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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

継承者

2013-10-31 08:02:40 | Weblog
「本質からずれている?」10月26日
 仏文学者の鹿島茂氏が、大学入試制度改革について『教育の本質はエロス 文科省には無理な話』という標題で寄稿なさっていました。その中で鹿島氏は、『(教育者は)自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に保存したいと欲する』と書かれていました。
 前後の文脈から、鹿島氏がイメージしているのは、大学や大学院における師弟関係だと思われます。「生徒」という用語からは中高を指しているとも考えられますが、少なくとも小学校ではあり得ないでしょう。なぜこんなことにこだわるかというと、小学校の教員には、自からの「知の保存」という感覚はないと考えられるからです。
 私自身、鹿島氏の感覚は理解できませんが、大学段階であれば違和感なく受け入れることができます。私自身、教委勤務時代には、教育研究員や教員研究生の指導にあたる際に、彼ら若い教員に自分のもつ知見やノウハウを伝えたいと思いましたし、彼らがそれを継承発展させていってほしいと願っていました。私自身の知見などあまりにも些細なもので、恥ずかしいのでこんなことを口にしたことはありませんでしたが。
 一方、教員時代の教え子に対してこうした「継承者」的な感覚をもったことはありませんでした。私は、このブログの中で、教員は「知」の専門家ではなく教えることの専門家であるという趣旨の主張を繰り返してきました。そして、中高の教員は教えることの専門家という自覚が足りず「知」の専門家を目指す傾向があるということも指摘してきました。なぜこうした現象が目立つのかという理由の一端が、鹿島氏の指摘によって分かったような気がします。子供が成長し大人に近づくにつれて、相手の中に「知の継承者」としての影を見いだすのでしょう。
 中高の教員は、鹿島氏の意見について、どのような感想をもつのでしょうか。小中高の教員の相互理解を深めるために、このテーマで話し合ってみたいものです。

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性差の問題ではなく

2013-10-30 07:42:53 | Weblog
「男女の問題?」10月24日
 論説委員の落合博氏が、『女性体育教師』という標題でコラムを書かれていました。その中で落合氏は、『(体育教師に)求められるのは生徒を威圧し、黙らせることができる能力で、生徒指導の前面に立たされることが多い。声の大きさや体の強さがものをいう「男の職場」で女性体育教師の存在感は薄い』と述べ、『男並みの役割が女性教師にも求められる限り、体育の現場は変わらない』と結んでいます。
 部活や体罰について、たびたび触れている落合氏ですが、今回のコラムについては訴えたいことがよく分かりません。結びの記述から考えると、学校体育の現場には問題があり、変えていかなければならないというのが落合氏の主張だと思われます。しかし、ここでいう「体育」とは何か、ということが明確でありません。教科としての体育の授業のことなのか、運動系の部活のことなのか、両方なのか、それが分からないのです。学校教育で「体育」と言う用語は保健・体育科の授業に対してしかつかわれませんから、おそらく授業のことだと思うのですが。また、学校の教育活動の中核をなすのは授業ですから、そうした意味でも、「体育」とは、授業を指すと考えるのが自然です。
 私は、「生徒を威圧し、黙らせることができる能力」が体育の授業で求められているとは思いません。確かに授業中に生徒を静かにさせることや教員の指示に従わせることは必要ですが、それは他の授業でも同じです。他の授業では教員の指示に従う生徒が体育の授業のときだけ教員の指示を無視するというデータはないはずです。
 また、授業において生徒を統制するための手段として、「威圧」は好ましくないと考えます。学習への興味関心、学ぶことへの必要感、より良い学びへのナビゲーターとしての教員への信頼や期待、そうした要素が、教員の言葉に重みを加えると考えるのが教育的ということです。
 私は高校の体育授業については詳しく知りませんが、中学校の体育授業については、確かに問題は多いと考えています。体育授業は「鍛えること」という意識の教員がおり、生徒の運動欲求や技能向上への思い、達成感や満足感などへの配慮を欠く教員が多いのです。その結果、教員は指示を出し、生徒はその意味を考えることなく指示どおりに動くというのが良い授業と勘違いしているような教員が少なくないのです。
つまり、私も体育の授業を変えていかなければならないと考えてはいるのですが、私の問題意識としては、体育の授業を変えるために必要なのは、男女の問題、男女の性差の問題ではなく、教員の授業観の転換や授業法の改善であるということです。
 一方、落合氏の求める体育授業像はどのようなものなのでしょうか。男性は威圧的でよいが女性は別のやり方で、ということなのでしょうか。男性型の「威圧」を捨て、男女の教員ともに別の指導原理を身につけるべきだということなのでしょうか。
 分かりにくさの原因として、そもそも落合氏のコラムの中に、授業についての言及がほとんどないことがあげられます。あるのは生徒指導と部活だけです。部活や生徒指導に体育教員が大きな存在感をもっているのは事実です。私が教委勤務時代、中学校の生活指導を担当しているとき、生活指導主任は全員男性でしたし、その3/4以上が体育教員であり、主任会のチーフも副チーフも体育教員でした。そして、彼らは「こわもて」でした。今もそうした状況は変わりません。
 しかし、これは我が国の学校における後進性の象徴だと思っています。生活指導を生き方指導ではなく、生徒の管理と考えているからこその「威圧」重視だからです。運動系部活における成績至上主義も、生徒一人一人の充足感よりも目に見える結果を追い求め、結果として個人がないがしろにされやすいという意味で、非教育的行為です。これらと、「生徒を威圧し、黙らせることができる能力」の重視は密接な関係があります。その点についての落合氏の見解を知りたいものです。

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共有は無理?

2013-10-29 07:45:53 | Weblog
「机上の理想論?」10月23日
 樋口淳也記者による『静岡 学力テスト成績公表問題』という標題の特集記事が掲載されていました。その中で樋口氏は、『本来は児童の長所短所を知る現場で結果を分析し保護者と共有すべきだ。教育委員会任せでなく、主体的に情報を発信しないと理解されない』という県内の校長の話を紹介しています。
 その通りだと思います。しかし、現実を無視した理想論に過ぎないという思いも捨て切れません。一番の問題点は、保護者との「共有と理解」が可能かという点です。記事の中でも指摘しているように、テストの結果には、地域性が影響を与えています。露骨な言い方をすれば、保護者に低収入低学歴層に属する者が多い地域では、テストの結果が悪いのです。これは静岡に限ったことではなく、全国共通にみられる傾向です。つまり、」静岡県だけでなく、全国レベルで「共有と理解」は問題なのです。
 学校側から、「今回の学力テストの結果については、様々な要因が考えられるが、最大の原因は、保護者の経済レベルが低く、家庭教育に割くことができる時間が少ないこと、生活に追われ子供の教育への関心が低いこと、保護者自身の知的好奇心や向上心が乏しく、それが子供の学習姿勢に悪影響を与えていることなど、いわゆる家庭環境の問題であるという結論に達しました」と分析結果を伝えられたとき、それを素直に受け入れ、納得してもらえるでしょうか。私はそう思えません。
 多くの保護者は激昂するでしょう。「きちんとした家庭」を自負する保護者は「うちは違う」と言うでしょうし、内心図星を指されたと感じる保護者は「これが精一杯なんだよ」と反発するでしょう。
 また、万が一「共有と理解」が成立したとしても、学校と保護者で解決策を練ることが可能なのでしょうか。家庭の経済レベルを上げるのは経済政策や社会政策の分野でしょうし、家庭の好学的雰囲気醸成の手立てなど思いもつきません。かりに手立てがあってもかなり長期的なスパンで見ることが必要でしょう。小中学校ともに学力テスト後2年足らずで当該児童生徒は卒業していってしまいます。その間に成果を上げることは難しいでしょう。
 本音を言えず、本音を言っても対策は取れないというのが学力テストを巡る状況なのです。理想と現実の溝を直視せず、学校や教員の責任を過剰に追及するのでは、単なるガス抜きにしかなりません。今、必要なのは、文部科学省と都道府県教委が戦闘に立ち、言いにくいことを言い、批判の矢面に立って、学校依存という国民の意識を変えていくことだと思います。

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中立を支える条件

2013-10-28 07:41:17 | Weblog
「政治家と公務員」10月22日
 特集ワイドで、『原発ホワイトアウト』を書かれた霞が関の覆面作家若杉冽氏へのインタビューが掲載されました。その中に公務員人事について以下のような記述がありました。『上層部人事は事実上、政府・与党が握っているから、出世したい幹部は政治家に迎合する。「実は昨年末の衆院選で、まだ野党だった自民党のマニフェスト作成に関わった再稼働推進派の経産省幹部すらいる。今は安倍政権に非常に近い人物です。もはや役人としての一線を越えている」』。
 これは原発再稼働をめぐる話ですが、同じような事例は身近な地方行政の場でも見ることができます。自治体における首長の権限の大きさは、政府における首相や大臣の比ではありません。唯一「民意」で選ばれた存在として、他からの干渉を気にすることなく人事権を行使することが可能です。
 ですから、市区町村の幹部公務員は、常に首長の顔色を窺っているのです。政治的な公正さもありません。私自身の経験ですが、首長選挙の最中に上司から、「(前)市長が、教育政策で何か目玉になるような策を打ち出したいと言っているんだけど、いい案はないか」と言われたことがありますし、「(前)市長が○○をやると言っているんだけど、実際にできそうか」と確認されたこともあります。私も、一線を越えていたのかもしれません。汗顔の至りです。しかし、当時はそんな疑問をもつこともありませんでした。あまりにも当たり前のことという雰囲気だったのです。
 そうした中で比較的首長の人事権から自由なのが教委なのです。教育委員は非常勤であり、それぞれ別の本業をもっているため、首長の顔色を窺う必要がありません。また、委員自体が地域の名望家であるため、首長側にも若干の遠慮があります。さらに、学校教育については、指導室課長や指導主事といった教員系の職員がおり(私もそうでした)、彼らは将来学校現場に戻るため、つまり首長の人事権から離脱するため首長に迎合することで「利益」を得る立場にないのです。これらが、教育の中立という抽象的な概念を実際に支えているのです。
 教育に対する政治の干渉を排するという議論は抽象論ではなく、人事や予算という具体的な項目に基づいて行うことが必要です。現在進行中の教委改革も、こうした視点から論じる必要があります。

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関係性が防ぐ

2013-10-27 07:59:21 | Weblog
「失いたくない」10月22日
 『なくせ、ストーカー被害』の連載記事で、弁護士の番敦子氏へのインタビューが掲載されました。その中で番氏は、『社会的地位の高い相手ほど警察による警告や弁護士を立てるだけで効果がある。逆に三鷹の事件のように相手が若く、無職で失うものが少ないような場合はどうしても対応が難しくなります』と語っていらっしゃいます。
 要するに失うものがある人は自らの行為によってそれを失うことを恐れ無茶をしない、ということです。誰しもがうなずける言葉だと思います。そして、番氏の言葉は、ストーカー事件に限らずすべての「反社会的行為」について成り立つ原則でもあると思います。ですから、学校で行われている生活指導についても、この考え方を活用することが効果的なのです。
 喫煙、飲酒、万引き、深夜徘徊など、深刻な刑事事件に発展する前に子供たちが経験する問題行動があります。こうした問題行動を事前に防ぐために、あるいは問題が重篤化するのを防ぐために、多くの教員が奮闘しています。そのとき、様々な対応が考えられます。叱りつける、子供の言い分に耳を傾ける、出席停止などの罰を与えるなどですが、いずれも事後対応にすぎません。根本的な解決には結びつきにくいのです。
 そこで、番氏流の対応、即ち問題行動を繰り返す子供に、これだけは失いたくないと思えるものをもたせることが重要になるのです。家族が大切であれば自分の非行で悲しむ家族の顔を見たくないという思いが、数カ月後に控えた関東大会が大切であれば出場できなくて涙を流す友人の顔が、将来の夢への一歩となる高校への入試が、幼稚園の頃から練習を重ねてきたバレーの発表会が、愚行を思いとどまらせる力となるのです。
 我が子や教え子の言動を責める前に、大人は、「自分はこの子に失ったら困る大切なものをもたせることができているだろうか」と自問すべきなのです。「お母さんを悲しませたくない」「先生の信頼を裏切りたくない」といわれる存在であるか、問い直してみたいものです。

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専門家という存在

2013-10-26 07:15:51 | Weblog
「専門家という存在」10月20日
 京都大教授の中西寛氏が、『民主政治の限界 選挙経ない専門家の力』という標題で寄稿なさっていました。その中で中西氏は、各国の中央銀行総裁職を例に、『極めて高度な専門的能力が求められるので、その判別に民主的選挙はおそらく適切でないし、中央銀行が様々な政治的圧力から独立して意志決定をするのでなければ、人々からその政策への信頼感が得られない』と述べ、『一定の分野については政治から独立した専門家に委ねる知恵を使わなければなるまい』としていらっしゃいます。
 私は、中西氏の主張に全面的に賛成します。そして、中央銀行ほど専門性が高度ではありませんが、教委もまた専門家に委ねることが望ましいと考えています。さらに、政治からの独立という面でも、地方教育行政は専門家に委ねるべきと考えます。
 しかし、私のこうした主張は、多くの同意を得ることはできないようです。その理由は、教委の専門性への懐疑です。政治からの独立性という面では、多くの人が首長直轄よりも現行制度の方が望ましいと考えていると思われます。しかし、実際には、政治からの独立性を多少犠牲にしてでも、教委改革をすべきと考えているという人が多いのですから、教委の専門性はあまり評価されていないと考えざるを得ないのです。
 評価されない理由は2つあります。一つは創られたイメージの影響です。多くの教委は、大きな問題なく与えられた使命を果たしています。しかし、残念ながら、メディアに取り上げられる一部の教委のていたらくが、教委全体の専門性への不信を助長しているということです。また、地方教育行政自体が、住民から理解されていないという点も見逃せません。そもそも、教員でさえ、教委の業務についてほとんど理解していないのが実情なのですから、無理もありません。何をしているのか分からない反面、ニュースになるのは不祥事のときだけというのでは、専門家として認められないのは当然かもしれません。
 そしてより重大なのは、実際に専門性不足に陥っている教委が少なくないだけでなく、今後更に増加していくだろうと予想されることです。その最大の理由は、教委事務局に教委プロパーとでもいうべき職員が存在しないことです。市民課や厚生課、庶務課や土木課でキャリアを積み重ねた職員が、ローテーションの一環として数年間の腰掛けで教委に籍を置くだけなのですから、教育に関する見識を求めるのはないものねだりということになります。私が指導室長をしていた教委の事務局も、学校教育の専門家は私を含めて4人、教育委員の中に元校長が1人いただけでした。こんな状態が続けば、専門性は枯渇する一方です。
 私は、教委が独自に専門家を採用するような改革こそ、教委改革の目玉であるべきだと思います。
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テストが教えるもの

2013-10-25 07:48:03 | Weblog
「テストが教えるもの」10月18日
 『旧東独「理系頭脳」で西圧倒』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『ドイツの義務教育9年生を対象にした理数系科目の全国テストで、全16州のうち旧東独5州の生徒の成績が上位を独占した』ということです。このあまりにも明確な結果に対して、『東独では数学や科学が重視され、その教育を受けた世代が今、教壇に立っているのが大きい』という分析がなされています。
 いろいろなことを考えさせられます。まず、学力の向上は、授業をする教員の能力による部分が大きいということです。制度をいじくり回すのではなく、地道に教員の授業力向上に取り組むことが大切であるという教訓を導き出すことができそうです。
 次に考えさせられることは、教員の授業力向上を通して子供の学力向上を実現するには長い年月が必要となるということです。東西ドイツ統一から23年がたっています。当時の子供が成人し義務教育の教員となり、学校の中核を占めるようになるくらいのスパンで考えなければならないということなのです。
 ちなみに、私は本ブログで、生活科が導入されてから小学校に入学した子供、総合的な学習の時間が導入されたから入学した子供が教員になったとき、それまでとは異なる授業観、指導観、学校観をもった彼らが学校教育をじんわりと変えていくということを指摘しました。それはこういうことだったのです。
 さらに、この結果を受け、それではドイツ全体の義務教育をかつての東独スタイルに変えようとはなっていないということに注意する必要があります。旧東独の学校教育は、理系学力という点でこそ優れていたという評価を受けるものの、全体としては思想統制の色彩が強く、モデルとなるものではないという評価は揺るぎません。思想的自由のないところに学問の自由はなく、真の意味での高学力もありえないということです。
 我が国でも、英語教育や理科教育、道徳教育など、ある分野に特化して子供の学力を伸ばすという発想をする人がいますが、旧東独をモデルとするような改革はバランスを欠いた人間を育てる危険性が高いということを忘れてはなりません。

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教育政治

2013-10-24 07:58:55 | Weblog
「教育政治」10月18日
 復興庁政務官に就任した小泉進次郎氏を取り上げた「特集ワイド」が掲載されました。その中で、『政治の世界は常に理想と現実の戦い。現実ばかりを見つめて淡々と片づけるのは、政治ではなく行政。夢や希望を語らなくなった政治なんて、誰も見たくない』という小泉氏の言葉が紹介されていました。行政と政治の違いが端的に表された言葉だと思います。
 さて、教委改革について様々な議論が行われています。そこでは、「地方教育行政」のあり方が問題となっています。決して、「地方教育政治」ではありません。「地方教育政治」などという言葉はありませんが、小泉氏の分類に従うならば、「地方教育行政」は日々対応が迫られる様々な課題に淡々と片づけるものであり、当該地方の教育のあり方について夢や希望を語るのが「地方教育政治」であると言うことができます。
 では、いじめや体罰などの問題に対応するのは、行政でしょうか、政治でしょうか。いうまでもなく行政の範疇です。このブログで再三指摘してきたことですが、いじめや体罰は全ての学校で発生しているのです。仮に50校の学校を管轄している教委であれば、年間に数百件になるでしょう。年間に数百件も発生する事件や事故に対しては、「淡々と片づける」ことが求められます。この場合の「淡々と」とは、個々の事情を無視して機械的に、という意味ではありません。多く事例に対応し解決してきた経験豊富な専門家が、冷静に対処するというニュアンスです。
 要するに様々な問題への対応と解決は行政の役割だということです。しかし、教委を改革し首長に権限をもたせるべきと主張する人々が、その理由として掲げるのは、いじめなどの問題への対応が遅い、体罰などの不祥事への危機感が薄いなどという点です。本来、行政の課題であることを政治で解決する、という図式です。この点に根本的な間違いがあります。
 仮に、地方の学校教育について政治の関わりを増やしていくという方向を是とするとしても、それは行政の役割を政治が担おうとするのではなく、「夢や希望」を語り実現を図るという形になるべきなのです。それは教育への不当な介入に結びつく恐れがありますが、少なくとも行政と政治という2つの機能の役割分担としては合理的だと言えます。
 夢や希望を語ることのできない似非政治家が、そのことを誤魔化すために教委改革を主張し、リーダーシップを装っているのでなければよいのですが。

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成功への見通し

2013-10-23 07:46:43 | Weblog
「成功への見通し」10月16日
 書評欄に、小宮信夫氏が書かれた『犯罪は予測できる』の紹介が掲載されました。その中に、『「動機」だけでは犯罪は起こらない。それには、犯罪が成功しそうな雰囲気=「犯罪の機会」が必要だ』という記述がありました。私は犯罪についてはまったくの素人ですが、小宮氏の指摘の通りだと思います。
 並べて論じると批判されるかもしれませんが、犯罪者も子供も同じ人間であり、共通の心理をもっているはずです。私が教員として指導法の研究に取り組んでいた時期は、自主的な学びの実現が各教科に共通するテーマでした。そこでは、学習の導入期にインパクトのある教材と出会わせ、そこでの刺激を学習の意欲に結びつけるという手法が最もオーソドックスでした。私も様々な試みをしました。しかし、失敗続きでした。
 子供の学習意欲は、確かに急激に高まり、「どうしてだろう」「○○なんじゃないか」という仮説が生まれ、その追究に向かいました。しかし、しばらくすると「だめだ」「分かんないや」「難しいよ」というようなつぶやきが漏れだし、穴の空いたボールのように学習意欲は萎んでいってしまうのが常でした。私の実践に欠けていたのは、「問題解決が成功しそうな雰囲気」だったのです。
 自主的な学びにおいてポイントとなるのは、現時点での子供の能力からすると少し難しい課題に取り組ませながらも、自分たちの力でも何とかできそうだという思いをもたせ続けることです。こうした思いがあるうちは、子供の試行錯誤は続いていきますが、一度「こんなの無理だよ」という気持ちに侵され出すと、子供は努力をやめ、「答え知ってんでしょ、早く教えてよ」と教員に頼り出すのです。
 考えてみれば当たり前のことです。大人が仕事するときにだって同じ心理が働きます。私がこのことに気付いたのは、30代になってからでした。自分の至らなさへの反省の意味も込め、指導主事として教委に勤務し教員に指導するときには、この「もう少しでできそう」感をキーワードにしてきました。
 また、生活指導においても、「悪いこと」への興味や憧れを抑え込もうとするのではなく、「悪いこと」について成功への見通しをもたせないことが指導の中心となるべきであることを説いてきました。もちろん、「悪いこと」を拒絶する価値観の構築も大事ですが、それは道徳の領域です。

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竹槍では…

2013-10-22 07:58:04 | Weblog
「意志の力」10月16日
 『「意志の力」4度言及』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『安倍晋三首相は15日の所信表明演説で「意志の力」に4度言及しその重要性を訴えた』とのことです。『意思さえあれば必ずや道はひらける』『数々の課題も「意志の力」さえあれば乗り越えることができる』と、具体的な言い回しまで紹介していました。
 記事では、このことについての「評価」はありませんでしたが、私は嫌な気分がしました。それは、首相のものの見方・考え方が端的に表れていると感じたからです。いうまでもないことですが、意志=意欲さえあれば何事も実現するなどということはありえません。先の大戦中の竹槍で米軍機に対抗するという方針のばかばかしさ、空しさを思い出せば、「精神主義」が危険なことは明らかです。
 竹槍に象徴されるように、「精神主義」は、実際には具体的な解決策や見通し、解決への手段をもたない指導者が、自分の無能を隠し、失敗の責任を部下などの第三者に転嫁するときに用いられるケースが多いのです。
 安倍首相は教育問題にも関心をもっていると伝えられています。そこでも、「意志の力」の論理で、いじめも体罰も学力低下も「意志の力」さえあれば克服できる、克服できないとすれば意欲が足りないからだ、という立場をとられるのではないかと危惧してしまいます。こうした立場から生まれるのは、もっと教員に頑張らせようという発想でしかありません。
 しかし、それでは問題は解決しません。なぜならば、我が国の教員、特に義務教育である小中学校の教員は、PISAの結果や先頃の「成人の学力」調査における結果から明らかなように、現在でも十分な成果をあげていますし、その勤務実態をみると、国際比較でも明らかに働き過ぎなのですから。
 安倍首相の経済政策や外交政策についてはここでは触れません。ただ、学校教育改革においては、安易な教員叱咤激励論に陥ることなく、家庭・社会教育機能の強化、役割の見直しによる学校教育の負担軽減という王道を選択してほしいと思います。

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