ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「楽しい」より「分かる」

2017-08-31 08:16:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「今さらながら分かる授業」8月19日
 連載『声 学校から』欄で、軽井沢高教諭長嶋幸恵氏が、『生徒と共に成長』という表題でコラムを書かれていました。その中で長嶋氏は、『生徒が全然話を聞かない。私語をして、ふざけ合う。注意をするとふてくされて寝てしまう』という状況に打ちのめされた経験を吐露なさっています。そんなある日、長嶋氏は、『最も手を焼いていたNさんに「私、力不足で教えられないわ」と本音を伝えた。すると彼女はきょとんとした目で「先生のせいじゃないよ。先生は頑張っているけど、英語全然わかんないんだもん」と言った。「そうか、わからないから授業がつまんないんだ」。そう思うと気持ちが楽になった。「だったらわかる授業をしよう」』という経験をし、教員としての転機を迎えたと書かれています。
 考えさせられる話です。まず、「先生のせいじゃないよ。先生は頑張っている」というNさんの言葉について、考えてみたいと思います。Nさんは、長嶋氏の授業内容が理解できず、授業中に全く意欲を見せません。でも、長嶋氏が一生懸命に授業をしていることは感じ取っています。長嶋氏の意欲や努力は、本人の自己認識とは別に、生徒にも伝わる程のものだったのです。長嶋氏は教育愛と情熱に溢れた熱心な教員だったのです。でも、その授業はNさんには理解できないものだったのです。
 このことは、教員は単に頑張ればよいのではない、頑張れば良い授業ができるわけではない、ということを示唆しています。事前に何時間もかけて学習用のプリントを自作し、教材を手作りして授業に臨んでも、子供は興味を示さない、そんなとき教員は、「こんなに努力しているのに」と考えがちです。努力の量だけ報われるはず、という考え方であり、誰しもがもつ傾向ですが、それは間違いなのです。的外れな努力はいくら積み重ねても、成果には結びつかないのです。
 教員は、授業がうまくいかないとき、「こんなに努力しているのに」と考えるのではなく、何が足りないのか、分析し、問題点を明らかにして改善していくことが必要なのです。そのために、授業記録をとって授業後に分析し学習指導案を練り直すという、PDCAのサイクルを確立することが有効なのです。
 次に、長嶋氏の「そうか、わからないから授業がつまんないんだ」という気づきについて考えてみたいと思います。「つまらない授業」に対置するものとして「楽しい授業」という概念があります。この「楽しい授業」について、教員の中にも誤解があるのです。いわゆる盛り上がる授業、ノリノリの授業をイメージしてしまうのです。子供の歓声が聞こえるイベント型の授業といってもよいかもしれません。しかしその楽しさは、刹那的な楽しさでしかありません。授業における本当に望ましい楽しさとは、そうした上辺の楽しさではなく、できた!分かった!そうだったのか!という達成感や成就感を伴うものなのです。成長の実感といってもよいかもしれません。それが「分かる授業」なのです。
 長嶋氏は、無意識のうちに、上辺だけの楽しい授業を目指していたものを、Nさんの一言で、シンプルに「分かる授業」を目指せばよいと気づいたのです。それが表題にある「生徒と共に成長」に結びついたのでしょう。
 教員が目指すべき授業像は、シンプルなのです。

 

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一般人には無理

2017-08-30 07:51:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「~していれば」8月19日
 連載企画『ドキュメント 訪問診療の暑い夏』が第10回で終了しました。大田区の訪問診察医高瀬義昌氏を中心に訪問診察の現状と課題を報じる意欲的で良質な企画です。高瀬氏は、『遮断機の下りかけた踏切に立ち入った1人暮らしの女性(認知症)』『長男が遠距離介護する女性(96)』『脳梗塞の父親と2人暮らしだった女性』など様々なケースに関わり、看護師や税理士とチームを組んで、生活を支える視点で活動なさっています。
 最終回では、高瀬氏は、『たかせクリニックと税理士のチームに、新たに精神訪問看護を加えたい』と宣言なさいます。こうした高瀬氏について、堀井恵里子記者は『患者の家を回るほど、先生には新たな課題が見えてくるのだ』とし、『医者は患者をただ診察していればいいわけではないと思う』と述べています。
 私も今年、認知症の母を見送ったばかりです。精神訪問看護を、という高瀬氏のような医師が増えてくれれば、と心から思います。しかし、「医師は患者をただ診察していればいいわけではない」という指摘には頷けないのです。
 教員はある意味で、医師と似ています。どちらも、かつては(あるいは今でも)聖職と呼ばれ、人と関わる職であり、教員についても「ただ授業をしていればいいわけではない」といった意見がある点で。そして、実際に一般的な教員の範疇を超えて活動される「スーパーティチャー」が存在することも、です。
 私は、純粋な感動に基づく堀井氏のような指摘が、「医師は診察だけでなく患者の生活や人生をよくする責任を負う」という形で、過剰な負担を強制することにつながることを懸念するのです。それは、高瀬氏のような「スーパードクター」だからこそできることであり、多くの医師は、そこまで求められるのであれば医師を続けることは難しいと感じるのではないでしょうか。そこまで医師を追い込んでしまえば、それは医療崩壊につながります。そうではなく、高瀬氏のような取り組みが無理なく一般化できるようなシステム作り、環境整備こそが重要なのだと考えるのです。
 同じように、教員についても、子供の生活、生き方全般に関われと求めるのは、多くの教員に「そこまではできない」という挫折感、徒労感、無力感、罪悪感を味わわせ、教員を追い込んでしまうのです。そして、教員志望者を減らし、学校崩壊への道へと一歩踏み出すことになってしまうのです。
 医者は患者を治療する人、教員は授業で学力を身に着けさせる人、というシンプルな原則に立ち返る必要があると思います。その部分でのプロとして責任をもって職務に望めば合格点とすべきなのです。人並み外れた能力に恵まれ、それ以上の取り組みをする超人医師やスーパー教員がいれば、そのことは素直に賞賛しその尽力に報いるべきですが、それを一般人に求めてはいけないのではないでしょうか。

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4つの「無」

2017-08-29 08:18:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「悪の本体」8月18日
 テレビ報道記者金平茂紀氏が、『イラク国営放送を見ながら思う ミサイル報道その先に…』という表題でコラムを書かれていました。イラクに滞在しプロパガンダとしか言いようにない戦時報道を見続けていた金平氏は、『日本でもこんなテレビ放送が流れることはないか』と考えたそうです。
 北朝鮮のミサイルに対し、『非常事態なのです。だから、政府の立てた方針に従い、ここは国民が一致団結して互いに助け合いましょう~略~お笑い番組なんて不謹慎です』というような報道を思い浮かべたのです。
 そして金平氏は、伊丹万作著「戦争責任の問題」(1946)の一節を紹介することでコラムのまとめに替えています。『あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである』という言葉で。
 私は、今までこのブログで、再三情緒的「平和教育」批判をしてきました。情緒的な反戦は、イラクのような『戦意高揚の大義』を強調するプロパガンダ報道で、一挙に逆方向に動き出す危険性があるからです。戦争の悲惨さを強調するだけでは、被害者への同情が加害者への憎しみや敵意に転化して、「正義の戦争」を肯定する考え方に結びついてしまうのです。戦争への道に引きずり込んでいく「悪の本体」を知り抗うことができる知識、思考力、判断力、行動力などを育む教育こそが、真の「平和教育」だと考えます。
 だまされる原因は、情報が足りないか、歪められているかです。批判力を失うのは、自分の耳に心地よい情報だけに接するからです。思考力を失うのは、基盤となる知識が不足しているからです。信念を失うのは、情緒的な偽の信念しかもたず、常に自分の信念を自問自答で磨き上げる習慣をもたないからです。
 小中高で行われている「平和学習」は、戦争が、情報遮断と歪曲、一つの価値観で染め上げられた考え方の強要、戦争の構造についての無知、集団への過剰な同調圧力などによって引き起こされることを知り、常に社会をこれらの視点で点検していくことの重要性を子供の胸に刻み込むことでなければなりません。

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哲学にはほど遠い

2017-08-28 07:50:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知られていない」8月18日
 『昼食に浮かび上がる経営哲学 サラメシ「真夏の社長メシスペシャル」』という見出しの記事が掲載されました。NHKの番組についての記事です。記事によると、同番組では、『建設会社の社長はビルの建設現場で作業服を着て、作業員たちとカレーを食べる』『だれかを昼食に誘うと不公平になるからと、ほぼ毎日、社長室で1人で食事をする大手住宅メーカーの社長』『急成長したネット証券の社長~略~スマートフォンで情報をチェックしながら片手間に弁当を書き込む』などといった経営者の昼食を紹介しているのだそうです。
 そして記事は、『「食は人なり」とはよく言ったもので、ランチを通じて、社長たちの経営哲学が見えてくる』という記者の思いで結ばれています。この記事を読み、私は校長の昼食に思いを馳せました。
 校長の職務は多岐にわたります。教育課程の管理、学校事務の管理、所属職員の管理、学校給食の管理などです。そして学校給食の管理に中に、検食があります。その日の給食が出来上がると、校長が食べ、異常がないかどうか確認し、異常なしとなってはじめて子供用に配食されるのです。すべての食材を口にしなければ検食としての意味をなしませんから、高血圧で塩分控えめが求められていようが、生活習慣病対策でカロリー制限があろうが、育ち盛りの子供と同じものを食べなければなりません。ほとんどが50代以上の校長には楽なことではありません。しかも、検食が終わってから、子供に供されるのですから、午前中かなり早い時間帯に食べることになります。
 検食はあくまでも職務であり、校長用の給食は別に用意されます。検食については、校長個人の費用負担はありませんが、校長は他の職員と同じように給食費を払い、自分用の給食を用意してもらうのです。つまり、毎日2食分食べることになります。もちろん、実際にそんなことをしていては病気になってしまいます。校長は食べもしない給食費を払い続けるのです。
 費用は問題ではありません。問題なのは、教職員とのコミュニケーションです。給食時には、担任以外の教職員が職員室で給食を食べています。「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、一緒に食事をすることは、教職員とのコミュニケーションを深める貴重な機会なのですが、検食があるため、校長にはそれが難しいのです。つまり、強いられた孤食なのです。
 校長にとって、日々の検食は、ランチを楽しむという感覚とはほど遠いものです。それなのに、新1年生が学校探検をしているときに、「あっ、校長先生だけ先にご飯食べている。ずるい」と言われてしまうのです。切ないです。校長の昼食から、独自の経営哲学を見いだすことは難しいかもしれません。

 

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学校での失対事業

2017-08-27 08:27:19 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「失対事業」8月18日
 気象予報士千種ゆり子氏が、『子ども気象予報士のススメ』という表題でコラムを書かれていました。その中で千種氏は、気象予報士資格について、『就職に直結しない資格だと思われ人気が落ちているとの報道もあります。残念ながらデータでも明らかで、7割の気象予報士は資格と関係のない仕事をしています。もっと雇用を生み出すことはできないでしょうか』と書かれています。
 その解決策として述べられているのが、『小中学校での気象防災教育を拡充する』なのです。『今も出張授業のような形で講師を招いて天気に関する授業を行っている学校がありますが、もっと継続的に行い、定着させることが必要』という提案なのです。
 ○○教育を学校で、という主張や提案は今までもされてきました。スクラップアンドビルドではなく、ブラックホール式に何でも学校に持ち込むという発想が学校を疲弊させるという指摘は何回もしてきましたので、ここでは繰り返しません。
 ただ、今回の千種氏の提案が他の提案と異なっているのは、そこに雇用対策という教育的ではない別の思惑が含まれている点なのです。こうした提案は危険だと考えます。一つの施策、この場合は、気象防止教育の拡充ということになりますが、この施策に気象予報士の雇用確保、気象予報士の受験者増によるレベル維持、気象防災に関する子供の興味・関心・知識の向上という3つの狙いが存在します。そしてある施策の評価は、狙いに即して行われます。
 この場合、3つの狙いのうちの2つ、気象予報士の雇用増とレベル維持が狙いを達成すれば、他の一つ、子供の気象防災に関する面では成果がなくても、施策としては失敗ではないという評価を得ることになるのです。そして、事業は継続し、やがて既得権益となって、学校にとって重荷となってしまうという結果に終わる可能性が見えてくるのです。
 政府も自治体も財政状況が厳しい中、一つの施策に複数の効果を期待して事業化するという傾向が強まっていきます。多くの効果を列挙すれば、財政当局の承認を得やすく、市民からも指示されやすいからです。しかし、そうした始まった事業の多くが、負の遺産となってしまっていることが多いのです。
 気象防災教育の実施については、教育的な効果に絞って導入・拡充の是非を判断する必要があります。その上でメリットが多く、しかもスクラップアンドビルドの精神で、既存の○○教育を削減する形で行われるのであれば、何も異論はありません。

 

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成功を求めない

2017-08-26 07:48:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自由の意味、研究の定義」8月18日
 『夏休み自由研究 商機に 商品や工場見学 企業が企画』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『夏休みの宿題の定番である「自由研究」に着目した企業の動きが広がっている』とのことです。具体例として、『全国10工場で、見学内容に沿って商品が出来上がる様子を記入すると「ビールの造り方」などをテーマにした自由研究が完成する』『料理を題材にした自由研究のまとめ方を紹介した用紙とレシピが付いた食材キットを、17日まで限定で販売』などが紹介されていました。
 残念です。自由研究という「定番」の宿題が誤解され、軽視されていることを示す記事です。近年、学校教育では、「自ら問題を発見し、自ら考え解決することが出来る」能力の育成に力を入れてきました。これを「生きる力」と呼ぶこともあります。また、今回の学習指導要領改訂で声高に主張されている「アクティブ・ラーニング」も、こうした考え方に基づくものです。
 学校関係者以外からも、同様な指摘がなされています。AIに発達により、単純な作業は機械に取って代わられてしまい、多くの職が消えると言われる中で、生き残るのは「自ら問題を発見し、自ら考え解決する」という創造的な職だけだという指摘で、学校教育は、知識注入型から創造型に転換すべきだという主張です。私は、現在の学校が知識注入型と断定することには反対ですが、この主張そのものには頷ける点があると考えています。
 要するに、「自ら~」型教育を目指すべきであると言うことです。そして、その象徴とでもいうべきものが「自由研究」なのです。日々の授業の中では、子供が完全に自由に「自ら~」型の学習を貫くことは難しいのが実情です。それに比べ、夏季休業日の「自由研究」は、完全に自由に課題を設定することが出来、1カ月以上の長い間自由に時間を費やすことが出来、何回でも失敗して試行錯誤することが出来る、「自ら~」型学習にとって理想的な環境が整っているのです。
 それなのに、企業のお仕着せで済ますというのでは、もったいない話です。学校は、学年毎に自由研究のための指導計画を作成し、1学期末に指導時間を確保し、長期休業中には、一人10分ずつの個人相談時間を2回設定するというような対応を検討すべきです。30人学級として、1回300分つまり、5時間で済みます。そんな日を2日も受けることなど何も難しいことではありません。
 唯一の留意点は、成功を求めないことです。ある疑問を感じ、調べるための手だてを考え、実際にやってみたが計画が甘く大失敗、それでよいのです。結果として、何も分かりませんでした、でよいのです。自分で考え実行してみるという経験こそが最大の狙いなのですから。
 もし、自由研究について、どのようなアドバイスをしたらよいか分からないという教員がいるとしたら、そんな教員は、普段の授業でも「自ら~」型の指導が出来ていないのではないでしょうか。

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喧嘩ではない

2017-08-25 07:57:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「喧嘩両成敗」8月16日
 『トランプ氏「双方に非」 米衝突 差別主義を擁護か』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『トランプ大統領は15日、南部バージニア州で発生した白人至上主義者らと反対派が衝突した事件に関し「一方に悪い人間がいたが、もう片方には非常に暴力的な集団もいた。誰も口にしたくないことだが私は言う」と言及し、「双方に非がある」との見解を示した』とのことです。
 この発言に対しては、差別主義を擁護という批判が起きているようですが、当然のことです。そのこととは別に、私にはこのトランプ発言は、いじめ問題に置いても見られる問題を含んでいると思えるのです。
 いじめ問題に対する対応で、最も間違っているのが、いじめられている子供にも問題はある、いじめられるだけの原因があるという認識で関係者に接することです。これほど、被害者を傷つけ、追い込んでしまう対応はありません。
 いじめで苦しんでいる子供は、それでもかすかな望みをもっています。自分の口からいじめられていることを言うと、告げ口したと言われてより酷いいじめに遭うかもしれないと思い、ただ耐えるだけなのですが、だれかが気づき、救いの手をさしのべてくれるかもしれないという儚い望みを抱いているのです。
 しかし、教員がいじめがあると知った後、被害者である子供を呼んで、「○○君たちには注意をしておいた。でも、君にも悪いところがあるよ。そこを直さないといじめはなくならないな。気をつけなさい」というようなことを伝えたとします。教員は善意で言ったつもりかもしれませんが、いじめられていた子供は絶望の底に突き落とされたような気持ちになるのです。悪いのはお前だ、だから悪いところを直さない限りいじめられるのは当然なんだ、悪いところを直さない限りこんどいじめられてももう知らないぞ、と言われているのも同然なのですから。
 神ではなく人間である以上、完璧な人はいません。誰でも悪いところを抱えて生きているのです。いじめている加害者にも、その他の傍観者にも、悪いところはあるのです。それなのに自分だけが、悪いところがあるからいじめられるのは当然だ、と言われているように感じ、孤立感が深まるのです。
 こうした喧嘩両成敗的な発想は、常に弱者をより多く傷つけます。バージニア州の騒動の元凶は白人至上主義であり、その元凶を他の小さな悪と同列に考えては、元凶をのさばらせることになります。いじめも同じです。いじめという卑劣で悪辣な行為をその他の小さな問題と同列に扱ってはいけないのです。
 バージニア州の騒動は、白人至上主義という差別主義を強く非難し、そのことを明らかにした上で、暴力行為は法に従って調査処分すればよいのです。同じように、いじめ問題も、いじめという行為を強く否定し、その後被害者にある「悪いところ」について、指導に当たればよいのです。
 トランプ先生は、教員失格です。

 

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エリートの集い

2017-08-24 07:59:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どんな生徒?」8月16日
 論説委員中村秀明氏が、『対話する高校生』という表題でコラムを書かれていました。『高校生のための古典セミナー』について述べたものです。中村氏はその様子を『最初は松尾芭蕉の「奥の細道」だった。ある班では「日々旅にして旅を栖とす」という冒頭に近い部分から活発な意見が飛んだ。「物理的な意味での住みかはいらないのだ、という芭蕉の思いじゃないかな」「非日常の旅に向かい、日常にもう自分の居場所はない。そんな決意がある」「物よりも経験が大事といった、物に執着しない芭蕉の精神性を感じました」だれかの発言をきっかけに持ち前の自由で柔軟な発想に火がつき、話はどんどん広がっていく』と活写しています。
 そして、こうした取り組みを広げていくことの必要性を強調してコラムは終わっています。確かに面白い取り組みです。その点には異論はありません。でも、引っかかるのです。中村氏のコラムに登場する「高校生」は、どんな高校のどんな生徒なのだろうか、という点が。
 コラムには、「高校生のための古典セミナー」、『地域の教育委員会や教師の協力を得て』始まったと書かれています。私も長年教委に勤務し、その間様々な団体から、事業への協力や協力してもらえる児童・生徒や学校の紹介、橋渡しを依頼されました。民間の団体、大学の学部、海外の団体、企業など相手は様々で、その内容も一切負担はかけないから子供と場所だけ貸してほしい、という内容のものから、まだアイデア段階で教委が一緒に具体化の知恵を貸してほしいというものまで、多岐にわたっていました。
 しかしどんな場合でも共通していたのは、教委や学校側としては、「出来る学校」「出来る教員の学級」「出来る子供たち」を選び出して、「実験」に協力するということでした。それが人情というものです。「○○市の学校の生徒にきてもらったんだけど、やる気がなくてボーッとした子ばかりで、あれじゃいくら計画が良くてもうまくいかないよ」といわれるのは避けたいと考えるものです。
 そこには、自分の市の教育について低い評価を避けたいという思いがあります。それは、教委に対する評価と直結しているからです。当然、さすが○○市はレベルが高いねぇ、という高評価を期待する心情もあります。特に、いくつかの教委や学校の子供が参加する場合、他には負けたくないという気持ちになるのも自然なことです。また、低レベルな子供を参加させて、当該団体の「実験」を失敗させては申し訳ないという忖度も働きます。
 「△△研究所から、こういうイベントに生徒を参加させてほしいという要望がきているんだけれど、どこがいいかな」「そういうイベントでしたら、□□中学の●●教員が担当している学級の生徒がいいですよ。授業でディベートを取り入れたり、学校ぐるみでNIEに取り組んでいますから」というような会話がなされて、参加する生徒が選ばれてくるのです。
 つまり、「高校生のための古典セミナー」が、選ばれしエリート高校生による事業となっている可能性があるのです。見る者を感心させる取り組みが、実は一般の生徒では難しいものだったという事例はたくさんあるのですから。
 中村氏が見たのは、どこの高校のどんな生徒たちだったのかが気になってしまうのです。

 

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性別なしはきつい

2017-08-23 07:48:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「性別無視」8月15日
 論説委員福本容子氏が、連載コラム『ウラから目線』欄に、『女性、男性、その他』という表題でコラムを書かれていました。その中で福本氏は、『カナダでは今年、役所が親の希望に答える形で、生後8カ月の赤ちゃんに、性別を記さない保険証を初めて交付した』『ハーバード大学は、入学した学生が学生登録をする時、どの代名詞(he、she、ze)で呼ばれたいか選んでもらっている』などの例を挙げ、『まずは問いかけることから始めたい。その性別欄、本当に絶対に必要ですか?』という言葉でコラムを結ばれていました。
 確かに我が国では、必要性の有無を検討することなしに半ば惰性と習慣で、男女の性別を問うことが多いように思います。また、自分を正確に理解してほしいという思いで「その他」と答えたい人がいるという想像力が欠けていますし、無理矢理選択を強いられることの苦痛に対する配慮もありません。
 ですから私は、福本氏の考え方に共感を覚えます。しかしその一方で、行政実務として、性別を問うことを排除することは難しいとも考えます。学校教育も行政の一つです。小学校で新入生を迎えるとき、男女その他が分からないまま、学級編制をするのは問題です。なぜなら、学校はできるだけ社会のあり方を反映することが望ましいとされていますので、一つの学級内では概ね戸籍上、生物学上の男女同数とすることが必要だからです。
 中高でも、運動会や移動教室などの学校行事において、活動の母体となる学級内で男女数の偏りがあるのは好ましくありません。性差は体力差に密接な関連があるので、運動会などでは「競い合う」前提が崩れてしまいます。宿泊行事でも、着替え、入浴など学級を単位とした行動は難しくなってしまいます。もちろん、これらは活動単位を改めて組み替えれば済むことなのですが、結果として男女を意識して教育活動をするのに形式的に性差にこだわらないポーズをとっているだけになってしまいます。
 まずは形から、という考え方があるのは理解できます。差別や人権の問題では、そうした考え方で取り久美子とが有効な場合も少なくありません。でもやはり違和感が残ってしまうのです。学校教育においては、性による差別をなくしていくためには、性別欄の廃止よりも、標準服の問題、さん・君付けの問題、女子は赤で男子は青で表示というような、意味のない区別をやめることから始めるべきだと思うのですが。

 

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膨張体質?

2017-08-22 07:38:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「体育と五輪」8月15日
 米国の五輪専門メディアATR編集長エド・フーラ氏が、『「eスポーツ」の採用』という表題でコラムを書かれていました。その中に『パリが2024年五輪の追加競技としてコンピューターゲームの腕前を競う「eスポーツ」に興味を示している』という記述がありました。
 私は、eスポーツという言葉を初めて知りましたが、『競技人口は1億人』『格闘ゲームやシューティングゲームの大会には世界中から選手が参加』『観客の熱狂ぶりも無視できない』など、既に大きな存在となっているそうです。
 五輪はスポーツの祭典というのが私の認識です。陸上、水泳、サッカー、野球、バスケットボール、バレーボール、テニス、卓球、柔道など、我が国で人気のスポーツはほとんどが、体育や部活など、学校で取り組まれているものです。決して学校における体育活動と五輪種目が意図的に関連づけられてきたわけではありませんが、結果としては両者は深い関係にあります。競技人口の裾野を支えるという意味でも、ルールを知り観客を増やすという意味でも、です。
 このことを逆からみると、五輪種目は学校教育に導入されていくということでもあります。東京五輪の追加種目であるスポーツクライミングやスケートボードなども、私立校を中心に導入が進むというのが私の予想です。
 ここまでは納得できます。いずれも体を動かし、運動神経と筋力、持久力などを必要とする「身体運動」だからです。しかし、eスポーツは、そうではありません。eスポーツが体育の時間に取り入れられるという状況は想像もできません。でも、特色ある教育活動を売り物にするという近年の発想からすれば、率先して取り組む学校や教委が現れる可能性は高いと思われます。何しろ、第1回全国高等学校eスポーツ選手権大会などという大会が開催されれば、参加校は少なく、全国大会入賞などという成果を上げるのは難しくないのですから。
 私は区教委に勤務しているとき、ボート教育の担当をしていました。某川に接しているという区の特色を生かした取り組みでしたが、都内でボート部がある公立中学校は皆無でした。従って、毎年全国大会に出場していました。そして常に入賞し、担当して2年目には、男女共に全国優勝という結果を残すことができました。しかし実態は、わずか10校に満たない学校、その中の3校は自分の区所属、というような状況での優勝であり、野球部やバレー部が、城東大会を勝ち抜く方が難しいというくらいのものでした。それでも、テレビ局からの取材申し込みを受けたりするなど、PR効果は十分でした。
 ですから、eスポーツ教育に取り組む自治体が現れるというのは、私の妄想ではないと思います。学校教育はどこまでも膨張していくのでしょうか。

 

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