「今さらながら分かる授業」8月19日
連載『声 学校から』欄で、軽井沢高教諭長嶋幸恵氏が、『生徒と共に成長』という表題でコラムを書かれていました。その中で長嶋氏は、『生徒が全然話を聞かない。私語をして、ふざけ合う。注意をするとふてくされて寝てしまう』という状況に打ちのめされた経験を吐露なさっています。そんなある日、長嶋氏は、『最も手を焼いていたNさんに「私、力不足で教えられないわ」と本音を伝えた。すると彼女はきょとんとした目で「先生のせいじゃないよ。先生は頑張っているけど、英語全然わかんないんだもん」と言った。「そうか、わからないから授業がつまんないんだ」。そう思うと気持ちが楽になった。「だったらわかる授業をしよう」』という経験をし、教員としての転機を迎えたと書かれています。
考えさせられる話です。まず、「先生のせいじゃないよ。先生は頑張っている」というNさんの言葉について、考えてみたいと思います。Nさんは、長嶋氏の授業内容が理解できず、授業中に全く意欲を見せません。でも、長嶋氏が一生懸命に授業をしていることは感じ取っています。長嶋氏の意欲や努力は、本人の自己認識とは別に、生徒にも伝わる程のものだったのです。長嶋氏は教育愛と情熱に溢れた熱心な教員だったのです。でも、その授業はNさんには理解できないものだったのです。
このことは、教員は単に頑張ればよいのではない、頑張れば良い授業ができるわけではない、ということを示唆しています。事前に何時間もかけて学習用のプリントを自作し、教材を手作りして授業に臨んでも、子供は興味を示さない、そんなとき教員は、「こんなに努力しているのに」と考えがちです。努力の量だけ報われるはず、という考え方であり、誰しもがもつ傾向ですが、それは間違いなのです。的外れな努力はいくら積み重ねても、成果には結びつかないのです。
教員は、授業がうまくいかないとき、「こんなに努力しているのに」と考えるのではなく、何が足りないのか、分析し、問題点を明らかにして改善していくことが必要なのです。そのために、授業記録をとって授業後に分析し学習指導案を練り直すという、PDCAのサイクルを確立することが有効なのです。
次に、長嶋氏の「そうか、わからないから授業がつまんないんだ」という気づきについて考えてみたいと思います。「つまらない授業」に対置するものとして「楽しい授業」という概念があります。この「楽しい授業」について、教員の中にも誤解があるのです。いわゆる盛り上がる授業、ノリノリの授業をイメージしてしまうのです。子供の歓声が聞こえるイベント型の授業といってもよいかもしれません。しかしその楽しさは、刹那的な楽しさでしかありません。授業における本当に望ましい楽しさとは、そうした上辺の楽しさではなく、できた!分かった!そうだったのか!という達成感や成就感を伴うものなのです。成長の実感といってもよいかもしれません。それが「分かる授業」なのです。
長嶋氏は、無意識のうちに、上辺だけの楽しい授業を目指していたものを、Nさんの一言で、シンプルに「分かる授業」を目指せばよいと気づいたのです。それが表題にある「生徒と共に成長」に結びついたのでしょう。
教員が目指すべき授業像は、シンプルなのです。