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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

番外・あるブログから

2009-02-28 07:58:58 | Weblog
番外「介護と教育の共通点」2月27日
 全国紙の記事を基に書いてきた本ブログですが、今回だけ番外ということで、あるブログについて書かせてもらいます。「角度を広げる努力」と題するブログです。筆者は、東京で訪問介護の会社を経営し、マスコミでも積極的に発信し続けている方です。
 そこには、『介護を仕事にするということは、対人のサービスですので、当然のごとく様々な方に出会います。なかには、自分には理解しがたい方にお会いすることもあります。でも、絶対に気をつけたいのが、自分が見た情報だけで、その人を決め付けてしまわない自分の価値観で相手を評価しないということです。「この人のすることは理解できない」「私だったらこうはしないのに」自分の価値判断基準で物事を捉えてしまうと、相手を理解しようとか、相手を受け入れるとかそういうことができなくなってしまいがちです。自分でシャッターを下ろしてしまうんですよね。それよりもむしろ、「この人がこうするにはどんな背景があるんだろう」「何がこの人をそうさせているんだろう」「こういう価値観もあるんだ」と考え、その人を知ろう、その人を理解しようと考えていく方が大切なのではないでしょうか。人には生きてきた道筋があります。何もかもスムーズで完璧な人生でした、なんていう方に私はまだお会いしたことがありません。誰しも、人に言えない辛い過去や、挫折や、苦しみや、痛みや、そういうことを経ての”今”があるんだと思います。人生という歴史すべてが、”今のその人”をかたち作っていると思います。”陽”があれば必ず”陰”もあります。自分が接した瞬間のその人だけで、その人を理解することはできません。色んな角度からその人を知ろうと、その人に対する角度を広げていこうと努力した時、新しいその人と出会えるのではないでしょうか』と書かれています。
 これは、教員が子供に接するときの心構えと全く同じです。子供は、様々な顔をもっています。ある教員の前で見せる顔と、他の教員や親、友人の前で見せる顔を違っているのです。いつでも教員の指示や指導に逆らい手を焼かせる子供がいるとします。「ひねくれた子なんだ」と決めつけてしまってはお終いです。「なぜこの子は、私の言うことを聞かないのだろう」→「他の人の前ではどうなのだろうか」→「○○先生の前ではあんな表情を見せている」→「私の接し方が、あの子をかたくなにさせているのではないだろうか」→「まず、教員である私が変わってみよう」と考えることができる人だけがよい教員になれるのです。子供であれ、高齢者であれ、人に接する者の心構えは同じなのです。
 <ブログの著者は、beyondkさんです>
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余計なことが多すぎる

2009-02-27 07:50:14 | Weblog
「勉強時間 中国の半分」2月25日
 財団法人日本青少年研究所の調査により、日本の中高校生の勉強時間は、中国の中高校生のほぼ半分しかないこと明らかになりました。韓国の中高校生と比べても少なく、それでも日本の高校生の約8割は学校の勉強が「きつい」と感じているという結果も示されました。
 日本の中高校生が学校や自宅、塾で勉強する時間は1日当たり平均8時間。これに対し、中国では約14時間、韓国は約10時間と、大きな差があり、同様の調査を行った平成9年と比べると、高校生は1時間、中学生では2時間も勉強時間が短くなっているのだそうです。それにもかかわらず、学校の勉強を「きつい」と感じている高校生は77・2%にのぼっており、4カ国では最も多意という結果に、同研究所では「中韓と比べて、勉強もしていないのに弱音をはいている現在の子供たちの姿がはっきりとみえた。甘えの気持ちが強いのではないか」と分析しています。
 実は、私自身は、自分の中高生時代と比べて、今の中高生は勉強をしていると感じてしまうのです。私は、高校生のときの個人面談で勉強時間の少なさを指摘され、「健康第一です」と答え、大笑いされた経験があります。正直に言って、中学校時代は、学校の授業以外に勉強する時間は、平均して1日に20分もありませんでした。周りの友人も似たようなものだったと思います。それでいて、苦手だった英語を除いては、授業内容が理解できないということもありませんでした。当時は、総合的な学習の時間もなく、学校ごとに特色ある教育活動を行うというようなこともなく、毎日が教室に座っての座学でした。私としては、今の学校が余計なことをしすぎていることが、勉強を分からない子供を増やし、子供を疲れさせているような気がして仕方がないのですが。
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小学校教科担任制

2009-02-26 07:44:49 | Weblog

「小学校教科担任制」2月25日
 倉吉市教委は来年度、モデル校1校で、6年生を対象に教科ごとに専任の教員が授業する「教科担任制」を試験的に導入するそうです。複数の教員が教えることで児童の能力などをより多面的に捉え、学力を高めるのが狙いということで、「効果が出れば、22年度以降は対象校を増やしたい」という意向だそうです。
 小学校では、音楽科や図画工作科などについては専科教員といってその教科だけを指導する教員がいますが、その他の教科や道徳、学級活動などは担任の教員が一人ですべてを指導するというのが一般的です。これを「学級担任制」といいます。
 小学校において「学級担任制」がとられてきたのは、子どもの発達段階への配慮からでした。小学校教育を円滑に行っていくためには、教員と子どもたちとの人間関係を築き上げることが最も大切なことだとされてきたのです。ですから、音楽科や図画工作科などの授業が専科教員によって行われるのも上級生(それだけ中学生に近い)からとされ、一・二年生は音楽科も図画工作科も子どもたちのことをよく知る担任教員が指導をしてきたのです。
 そうした経緯があるにもかかわらず、最近になって小学校でも教科担任制の導入が検討されるようになってきた背景には、学力低下問題があります。つまり、国語科や算数科などの基盤となる教科について専門性の乏しい教員が教えていたのでは、学力を伸ばすことができないという考え方に基づくものです。
 当然のことですが、中学校や高等学校における数学科の担当教員は数学教育の専門家ばかりです。それに対し小学校で算数科を指導している教員の中には、学生時代は数学が苦手だったという者もいます。そこまで極端ではないにしても、小学校の教員は全教科を指導するわけですから、どの教員にとっても得意な教科と苦手な教科があるのは当たり前でしょう。倉吉市のように、6年生だけを対象に教科担任制を行うのであれば、発達段階から見ても抵抗が少ないでしょうし、問題が発生する可能性もあまりないと言えるでしょう。
 しかし、視野を広げてみると、別の問題に気付かされます。それは、他校にもこの試みを広げ、さらに6年生だけではなく、3・4年生まで対象を広げていこうとした場合の、教員の人材確保や異動の問題です。
現在の異動制度において小学校の教員の異動は、年齢・教職経験・性別・居住地などの条件を勘案して行われています。つまり、E校において、三十代で教職十三年目の女性教員が他校に異動していった場合、後任には同じような年齢・経験・性別の教員を異動させるということです。この条件に該当する教員はたくさんいることでしょう。しかし、教科担任制の場合は、この条件に理科担当等という条件が加わることになるのです。当然、該当する候補者は少なくなります。居住地との関係も考えるとふさわしい人材がみつからないということにもなりかねません。もちろん、中学校や高等学校の教員人事はこの条件の中で行われているわけですので対応は可能なはずですが、こうした問題も発生するということは理解しておいた方がよいと思います。
 さらに、学校教育の充実は、教員の人数だけが揃えば実現できるというものではありません。量の問題はクリアできるとしても、質の面からの検討も欠かせません。そもそも、小学校の教員には苦手な教科がある者も少なくないという点から論議が始まっているのですから、人数合わせで算数科が苦手な教員が算数科担当になるというようなことがあってはいけません。もちろん、将来的には大学における教員養成段階から教科別に専門教育を施していくことで対応可能でしょうが、既に教職に就いている教員を各教科担任に振り分けるということをしなければなりません。
さらに、ある教員を国語科担当とするのか算数科担当とするのかということを誰がどのように決めるのかという問題があります。教員からの自己申告としたのでは偏りが生じます。結局教育委員会が決めるということになるのでしょうが、どのような基準で決めていくかが難しいのです。
 実際には、国語科の指導が上手い教員は社会科の指導もうまいというような傾向が見られます。平たくいえば、よい教員は何をさせても平均以上だが、何をさせても平均以下という教員も少なくないということです。国語科も社会科も授業の上手い教員がそのことを自覚しつつも「自分は社会科指導をやりたい」と強く思っているときに、教育委員会の都合で国語科担当を命じられたとしたら、その教員は意欲を失ってしまうかもしれません。
 中学校の教員の中には「数学が好きだから数学の教員になった」という者が少なくありません。彼らは、自分の希望で数学科の教員になったのです。ところが、小学校の教員は途中の制度変更で自分の希望とは異なる仕事をさせられるかもしれないのです。しかも、自分が優秀であるがゆえに。こうした状況ではモラル低下は避けられません。
 小学校における教科担任制については、長期的な視野で取り組むことが必要です。
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好き嫌いではない

2009-02-25 08:00:16 | Weblog
「やればやるほど英語嫌い」2月23日
 広島市で開催中の日教組の教育研究全国集会(教研集会)で、今春から多くの小学校で始まる高学年の英語活動をめぐり、「先行実施した小学校ではどんどん英語嫌いが増えている」という報告が学校現場から出されたとの記事が掲載されました。
勤務する区の小学校が数年前から英語の授業を実施しているという東京都の中学教員が、新入生に英語への意気込みを尋ねた結果、「英語は好きじゃない」という子が年を追って増えているという結果なのだそうです。その教員は、小学校で内容が理解できないまま終わっているケースが少なくないと言い「そんな意識を中学の3年間で一掃する英語教育を目指している」とも話しているのだそうです。
 日教組の教研集会ですから、文部科学省の施策に否定的な報告がされることは当然です。ただ、疑問なのは、どうして英語が「好きか嫌いか」を問題にするのかということです。
 20年前、小学校で新教科「生活科」が導入されたときにも、「好きか嫌いか」「楽しいか否か」という調査が行われました。その後、教育界では、「生活科で身に付けさせる学力とは何か」「生活科で身に付けるべき学力は向上しているのか」「生活科は単なる遊びになっているのではないか」といった問題提起が行われ、行きすぎた活動中心主義が見直される動きが出てきました。実は、生活科については、他の教科において成績のよい子供、学力が高いと思われる子供ほど「楽しくない」と答える傾向があったのです。学力の高い子供は、「きちんとした学習」を好み、充実感を得ていたということなのです。
 要するに、生活科は、教科であるにもかかわらず、その教科における「学力向上」がないがしろにされたまま導入が急がれた経緯があったのです。このままでは、小学校英語も同じ道をたどり迷走することは確実です。小学校における英語教育は、英語力向上にどのように寄与するか、そうした視点からの実践報告こそ、現場の教員の仕事ですし、現場の教員にしかできない仕事なのです。
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好き嫌いではない

2009-02-25 08:00:16 | Weblog
「やればやるほど英語嫌い」2月23日
 広島市で開催中の日教組の教育研究全国集会(教研集会)で、今春から多くの小学校で始まる高学年の英語活動をめぐり、「先行実施した小学校ではどんどん英語嫌いが増えている」という報告が学校現場から出されたとの記事が掲載されました。
勤務する区の小学校が数年前から英語の授業を実施しているという東京都の中学教員が、新入生に英語への意気込みを尋ねた結果、「英語は好きじゃない」という子が年を追って増えているという結果なのだそうです。その教員は、小学校で内容が理解できないまま終わっているケースが少なくないと言い「そんな意識を中学の3年間で一掃する英語教育を目指している」とも話しているのだそうです。
 日教組の教研集会ですから、文部科学省の施策に否定的な報告がされることは当然です。ただ、疑問なのは、どうして英語が「好きか嫌いか」を問題にするのかということです。
 20年前、小学校で新教科「生活科」が導入されたときにも、「好きか嫌いか」「楽しいか否か」という調査が行われました。その後、教育界では、「生活科で身に付けさせる学力とは何か」「生活科で身に付けるべき学力は向上しているのか」「生活科は単なる遊びになっているのではないか」といった問題提起が行われ、行きすぎた活動中心主義が見直される動きが出てきました。実は、生活科については、他の教科において成績のよい子供、学力が高いと思われる子供ほど「楽しくない」と答える傾向があったのです。学力の高い子供は、「きちんとした学習」を好み、充実感を得ていたということなのです。
 要するに、生活科は、教科であるにもかかわらず、その教科における「学力向上」がないがしろにされたまま導入が急がれた経緯があったのです。このままでは、小学校英語も同じ道をたどり迷走することは確実です。小学校における英語教育は、英語力向上にどのように寄与するか、そうした視点からの実践報告こそ、現場の教員の仕事ですし、現場の教員にしかできない仕事なのです。
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教育を手段に

2009-02-24 07:47:58 | Weblog
「教育で人口増」2月20日
 福井県教委が、平成22年度の県立高校入試から、他府県からの入学志望者を対象とする「ふるさと帰住子女枠」(仮称)を設ける方針を明らかにしたそうです。福井県は、文部科学省が実施した昨年の全国学力学習状況調査で、中学生が全国1位、小学生が2位と高い教育水準を示しており、教育力をベースに定住人口増へつなぐ狙いがあるとのことです。県教委によると、首都圏での同窓会や県主催のイベントなどで声を掛け、Uターン定住を予定している人や関心を持った人の子供の進学を勧める方針で、募集要項で福井との由縁の有無を求める予定はなく、実質的に他府県からの受け入れ枠を設定することになるとのことです。
 とうとうこうした事態が現実のものになりました。私も教委に勤務していたとき、東京一の高学力と注目を浴び、他の自治体の住民から「どうしたらそちらの学校にはいることができるか」という問い合わせを受けたことがあります。つまり、公立学校の高学力は住民を集める上で有効な施策ということなのです。しかも、こうした「移住」をしてまで子供に高い学力を付けさせたいと考える保護者は、高学歴で高所得の人がほとんどです。つまり、住民税を納めてくれ、生活保護費などの出費は不要な、行政側にとって「望ましい住民」なのです。厳しい財政状況に悩む首長部局が、この宝の山を放っておくはずがありません。私の場合も、「積極的にアピールしないのか」といわれたものでした。
 学力調査を、首長が市政の重点に掲げ、街興しの切り札にする。そういう時代が来ているのです。このことは、教委の権限に首長が介入することを意味します。それが時代の要請であるのであれば、仕方がありません。しかし、そのことがもたらす弊害にも注意が必要です。極端なことを言えば、市が再開発を行う地域には、指導力のあるとされる教員を集め、施設を充実させ、学校選択制で優秀な子供を集め、そのことにより金持ちの住民を他の自治体から移住させるという施策が採られ、その犠牲になる地域と学校が出てくるということだってあり得るのですから。
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安易な行動

2009-02-23 07:35:29 | Weblog
「重度障害児、市立小入学」2月20日
 京都府木津川市在住の先天的に重い障害をもち常時介助が必要な男児が、4月から地元の市立小学校に入学することになったそうです。市教委は、事故の危険なども懸念し、専門的なカリキュラムを組める市内の総合支援学校への入学を勧めたのですが、両親が1万人を超す署名を集め、市教委を動かしたということです。
両親の思いはよく理解できます。私も教委に勤務していたとき、3年間ほど特別支援教育の担当をしていたことがあり、多くの保護者の「大勢の友達の中で学校生活を送らせたい」という声に接してきたからです。個人的には、重度障害児の場合、総合支援学校への進学が本人のためにも望ましいと思います。しかし、教委が行うのは進学についての相談とアドバイスであり、最終的には、保護者の希望を尊重してきました。というよりも、せざるを得ませんでした。
 担当であった3年間、いつも苦い思いをしてきたのは、障害児の進学を、教育の論理ではなく「運動」として取り組む人たちの存在でした。彼らは、「どんな重度の障害があっても通常の学級で学ぶことはその子供の権利である」という発想で、障害児の保護者に働きかけ、入学させると「○○君のために専用トイレをつくれ」「車椅子で校内の移動ができるようにスロープをつくれ」「専属の介護員を雇え」と要求してきました。もちろん、できるのであればしたでしょう。しかし、数百万円、工事の規模によっては1千万円を超える支出を一人の子供のために毎年行える自治体はありません。結局、その学校の教員にあまりにも過大な負担を押しつけることになったのでした。
 今回の件について、保護者を批判するつもりは全くありません。わが子の幸せを願うのが親というものだからです。しかし、1万人を超す署名をした人たちには疑問をもたざるを得ません。その中のどれだけの人が、障害について、障害児の望ましい教育環境について、一般の小学校と総合支援学校の違いについて、一般の小学校で受け入れる場合の影響について理解して署名したのでしょうか。よくは知らずに署名した人がいたとしたら、その人たちの無責任さは責められるべきです。
 現状も、及ぼす影響の大きさも知らずに意見を言うことは恥ずべき態度です。わが国では、99%以上の成人国民が学校に通った経験をもっています。そしてそのごく狭い経験を基に、学校について知ったつもりになって的はずれな意見を堂々と述べます。そうした行動がどれだけ学校教育を歪めるか、考えてみてほしいものです。

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中学生と暴力団

2009-02-22 08:05:07 | Weblog
「暴力団に上納」2月19日
 大阪の中学生が、同級生らでひったくりグループをつくり、自転車で犯行を繰り返し、盗んだ金の一部は先輩の山口組系暴力団組員に上納していたという事件が報道されました。少年らが通う中学校は「大変残念で、今後学校として何ができるか地域や保護者とともに考えたい」としているそうです。
不謹慎だと言われそうですが、懐かしいなぁ、という思いがします。私が隣接区で作る生活指導担当指導主事会のチーフをしていたころ、各区の報告では、「暴力団への上納」は必ず出される話題でした。当時は、シンナー密売と架空パーティー券の販売、カツアゲが主な収入源でした。ボスは17,8歳のOBで、「人生はカネと女」が口癖のしたたか者で、警察に逮捕されたときは、担当者全員が安堵のため息を漏らしたものでした。
 暴走族とのつながりも深刻でした。集会が開かれるという情報を基に、氷雨の降る中、公園で張り込んだりもしました。
 今回は報道されましたが、暴力団や暴走族と中学生の不良グループのつながりが問題となっている地域は少なくありません。そうした地域のほとんどが、いわゆる低学力とされる地域なのです。生活指導担当教員は、授業どころではないというのが実態なのです。こうした実態を無視した「学力調査の結果=学校の努力」論を聞くとむなしさだけが募ってしまいます。
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学校を計る尺度

2009-02-21 07:55:50 | Weblog
「他の尺度は」2月18日
 「橋下知事に萎縮し続ける教育現場」「誇り傷つけられ窒息状態」という見出しの署名記事が掲載されました。橋下知事や知事に請われて教育委員になった陰山氏の学校や教委に対する言動、「学力だけがすべてではないとの考えがはびこっている」「みなさん(校長)が学力の数値を落としているですから」を例示し、大阪府の教育現場に萎縮と閉塞感をもたらしていると指摘しています。
 それにしても、すべての問題が、学力調査の結果、大阪府が低位だったことに端を発しています。そこで浮かぶ疑問が、学校の「良さ」や「努力」を評価する数値は学力調査の結果しかないのでしょうか、ということです。部活における全国レベルでの入賞回数、暴力行為や非行の発生件数など他の尺度が浮かばないわけではなく、実際にそうしたことを学校目標値として掲げている学校もあるのですが、どうもしっくりしません。
 私は、学校の「良さ」や「努力」は数値化できるものではないと考えています。しかし、「それは学校や教委の逃げだ」と言われるのであれば、首長には学校の「良さ」「努力」を計る数値を明確にしてもらいたいと考えます。ただし、あれもこれもは困ります。学力を重視するのであれば学力調査の数値ですべてを計ってほしいと思うのです。その代わり、いじめがあろうが、不登校が増えようが、自殺者が出ようが、学校を責めないでほしいのです。もし、そこまで割り切ってくれるのであれば、学力調査の数値を上げることに全精力を集中します。模擬テストを繰り返し、できない子供は学校に居づらくさせて、転校か不登校に追い込みます。成績別に学級編制をし、下位クラスは「だめクラス」として、掃除当番を割り当て、上位クラスの子供には掃除を免除して勉強に集中させます。
 深夜徘徊で補導された生徒を警察に引き取りにも行かず、家庭で朝食を摂ってこなかった子供に自腹でパンを買って与えることもせず、勤務終了後休んでいる子供の家を訪ねて声を掛けることもせず、「うちの子が隠れてタバコを吸っている」という保護者からの相談も無視します。つまり、多くの教員が普通に行っていることはすべて止めてしまいます。もちろん、わざと暴論を並べてみたに過ぎません。しかし、教員も人間です。努力していることが評価されないのでは、いつしか評価されることしかしなくなってしまいます。
 不況な世情を反映してか、最近、GDPではなく、もっと違う尺度で国民の幸福度を測ろうという主張が聞かれるようになりました。教育においても、学力調査のような「数値」に依存することが考え直されてもよいのかもしれません。数値でしか学校や教委の努力を知ることができない首長や教育委員には、学力調査至上主義から脱することを期待しても無駄なのかもしれませんが。

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教育の目的

2009-02-20 08:03:29 | Weblog
「教育の目指すもの」2月18日
 財界人として2人目の中教審会長になった三村氏へのインタビュー記事が掲載されました。その冒頭、「未曾有の不況期に、人材育成の最前線でどうかじを取るのか注目が集まる」と書かれていました。この部分は、三村氏が語ったことではなく、記者が書いたことのようですが、「人材育成」という言葉に記者の教育観がみてとれます。
 教育については、2つの立場からの言及が行われています。一つは、国家や社会の繁栄発展のために有能な人材を作ることが教育の使命であるという立場です。小学校における英語教育の導入に際して、「これからの社会は国際化が進み、世界語としての英語を使いこなせなければビジネスの世界でも科学の世界でも外国と闘っていくことができない」という発想から賛成論が述べられたのは、この立場を示す一例です。この立場からは、個人の欲求よりも社会の要請が教育の方向や内容を決めるおいう考え方が支持されます。
 一方、教育は個人としての幸せな人生を実現するためにあるという立場があります。この立場からは、学んでいる段階においては、学習する存在としての個人が学ぶこと自体に満足感を得たり、自己成長の喜びを実感したりすることを重視します。そして、学んで得た知識や能力を職業以外の部分で生かし精神的に豊かな人生を送ることこそ大切であると考える傾向があります。この立場からは、教育の方向や内容を考えるときには、社会の要請よりも学習者である子供やその保護者の欲求が尊重されるべきだという主張がなされます。
 もちろん、教育には両方の面があります。しかし、どちらの立場を重視するかは根本的な問題であり、そこが食い違っているとその先の議論は永遠に交わらないまま不毛の論議が繰り返されることになりがちです。
三村氏の登用は、わが国の教育政策が「人材主義」に大きく舵を取ることの表れなのでしょうか。反対ではありませんが、行き過ぎに注意して見守りたいものです。
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