「本質からずれている?」10月26日
仏文学者の鹿島茂氏が、大学入試制度改革について『教育の本質はエロス 文科省には無理な話』という標題で寄稿なさっていました。その中で鹿島氏は、『(教育者は)自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に保存したいと欲する』と書かれていました。
前後の文脈から、鹿島氏がイメージしているのは、大学や大学院における師弟関係だと思われます。「生徒」という用語からは中高を指しているとも考えられますが、少なくとも小学校ではあり得ないでしょう。なぜこんなことにこだわるかというと、小学校の教員には、自からの「知の保存」という感覚はないと考えられるからです。
私自身、鹿島氏の感覚は理解できませんが、大学段階であれば違和感なく受け入れることができます。私自身、教委勤務時代には、教育研究員や教員研究生の指導にあたる際に、彼ら若い教員に自分のもつ知見やノウハウを伝えたいと思いましたし、彼らがそれを継承発展させていってほしいと願っていました。私自身の知見などあまりにも些細なもので、恥ずかしいのでこんなことを口にしたことはありませんでしたが。
一方、教員時代の教え子に対してこうした「継承者」的な感覚をもったことはありませんでした。私は、このブログの中で、教員は「知」の専門家ではなく教えることの専門家であるという趣旨の主張を繰り返してきました。そして、中高の教員は教えることの専門家という自覚が足りず「知」の専門家を目指す傾向があるということも指摘してきました。なぜこうした現象が目立つのかという理由の一端が、鹿島氏の指摘によって分かったような気がします。子供が成長し大人に近づくにつれて、相手の中に「知の継承者」としての影を見いだすのでしょう。
中高の教員は、鹿島氏の意見について、どのような感想をもつのでしょうか。小中高の教員の相互理解を深めるために、このテーマで話し合ってみたいものです。
仏文学者の鹿島茂氏が、大学入試制度改革について『教育の本質はエロス 文科省には無理な話』という標題で寄稿なさっていました。その中で鹿島氏は、『(教育者は)自分が獲得した「知」を同じように永遠に保存したいという本能がある。しかも、より良く、より美しいもの(つまり優秀な生徒)を見つけてその中に保存したいと欲する』と書かれていました。
前後の文脈から、鹿島氏がイメージしているのは、大学や大学院における師弟関係だと思われます。「生徒」という用語からは中高を指しているとも考えられますが、少なくとも小学校ではあり得ないでしょう。なぜこんなことにこだわるかというと、小学校の教員には、自からの「知の保存」という感覚はないと考えられるからです。
私自身、鹿島氏の感覚は理解できませんが、大学段階であれば違和感なく受け入れることができます。私自身、教委勤務時代には、教育研究員や教員研究生の指導にあたる際に、彼ら若い教員に自分のもつ知見やノウハウを伝えたいと思いましたし、彼らがそれを継承発展させていってほしいと願っていました。私自身の知見などあまりにも些細なもので、恥ずかしいのでこんなことを口にしたことはありませんでしたが。
一方、教員時代の教え子に対してこうした「継承者」的な感覚をもったことはありませんでした。私は、このブログの中で、教員は「知」の専門家ではなく教えることの専門家であるという趣旨の主張を繰り返してきました。そして、中高の教員は教えることの専門家という自覚が足りず「知」の専門家を目指す傾向があるということも指摘してきました。なぜこうした現象が目立つのかという理由の一端が、鹿島氏の指摘によって分かったような気がします。子供が成長し大人に近づくにつれて、相手の中に「知の継承者」としての影を見いだすのでしょう。
中高の教員は、鹿島氏の意見について、どのような感想をもつのでしょうか。小中高の教員の相互理解を深めるために、このテーマで話し合ってみたいものです。