の教員だけで、他の教員はよく子供の話をしていたのでしょうか。私は子供に関心がない悪い教員で、だから子供についての会話が乏しかったのかとも考えてみましたが、私はともかく仲間の教員は良い教員が多かったと、客観的に思います。
 居酒屋で教え子の話をする、それは教員にとって秘密漏洩の危険性がありよくないことなのか、それとも子供の話をしない方が子供に関心のないダメな冷たい教員なのか、どうなのでしょうか。

 

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無理なく根付かせる責任

2022-06-25 08:44:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校教育への影響も」6月20日
 『離婚後の共同親権提案へ 法務省』という見出しの記事が掲載されました。『法務省は、家族制度の見直しを議論している法制審議会の部会に、離婚した父母双方を親権者にできる「離婚後の共同親権」の導入を提案する方針を固めた』ことを報じる記事です。
 記事によると、提案内容は、『父母が話し合いや裁判所の判断で共同親権を選択できるようにする』もので、親権行使の場面としては、『進路や病気の治療方針を父母双方が共同親権に基づき、子のために熟慮して決定する』が想定されているようです。つまり、学校教育にも大いに関係があることなのです。
 さらに、離婚後は父母が別居することが一般的であることから、『この日常の世話について決める「監護権」を持つ親である「監護者」を置く制度も議論される』ということです。そして、『両者が監護者になる「離婚後の共同監護」も選択肢として示される見通し』とされています。
 私は、この提案が実現すると、学校の対応が難しくなるケースが増えると考えます。共同親権が設定された後、父母のどちらかが海外赴任となり、連絡が取りにくくなり意思確認や両親間の連携に手間取るケース、離婚時は良好だった両者の関係が悪化してしまったケース、再婚や失業、父母どちらかの疾病などにより両者の状況や監護への思いが変化していまうケース、等々です。
 もちろん、『国際的には、離婚後の共同親権が主流となっている』のですから、こうしたケースについて外国ではどのように対応しているのか、そのために必要な制度はどのようなものかを考える際の参考事例は豊富にあると思われます。我が国でも、外国の事例を参考に必要な制度設計が行われるとも思います。しかし、学校制度も違えば、学校に対する意識、基盤となる文化や歴史も我が国と全く同じ国は一つとしてありません。外国の制度をそのまま移植しても、上手く根付くとは限りません。
 文科省には、法務省に対し、積極的に問題提起をし、よりよい制度を作り上げる責任があると考えます。
 

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危険な本

2022-06-24 08:14:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「危険な本」6月18日
 書評欄に、JT生命誌研究館名誉館長中村桂子氏による『「戦争をやめた人たち 1914年のクリスマス休戦」鈴木まもる文・絵(あすなろ書房)』についての書評が掲載されました。内容は誰もが一度は耳にしたことがある有名なエピソードです。
 『第一次世界大戦で、フランス、ベルギーに攻めこむドイツ軍をイギリス軍が迎えうつ最前線でのことだ。12月24日の夜、鉄条網を挟む二つの塹壕からクリスマスの歌が響き、いつしか一緒に歌っていた(略)その後4年間も続いた戦争の中で、彼らは撃ち合いを避けたという』という話です。聞いたことがありますよね。
 中村氏は、『敵と思っていた相手が音楽やスポーツを愛する同じ仲間であることに気づいて戦争をやめた人たちがいるのに~』と書かれています。この物語は、そういう話なのでしょうか。私の受け取り方は違います。
 人種差別や宗教差別と言われそうですが、私の解釈は次の通りです。
 当時のドイツ軍とイギリス軍の構成員は、多くが白人のキリスト教徒という共通点をもっており、そもそも理解し合える土壌があったから、心が通い合い同じ仲間と気付くことが可能になった。その結果、「戦闘」(戦争ではない)を実質的に止めることが可能になった。しかし、部分的な局面での戦闘を止めることはできても、戦争を止めることはできなかった。一度始まってしまった戦争は、個人レベルの友愛感情では止めることができない。それは、動き出した戦争という大きな歯車の前では、挟まった小石ほどの存在感もなく、戦争という歯車は回り続ける。だから、戦争をなくすには、戦争が始まる前の段階で、予兆を敏感に察知し行動を起こすしかないのだ。
 私は、この絵本が家庭で、あるいは小学校で、子供たちに「人間は、相手が同じ仲間だということに気付けば、戦争を止めることができるんだよ」というようなあまりにもナイーブな考え方を植え付けることに使われるのではないか、という危惧を覚えます。それは、反戦や平和教育にはなりません。先述したように、戦争を止める力にならないからです。
 戦争は始めるのは簡単だが、終えるのは非常に難しいというのは歴史の常識です。始まってしまった戦争を友愛で終わらせるというような荒唐無稽な話を信じ込ませるのではなく、何があっても戦争を始めさせてはならないということを強調し、戦争への道を歩み始める兆候に対する嗅覚を磨く、異なる考え方の排除、情報操作、真実の隠蔽、フェイクニュースの横行、国家=政府という発想の横行などについて危険だと感じる能力を身に付けさせることこそ大切です。
 この本は、部分的な戦闘を緩和することはできても、始まった戦争は簡単には終わらせることができないという教訓話として活用されるべきだと思います。

 

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経験とノウハウ再評価を

2022-06-23 08:45:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何故か」6月17日
 『こども家庭庁発足へ 理念を実現できる体制に』というタイトルの社説が掲載されました。その中に、首を傾げてしまう記述がありました。『縦割り行政から脱却できるかどうかが焦点だ(略)一方で、幼児教育や義務教育は文部科学省が引き続き担当する。自民党の文教族などが移管に反対したためだ』という記述が一つです。
 そしてその少し後に、『いじめ問題でも、教育委員会や学校の対応が問題視されるケースが後を絶たない。こども家庭庁は自治体と連携し積極的に関与すべきだ』と書かれているのです。これらの記述から、「文科省が所管してきた幼児教育や義務教育をこども家庭庁に移管すれば、いじめ問題への対応もうまくいったのに残念だ。せめて文科省所管であってもこども家庭庁が関与を強めていじめ問題を解決していくべきだ」という考えがうかがえます。
 何故なのでしょうか。どうして、義務教育をこども家庭庁に移管すると、いじめ問題への対応がうまくいくと考えるのでしょうか。その理由が全く理解できません。新しくできる組織ですから当たり前ですが、こども家庭庁には、いじめ問題への対応について、経験もなければ、ノウハウもありません。経験もノウハウもない組織が、経験もノウハウもある組織よりもうまく対応できるというのは、常識ではあり得ないことです。何かそういう理論なり、先行研究なりがあるのでしょうか。少なくとも私は聞いたことがありません。
 考えられるのは、文科省・教委・学校という既存システムを、自己保身と隠蔽体質に染まった悪の組織、腐敗した組織とみなし、それと比べるならば、たとえ経験もノウハウもなくても、悪に染まっていない新組織の方がましなはずだ、という考え方が背後にあるということです。それならば理屈としては納得できます。
 でも、本当にそうなのでしょうか。私は文科省・教委・学校という現行の教育行政に問題が皆無であるとは言いませんが、他の行政部門と比べて劣っているとは思っていません。むしろ、国際比較でみれば、少ない文教予算にもかかわらず、高い成果をあげている、十分に合格点を得られると考えています。
 それでも、新組織が望ましいと考える人は、新組織の経験やノウハウの乏しさは、文科省で義務教育行政に携わってきた人材を新組織に移籍させれば問題ないと言うかもしれません。しかし、人や組織をそのまま移行させれば、経験とノウハウを手に入れることはできるかもしれませんが、悪い体質もそのままということになります。それとも、トップが文科相からこども家庭庁長官に変わるから、体質も変わるという考えなのでしょうか。トップが変われば変わるのなら、文科相を新たに任命すれば済むことです。
 問題がある→何か対策を打ち出さねばならない→新しく担当部署を設ければ改善への意欲を見せることができる→新しい組織をつくろう、という図式は国だけでなく、企業や自治体でもよく目にします。そしてその多くが、看板を掛け変えただけで大した成果は上げられないということも、です。今回の義務教育もこども家庭庁へという動きが、この図式に当てはまらないという保証はありません。
 真にいじめ問題の解決を考えるのであれば、法改正をし、警察並みの強制捜査力をもった組織を新たに立ち上げ、悪質なケースでは、教委や学校の関係者に対し行政罰だけでなく刑事罰を科す仕組みを整えることです。そして、全国で何万件とある「よくあるいじめ」については、教委と学校と教員を信頼して委ねるのが現実的な方法です。

 

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強制せずに成り立つか

2022-06-22 07:40:56 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「これで何回目?」6月16日
 『学校と分離 混乱必至』という見出しの記事が掲載されました。最近部活をテーマにした内容が多くて恐縮ですが、今回も部活についてです。元埼玉県スポーツ局長久保正美氏へのインタビュー記事です。
 久保氏の見解の中から、再度確認しておきたい点をいくつか取り上げたいと思います。まず、『文科省は「休日から段階的に移行」と掲げているが、部活動を平日と休日で分かることは難しい』という指摘についてです。
  全くその通りです。ただ、久保氏は、だから地域移行は慎重に、という立場ですが、私は違います。土日や祝日、長期休業日などの部活を先行移行するのではなく、一気に全ての部活を地域移行すべきだと考えています。中途半端な移行で混乱を生み、改革が立ち往生することは避けなければなりません。
 現実的には、いきなり全ての部活を平日にも地域移行するのは難しいかもしれません。それならば一部の部活だけであっても、完全に地域移行を実現し、地域移行の良さ、具体的には、指導の一貫性の確保、専門性の高い指導者による指導の実現、生徒の競技力の向上などの成果を示して、地域移行への賛同者を増やすという手法を採用すべきだと考えます。
 次に、部活を学校でという前提でおっしゃっている『指導ができない教員の場合、技術指導を外部指導者に任せる形にすればいい』という考えについてです。過去にも指摘したことですが、これでは教員の負担軽減にはなりません。たとえ技術指導をしなくても、さまざまな準備や対応のために、教員はその場にいなければならないケースが多いのです。そこで多くの時間を費やしてしまうのです。それなのに「指導はしていないのだから先生は楽になった」などと思われてしまうとすれば、それまで一応は感謝をされていたときに比べ、心理的なストレスは増してしまいます。
 最後に、『顧問は強制されるべきではない』という意見についてです。支離滅裂だと言わざるを得ません。強制しないということは、理論上はある年度、急にそれまで存在した部活がなくなるという事態を受け入れるということです。教員の異動で、あるいは教員の家庭の事情、例えば子供が生まれたとか親の介護が必要になったとか、または校務分掌の関係などで、顧問を引き受けられなくなったという申し出があったとき、それでもやってくださいとはいえなくなるということなのですから。
 今、介護や育児の例を挙げましたが、それはそうした理由を挙げる教員が多いと予想されるからです。本来であれば、強制しないということは、単に部活の指導は嫌だということで顧問を断ってもよいということです。そんな不安定な状態で部活を学校に残すことが生徒の利益になるのでしょうか。大いに疑問です。
 もし、強制はしないと言いながら、我が国特有の周囲の同調圧力に期待して、実質的には強制するということに期待しているのであれば、それは教育現場に相応しくない「不正義」だと言わざるを得ません。
 久保氏の言うとおり、制度改定の過程で混乱は避けられないでしょう。しかし、どのような改革も混乱をゼロにすることはできません。混乱を改革否定の理由にするならば、いつまで経っても改革は実現しません。

 

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教員といえるか

2022-06-21 08:29:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員?」6月15日
 『こども家庭庁設置法きょう成立』という見出しの特集記事が掲載されました。その中に『いじめ対策なお困難』という小見出しがあり、『いじめ対策は従来通り文科省が担うが、こども家庭庁の設置は、その改善につながるのだろうか』という問題意識で、分析と実情紹介が掲載されていました。
 そこに気になる記述がありました。『大津市は、13年度から全市立小中学校55校に学級担任を持たない「いじめ対策担当教員」を約70人配置し(略)21年度に市が「いじめ疑い」として把握した件数は8498件で、12年度の20倍超となり、早期対応が可能になった』という記述です。
 といっても、気になったのは施策の成果についてではなく、学級担任を持たないという教員の存在についてです。その70人は「教員」なのでしょうか、という疑問が浮かんだのです。記事の中には『いじめの兆候を見つけられるのも、その後の対応をしてきたのも教員だ』という文科省幹部の声が紹介されていましたが、私も教員だからこそいじめ発見も対応も出来ると考えています。学校のこと、学校での子供のこと、教員のことを知らない人では、いじめの発見も対応も難しいと考えます。
 だからこそ、大津市も教員をいじめ対策担当にしたのでしょう。しかし、学級担任をせずにいじめ対策に専念することが何年も続けば、その人は教員の特性を失っていってしまいかねません。教員は学校に勤務していれば教員としての勘や技能を保持できるというものではなく、授業や学級経営、学級における掃除や給食活動、特別活動の指導、休み時間のむだ話などで子供と接し続けるからこそ、教員としての能力に磨きをかけることができ、そうでなければだんだんと子供から遊離した存在になっていってしまうのです。そうなれば、単なる外部の大人と変わりません。
 大津市の制度の実際の運用は分かりませんが、仮に毎年担当教員が変わるのだとすれば、担当としての専門性が揺らいでしまいますし、変わらないのであれば、教員としての能力が減ずるという問題が生じます。もし、10年間、いじめ担当を務めた後、学級担任に戻るとしたら、その教員は、学級担任として新卒とあまり変わらない能力しか発揮できないと思われるのです。
 また、校長からいじめ担当を命じられた教員はどのように感じるのかということも気になりました。学級担任として自分が描く理想の学級経営をしてみたい、そんな思いをもって教職を目指した人がほとんどでしょう。大丈夫なのでしょうか。かといって、学級担任は大変だから、少し楽をしたいという教員を充てたのでは、うまくいかないでしょうし。
 記事からは、大津市のような制度を拡充することが望ましいというニュアンスがうかがえました。全国規模での導入を検討する前に、大津市の全教員の意識調査をし、同制度について教員がどのように受け止めているのか、分析考察してほしいものです。

 

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