ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教員がそれを言ってはお終い?

2013-11-30 08:01:23 | Weblog
「教員が言うか」11月25日
 浜松市の元教員K氏の『道徳の教科化に賛成する』という標題の投書が読者投稿欄に掲載されました。その中でK氏は、賛成の理由を述べていますが、どれも首を傾げてしまう内容です。
 K氏は、まず理由の一番目に『道徳の時間は蚊帳の外に置かれてきた。学活に化けることが多かった』ことをあげ、教科化が授業時間確保につながるとしています。全く見当はずれな指摘です。K氏は中学校の教員だったと思われますから、中学校について述べておきます。中学校で道徳が学活に化けてしまったのは、教科でないからではありません。学活も道徳も同じ教員、即ち学級担任が行うからです。数学を英語にしようとすれば、英語の教員と数学の教員の双方から文句が出されます。だから「化け」させることができなかたのです。ですから、道徳が教科になっても、担任が授業を行う以上、授業時間確保の面で効果はありません。
 また、K氏は、『たとえ2割の生徒でも、生き方を学んでくれれば賛成だ』と述べていますが、これほど教員として無責任な態度はありません。初めから8割の生徒を見捨てているようなものです。数学や英語で、「2割の生徒が理解してくれればいい」という発言を教員がしたとしたら保護者や市民からの理解が得られるか、考えてみれば無責任さは明らかです。2割でも生き方を変える生徒がいれば教科化は成功という理屈は受け入れられないでしょう。
 さらに、k氏は『生徒の感性に訴える文章や映画などを使って指導すればいい』とも述べています。大変失礼ですが、この言葉はK氏が授業の中で「感性に訴える文章や映画」などを使って指導法の工夫をしてこなかったという告白に過ぎません。どの教科においても、様々な教材や指導法を工夫するのが教員の務めです。百歩譲ってK氏があげている数学や英語ではそうした工夫が難しいとしても、教科でなくても道徳の授業はあったわけですから、今までしてこなかった工夫が教科化すれば出来るというのはおかしな話です。
 教科化は魔法の杖ではありません。今までの道徳の授業で出来なかったことが教科にすれば出来るという考え方は間違いだと言わざるを得ません。

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なんとなくウマが合う

2013-11-29 06:58:24 | Weblog
「信頼関係」11月24日
 日本医大特任教授の海原純子氏が、患者のメンタルサポートについての日本と欧米の意識の違いについてコラムで書かれていました。海原氏によると、『欧米の場合、十分な情報伝達、つまり医師から治療について十分に説明が行われることや、治療選びに患者さんの意見が十分反映され治療選択に参加していること』が重要であるのに対し、我が国では『最も重要なことは「担当医師に対する信頼関係が築けているかどうか」ということ』なのだそうです。
 文化や宗教の違いなのでしょう。私自身の感覚からしても頷ける研究結果です。ところで、十分な説明や選択肢の提示であれば、その病状に照らし合わせてある程度あるべき姿をどの病院においても共通に設定することはできるでしょうが、信頼という曖昧な概念については難しいでしょう。私は、こうした国民性を前提に、我が国における「評価」のあり方をを考えるべきだと思います。特に、数値化出来ない場合について、です。
 信頼という状況は、かなり感覚的なものであり、個人の性向や価値観等に左右される割合が大きいのです。好き嫌い、ウマが合う、といった感情が影響します。ですからある人から見て信頼できる人が、他の人から見ると胡散臭い人であることも珍しくありません。
 学校の教員に対する保護者や子供による評価は、この好悪や価値観に左右される典型的なものだと思います。ある教員について、きちんと理詰めで叱ってくれるという高評価とダラダラと理屈っぽくてうんざりするという低評価が同時に成り立つのです。放任主義の無責任な子供任せと子供の自主性を尊重というのも同じ言動のどの部分に焦点をあたるかの違いだけです。だからこそ、ある教員について保護者や子供の評価が正反対になってしまうということが珍しくないのです。実際、指導力不足でまったく生活指導をしない教員について、一部の子供と保護者から、「信頼して自由にノビノビとさせてくれる」という高評価が与えられたケースもあるのです。
 だからといって、テストの平均点、子供の欠席率、いじめ等苦情の発生件数などの「数値」だけで教員評価するのであれば、保護者や子供に意見を聞く必要はありません。子供や保護者による教員評価について、個人の感情的なつながりを重視する我が国では欧米のようにはいかないということを肝に銘じておく必要があります。
  
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ファンタジスタを目指して

2013-11-28 08:28:12 | Weblog
「ファンタジスタも」11月21日
 サッカー元日本代表の中村俊輔氏を取り上げた連載企画の第3回目は、『敗れても客観的に語る』という見出しでした。その中で中村氏について、『高校時代につけ始めたサッカーノートには、試合の総括やプレーのイメージ、今後の目標などがつづられている。「何回も何回も考えながらノートに書いたことは頭に残る。調子が悪い時には、ストレス解消にもなる」』と書かれていました。
 私は、このブログで授業記録をつけ分析することの重要性を再三述べてきました。それだけに、中村氏の「サッカーノート」についての記述に心を打たれました。中村氏は、現在35歳だそうです。選手としては大ベテランの部類に入ります。スポーツ選手にとって、若さは大きな武器です。当然、中村氏も選手としての能力は低下しているはずなのに、今でもチームの要として活躍し、今季はチームを優勝に導こうとしているのです。
 それを可能にしている要因の一つが、この「サッカーノート」だと思います。「サッカーノート」と授業記録分析には、いくつもの共通点があります。まず、継続の大切さです。気が向いたときだけ、では効果はありません。何年も続けることで見えてくるものがあり、その時点では単なる記録でしかなかったものが改めて意味をもってくるのです。
 また、単に事実を記録するだけでなく、「考えながら書く」という点も重要です。サッカーのファンタジスタと呼ばれる中村氏の創造的なプレーほどではなくても、教員が授業を構想することは毎日が小さな創造の繰り返しです。そして「創造」は、思いつきや閃きから生まれるのではなく、とことん考えた末に形になるものだということです。
 さらに、今日の反省だけではなく、明日どうするかという発想をもつということもあります。前向きということでもあります。そして、中村氏も言っているように、書くことがストレス解消にもなるという点も見逃すことは出来ません。私の場合、授業記録の分析を氏それに基づいて明日の授業に準備をすることで、見通しと自信、早く自分のアイデアを試したいという思いが湧き、そうした感情が失敗の傷を癒してくれたものです。まあ、実際にはまたも失敗ということが多かったのですが。
 若い教員の皆さんは、授業のファンタジスタを目指し、それぞれの授業ノートをつくってみてはどうでしょうか。

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政治的発言

2013-11-27 08:25:36 | Weblog
「政治的発言」11月20日
 慶応大商学部教授の権丈善一氏が、『年金と政治家のレベル 政争の具とした愚行』という標題で寄稿なさっていました。その中で権丈氏は、2009年の政権交代前の民主党幹部が年金制度について、『間違いなく破綻して、5年以内にまた替えなくてはならない』『国民年金制度は壊れている』と発言していたことを紹介し、それが政治的発言であったことを『年金がボロボロになって、年をとってももらえなくなるという語りかけは、非常に政権交代に貢献してくれた』という鳩山元首相の発言で指摘しています。
 事実、その後に『年金制度破綻というのはそれに近いことをかつて申し上げたことがあり、それは大変申し訳ない』と同党幹部が陳謝しているのですから、民主党が、年金問題を政争の具として使ったことは間違いないと思います。そして、そうした発言が、国民の年金不信を助長し、年金未納者を増やし、結果として年金問題を悪化させたことも事実でしょう。権丈氏は、政治家が選挙に勝つために、自分に有利なように事実を誇張し、結果として国民を誤誘導することの弊害を指摘したのです。
 同じように、学校教育も政争の具にされかけているように思います。年金制度に対して、国民はそこはかとない不安を感じていました。学校教育に対しても、体罰やいじめ、低学力問題、教委や教員の不祥事などから不安を覚えています。そして、学校教育においても年金問題と同じ手口、即ち、このままでは学校教育は崩壊する、既に学校教育は死んでいる、といったイメージを振りまいてきたのです。ちなみに「学校教育は死んでいる」は第一次安倍政権時に設けられた教育再生会議で使われた文言です。そして学校教育の崩壊や死の原因を、日教組の活動や偏った教育内容、教員の怠慢、教委の無能などとし、それらを攻撃することで、自分たちの主張を正当化していくという手法です。
 そこでは、我が国の教育予算がOECD各国の中でも少ないこと、相変わらず学力では政界の上位にあること、特に初等教育については外国からも高い評価を得ていること、「成人の学力」の高さの要因として義務教育の成功が指摘されていること、教員の多忙度では我が国がトップクラスであることなど、自分たちに都合の悪い情報は軽視されてしまっています。
 学校教育を政争の具とせず、ありのままの事実を冷静に検討吟味するところから議論を始めてほしいものです。

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体罰の「神」

2013-11-26 07:58:19 | Weblog
「体罰の神」11月19日
 『スピリット賞に伏見工高総監督 山口氏が日本人初』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『国際ラグビー機構は18日、監督、総監督として京都・伏見工高を4度の高校日本一に導いた山口良治氏を、競技を通じて社会に貢献したとして「IRBラグビースピリット賞」に選んだ』とのことです。
 大変複雑な気持ちです。山口氏は、部員に対して日常的に体罰を行っていた人物です。その事実は、山口氏の「弟子」たちが様々なメディアで語っていますし、山口氏を主人公にしたドラマが放映され、その中で彼に扮した俳優が部員を次々に殴るシーンが有名です。つまり、山口氏が体罰を繰り返してきた人物であることは、ラグビー界だけではなく、広く多くの人に認識されているのです。
 しかも、山口氏の「弟子」たちは、今でも当時の体罰を「先生が殴ってくれたから今の自分がある」というニュアンスで肯定しています。山口氏の「弟子」たちは、現在では指導者として名をなした人も多く、その影響力は決して小さくはありません。私自身、教委勤務時代に山口氏を念頭に置いた、「本当に生徒を思う気持ちがあれば体罰は生徒を変える力をもつ」「生徒を叩く教員も痛みを感じている。その痛みを生徒と共有すれば強い絆が生まれる」といった、体罰有効論、体罰愛のムチ論を聞かされたことがあります。
 つまり、山口氏は、ご本人が意識しているかいないかは分かりませんが、体罰肯定派にとっての「神」なのです。だからこそ、山口氏が日本人初の栄誉に輝くことが、体罰肯定派の人々を力付けることにつながることを懸念してしまうのです。
 私はラグビーファンです。そんな私が道徳に時間に必ず取り上げたのが、副読本に掲載されているあるエピソードでした。それは、国際試合で日本代表ラグビーチームの話です。試合の最終盤、日本チームは相手の反則でPKを得ます。キッカーの蹴ったボールはゴールを越え成功します。劇的な逆転勝利、となるはずでした。しかし、審判は失敗という誤診をし、試合は日本の敗戦で終わりました。サッカーや野球など、他のスポーツであれば、選手や監督が審判に詰め寄り抗議を繰り広げたはずです。しかし、日本チームは判定を黙って受け入れ会場を去るのです。
 ラグビーの精神は、己の感情を律しルールに従うジェントルマンシップにあると思います。そうした「自律」に最もそぐわないのが、暴力で相手を支配しようとする体罰です。残念でなりません。

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比較検討は無用?

2013-11-25 07:59:50 | Weblog
「比較検討は無用?」11月19日
 『現職惨敗に自民動揺』という見出しの記事が掲載されました。福島市長選での現職候補敗戦についての記事で、記事によると『現状に対する不満が現職にすべて集中した』とのことですが、一方で『(誰が市長でも)除染が魔法みたいにどんどん進捗していくことは難しい』ともされています。
 福島市民の選択に文句があるわけではありませんが、こうした現象を目にするたびに、私は我が国の国民性について考えてしまいます。選挙というのは、比較対照しより良い方を選ぶ作業です。しかし、今回の福島市長選では、こうした比較対照が綿密に行われた形跡はありません。結果を左右したのは、「今がダメだから別の選択肢」という短絡的な発想のように思えます。でも、市長が替わっても、魔法の杖はないのです。そうであれば、少なくとも市長職に習熟しているという現職のメリットを評価するという選択肢も有力であったはずだと思います。
 こうした「今ダメ」的発想は一見すると当然のように思われがちですが、少なくとも論理的には、「今よりももっとダメな選択肢」を選んでしまう可能性があるのです。こうした選択行動の裏側には、きちんと理詰めで考えることを面倒臭がり、感覚で判断してしまうという性向があるのです。
 私は同じことが学校教育の在り方を巡る議論でも見られるように感じています。確かにメディアで報じられるいじめや体罰の問題を見ていると、今の学校教育システムに問題があるのは否定できません。そしてそうした認識が、「とにかく違うやり方に変えてみよう」という判断に直結してしまっているということです。教委制度を根本的に変え、首長に教育行政の権限を委ねるという、戦後の地方教育行政の最も根幹となる部分を変えようという改革がその典型です。
 そこでは、「今までと違うやり方」と今までのシステムとの間で、それぞれのメリットとデメリットをあげ、それらを比較しトータルとしてどちらがよいかという検討が不十分です。また、現行システムの良さを生かして部分修正するという知恵も見られません。単に、大鉈を振るうことによるカタルシスを味わいたいという願望が改革の推進力になっているようにしか思えないのです。
 教委制度のメリットについての理解は十分だったでしょうか。

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平凡な君が好き

2013-11-24 08:41:01 | Weblog
「偏りすぎでは」11月17日
 哲学者の鷲田清一氏が、インタビューに答えていらっしゃいました。その中で鷲田氏は、「子供たちは万能感か、無能感かの両極端に振れるようになった」と述べていらっしゃいました。同感です。両者の中庸にこそ、望ましいあり方があるはずです。
 ではそのバランスをとるために、学校教育はどうすればよいのでしょうか。そのことを考える前提として、学校教育の現状を見る必要があります。学校では、子供に万能感を与える教育が「善」とされているように思えます。「誰でも頑張れば出来る」「夢をあきらめては駄目」「努力は必ず報われる」「子供には無限の可能性がある」等のフレーズは、教員が好んで使うものです。
 でも、こうした言葉が「嘘」でしかないことを教員は知っているはずです。自分の人生を振り返り、頑張ったけどどうにもならなかったこと、自分なんかよりもはるかに高い能力や資質をもった人がたくさんいること、人生には運や巡り合わせが大きな影響を与えることなどを理解しているはずなのです。もし、そんなことはないと言う人がいたら、そんな「異常人」は教員になるべきではありません。
 素直な子供こそ、こうした「嘘」を信じ込んでしまいます。そして、全く根拠のない夢や希望を極限まで膨らませたあげく、それが破裂した後、大きな挫折感から立ち直れなくなってしまう子供が出てくるのです。もちろん、家庭で「お前なんか生まれてこなければよかった」と全否定されてしまう同情すべき子供もいます。そうした子供には夢をもたせることも必要でしょう。しかし、多くの子供にとって必要なのは、自分は選ばれた特別な存在などではない、という真理に気付かせ、偉人から凡人に静かに着陸させることなのです。これは、「親ばか」に陥りがちな保護者には難しいことです。だからこそ、これは教員の役割なのです。
 そのとき大切なのが、凡人だけどかけがえのない存在、という考え方です。あれもできない、これもだめ、弱くてちっぽけな存在だけど君が好きだ、というメッセージを送ることです。そんな教員を目指してほしいものです。

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無意味なようで

2013-11-23 08:00:40 | Weblog
「無意味なようで」11月17日
 医療ジャーナリストの村上紀美子氏が、介護についてインタビューを受けていました。その中で村上氏は、『「(介護)サービスの人が働かないでおしゃべりばかりしている」という文句も聞きます。会話のキャッチボールには心身の健康状態が表れますから、サービスの人は健康チェックをしているのです。話していると困りごとが分かってきますから、今後の知恵も出せます。何よりもおしゃべり自体が、頭にも心にも体にも良い刺激になって、本人の活気をよみがえらせます』と語っていらっしゃいました。
 私の父母も認知症を患いました。だからこの話はよく分かります。私自身、母の介護サービスに訪れる人が母に話しかけ、掃除を始めないことを不快に思っていた経験があります。正直、「母に聞いたって、記憶がなかったり勘違いしていることが多いのだから、自分に聞けばよいのに」と思っていたのです。母の話を横から遮り、私が問いかけに答えてしまったこともありました。今ではそんなこともありませんが。
 この話から分かることは、素人には専門家の行為の意味を理解することが難しい場合がある、ということです。素人判断で専門家を評価しては間違うことがあるということでもあります。
 学校の教員も教えることの専門家です。その行為の意味が、保護者や市民から正当に評価されないこともあります。それどころか、教員同士でさえ、校種や教科が異なると理解できないことがあるのです。
 以前も触れたことですが、中学校の校長から非公式な席で、「幼稚園の先生なんか、チイチイパッパしているだけなんだろ」と言われたことがあります。彼には、幼児期の子供にとっての身体表現のもつ意味や、心の解放の必要性などが理解できていなかったのです。
 小学校では、休み時間に子供が担任の回りに集まり、ふざけたりくだらない話をしているという光景をよく目にします。外部の人がから見れば、「子供とのんきにくっちゃべってきゅうりょうをもらえるんだから、教員なんて楽な商売だな」と思われるかもしれません。しかし、その場で教員は、授業中や学校行事の場では見せない子供の姿を注意深く見、多表情や言動がないか気を配り、特定の子供だけに関わりが偏らないように配慮し、気になる子供にはさりげなく「先生は君の味方だよ」というメッセージを送っているのです。そこは指導書や教育書には書かれていない教員の真剣勝負の場なのです。
 学級経営のうまい教員がいます。彼らは例外なくこうした非公式の場でのコミュニケーションが巧みです。でも、それを「遊んでいる」「気楽」ととられてしまっては、教員は重要な「武器」を放棄せざるを得なくなります。それは何よりも子供にとって不幸なことです。保護者や市民には、教員の専門性に敬意と信頼をもって、表面的な素人判断を慎むという姿勢が必要だと思います。  

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もし、公立校がなかったら

2013-11-22 08:13:45 | Weblog
「公立校がなかったら」11月16日
 『「社外同期」で離職ストップ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『中小企業の若手社員が、自社以外で悩みを共有したり励まし合ったりする「社外同期」が注目されている』のだそうです。中小企業では、社内に同期の若手社員が少なく、『相談したり競ったりできる同期が少なく、離職の一因になっている』現状を改善するために、異なる企業に勤務する若手同期の社員が、『メールマガジンで活躍を紹介したり、定期的な顔合わせの場を設けたり』しているそうです。
 よく分かります。私も教員になりたての頃、30代、40代の先輩には話しかけづらかった思い出があります。自分とは全く違う「完成した教員」に見え、「こんなことを聞いたら変な目で見られるのではないか」と思い悩んだものです。特に小学校の教員は、教室に入れば自分一人で全てをこなさなければなりません。先輩の仕事ぶりを横目で見ながら、というわけにはいかないのです。判断に迷ったからといって、隣の学級担任に聞きに行くわけにも行きません。その心細さはおそらく他の職種以上でしょう。学年主任も、隣の学級の先輩も良い人でしたが、職場で味わう孤立感は今でも夢に見るほどです。
 しかし、公立校では、教委単位の初任者研修があります。そこでは年齢が近く、遠慮なく話が出来、しかも同じような悩みを抱える者同士の連帯感があります。愚痴をこぼし、弱音を吐き、ときには先輩や保護者の悪口を言い、少しのヒントと励ましを受ける、それがどれだけ力になったか、言葉では言い表せないほどです。
 こうした仕組みが十分でないのが、私立校です。そもそも私立校では、採用数が少ないですし、私立校を横断する初任者研修もありません。そのせいだけではないかもしれませんが、私立校では、公立校で経験を積んだ教員を中途採用するケースが珍しくありません。若い教員を一から育てる手間を省いているのです。少し辛辣な言い方になるかもしれませんが、公立校が若い教員を育てる機能を肩代わりしている現状なのです。つまり、税金を遣って私立校が行うべき若手育成を行っているとも言えるわけです。
 私立校礼賛者には、こうした現状についても目を向けてほしいものです。
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授業を成り立たせるもの

2013-11-21 08:02:28 | Weblog
「朝練禁止に欠けているのは」11月14日
 『中学生の部活 朝はダメ』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、長野県では、『通年で朝に部活を実施している学校は96.8%』だそうで、『長時間の練習が授業や健康面に悪影響を与えている』として県教委が、朝練の廃止を打ち出したそうです。
 朝練の廃止自体には賛成です。しかし、記事の内容には問題があります。それは、『参加する生徒の8割以上が午前7時前に家を出ており、31%が睡眠不足を感じ』など、生徒の状況からだけで、朝練廃止を決定しているからです。
 授業の成否は、生徒側だけではなく教員の側からも考える必要があります。教員が疲れ切っていたり、寝不足でボーッとしていたりしては、充実した授業は期待できません。また、朝練に時間をとられ、授業の準備が十分に出来ない状態も、授業に悪影響を及ぼすことは必至です。
 記事で見る限り、長野県教委の判断では、教員についてはまったくの考慮外のようです。まるで教員は疲れを知らないロボットであるかのような扱いです。あるいは、教員免許をもっているのであれば、良い授業をするために特段の準備は不要だと考えているのかもしれません。それは、「教える」ことの専門性を軽視していることの表れでもあります。
 私が高校生の頃、毎年同じ講義ノートの記述を授業時間中ひたすら黒板に書き写すという授業をする教員がいました。それならば授業の準備は不要です。長野県教委は、そんな授業を一般的だと考えているのでしょうか。
 私はこのブログで部活の社会教育への移行を訴え続けてきました。その理由として真っ先に指摘していたのが、教員の授業準備時間とそのための体力の不足ということでした。しかしそれはあくまでも通常の放課後の部活を想定してのものでした。それに加えて朝練など、言語道断です。
 学校は勉強をするところであり、教員は勉強を教える人です。学力低下問題を危惧するのであればこの原点に返り、学校のスリム化で学校の教育機能の再生を進めることこそ、今、重要であるはずです。

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