「教員が言うか」11月25日
浜松市の元教員K氏の『道徳の教科化に賛成する』という標題の投書が読者投稿欄に掲載されました。その中でK氏は、賛成の理由を述べていますが、どれも首を傾げてしまう内容です。
K氏は、まず理由の一番目に『道徳の時間は蚊帳の外に置かれてきた。学活に化けることが多かった』ことをあげ、教科化が授業時間確保につながるとしています。全く見当はずれな指摘です。K氏は中学校の教員だったと思われますから、中学校について述べておきます。中学校で道徳が学活に化けてしまったのは、教科でないからではありません。学活も道徳も同じ教員、即ち学級担任が行うからです。数学を英語にしようとすれば、英語の教員と数学の教員の双方から文句が出されます。だから「化け」させることができなかたのです。ですから、道徳が教科になっても、担任が授業を行う以上、授業時間確保の面で効果はありません。
また、K氏は、『たとえ2割の生徒でも、生き方を学んでくれれば賛成だ』と述べていますが、これほど教員として無責任な態度はありません。初めから8割の生徒を見捨てているようなものです。数学や英語で、「2割の生徒が理解してくれればいい」という発言を教員がしたとしたら保護者や市民からの理解が得られるか、考えてみれば無責任さは明らかです。2割でも生き方を変える生徒がいれば教科化は成功という理屈は受け入れられないでしょう。
さらに、k氏は『生徒の感性に訴える文章や映画などを使って指導すればいい』とも述べています。大変失礼ですが、この言葉はK氏が授業の中で「感性に訴える文章や映画」などを使って指導法の工夫をしてこなかったという告白に過ぎません。どの教科においても、様々な教材や指導法を工夫するのが教員の務めです。百歩譲ってK氏があげている数学や英語ではそうした工夫が難しいとしても、教科でなくても道徳の授業はあったわけですから、今までしてこなかった工夫が教科化すれば出来るというのはおかしな話です。
教科化は魔法の杖ではありません。今までの道徳の授業で出来なかったことが教科にすれば出来るという考え方は間違いだと言わざるを得ません。
浜松市の元教員K氏の『道徳の教科化に賛成する』という標題の投書が読者投稿欄に掲載されました。その中でK氏は、賛成の理由を述べていますが、どれも首を傾げてしまう内容です。
K氏は、まず理由の一番目に『道徳の時間は蚊帳の外に置かれてきた。学活に化けることが多かった』ことをあげ、教科化が授業時間確保につながるとしています。全く見当はずれな指摘です。K氏は中学校の教員だったと思われますから、中学校について述べておきます。中学校で道徳が学活に化けてしまったのは、教科でないからではありません。学活も道徳も同じ教員、即ち学級担任が行うからです。数学を英語にしようとすれば、英語の教員と数学の教員の双方から文句が出されます。だから「化け」させることができなかたのです。ですから、道徳が教科になっても、担任が授業を行う以上、授業時間確保の面で効果はありません。
また、K氏は、『たとえ2割の生徒でも、生き方を学んでくれれば賛成だ』と述べていますが、これほど教員として無責任な態度はありません。初めから8割の生徒を見捨てているようなものです。数学や英語で、「2割の生徒が理解してくれればいい」という発言を教員がしたとしたら保護者や市民からの理解が得られるか、考えてみれば無責任さは明らかです。2割でも生き方を変える生徒がいれば教科化は成功という理屈は受け入れられないでしょう。
さらに、k氏は『生徒の感性に訴える文章や映画などを使って指導すればいい』とも述べています。大変失礼ですが、この言葉はK氏が授業の中で「感性に訴える文章や映画」などを使って指導法の工夫をしてこなかったという告白に過ぎません。どの教科においても、様々な教材や指導法を工夫するのが教員の務めです。百歩譲ってK氏があげている数学や英語ではそうした工夫が難しいとしても、教科でなくても道徳の授業はあったわけですから、今までしてこなかった工夫が教科化すれば出来るというのはおかしな話です。
教科化は魔法の杖ではありません。今までの道徳の授業で出来なかったことが教科にすれば出来るという考え方は間違いだと言わざるを得ません。